小さな統一

韓国で、今年4月に公開された映画「KOREA」は、公開から10日をマタズに観客動員数が100万人を超える空前の大ヒット映画となった。
この映画は、1991年4月24日から約2週間、日本の千葉で行われた世界卓球選手権で「韓国と北朝鮮」の南北単一の女子チームが、世界王者・中国を破った時の「実話」を基に作られた映画である。
この世界卓球で、韓国と北朝鮮は「KOREA」という名前の「単一チーム」として参加した。
映画のタイトルはその時の「チーム名」によるが、それ以上の意味合いを含んでいることは言うまでもない。
この「単一」チームは、青地に朝鮮半島を白く描いた「旗」の翻る下、当時「無敵」と言われた中国を見事に破って優勝に輝いた。
この千葉大会を個人的に見にいったが、入場口でシンクロの小谷実可子選手とあってラッキーだった。
一番に印象に残ったのは、「民族衣装」を着ての韓国人の熱のコモッタ応援が華々しく繰り広げられていたことで、通常静かな「卓球会場」とはトテモ思えない雰囲気であったということである。
そして、表彰式で流れた国歌が「アリラン」であり、会場の応援団は「アリラン」を声の限り叫び、そして感激の涙をモッテ「優勝」を讃えたのである。
この千葉で起きたこの「出来事」が、直接的にその後の韓国・北朝鮮関係にドレホド影響をもったの知らない。
このところ朝鮮情勢は、「潜水艦船爆破」「延坪島砲撃件」「ミサイル発射」などで南北緊張などを招き、ムシロ折角の「対話ムード」とはホド遠い雰囲気があった。
しかし、どんなに分断されていようと、民衆のレベルで「南北統一」の悲願が依然として「底流」として存在し続けていることを、映画「KOREA」の大ヒットに見た感じがする。
また、千葉のおける「南北の単一チーム」の実現後シバラクして、韓国・北朝鮮の「南北分裂」の悲劇、ウラを返せば南北統一を「意識」した映画が製作されたことは記憶に新しい。
南北に分断された男女の悲劇を描いた「シュリ」や軍事境界線を警備する両国の男達の友情と悲劇を描いた「JSA」である。
いずれもソレマデの観客動員数を塗り替える記録的な大ヒット映画となった。
こうした映画の制作および観客動員と、千葉における出来事が少なからぬ影響を与えたことを否定することはできないと思う。
たかが「ピンポン」と思うかもしれない。しかし、アメリカと中国の国交回復には、ピンポンがコジ開けた1つの「風穴」があったことを忘れてはならない。
一般には1970年代のアメリカと中国の「接近」は、中国とソ連(現ロシア)と間の「覇権争い」の間隙をヌッテ、アメリカが「ソ連封じ込め」を行ったものと見られている。
しかし実際は、ニクソン訪中の前年に行われた周恩来・キッシンジャー国務長官会談で、長引くベトナム戦争に手を焼くアメリカが、中国が「北ベトナム支援」を手控える代わりに、中国側が主張する「1つつの中国」を支持することを表明した、トイウものだった。
何しろ、キッシンジャーの「秘密外交」の成果であるコノ表明は、「キッシンジャーの呪縛」として、中国・台湾問題に長く影を落とすことになる。
トモアレ1972年2月23日にニクソン大統領の「訪中」が実現し、米中の国交が「正常化」した。
アメリカと中国は、1950年「朝鮮戦争」の時には互いに「介入」し合って矛先を交えた「仇敵」であり、そうヤスヤスト歩み寄れる関係ではなかった。
その強張った米中関係に、小さな「風穴」をあけたのがピンポンに他ならなかったのである。
そこには天佑のような「偶発的」な出来事も作用したことも間違いない。
1971年第31回世界卓球選手権名古屋大会で、中国選手団のバスにアメリカ選手が「間違って」乗り込んでシマッタのだ。
当時、中国には「アメリカ人とは話しをするな」という不文律があったのだが、世界チャンピオン荘則棟氏は、チームメートの制止をよそに、アメリカ選手に気軽に話しかけたのだ。
そして、この「対話」で両国選手団にスッカリ友好ムードが漂ったのである。
そして翌年それまで国交のなかったアメリカに、中国の「卓球選手団」が招待されたのである。
しかし、このアメリカと中国との交流には、ソレを「お膳立て」した一人の日本人の存在を忘れてはならない。
それは、世界卓球選手権名古屋大会当時の日本卓球協会会長でアジア卓球連盟会長であった愛知工業大学の後藤鉀二学長である。
後藤氏は、「中国の参加」によってコソ名古屋での大会は世界選手権にフサワシイ大会になると考えていた。
何しろ中国チームは、1961年の北京大会で当時の「卓球王国」日本の五連覇をハバミ、その後の大会における優勝を含め、「三連覇」を達成していた。
さらに1965年の世界大会では実に7種目中5種目で優勝するなどして日本に替って「世界最強」のチームといってよかった。
ところが中国で「文化革命」がおき、中国が参加する機会を失った67年69年は、モハヤ「世界大会」とはいえなかった。
後藤氏は周囲の反対にあいながらも、北京を訪問して名古屋大会への「中国参加」を働きかけた。
そして、中国と太いパイプを持っている西園寺公一日本中国文化交流協会常務理事らの協力を得て、中国参加を実現したのである。
そして、前述の中国卓球選手のアメリカ訪問の舞台を準備して演出したのも、後藤氏であったのだ。
また1972年2月にリチャード・ニクソン大統領が訪中してした際には、人民大会堂で開催されたレセプションで世界チャンピオンの荘選手が周恩来首相か大統領に紹介されるなどして、ピンポンは米中国交樹立に少なからぬ役割を果たしたのである。
それまでに中国と国交を持っていたのはわずか32カ国であったが、ソノ後10年間に100カ国以上が中国と国交を結ぶという「画期的」な出来事のキッカケを作ったのである。
「ピンポン外交」コソは現代史上もっとも輝かしい成果を残した「民間外交」と評価されてしかるべきでろう。
しかしこのことを溯れば、後藤氏の周囲の反対を押し切って行った北京訪問に行き着く。
後藤氏がいなければ、中国卓球の世界大会復帰はなかったであろうし、米中の選手の直接対話を生まれなかっただろうし、中国選手がアメリカを訪問することもなかったであろう。
そするならば、米中の「国交回復」もサラニ遅れていたにチガイナイ。
中国では、「井戸を掘った人」の恩を忘れないという伝統があり、後藤鉀二氏の功績は今でもヨク記憶されている。
しかし日本で、後藤氏について語られることがホトンドないのは残念なことである。

映画「KOREA」の大ヒットの原因の1つに、韓国卓球のエース「ジョンファ」をハ・ジウォン、北朝鮮卓球のエース「プニ」をペ・ドゥナといった韓国映画界のエース・クラスを起用したことも大きかったかもしれない。
一つのチームとなったジョンファとプニは徐々に息が合っていき、彼女たちの活躍でコリアチームは予選を疾走する。
しかし、準決勝を翌日に控え、北朝鮮保衛隊は選手団が「私的に」韓国チームと交流したという理由で北の選手団を撤退させるという決定を下す。
やっと一チームになって決勝を目前にした状況で再び南北に分かれることになった選手達だったが、もう自分の金メダルではなく、 コリアチームの金メダルを夢見るジョンファは必ずプニと一緒に決勝を戦おうと決意する。
この映画はすべて実名だが、脚色も多い。ただその脚色も作り事とばかりではいえず、ナンラかの事実を「下敷き」としていると見るのが適当である。
ところで、主演のハジウォンは「多彩なキャラ」で観客をひきつける稀有の女優といてよい。
1千万人の観客を動員した「海雲台」(邦題:TUNAMI)>から、熱いシンドロームを巻き起こしたドラマ「シークレット・ガーデン」まで、ブラウン管とスクリーンを行き来しながら名実共に韓国最高の女優として認められている。
作品ごとに絶え間ない努力でどのようなキャラクターでも完全に消化するハ・ジウォンは、今回の作品で韓国の国家代表「ジョンファ」役を受け過酷なトレーニングを経て「再現」している。
また、ウォシャウスキー監督の作品に相次いで出演し、世界中で舞台を広げているのが女優ペ・ドゥナで、 「グエムル~漢江の怪物~」以来6年ぶりに新しい挑戦に出る。
実はペ・ドゥナは小学校時代卓球選手として活躍しているが、過酷な特訓を経て、北朝鮮の卓球国家代表選手"リ・プニ"に完全に扮した。
卓球の特訓ばかりではなくて、そこへ自然な北朝鮮訛りの演技を加えてリアルなキャラクターを完成させている。
またコノ「KOREA」製作のタイミングとして北朝鮮の書記長がキム・ジョンイル総書記から、若いキムジョンウンに変わり、「新体制」への期待が込められているという点も大きいであろう。
この春、キム・ジョンウン第1書記を頂点とする新しい体制が発足したばかりの北朝鮮である。
さらに最近のニュースで、「北朝鮮内部」で小さくない変革が起きつつあることが報道されている。
キム・ジョンウン第1書記の「後見役」のひとりと見られていたリ・ヨンホ総参謀長が、病気を理由にすべてのポストから解任されたという。
実質的な「解任劇」の裏に流血をともなった「小さな内戦」が起きたとまで報道されている。
リ・ヨンホなる人物はキム・ジョンイル総書記の告別式では、棺を乗せた車に付き添っていた最高幹部であり、北朝鮮の権力中枢で、何かが起きているといってよい。
とはいっても、このリ・ヨンホが注目されるようになったのは比較的最近のことである。
3年前の2月に朝鮮人民軍の「総参謀長」という重要ポストに任命され、翌年には、党の政治局常務委員、中央軍事委員会副委員長という重要ポストに就任している。
リ・ヨンホ氏が最高幹部に登用されたのは、キム・ジョンイル総書記の晩年、ちょうどキム・ジョンウン氏が後継者に指名された時期にあたる。
したがって、リ・ヨンホ総参謀長ジョンイル氏によって息子ジョンウン氏の「後見役」として抜擢されたといって過言ではなかった。
「解任劇の」背景には、キム・ジョンイル体制を支えてきた軍人達と、キム・ジョンウン体制を支えている党官僚の間で、何らかの確執、「権力闘争」が起きていることも十分考えられる。
プログラムに従って、父親の敷いたルートを進むに違いないという見方が多い中で、はやくもキム・ジョンウン第1書記の「独自色」が出てきたということかもしれない。
北朝鮮にとって最大の敵であるアメリカの音楽であるハズだが、そのアメリカの音楽を最高指導者のキム・ジョンウン第1書記が楽しんで聞いている映像が流れているのに驚いた。
そんな映像が国内外に流されるというのも極めて異例のことである。
スイスで学んだ経験もあるもキム・ジョンウン氏が、父親の時代とは違い、外の世界に対してオープンになったのだとアピールするというネライなのだろうか。
そうするとリ・ヨンホ解任も、こうした「開放的な政策」を可能にするための人事一変という見方もできる。
また最近、キム・ジョンウン第一書記の隣に付き添っている若い女性も話題になっている。
この女性が誰なのかはまだ確認されていないが、こうした映像が伝えられること自体、キム・ジョンイル総書記の時代にはナカッタことである。

「ピンポン外交」という言葉は後藤後藤鉀二氏に始まるが、コノ言葉は前世界卓球協会会長である荻村伊知朗氏の「代名詞」となった感じがする。
確かに荻村氏こそは韓国・北朝鮮「南北単一チーム」の結成を実現した最大の功労者といってよい。
そして荻村氏は「日中」友好においても、師匠・後藤鉀二氏の「意思」を引き継いで、少なからぬ役割を果たしている。
荻村氏が日本チ-ム団を率いて中国を訪問した際に、周恩来首相にに荻村氏は中国がコレカラ卓球に力をいれていくために力を貸して欲しい旨を告げられた。
その際に、周恩来は荻村氏に驚くような内容のことを語り明かしている。
中国には早くから国家的にスポ-ツを振興しようという政策があったのだが、その時ネックとなったのが婦人の間で広がっていた「纏足」という習慣であったことである。
纏足とは足を小さな頃から強く縛って発育させないようにするもので、小さな足が美しい(可愛い)とされた伝統があったからである。
しかし纏足は女性を家に縛り付けておこうという男性側の都合でできたトンデモナイ悪習で、それが中国人の体格の悪さの原因ともなっていた。
卓球を広めていくことは。この「纏足」をヤメさせることに繋がるというものであった。
さらに中国人はアヘン戦争に負けて以来、外国人に劣等感を持っていて、日本が卓球で世界一となり、外国に対する劣等感をハネカエシタのにならい、中国も卓球というスポ-ツで自信を回復したいということを語った。
さらに、中国は貧しい国なのでお金のかかるスポ-ツを採用する余裕はないが、卓球台ならば自給自足で何台でもつくれるので卓球をスポ-ツ振興のために採用するという内容だった。
チナミに中国でアミ出された<「前陣速攻型」は、一人あたりに使える空間が狭いために生み出されたものであった。
当時20代だった荻村氏は、周恩来の「自分の胸の内を明かす」ように語った言葉を聞き漏らさずにシッカリと受け止めたのだという。
荻村氏自身、日本の代表選手として世界大会に最初に参加した1954年当時、参加選手は自分で80万円の渡航費用を手当てする必要があった。
しかし当時の日本はマダ貧しく、一般のサラリーマンの平均年収が10万円に満たない時代で、荻村個人ではとても用意できる金額ではなかった。
そこで卓球場の仲間たちは街頭募金や有料の模範試合などを開き、ナントカそのお金を集め荻村の世界大会参加を実現にコギつけたという経緯があった。
周恩来の言葉は、荻村氏にとっても身にツマサレル思いであったのだ。
荻村氏は1954年初出場で世界チャンピオンに輝き、1956年の東京大会で二度目のチャンピオンになった。
その後国際卓球連盟会長をつとめ、「ミスター卓球」とよばれた。
その荻村氏には忘れられない出来事がある。
荻村氏が初出場した1954年当時は、日本は国連にも加盟できず戦争中の「悪者」イメージがつきまとい、国際大会においても日本選手に対する観客の「視線」には厳しいものがあった。
ところが、ある試合の中で対戦相手の外国人選手がピンポン玉を拾いにフェンスを越えようとした瞬間、バランスをこわし転倒しそうになった。
その時、身を翻した荻村氏が床に飛び込んで、その選手を転倒の怪我から救った。
その姿を見た時から、観客の日本選手に対するブーイングはすっかり消えたという。
この大会でチャンピオンとなり、元祖「世界のイチロー」となったのである。
世界卓球名古屋大会における後藤鉀二氏がお膳立てした「中国参加」の20年後の千葉大会で、今度は荻村氏が韓国・北朝鮮の「単一チーム」を実現させた。
荻村氏は、1954年選手として世界卓球に初参加した際の日本選手に対するブーイングも忘れられないものであった。
しかし世界卓球協会会長となった荻村氏にとってサラニ忘れられないことは、1988年新潟での第9回アジア卓球選手権で特別措置入国許可(前年の大韓航空機事件)の北朝鮮選手団が、本国からの命令で大会途中で突然帰国することになり、その帰国を涙流して見送ったことである。
この時のことを「スポーツが政治の主導ぬきで生きられない辛さ、セツナサを痛感した」と述懐している。
しかしその3年後、荻村氏は千葉の地で韓国・北朝鮮の「小さな統一」を実現したのである。