帰還するもの

先日、アラスカ州アンカレジのレーダー施設に勤務する技術者・デービッド・バクスター(51)氏は、砂浜を散歩中にサッカー・ボールを見つけた。
ボールには「寄せ書き」があり、妻で日本人のユミさん(東京都八王子市出身)は一目みて持ち主にはとても大事なものだろうと思った。
夫妻は米海洋大気局(NOAA)に問い合わせるなどして、持ち主が東日本大震災で被災した 岩手県陸前高田市の高校生と分かった。
夫妻は5~6月に休暇で日本を訪問する予定で、バクスター氏は「サッカーボールは、持ち主に直接手渡せたら素晴らしい」と話している。
ところで、この世界、返して欲しいボールもあれば、帰ってきてほしくない「ボール」のようなアシライをうける人もある。
例えば、大岡昇平の戦争を描いた小説「野火」に登場する主人公の場合である。
レイテ島に上陸するとまもなく、「私」(田村)は喀血した。5日分の食糧を与えられて、血だらけの傷兵がごろごろしている患者収容所に入院した。
3日後、治ったと言われて復隊した。
中隊では5日分の食糧を持っていった以上は5日は置いてもらえと言う。病院へ引き返したが、もちろん断られた。
中隊に戻るとぶん殴られて「おまえみたいな肺病やみを飼っておく余裕はねえ。病院へ帰れ。
入れてくれなかったら、死ね。それがおまえのたった一つの奉公だ」といわれる。

日本は海洋国家であるから、当然漁に出たまま漂流しそのまま「行方不明」となり、魚の餌となった人々も少なからずいたであろう。
特に江戸時代、大量輸送の中心は海運であり、弁才船などが悪天のために漂流し、後は潮と風の運まかせで海の藻屑と消え去った者達も相当多くいたことが推測できる。
ところで江戸時代に記録を紐解くと日本の民間人による海外渡航例が、「記録に残るもの」で百数十例あるという。
「記録に残るもの」という意味は、数ヶ月か1年あまりの漂流の果てに外国へ漂着し、それでも無事に帰還できた事例を指している。
漂流し生存したとしても日本に戻ってこない限りは記録に残りようもないからだ。
つまり外地に骨を埋めた漂流者の数は相当数に上るだろう。
ただ帰還に成功したものには、ある共通点がある。
記録によればこうした漂着船の積荷はほとんどが米であったことだ。
それを食べ繋ぐことによって生存できたわけで、他の貨物を積んだ船や漁船の場合、生還率はかなり低かったといえる。
そうした漂流者で、外国で何らかの手当てをうけて日本に無事戻ってきた「漂流者」はナオ少ない。
そして、外国での生活を体験した者は、江戸時代の鎖国政策の中では貴重な情報源である反面、「危険人物」でもあった。
さらに、「漂流者」どころか正規の「派遣者」であったにもかかわらず、時代が変り為政者がかわれば、モットモ歓迎されざる「帰還者」という場合もある。
スペインのアンダルシア地方に、「ハポン」を姓とする一群の人々が住んでいる。
「ハポン」姓の人々は日本のサムライの子孫といわれている。
コノ人々は1618年に派遣された支倉常長率いる「慶長遣欧使節」と関係が深い。
1618年、伊達政宗は宣教師のソテロとともに支倉常長をローマに送ることを命じた。
一行は仙台領の月の浦(宮城県石巻市)から、太平洋・大西洋を日本人で初めて横断し、メキシコ、スペイン、ローマへと渡る。
この大航海の目的はメキシコとの通商と宣教師の派遣をスペイン国王とローマ教皇に要請することであった。
彼らがスペインで約一ヶ月を過ごしたセヴィリアは、マゼランが世界周航へと出港した港町でスペイン第4の都市だけあって、町並みはとても華やかで活気があった。
一行26人(資料によって異なる)のうち6~9人はどうやら最初に上陸したコリア・デル・リオに留まり、そのまま永住したらしい。
この人々の子孫が「ハポン姓」のスペイン人である。
さらにマドリッドではスペイン国王フェリペ3世に謁見を賜り、ここで支倉常長は洗礼を受けバルセロナに滞在後ローマへと向かっている。
彼らはローマで熱狂的な歓迎を受け、教皇パウロ5世に謁見し、伊達政宗の手紙を渡している。
しかし彼らがようやく帰国した1620年は、日本では全国的にキリスト教が禁止され、信者たちは次々と処刑されるという厳しい時代となっていた。
日本ではしだいにキリシタン弾圧が厳しくなってきているという情報が教皇のもとに届いており、交易を約する返書をすら得られず7年後に帰国している。
しかしキリシタンとなった彼らの多くは「招かれざる帰還者」であり、仙台藩にとってもヤッカイモノになっていく。
帰国した支倉らは、以後身を潜めて生きなければならなくなったわけだ。
仙台市、広瀬川の橋のたもとには、殉教者の石碑が建っており、東北キリシタン弾圧の凄まじさを物語っている。
仙台に帰った支倉は、「運命に裏切られた」者として、以後自分の生をどうマトメたらいいのか、思い悩んだにちがいない。
数年前、そうしたハポン姓の人々がテレビにでているのを見た。
支倉常長の帰還後の半生は、「オレの人生は一体何だったのか」と自問を繰り返す日々ではなかったかと思うのだが、支倉使節がアンダルシア地方に蒔いた「ハポン」姓の人々は、そうした支倉の孤独で沈鬱な自問自答とはまったく裏腹に、底抜けに人生を楽しんでいるかのように見えた。

法をおかして帰国したものの、自らの持ち帰ったものに自信を持ちえた空海の場合は、そうした「帰還者」とも少し違っていた。
空海は806年留学先の唐から帰国して一年間、博多にいた。そのことは博多駅近くに空海が設立した東長寺があることでもわかる。
東長寺の門には「密教東漸第一の寺」とあり、東長寺の名は空海が東に長く密教が伝わることを願ってつけた名前である。
唐より帰国して博多にいたその1年間は空海にとって貴重な時間であった。
空海は博多(大宰府)で、もちかえった密教の法具を整理し密教を理論化、体系化していった。
それは新しい世界観をうちたてるためにドウシテモ必要な時間であった。
実は空海、20年間の中国滞在の決まりで唐に渡ったにもかかわらず、わずか2年半あまりで帰国している、つまり国禁を犯したというという立場であり、空海の博多滞在はある意味「処分待ちの時間」でもあったのである。
空海は774年讃岐の国に生まれ、12歳で「論語」などを勉強し15歳で都にのぼる。18歳で当時の国立大学に入学を許可され、将来を嘱望された。
大学の勉強に疑問をもち、周囲の反対を押し切り大学を中退した。
山岳修行を続けながら仏教をきわめようとしていた時、それまでに一度も見たことのない経典である密教の根本経典「大日教」と出会う。
当時の密教は日本ではそれほど重視されておらず、空海は正統な密教を学ぶために唐にわたる他はないと考えるようになった。
31歳の時、入唐留学生として遣唐使の一員となる許可が与えられ804年遣唐使一団に混じり、一路唐の長安をめざした。同じ船団には最澄の姿もあった。
空海は佐伯氏という中流豪族の一族ではあったが経済的にそれほど潤沢であったとも思えない。
また空海は私度僧という立場でもあり特有の不安定さがつきまとっていた。
空海が学ぼうとした長安の高僧青龍寺の恵果(けいか)は、胎蔵界つまり真理(大日如来)が宇宙で運動する発現形態、と金剛界つまりその運動が真理へ帰一していく形態の両方(両部)に通じていた。
しかし、それらの奥義を伝えるべき弟子に恵まれていなかった。
恵果は一目で空海にその資格ありとみた、というよりも恵果は空海を恵果自身の師匠である三蔵の生まれ変わりとみたのである。
そして自分の持つ物すべてを空海に惜しげもなく開陳し譲った。恵果は空海に会ってからわずか3ヶ月で最高位である「亜闍梨」の位を授け、空海を密教の正統なる継承者とした。
恵果は空海に早く帰国して日本に密教の奥義を伝えることを願った。
そして空海は、師・恵果のすすめで2年あまりの滞在で帰国を決意し806年10月帰国したのである。
空海は、いつの日か許されて都に上る時が来るにせよ、都には彼がそこから逃れ唐に渡る決意をした旧態依然たる仏教がそこにあるのだ。
空海は「反動勢力」と戦うためにも密教の理論化・体系化が必要であった。
空海が実際に過ごした太宰府には、得度受戒の儀式を行う戒壇院がある観世音寺があった。
さらに観世音寺には、多くの留学生がここに経典を伝え多くの蔵書にもめぐまれていて、空海はこの観世音寺に派遣されてきた東大寺や唐招提寺の学僧とも交わることができたのである。
奈良時代に吉備真備と学んだ玄昉も、この寺に留学からの帰国後過ごし、失脚後この寺に流された。
玄昉の墓は、観世音寺のすぐそばにある。
しかし、空海は最澄らとは異なり一介の私渡僧にすぎない、今、勇んで都にでていったところで誰も相手にしないということをよく知っていた。
空海はその間、唐より持ち帰ったものの目録を朝廷に送ってアピ-ルしていく。
空海が朝廷に送った「御請来目録」に載っているリストには経典や注釈書が461巻、おびただしい数の法具や仏画、仏像などがすべて記されていた。
そこには早期帰国の罪を補っても有り余るほどの、当時の文化価値からすれば「史上空前の財宝」が載っている、と空海は自負していた。
空海の博多滞在はしかるべき時を待つ「戦略的時間」であったようにも見える。
空海は、先に密教を断片的に持ち帰って日本の密教の国師と崇められる最澄に対して、自分の方が密教を体系的に受け継いでおり、「こちらが本道」という絶対的確信もあった。
そして博多に滞在していた空海に、807年の夏朝廷より勅令が来た。
京ではなくまずは和泉国槙尾山寺に仮に住めと言うものであったが、とにかく空海の幽閉はとかれた。
空海はとりあえず槇尾山に居を移し、現在の槙尾山施福寺でさらに2年間すごす。
博多の1年間と合わせたこの3年間が密教ビジョン構築の時間だった。
さらに朝廷が空海に「京にのぼりて住め」として与えたのは高雄山寺(現在の神護寺)であった。新に天皇となった嵯峨天皇は空海の書や詩を愛していたのだ。
平安京をはさんで、東西に比叡山の最澄、高雄山の空海と平安仏教の二大リーダーが並び立った。

「名もなき」漂流者(ドリフターズ)がその「稀少価値」ゆえに歴史の舞台にヒキダサレルこともある。
「漂流」が歴史に与えた大きな「意義」という点で二人の人物を思い起こす。
一人はジョン万次郎、もう一人はジョセフ彦である。
この二人は、どのような歴史的出来事に遭遇しその歴史的役割をはたしたのであろうか。
ジョン万次郎は1827年土佐の国中浜谷前の漁師の次男として誕生した。1841年14才の時、正月5日足摺岬沖で漂流する。
10日間漂流して南海の孤島・鳥島に漂着し仲間と143日間生きながらえ、たまたま立ち寄った米国捕鯨船ジョン・ハウランド号に救助されホイットフィールド船長の保護を受けた。
漂流仲間とはホノルルで分かれ一人捕鯨船員として太平洋を渡った。
16才で船長の故郷・マサチューセット州フェアーヘブンに帰航した。そして万次郎はオックスフォード校、バートレット専門学校で英語、数学、測量、航海、造船等の教育を受けた。
24才の時に沖縄より上陸し帰国した。取り調べの後解放され26才で土佐藩の士分にとりたてられ、高知城下の藩校「教授館」の教授となる。
このとき後藤象二郎、岩崎弥太郎などが直接万次郎の指導を受けている。
1860年33才の時には批准書交換のための使節団一員として艦長勝海舟の「咸臨丸」に乗船した。
この時万次郎は教授方通弁主務として乗船した。
この船には、26歳だった福沢諭吉も同行し共にウェブスターの英語辞書を購入したという。万次郎の流暢できれいな英語に米国民は驚嘆したという。
1860年42才の時明治政府の命を受け開成学校(東京大学)の教授となり最高学府の教壇に立った。
そして1898年、東京・京橋の長男の中浜東一郎医博宅で72才の生涯を終えた。
なお、現在でもホイットフィールド家と中浜家は子孫の交流が続いているという。
もうひとりの漂流者のジョセフ彦は、1837年播磨町古宮の漁師の家に生まれ幼名を彦太郎といった。
1850年13歳のとき遠州灘で暴風に遭い52日間太平洋を漂流した。
彦太郎ら17名はアメリカの商船に救われ、1851年2月にサンフランシスコに到着した。
サンフランシスコで彦太郎は、子供がいなかった税関長サンダースに可愛がられワシントンや二ユーヨークに連れていかれや電信・ガス燈・汽車などを見て驚き、ワシントンでは1853年に時の大統領ピアースに謁見するという幸運に見舞われた。
彦太郎は、アメリカ大統領と正式に会見した「最初の日本人」となった。
その後、彦太郎はアメリカの地で教育を受け1854年にキリスト教の洗礼を受け、「ジョセフ彦」と名乗るようになった。
祖国を離れて9年ブりの1859年21歳のときに初代駐日総領事ハリスに伴われて日本に帰国した。
ジョセフ彦は横浜にあるアメリカ領事館の「通訳」として幕府との間で日米修好条約の締結や幕府の遣米使節の派遣などに奔走した。
攘夷浪人から狙われるようになり一旦アメリカに戻り、リンカ-ン大統領と会見する栄誉にも恵まれた。
1862年10月に、再度日本に帰ったジョセフ彦は、横浜で再びアメリカ領事館の通訳の仕事を始めその後、横浜にある「外国人居留地」で貿易商に従事した。
ちょうどそのころ、リンカーン大統領の名言「人民の人民による人民のための政治」を残した南北戦争の激戦地ゲティスバーグでの演説とその反響を載せた「ニューヨークタイムズ」を目にし、このことを一瞬にして国民に知らしめた新聞の威力に感嘆し、日本での新聞の発行にイドミ始めた。
民衆にも「知る権利」があるといっても、情報は幕府に厳しく監視され取材活動は全くできない状態であった。
しかしジョセフ彦は「事実を正しく民衆に伝えることそこに感動が生まれる」という強い信念のもと、命がけで新聞発行へと突き進み、1864年6月28日、わが国民間による最初の新聞「新聞誌」を創刊したのである。
ジョン万次郎もジョセフ・彦も漂流しなければ名もなき漁師だった。しかし「想定外」の人生展開の末に、時代の「分岐点」で重要な役割を果たしたのである。

「名も知らぬ遠き島より 流れ寄る椰子の実一つ 故郷(ふるさと)の岸を離れて 汝(なれ)はそも波に幾月 旧(もと)の木は生(お)いや茂れる 枝はなお影をやなせる」。
漂着物が人にインスピレーションを与え、作品として生まれたもっとも有名な例では、民俗学者である柳田國男が1898年の夏に、愛知県伊良湖にしばらく滞在した際に偶然拾った椰子の実の話を、親友の島崎藤村に語ったところ、それがモチーフとなり、「椰子の実」が誕生した。
ところで、生物というものは「繁殖戦略」というものをもっている。
例えば、動物の食料になる部分を種子の周りに発達させ、食われることで動物の体内を通じて種子の散布させたりする。
椰子の実もナカナカの「繁殖戦略」を身につけている。
すなわち、種子を保護するため果肉や種皮が厚い、「海水に浮く」ため繊維層を持つなどの特徴を持っている。
加えて「椰子の実」は、詩人の心を揺り動かしてソノ名を日本人の心に刻むほどの、シタタカサを持ちあわせている。