川は流れる

家柄もよく美しくて聡明な「花」は、昔の日本女性としては模範的な生き方をする。
何事にも従順で、その実、何者をも従えてしまう強さを持って凛としている。
和歌山県・紀ノ川の上流、九度山村で一番の美貌を謳われた「花」は、育ててくれた祖母が決めた男の元へ豪華な道具とともに嫁いで行く。
義弟とは幾らかのイザコザはあったにせよ、舅姑に孝養を尽くし、夫を支え、家を守り、子を育てる。
夫は祖母の見込み通り、「花」の期待通り出世し、多少の浮気などの問題はあるが、和歌山県政界の第一人者になって行く。
以上は有吉佐和子の小説「紀ノ川」の前半のアラスジであるが、その冒頭はサラニ印象的であった。
それは一人の女性が結婚して嫁ぐシーンであるが、花嫁姿のママ川を下っていくシーンである。
阿久悠作詩で「瀬戸の花嫁」という歌謡曲があるが、さしづめ「紀井の花嫁」という曲ができるクライの「情景」が描かれている。
川を描いた小説には他に、宮本輝氏の「泥の川」という作品がある。
すべてを流してこんでくる川は、ソノママ川辺に「佇んで」生きる人々のナリワイを映したかのようである。
それでも川は流れ続ける、ということが「救い」であるかのようだ。
ところで歌謡曲の世界で、美空ひばりが自らシングルカットを願いでた唯一の曲が「川の流れのように」だそうだ。
作詞は秋元康氏だが、意外やニューヨークのイーストリバーの畔で、この「歌詞」が閃いたという。
当時、多忙をきわめていた秋元康は、自ら詩を書きたいと申し出て、ひばりのいるスタジオに出向いていった。
秋元は、美空ほどの「波乱万丈」の人生に対しても、大丈夫とでもいえるような「応援歌」を作りたいと思っていたのだ。
待つこと4~5時間でようやく会うことができ、ひばりは「あなたのことは知っているわよ よろしく」という言葉をくれた。
その頃、秋元はニューヨークを拠点にしていて、棲み家の前にイースト・リヴァーという川が流れていた。
そろそろ日本へ帰ろうと思たソノ時に、この川も日本にツナガッテいるんだという感慨に浸り、自然に「川の流れのように」というタイトルが浮かんだという。
秋元はこの曲を「アルバム10曲」のうちの1曲にいれるツモリだったが、美空ひばりの方からドウシテモ「川の流れのように」をシングルにしたいという要望があった。
今まで、こういうことはスベテ任せっきりだった美空ひばりにしては、珍しいことであった。
ひばりはレコーデイングの時に、秋元に「人生っていうのは真っ直ぐだったり、曲がってたり流れが速かったり遅かったり、本当に川の流れのようなもの」と共感した旨をつげた。
そして秋元に、忘れられない言葉を語った。
「でもね、最後はみんな同じ海に注ぐのよ」と。
この歌は1989年(平成元年)1月に発売されたが、ひばりがソノ約半年後52歳で亡くなったため、「遺作」となった曲でもある。
葬儀の参列者達は、この曲でひばりをおくった。
没後にシングル盤は売上を伸ばし、「川の流れのように」はかぐや姫の「神田川」にホボ匹敵する150万枚を売り上げた。

世の中には色んな趣味の人がいる。
マンフォールの蓋のデザインに惚れ込んで、世界中のマンフォールの蓋を集めている人がいる。
水ハケを良くする為に地下に作った水路、ツマリ「暗渠」を探す人もいる。
この「暗渠を探す」人とは、加瀬竜哉というロック・ミュ-ジシャンである。
加瀬は「春の小川」をコンサートで必ず歌う。また「暗渠」を見つけてはソコニ降りたって♪♪春の小川はさらさらいくよ♪♪と歌うのである。
「春の小川」は1912年につくられた文部省唱歌である。
以後歌詞の改変があったものの、90年近くにわたって現在まで国民学校、小学校で歌われ続け、世代を越えて歌い継がれている。
作詞家・高野辰之が当時住んでいた東京府豊多摩郡代々幡村代々木の渋谷川の上流である河骨川が「春の小川」のモデルだという。
現在、渋谷の山手通りと井の頭通りが「交差」するあたり、すなわち小田急線「代々木八幡駅」近くが「河骨川」が流れていたアタリで、「春の小川」の石碑がたっている。
加瀬氏は、小さい頃に宇田川という川の側に住んだが「川の存在」を知らなかった。
というのも、東京オリンピックの開催の頃、マルデ臭いものにフタをするようにフタで覆われたからだ。
これは大人達からすれば愛情、つまり子供達が「安全に」「清潔に」育つための配慮であったに違いない。
しかし後年、加瀬氏は「自分が川の上にいて生きている」ことを知ってショックをうけた。
「東京オリンピック」という目の前の栄光に走り出していた時代、今やコンクリートになり下水道と化し、その上にはビルや住宅が立ち並び道路が通り、車や人が行き交う。
景色は一変され、川は目に映らなくなった。
そんな「用意された土台」の上で、過去を知らずにノウノウと生きて来た。そのことが無念だった。
ロックとは世の中や生き方に「これでいいのか」と問いかけるということだ。
「暗渠」を知らずして生きてきた自分はロッカーではないと思ったという。
そんな自分に「矛盾」を抱え始めた時、都心の地下ばかりを写した写真集を手にした。
人間は何かを得るために何かを犠牲にしている。隠し覆われてきたもののシンボルが、加瀬氏にとって「暗渠」だった。
イツノマニカ、時間が空けば路地裏をクマナク歩き、カツテここに川が流れていた「証」を探すようになっていた。
残された「橋の一部」、車が通れない様な「車止め」、「遊歩道」にした場所などをメジルシにして「暗渠」を見つけ出す。
そして表には出てこない川の「暗渠」を探しだし、見つけてはフタを開けて入りこみ、誰もいない暗がりで「春の小川」を歌う。涙を流しながら。
加瀬氏にとって「春の小川」こそが「ロック魂」の原点であり、暗渠を捜し歩いている自分コソが、今ココにいることの証のようなものとなった。
さて、森高千里のヒット曲には、「臭いものにはフタをしろ」というヤヤ過激な歌があるが、「渡良瀬橋」という心ヤスラグ歌もある。
しかし、この歌のタイトルを聞いて、日本の公害運動の「原点」となった川の名前「渡良瀬川」を思い浮かべる人は少なくないだろう。
そういう人にとっては、「渡良瀬橋」は心ヤスラカではナイ歌のタイトルなのだが。
森高が1993年に新曲をリリースする際、なかなかイメージが沸かず苦しんでいた。
そこで森高は「橋」の詞を作ることにし、地図を広げてみて「言葉の響きの美しい」川や橋を探したところ、「渡良瀬川」という文字が気に入ってしまった。
1989年に足利工業大学でライブを行った際には、大学のある足利市内に「渡良瀬橋」という橋があるこを知り、その後に現地を再訪して橋の周辺を散策し、そのイメージを膨らませて「渡良瀬橋」の詞を書いたという。
森高千里は、九州で一番綺麗な水が流れているという阿蘇山の高森をヒックリ返したうえ、阿蘇の草千里から「森高千里」という名前にしたそうだから、「公害問題」とはヨホド遠い環境に生きてこられたに違いない。
しかし、森高がピンポイントした「渡良瀬川」というのは、足尾銅山の鉱毒と戦った日本公害反対運動の「原点」となった川である。
ソノ点からすると、とてもロマンスに応しい名前ではない。(もうオバサンになったのだから、ソコントコわかって欲しい)。
森高はこの曲のヒットを受けて足利市から「感謝状」を贈られ、そして2007年には足利市の支出で「森高歌碑」までもが完成したという。
一方、渡良瀬川には(私が知る限りにおいて)、天皇に「被害」を直訴した功績をタタエル地元出身の国会議員・田中正造の「顕彰碑」は見当たらない。

世界は今、川に人生を映すほどに、川に思いを託すほどに悠長に構えてはいられない事態が起きつつある。
日ごろから大小の「川の流れ」を目にしている日本人にはピンとこない話ではあるが、中国や韓国が「水源」を求めて日本の不動産を買い占めていることは、一部の「週刊誌」が伝えるにトドマッテいる。
つまり、世界中で「水争い」の兆候がおきつつあるということである。
地球は「水の惑星」といわれているが、「飲み水」として利用できる水は僅少である。
実は98%が海水で、淡水は2%、その大部分は南極や北極の氷山などで、陸上生物が利用できる水は全体の0.01%にも満たない。
地球上の水すべてが風呂桶一杯の水だったとすると、我々が使える水はわずかに「一滴」でしかない。
この「一滴分」をすべての陸上生物が分かち合って生きている。
では世界における「水争い」は具体的にはどのようなカタチで起きているのだろうか。
例えば、スーダンでは北部にアラブ系遊牧民、南部にアフリカ系農民が住んでいた。
遊牧民と農民は、そもそも生活スタイル、サイクルが異なる。
遊牧民は季節によって変化する水場や牧草地を求めて定期的に移動する。
一方農民は一定地に居住して農作物を栽培する。焼き畑の場合は移動するが、土地が痩せるまでは定住する。
これもヤハリ「水の確保」が命である。
では、遊牧民と農民の居住範囲が「重なる」とどうなるか。
遊牧民の家畜によって農作物は食い荒らされる。
逆に農民は土地を柵で囲いたがるから、家畜の自由な移動が出来なくなる。
又、かつての牧草地が農民によって農地に変えられることもある。こうなれば家畜は餓えるしかない。
これを防ぐために、遊牧民と農民とは生活空間を「住み分けて」来たのである。
温暖化によってサハラの砂漠化が進行すると、水を求めて双方が移動を始める。そして双方が接触する。
本来接触してはならないものが接触する事によって「紛争」が始まるのである。
いくつかの国際河川(国境をまたがる河川)では、上流での水需要が多くなり、下流で水が枯渇し始めたことによる「国家間の紛争」さえ起きている。
こうした紛争は今後、人口が増加するにつれてさらに増えると予測されている。
ではこのような「国際紛争」は避けられないだろうか。
その最もよいモデルは、実は日本にあるのである。
戦国時代、日本は100年にわたって抗争を繰り返したが、抗争の原因はそもそも「領土争い」である。
そして領土争いとは、結局は「水争い」なのである。
日本人が水に関して最初に「権利」を明文化したのは、8世紀、奈良時代の「養老律令」である。
そこには水に関して「2つ」のことが書いてある。
1つは、水が欲しい人は先に取水していた人の下流から取ること。
2つ目は、水車を使って水を揚げる人は過去に水を使っていた人全員の「同意」を取ることである。
これが、日本における「水利権」が明文化された始まりである。
では人口も増え農耕も盛んになった江戸時代に、この問題は如何に解決したのだろうか。
日本では「古田優位」という原則が古くからあったものの、古田が下流にある場合には大きな問題となる。
河川水は上から下に流れるものなので、「上流側」が自然的に有利であるからだ。
先発利水が下流側にあり、後発利水が上流側にある場合、「先発利水の優位性」を原則としても、なにかにつけて上流側が有利であるのは確かだ。
そこで紛争が起こりがちだが、上流側の取入口を、河川流量の全量は取水デキナイように細工し、河川流量のある部分がカナラズ下流に流れるような方法が採用されてようやく妥協が成立する。
一方、先発利水が上流側で、後発利水が下流側の場合には、上流側で容赦なく全量取水が行なわれるが、それはそれでサシツカエナイのである。
ソモソモ後発利水が下流側に入ったのは、そうなることを十分に知ってのことであり、「還元水」「伏流水」などにより「取水が可能」なことを確認したうえでのことだからである。
「慣行水利権」は、混沌とした水利用から秩序ある水利用への移行を通じて確立されてきた。この移行が進んだのは、古い利水者たちが中心となって「先発利水優位の原則」を通してきたからである。
それは、後発水利権を不利に置き、渇水になれば、後発を切るシクミともなるのは確かである。
新規利水は最も不利だが、それでも利があるときには利水に参加するし、利がないときには入らない。
そこで自然に「過剰な利水」になることが抑制され、既存利水は「安定した取水」ができるというわけである。
徳川中期ごろにほぼ河川水の利用が限界に達し、「先発利水の優位位性」を原則としながらも、異常渇水時には「相互扶助的」な水利慣行も生まれた。
こうして確立した「水利秩序」が、水利者の「自治的秩序」として維持されてきたのである。

現在、世界の約7億人が、水不足の状況で生活している。不衛生な水しか得られないために多くの子供達も亡くなっている。
水足の地域では、干ばつや地下水の減少、湖沼が小さくなるなど、食糧を作るための農業用水や飲み水さえ十分に得られなくなっている。
新興国の都市化や人口増加に伴って、食糧を増産する必要が出てきたため、これまで農地にしていなかった乾燥地帯で灌漑農業が行われるようになった。
このことにより、さらに「大量の水」が必要となっている。
黄河やアラル海が干上がった原因は、大規模な灌漑農業を行うために、上流域で大量の水を河川から汲み出したため引き起こされたのである。
アメリカにはネオコンといわれる政策思想集団がいる。
このネオコンは400人ほどの理論家集団にすぎないが、彼らは一言で「イスラエルロビイスト」である。
すなわちイスラエルの「利害」を中心に考える人、すなわち「ユダヤ系」の人々といっていい。
イスラエルはエジプトのムバラク大統領と「蜜月」関係を築いてきたが、先日ムスリム同胞団による「イスラム政権」が誕生した。
エジプトで始めて誕生したイスラム政権だという。
したがってエジプトとイスラエルは、新しい「緊張関係」をムカエルのは必至である。
そしてイスラエルにとって死活問題は、実は「水」なのである。
イスラエルは「水資源」が乏しく、海水を「脱塩」して真水に変える「淡水化プラント」という施設を使っているが、ナニシロお金がかかりすぎる。
イスラエルがシリアのゴラン高原という北の山岳地帯を「占領」して返還しないのは、単に「国境」を争っているのではなく、このゴラン高原に降り積もる雪と、ソノ雪解け水がイスラエルの「水源」の一つになっているからである。
ちなみにゴラン高原近辺に「メギドの丘」があるが、この「ハル・メギド」こそが「ハルマゲドン」の言葉の語源なのである。
イスラエルはもっと安価で大量な水が欲しい。
そのためイラク国内のユーフラテス河の水をヨルダン経由の巨大なパイプラインでイスラエル領内までひきたい。
イスラエルが咽から手が出るほど欲しいのはイラク国内の「水資源」であり、そこにイスラエル・ロビイストが後押しして、アメリカの「イラク侵攻」となったという説、充分に説得力がある。