民主主義の失敗

経済学では、「市場の失敗」という用語が学問的に定着しているが、政治学の世界で「民主主義の失敗」という言葉はイマダ聞かない。
「市場の失敗」では、市場にナジマナイ財が存在するケースとして類型化できるパターンがあるのに対して、「民主政治の失敗」は各国各様であり、類型化されるほどのパターンが存在しないことによるのだと思う。
ところが、その民主政治の結実たる「財政」が、先進各国で軒並み破綻状態ならば、そもそも「民主主義」とは本来的にうまくイカナイ性質をもつものではないのか、と疑いたくなる。
先進各国では、「市場の失敗」と同じく「民主主義の失敗」とでもいいたくなる事態が進行している。
市場へのカネ一単位の投下を「一票」とみるならば、市場経済と民主主義は結構アナロジカルだし、純正な民主主義とは結局、経済社会における「完全競争市場」のようなモデルにすぎないのではないのか。
というわけで、民主政治を市場経済と「対比的」に考察してみたい。

さて、パーキンソンというイギリスの政治学者はイギリスの官僚制を詳細に観察した上で、財政支出は拡大する傾向があることを見出し、これは「パーキンソンの法則」と名づけられた。
確かに、一旦公共財の供給のために作られた公社や公団は、事業がほとんど終了しても、様々な名目で存続し続けることになる。
つまり既得権益を守ろうとする勢力により、財政規模は容易に縮小しないという「下方硬直性」をもっている。
こうしたことが財政赤字が各国で蔓延しているということなのだが、日本の場合には「第二の予算」たる特別会計については、その予算の使い道をほとんど開示しておらず、特殊法人への天下りまたは独立行政法人への「偽装天下り」の実態なども、国民の目から覆われしまっている。
つまり「財政民主主義」はほとんど実現されていないという事情も重なる。
しかしこれはいわば「経験則」であり民主主義本来の失敗というほどのものではナイ。
なぜなら財政支出の削減に成功する政府は歴史上にいくらでも存在するからだ。
これはちょうど独占や寡占が、市場に本来的に備わる性質のものではないのと似ている。
誤解されやすいのは「市場の失敗」とは独占や寡占がハビコリ市場が機能不全に陥ることではナク、財の性格によっておきるものなのだ。
例えば、自衛隊や警察などのように「外部経済」が強く働く財・サービス、つまりは利益が広範に広がる財・サービスは、一企業がソコから利益を徴収する「仕組み」を作るのが困難なため、どこも供給しようとシナイからである。
セコムが「警察サービス」を提供したりしないのは、そうしたケースにあたるもののである。
また、港や道路、ダムや上下水道などのインフラは、固定費用が巨大でとても一企業では供給できない。
こういう財は、社会にどんなに「必要性」があっても、完全に機能している市場にまかせておいても十分に供給サレナイ傾向があるということだ。
そこでこうした財は、市場ではなく政府がかわって供給することとなり「公共財」とよばれている。
ところが政府が市場にかわって供給する「政治プロセス」の中で、政府もやはり失敗する。
公共選択論の創始者のブキャナンによれば、民主制のもとでは財政における支出過剰への圧力が高まることを指摘している。
ところで今日の先進各国の財政赤字は、皮肉なことに財政支出の削減を狙った異常なまでの市場機能への期待から生じてきた部分が大きい。
先進国の多くがグローバル化を背景にして規制緩和や自由化により市場機能を高めようとしたが、それが金融危機を引き起こし、金融機関の救済のための「公的資金」の注入をせざるをえなくなったからである。
先進各国は、金融恐慌への危機を財政危機に転じることによって免れようとしているのである。

ところで民主主義の前提に公正な「選挙」があるが、イヤシクモ「民主国家」を標榜す国であるならば、「選挙後」はマスコミが民主主義を監視する役割をになうハズである。
民主主義とは、語源的には「多数者の支配」を意味するが、昨年の原子力発電所の事故は、「少数者の支配」をいかに「多数者の支配」のように見せかけるか、そのために政治家の官僚も学者もマスコミも一丸となっていたということが、明らかになった出来事でもあった。
ではなぜマスコミも「民主主義の監視」に失敗するのか。
内容を視聴者のレベルに合わせて伝え視聴率をかせぐ必要があったり、「スポンサーの意向」を無視しては経営が成り立たないからだ。
なんだかこの構図思い当たる。マスコミを政治に置き換え、視聴者を有権者に置き換え、スポンサーを大企業に置き換えれば自民党政治になるし、スポンサーを「労働組合」に置き換えれば民主党政治ということになろうか。
また民主主義は、「政治参加」にともなうコストを考えれば、市場経済のおける「情報の非対称」の問題に似て、民主政治と銘うってもかなりののバイアスを受けてしまうのである。
政治参加に労力や資金を使うのは、それなりに経済的・時間的余裕が必要なわけで、例えば大企業は、経営に必要な情報や資金をマスコミへの「人脈」づくりに支払うことができるのである。
だから、スポンサーになって主要な情報源たるマスコミを支配できるのも、富裕層であることは当然である。
一般庶民がそれほど「政治参加」のための情報を得るために、金と時間を費やすことができるはずがない。政治への不参加または無関心をキメコム「合理的無知」ということもアリ、である。
とするならば、オノズカラ政治的な意思は、「民主主義」の装いを脱ぐことなく、富裕者の方に傾くことになる。

今年正月の朝日新聞「カオスの深遠」は、民主主義の「機能不全」をいくつかの角度から書いていたが、サスガニ「民主主義の失敗」という言葉は使われていなかった。
「カオスの深遠」では、大分県姫島における「無風選挙」や、AKB48の「人気投票」を引き合いにだしつつ「民主主義」を問い直す試みを行っていた。
大分県の国東半島の沖に浮かぶ姫島では、1955年以来15回連続で「無投票当選」が続く、人口2200人の小さな島の話である。
40年以上も前に、若者の流出に頭を痛めた前村長が、役場の給料を抑えて、その分多くの若者を雇うという「行政ワークシェアリング」をはじめた。
同規模の自治体の4倍以上の職員数である。
姫島は他の自治体並みの給料を払えば、職員数を維持できないと「平成の大合併」を拒否している。
また現村長も前村長の長男で無投票で引継ぎ、世襲と批判されても仕方ないが、村長を含めて職員の給与水準は全国最低である。
村役場は公民館を改築して使うし、役場発の文書は職員が直接届ける。
早くから「予防医療」に力を要れ、一人当たりの医療費は県内の自治体で最低である。
昭和30年代には「ムラ主導」で車エビ養殖場があり、約30人が働いている。
「選挙」は民主主義の必要なことだが、この村の生活は「選挙」をすることによって、少しでもよくなるだろうか。
鹿児島県の阿久根市の例のように、「選挙」が市を二分して長く癒えそうもない傷跡を残したことが思いうかぶ。
小さな姫島がそのまま国政のモデルたりうるものではないが、この島の姿から国政を考えると、国政が選挙のための政治になり下がってしまっていることを思わせられる。
他方で、「選挙」なくしてはマトマリの悪いグループがAKB48なのかもしれない。
前田敦子がセンターで歌うことの「正当性」は、直接的には容貌でも歌唱力でもない。
それを皆が受け入れてグループがまとまる素地は、ファンの選挙によるものであり、その「フェアネス」さにあるともいえる。
ところで最近、ある雑誌にシッカリ選挙で市長を選んでいる関東のK市のことが書いてあった。
あんまり可笑しかったので蛇足ながら紹介すると、この市には職員につぎのような名目で「手当て」が出ているという。
「独身手当て」~結婚した職員にはお祝い金がでるので、独身と既婚の不公平をなくすために支払われる「調整金」なのだそうだ。
「出世困難手当て」~出世できない職員に対して内々に「困難課長」とか「困難部長」とよんで、課長や部長に準じる給与を与えていた。
市の説明では部課長のポストが少ないための救済策なのだという。
ちなみに「困難課長」が67人、「困難係長」がいたが、この制度さすがに説明「困難」で最近ヤメタという。
以下はK市ではないが、K市同様に結構可笑しい。(こういうことやっているから、民主主義は 機能停止に陥る)
「窓口手当」~役所の窓口にいる場合には、精神的緊張を強いられるから支給されるのだという。
「元気回復手当」~仕事でミスをして上司にしかられてメゲテイル職員を励ますために支給されるのかと思ったが、さすがにそうではなくて、同僚と会食したり、マッサージを受けたり、プライベートでホテルに泊まったりする場合に支給されるものだそうです。

そもそも、民主主義は失敗するのかと問う時に、JJルソーいうところの「特殊意思」「全体意思」「一般意思」という言葉が浮かんでくる。
ルソーが「全体意思」を「一般意思」と区別した慧眼にアラタメテ敬意を抱くが、民主主義の失敗とは、この全体意思と一般意思がたえず乖離するような社会的状況によるものであるように思える。
高校で使う「政治経済」の教科書では、全体意思とは個人の特殊意思の加算の結果とある。
あえていえば、国民全員による投票結果などによるものだ。
投票結果は「全体意思」ではあるが、それが「一般意思」であるとは限らない。
各個人が具体的に表明する意思には、それぞれの立場などが反映した「特殊意思」の表明にすぎず、それを集計した「全体意思」とは、最も数の多い「特殊意思」にすぎないのである。
だから「全体意思」は多くの特殊意思を封殺することによって成立するものであるが、一般意思とは「定義上」全員をなんらかの形で利するものであらねばならない。
しかし全員を多かれ少なかれ利するなんて「意思」を、今日の高度産業社会に考えることができるだろうか。
ルソーは、たとえ全国民に反対されたとしても、一般意思を理解(発見)できるものならば、独裁者であっても、それでヨシとしている。
なぜなら個人は自分の利をいつも正確に理解(発見)できるとは限らないからである。
その場合に「一般意思」は、「賢者(または哲人)の意思」と言い換えうるものかもしれない。
(先述の姫島のケースでは、島内において「一般意思」が見出され実行されているといえそうだ)
こうしたルソーの考え方は、「民意」を忠実にナゾッテいくことを至上命題とする「大衆迎合主義」つまりポピュリズムに対する「警鐘」にもなるのではなかろうか。
最近、「維新の会」を主軸として大阪や愛知で起きている動きを手放しで喜べないのも、民意の支持を背景にした「独裁的」な政治が行われるかもしれないというの警戒感であるからである。
民意の大勢で「日の丸」を強制したりすることである。
それはルソーの言葉でいえば「全体意思」にソウものでるかもしれないが、ルソーからすれば一般意思の趣旨とはむしろ、どこかで「民意」を断ち切ることによって見出されるものではないか、ということである。
ルソーは「一般意思」を見出すならば独裁者であってもかまわないといったが、しかし歴史は、「悪魔は天使に偽装する」ことを教えている。
悪魔を為政者に選ぶこともあったし、賢者といえども独裁的立場になれば悪魔に転じることをも教えている。
つまり賢者といえども強烈な「特殊意思の体現者」に転じてしまうということもありる。
さらにルソーによれば、仮に「一般意思」が発見されたにせよ、次のような意識が浸透しているような社会的条件があることを指摘している。
それは、ひとりひとりが自己の利益を脇に置いて、共同体全体の利益を考えるような、そういう意識をよりどころに結びついたような共同体であるということだ。
言い換えると、自分の意思で「権利」を放棄し「一般意思」に従う覚悟がある人々で占められた共同体であるということだ。
ココの人々はあくまで自分の意思で捨てたのだから、一般意思に従うとしても「自由である」ことをヤメナイのである。

今日、「民主主義の失敗」なんという言葉は定着してほしくはないが、ルソーが「一般意思」に従うことによって自由がえられるとした時代の「社会的条件」が、スデニ失われていることは確かなようである。
なぜなら、ルソーの民主制は皆が鍬をもって耕作しているなど、ある程度の「同質性」を前提とする自然社会を前提とするものであるのに対して、現代社会は利害の多様性を自明のものとして受け入れ、他方向に向かう私的利益の追求が社会を活気付けるはずだという原則にたっているからである。
したがって今日「一般意思」なるものは存在しないといえるかもしれない。つまり全員の私的利益を公的利益に調和させるような「意思」は存在しえない。
(これは、経済学では多数財市場を同時均衡させる一般均衡価格にあたる)
普天間基地移設の問題など個々の問題をみてもそれがいえる。
しかし、ルソーの一般意思の実現としての「民主主義」が現実的ではないものの、依然としてモデルとしての「価値」を失わないのは、それが権利意識ばかりが強くて他を出し抜くことばかりを考えるような「人間性」には、民主主義なるものはナジマナイものであり、早晩それを「機能不全」に陥らしめるものであることを教えているからである。
というわけで、結局アタリマエの結論になってしまった。
今、ツィッターの普及などによりアラブ圏で民主革命がおき独裁政権が倒れ、「アラブの春」が謳歌されている。
しかしこらの国は本当に民主的といわれる政体が実現してくのだろうか。
それについては、イラクを取材したあるジャーナリストの報告が印象に残った。
タクシーに乗ったらイラク人の運転手が、自分が回った世界各国の写真を何枚も見せてくれたという。
しかしその写真の背景の名所はほとんどカスンデいて、その運転手の顔がデカデカと写る写真ばかりであった。
例えばパリのエッフェル塔よりもはるかにデカク運転手の顔が写っていたという。
そしてそのジャーナリストは骨身にしみて感じたそうだ。アラブにはただ「己れ」だけがある。
そして「己れ」に飽きることがない。
日本人なら、ソンナ写真を何枚も見知らぬ旅人にみせることはしないだろう。
アラブには砂漠と「己れ」しかない、と。
最後に、気兼ねや配慮は、民主主義の底流を流れる伏流水で、自己と等しい権利をもつ敬意と配慮なくしては民主主義はナリタタナイ、と書いている。
ナジマナイ財の性質によって「市場の失敗」が起きるのと同様に、それにナジマナイ人間性によってこそ「民主主義の失敗」も起きるのである。