タワーと鎮魂

人は文明というものを誕生させて以来、様々な塔を数多く建ててきた。
人間が「高い」ものを作りたがる性癖は、古代メソポタミアの「バベルの搭」の話でもよくわかる。
一方でコトワザでは、ナントカと煙は高いところに昇りたがるとか、豚もおだてれば木に登るとかあるように、誰ソレが「高い」ところに昇る習癖に、あまりイイ評価を下してイナイようだ。
「バベルの塔」では、地上に満ち溢れた人びとが、日に乾して固めたレンガを、天然アスファルトで積み上げ、天にもトドク塔を建てて、自分たちの「名」をあげようとしたとされる。
これが「神の怒り」に触れ、現在あるように人間が多くの言葉に乱れ、多くの民族に分かれ、皆が一緒に作業がデキナイようになったとされる。
ともあれ、東京のスカイツリータワーは、634mの世界で最も高い電波搭として開業した。
かつて「仕分け事業」で蓮舫議員がいった「何で二番じゃダメなのか」という言葉もうかぶ。
それでも人間はヤッパリ「世界一」に憧れ、どんなに高い搭が建つかで、国カ企業カ技術者カが「名を上げる」という要素は大いにあると思う。
ところで搭の「高さ」は、ソノ「高さ」を支えるダケの技術や、ソノ他環境や災害に対する配慮した技術ナドの広がりを見せている。
例えば「東京スカイツリータウン」地下に設置した熱供給システムは、地中深くに埋め込んだチューブ内に熱源水を循環させて、同地区の冷暖房を賄うというシステムで、年間を通じた電力使用量の「大幅削減」を実現している。
また、地震や強風時の揺れに対し、中央部に設けた鉄筋コンクリート造の円筒(=心柱)と外周部の鉄骨造の塔体を構造的に「分離」し、中央部の心柱上部を「重り」として機能させた新しい「制振システム」を用いているという。
地震時などに、構造物本体とタイミングがずれて振動する付加質量(=重り)を加えることで、本体と重りの揺れを「相殺」させて、構造物全体の揺れを抑制するという「制振システム」である。
実はこれは、日本の伝統的な塔である「五重塔」の構造で、「五重搭」はコレマデに地震による「倒壊例」がナク、その秘密は建物中央の柱(=心柱)にあると推察されている。
634mという塔を現代の技術でつくろうと試みた結果、現代の最新技術と「伝統的構法」が出会ったわけである。
そこで、今回の「制振システム」を五重塔にナゾラエテ、「心柱制振」と呼んでいる。
またデザイン面では、この搭の「照明デザイナー」は、「光」の力で日本の技と「美意識」を世界へ伝えたいと語っている。
東京スカイツリーが聳えるのは、墨田区の業平橋・押上地区であり、浅草、向島などの伝統ある下町に囲まれ、東武線、地下鉄、水上バス等が行き交う交通の「要所」である。
したがって、このタワーは地上デジタル波TV放送を発信する最新の「電波塔」施設であるバカリではなく、江戸文化の色濃い観光名所である浅草とその文化の「再興」を担う新しいシンボルでもある。
そこで光のデザイナーは、これまで巨大建造物には使われてこなかった「LED照明」を使用し、そのライトアップ時に照らし出す色を東京ナラデハの伝統の色「江戸紫」にすることにしたという。
振り返ると、スカイツリーが建っている東京の墨田区といえば大正時代には「関東大震災」で、昭和時代には「東京大空襲」で甚大な被害と被災者を出したところである。
また、低地にあるために地震や津波などモットも災害を受けやすいところに立地している。
そして、この地はある意味で日本初の「ラジオ放送」が生まれたキッカケを作った土地でもあったのだ。
1923年9月に発生した関東大震災で、新聞社や電信機能が破壊された「大混乱の中で、流言飛語の横行に悩まされた政府は、国民に迅速に正しい情報を広く知らせる必要を痛感し、「ラジオ放送」を開始することにした。
この時初めて自立式の「鉄塔」というものが登場するのである。
大急ぎで「日本放送協会」が準備され、1926年11月にNHKが正式に発足し、西新橋の小高い愛宕山の上にもうけられた高さ45メートルの我が国初の「自立式」アンテナから、「ラジオ電波」が発せられたのである。
さらに、東京で流れる歌声が、同時に北でも南でも全国で聞くことができるようなる今の「流行歌」というものがココに始まったのであるから、新たな大衆文化が創造されていく発端ともなっていく。
そこで、コノ場所に「世界一の電波搭」が建つといことは、歴史的にも意義深いことなのだ。

さて、日本で本格的な塔が建てられるようなるのは、仏教がこの国に伝来してきた6世紀末、奈良盆地の南に建立された飛鳥寺の五重塔が最初とされる。
やがて奈良時代に聖武天皇が「国分寺」なるものを創建され、塔はいよいよ全国に展開する。
東北から四国・九州まで60数ヵ国に「七重塔」が建てられ、ソンナモノは見たことも無かった当時の人びとに、「国」という新しい制度と新時代の到来を強く印象づけるものでもあった。
中でも法隆寺の「五重塔」は、日本の歴史的建造物でもっとも有名なもので「世界遺産」ともなっている。
ところで考古学者である梅原猛氏の「隠された十字架」(1976年)は、法隆寺がナゼ建てられたかを「斬新な」発想で読み解いたもので、衝撃的な内容であった。
梅原氏によれば、法隆寺は「仏法鎮護」のためナンカではなく、聖徳太子の怨霊を「鎮魂する」目的で建てられたと主張するのである。
その「大胆な仮説」は、数々の古典や史料、論考などを論拠として提示されたものであった。
ところで梅原猛は「タタリの条件」として、次のようなものをあげている。
個人で神々に祀られるのは、一般に政治的敗者が多い。且つそのとき、彼らは無罪にして殺害されたものである。
罪無くして殺害された者が、病気や天災・飢饉によって時の支配者を苦しめる。
時の権力者はその祟りを鎮め自己の政権を安泰にする為に、祟りの霊を手厚く葬る。
それとともに、祟りの神の徳を褒め讃え、貴い「おくり名」をその霊に追贈する。
といった公式を与え、梅原氏は「聖徳太子」がこの条件を満たしているとして、その上で法隆寺の「建造目的」が聖徳太子の「怨霊鎮魂」の為であるとする可能性について論を展開していくのである。
そして「隠された十字架」が衝撃的だったのは、常識や通念に捉われない大胆な仮説を詳細な資料による長大な論証・考察ばかりではなく、その論考のプロセズが、あたかもサスペンスを読み解くかのようなものであったからである。
「隠された十字架」は、1972年に毎日出版文化賞を受賞している。
ただ、謎の多い法隆寺における「建造目的」についての論は今日においても様々な議論が交わされており、完全な論証はそれを確実に裏付ける文献が発見されない限り、「推測」の域に留まるというのが目下の現状である。

近代の幕開けに最もふさわしいモニュメントがパリのエッフェル塔である。
パリのエッフェル塔は、「フランス革命百年」を記念して1889年5月に開催された「パリ万国博覧会」のモニュメントとして建てられたものである。
「パリ万国博覧会」は産業革命の成果を「先取り」してみせるような大博覧会であった。
それは、ちょうど高品質の鉄材が大量生産が可能になったばかりの時期で、橋や建造物などに廉くフンダンに使えるようになったことの、同時代へのプレゼンテーションともなったのである。
そして、初めて登場したエレベータが人びとを一挙に高さ276メートルという展望台へ運び上げ、マルデ鳥になったような視野が現実となったものだから、大人気となったのはいうまでもない。
やがて広いフランス全土をカバーする通信施設やラジオ局もおかれ、さらにテレビ「電波の発信」も行なわれるようなるのだから、エッフェル塔は次の時代を指し示す「未来装置」であり続けたのである。
ところでパリのエッフェル塔にならったのか、明治期我が国に最新の珍しい文物を展示して見せる西洋式の博覧会がさかんに流行する中で、そんな時代のランドマークとして東京の「浅草十二階」や、あるいは大阪ミナミの初代の「通天閣」が登場している。
「凌雲閣」は、写真家で東京市議会議員であった江崎礼二の発案で、東京における高層建築物の「先駆け」として建築され、藤岡市助による日本初の電動式エレベーターが設置されたことでも知られる。
完成当時は12階建ての建築物は珍しくモダンで、歓楽街・浅草の顔でもあった。
建物の中は、8階までは世界各国の物販店で、それより上層階は展望室であった。
展望室からは東京界隈はもとより、関八州の山々まで見渡すことができた。
1890年の開業時には多数の人々で賑わったが、明治末期には客足が減り、経営難に陥った。
1911年6月1日に階下に「十二階演芸場」ができ、1914年にはエレベーターが再設されて一時的に来客数が増えたものの、その後も経営難に苦しんだ。
なお設計者のウィリアム・K・バルトンは設計時はエレベーターの施工は考慮しておらず、設計時の構造強度ではエレベーターの施工は危険であると猛烈に反対したと言う。
関東大震災時の際に数多くの死傷者を出した「崩落」はバルトンの指摘通り、起こるべくして起こった「悲劇」と言える。
また、日本でアンテナ建設を実現したのが、当時早稲田大学教授であった内藤多仲という「建築構造」のパイオニアであった。
以降札幌から鹿児島まで全国29ヵ所に、彼の設計した「ラジオ電波塔」が建ち、さらに彼の卓越した「構造力学」の手法は、後に東京タワーを実現させることになるのである。

ところで、スカイツリータワーの建つ立地の歴史的「意味合い」を考えた時、東京・池袋の巣鴨刑務所の跡地に、当時日本で一番高い「サンシャイン60」というビルが建設されたということの歴史的「意味合い」にツイテ思いおこしたことがある。
果たして、新たな建造物が「過去の亡霊」を封じ込めるかドウカはしらないが、日本一の高さ「サンシャイン60」が少なくとも過去の記憶を「打ち消して」新生を願って建てられたものではなかったろうか、と推測するのである。
現在、池袋サンシャインシティの高層ビルの真下の小さな公園が、戦後A級戦犯が処刑された「刑場跡地」である。
そのことは「永久平和を願って」という石碑がカロウジテ示している。
ただ説明書きなどは一切なく、ここで遊ぶ人々はそのことに気づくひとは少ないが、今でも毎日のように花がたむけてあるのは、人々の記憶までもが消えたわけでないことを物語っている。
東京裁判の判決は内外に様々な反応を巻き起こしたが、敗者の側にたつ日本国民の「負けたからには」というアキラメの気持ちがハタライタとしても、法廷において裁く判事団の中にコノ判決に「疑義」を表明するものがイタのである。
インド代表・パル判事は「勝者が今日与えた犯罪の定義に従って裁判を行うことは、文明を抹殺することであり、正義の観念とは全然合致しない」と、「付加遡及」の原則の観点をも踏まえて、裁判の「無効性」と被告全員の無罪を主張したのである。
しかし、この裁判において指定ざれた「A級戦犯」というものの存在は、「内実」についてよく知られないまでも、特にアジア諸国の国民に強く「刻印」サレテいることは、逃れようもない事実である。
ところで、カツテの西部王国を築いた総師・堤康次郎は、「皇族」の一等地を買いその高いステイタスをもつ土地にプリンスホテルをたてていった。
赤坂プリンスホテルや品川プリンスホテルがなどがソレであるが、そうした観点からみると、サンシャインプリンスホテルの立地は、何しろ「刑場跡地」であるからトンデモナイところにあるといわざるをえない。
この事実をドウ解釈すべきであろうか。
西武グループがコノ土地を購入した経緯については知る者ではないが、高層ビルシティの名前を「サンシャイン」と冠して、ある部分で「過去の記憶」を清算することのために、西武グループが「一役」カッタということではなかろうか。
ただアメリカの世論の中には天皇の処刑論さえでており、A級戦犯達は連合軍によりワザワザ息子である皇太子(現平成天皇)の誕生日にアワセテ、この地で戦犯十数名の刑が執行されたのである。
とするならばその巣鴨プリズンの刑場跡地は天皇・皇族にとって様々な意味で特別な場所であるにチガイナイのである。
実はコノ1978年秋、靖国神社に当時の宮司だった人物がソレマデ控えられていたA級戦犯を「合祀」に踏み切っており、そのことを国民が知ったのは翌年の新聞報道だった。
これはどうみても、A級戦犯を指定した東京裁判を否定する意味合いがあったとしか映らない。
ところで2005年/06年の、小泉首相の「靖国参公式参拝」については中国サイドで驚くほどの「非難」が湧き上がったことは記憶に新しい。
中国人の死生観は、日本人の死生観とは根本的に違っている。
日本では、人間は誰も死によって罪を逃れるが、中国は人間が亡くなっても罪は罪で、決して消えるようなことはナイ。
例えば、日中戦争で日本政府と組むことによって彼ナリニ和平を追求した汪兆銘は「売国奴」として、手を後ろでに縛られ頭を垂れる像が作られ、中国の観光客はソノ像を棒で突っついたり、ツバを吐きかけたりもする。
中国人の精神は、死後まで人を責めない日本人特有の「鎮魂」の精神風土とカナリ隔たりがあるようである。
中国人は人が亡くなると魂になると考える。
したがって、靖国神社には「好戦の魂」が漂っていて、靖国神社に参拝すると、再びソノ「好戦の魂」が蘇って、日本人は再び戦争を起こすのではないかと考えるのである。
一方、日本人の祈りの方向性は「安らかにお眠り下さい」なのである。蘇って欲しくないのである。
鎮まってほしいからこそ、「英霊」として重きをおいてナダメルのである。
文化的基層の問題はトテツモナク深くて難しくなりすぎるが、日本の首相オヨビ閣僚は「日本人の遺族」への気持ちと、アジアの人々の「感情」の狭間の中で、靖国神社への「参拝」について決断しなければならない事態がズット続くことであろう。
ところでA級戦犯に指定されたものの中には、福岡県出身の首相広田弘毅もいる。
城山三郎の小説「落日燃ゆ」では、広田弘毅や「A級戦犯」という存在のイメージを一新した。
そういえば、福岡市内の大濠公園内にある広田弘毅の石像は、正面向かい側の護国神社をしっかりと見据えて立っている。
さて、この「護国神社」とは何か。
福岡県にも明治元年に福岡藩主の黒田長知が戊辰戦争に殉じた藩士を祀るために創建した招魂社をはじめ、県内の旧藩主等が創建した護国神社が複数存在した。
1943年4月、現在地の福岡城址横の練兵場跡に、県内の護国神社を統合して「福岡縣護國神社」に改称、内務大臣指定「護国神社」となった。
護国神社は、明治維新から大東亜戦争に至るまでの約13万柱の英霊を祀ったものである。
つまり「靖国神社」の地方支社のようなものである。
この護国神社前に広田像が建設されたのは1982年のことであるが、これは1978年のA級戦犯の靖国合祀、サンシャイン・シティの建設開始の「延長線上」にあるものではなかろうか。
いずれにせよ、スカイツリータワーの華やかなオープニングに、高層ビルやタワー(搭)の建設というものの歴史的意義と、人間の魂との結びつきについて、思わせられるところである。