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おばちゃん力

ドリーム・カム・トルーのヒット曲「大阪Lover」は、大阪の男を好きになった「女の子」の歌である。
「東京タワーだって、あなたと見る通天閣にはかなわへんよ」といったホノボノとした歌詞があるのだが、ソレガ「大阪のオバチャンとよばれたい」というクンダリまでくると、ちょいとヒイテしまう。
恋愛で舞い上がっている「女心」とはいえ、東京人が大阪で生活して「大阪のオバチャンとよばれてもカマヘン」というのならマダシモ、「大阪のオバチャンとヨバレタイ」とまでいうのだから、ヨホドの女将だとウケとった。
ここで「大阪差別」をするつもりはゼンゼンなく、「逆モ真ナリ」でBOROの歌のように「大阪で生まれた女やさかい、東京へはようついていかん」という気持ちも、ゴッツ~わかる。
つまり、東京から大阪、大阪から東京へ、「生粋の江戸っ子/生粋の大阪人」が、移り住むのは相当シンドイことではないのか、ということなのだ。
第一に言葉に適応するのが大変で、「アホちゃうか」「そんなアホな」「アホくさ!」「アホかいな」と連発されると、東京人は「バカ」と言われるよりムッとする。
しかし、大阪の「アホ」には、他人を罵倒したり軽蔑したりするほどの意味合いはないらしい。
しかしこれに慣れるのが大変で、第一に言葉が変わってしまっては「アイデンティテイ」を保持することはむずかしい。
この点については、「大阪弁訳聖書推進委員会」が大真面目に製作した「聖書」がよい材料を提供してくれる。
大阪弁の「感性」を体感していただくために、「マタイ福音書」の有名な箇所を抜粋・紹介すると次のとうりである。
// 「せやけどな、あんたらに言うけど、ものごっつう贅沢しとったソロモンでもや、この花一つほどにも着飾っとらんかったんやで。 今日、ここに生えてて、明日は釜に投げ込まれるかもしれへん花でも、神はんはこんなにベッピンさんにしてくれるんやさかい、あんたらにそれ以上、ようしてくれへんわけがないやろが。 ほんまに信心の薄いやっちゃな。せやさかい、何食うたらええんやとか、何飲もうか言うたり、ほいで何を着よかちゅうことなんか言うなや。 そんなんはみんな、外国人が、がめつう求めとるもんばっかりやないか。あんたらの天の神はんは、そんなもんは、みんなあんたらに言われんでも、何がいるっちゅうことぐらいは分かっとるんや。せやさいかい、まずは、神はんの国と神はんの義とを求めんかい。//
制作者は、聖書を身近なものとして読んでもらうために「リビング・バイブル」のような感覚で製作したものだが、コノ聖書をモトニして「信仰」の質を維持するのは困難ではなかろうか、と思う。
つまり、言葉はアイデンテティの奥深くを占拠してしまうものなのだ。
ところで大阪のオバチャンといえば、「大阪はオレオレ詐欺の被害、めっちゃ少ないんやで」と被害防止を呼びかけるCMでもお茶の間の話題をさらった。
さて仮に、「大阪のおばちゃん育成プログラム」みたいなものを製作するとしたら、その第一階梯は、大阪のオバチャンはヤッパ阪神ファンにならないといけない。
タマにはヒョウ皮ならぬ、トラのマークのついたTシャツ・短パン・紙袋でお出かけするぐらいは平気で出来なくてはならない。
また、お笑い芸人がネタにするほど「大阪のおばちゃんは」はインパクトがある存在なのだが、ソノ生態とは実際にはイカナルものなのだろうか。
ネットで調べてみると、声が大きい /押しが強い/絶対値切る/派手好き/人の話を聞かないで、自分の話ばかりする/ひょう柄の洋服/無料のものはすべてもらう/よく笑う/つっこみが上手く、芸人より面白い/仕切り屋で行動力がすごい/
ナドという特徴があるそうだ。
ソレデ具体的に「大阪のオバチャン」の生活の場面を想像してみると、顔にパックをしたまま買い物袋を提げたり、上下の服をヒョウ柄で統一したり、パンチパーマでヘアを固めたりしている。
買い物をすれば、取りあえず「兄ちゃん、今日は1000円にしとこ、な?」などど勝手に「値段設定」をして強引に値切ってしまう。
値切った後には、「このネギ、値切ってもうたワ」などどギャグをとばし、ドハデに笑う。
道に迷う人あらば「どうしはったん?」と声をかけ、知らぬ道でもカマワズ教える。
「道はどこかで繋がっているから、カマヘンのや」と隣のおばちゃんに説明する。
そしてタダでもらえるのなら、朝・昼・晩の三回足を運んで、「最低でも三つ、できたら九つは手に入れ~や」と身内を「総動員」してケシカケル。
一方、「アメ、いっこどない?」といって飴玉を配り、「アメ玉一つ」で人間を釣りあげるホド「人心収攬術」にタケている。
また、友人とのゴクありきたりの会話に「ウソッ!ホンマカ!」を連発して、サービス精神あふれるオーバーアクションで答える、などなどである

我が博多にも地域限定のオバチャンがいる。
かつての博多といえば、那珂川と石堂川(三笠川)に囲まれた地域のことを指していた。
そこでは商家を切り盛りする女性のことを「ごりょんさん」と呼び慣わしてきた。
いうならば「HKG48」(博多ゴリョン48歳)なのだ。
一年を通じて、博多の男たちは、町内のため、「流(ながれ)」のためと、家を留守にすることが多くなった。
しかし、けっして出しゃばらず、気持ちよく男たちを寄り合いに出し、その間、家業や家庭をしっかりと守る、陰のマネージャー、それこそが「ごりょんさん」なのだ。
この伝統は21世紀を迎えた現代でも変わらず博多の街に息づいている。
この「ごりょんさん」達が今に伝えてきた「オバチャン力」は「大阪のオバチャン」に負けない。
大正時代は見合いが主流で、現在のような恋愛結婚は、まだ珍しいこととされていた。
縁談は博多の場合は、慎重なうえにも迅速で確実に話を進めるのが良しとされた。
仲人さんがテキパキと両家を往来し、話をまとめていった。
博多独特の「済み酒」という習俗は、何よりそれを示している。
これは結納ではないが、娘さんが縁談を承諾すると、仲人さんがすぐにお酒「一升と鯛一尾」を届けたのである。
これで、「婚儀」がカタマッタことを意味するものであった。
縁起を担いで、一生一代と言い、娘はこの鯛を素早く料理して仲人さんに出し、博多に嫁ぐ覚悟を示したという。
これで、母に造ってもらった「嫁御風呂敷」を手に娘さんは「博多のひと」になったのである。
披露宴は大きな料亭で行われることも多かったが、そこで面白いのは、親類縁者の女性たちだけで、「子をとろ、子とろ」という遊びをすることで、お嫁さんを子にしてみなで取り合う「鬼ごっこ」で、親類の女性たちがお嫁さんを知り親しくなる機会となった。
商いは人と人の関係から成り立っているのだから、花嫁は、博多独特の習慣を身につけ、「対人感覚」を磨かなくては「ごりょんさん」にはなれなかった。
人づき合いの基本を姑に学び、実際に経験を積んでいったのである。
博多で「お化粧するより衿垢落とせ」という心得は、このことをよく示している。
また、客にしても、上客と普段の客の違いがあり、招き入れる座敷も接待の仕方も異なるものであった。
大店(おおだな)ともなると、奥座敷、中座敷、座敷と三つの応接間があり、そこの調度品についても詳しい知識が必要とされ、それも覚えていかなければならなかった。
博多は親戚よりも隣近所のつき合いの方が頻繁で、何かにつけてお祝いなどの贈答が盛んな場所柄であった。そのための重箱の管理や袱紗(ふくさ)の選び方など細かい気遣いが必要とされたのである。
つまり「ごりょんさん」は仕事と家庭の両方を切り盛りすることが求められ、そのような毎日から、無駄を省き、確実に家事をこなす智恵が生み出され、博多の町々で共有されてきたのである。
後世に伝えるために「ことわざ」のようになったものもある。
その一つに、「朝櫛使うより夕櫛使え」というのがあって一日の始まりのときに自分の時間を惜しんで仕事の準備と家庭の仕事を、テキパキとこなすことを教えている。
ちょっとした何気ない行為がもたらす結果を知り、一年を見通したり、災難を避けたりするものだった。
たとえば、ぼんやりとしていて「急須(きゅうす)の口がない方を傾けて茶を注ごうとすると、来客がある」と言われるものなどは経験に裏打ちされた女性の「予知力」を示すものであると同時に、気をユルメルことなく次の行動に迅速に移れるよう準備しておくことを促すものであった。

土地の方言といえば、カツテ佐賀の「がばい」が話題になったことがある。
2007年の佐賀北高校の全国制覇も、「がばい旋風」とよばれたことが、「がばい」とは「とても」「非常に」と言う意味である。
戦後間もない広島で、原爆症で早く父親を亡くした島田洋七(漫才師)は、居酒屋で働く母親に育てられる。
しかし、夜の仕事をしながらの子育ては難しく、母親は洋七を佐賀の実家に預けることを決意する。
自分の家よりも、更に貧乏なバアチャンの家では、最初は泣いてばかりいた。
腰に巻いた紐の先を地面に垂らし、そこにつけた磁石で、歩きながらくず鉄を拾ったり、家の裏を流れる川の水面に張った棒に上流のスーパーから捨てられた食料品を引っかけて拾ったり、とその生活力のたくましさにはビックリ。
だが、このバアチャンが戦後の貧乏のドン底暮らしのなか、学校の便所掃除の仕事をしながら、7人の子どもを立派に育てたバアチャンである。
そして、バアチャンは貧乏だが、楽しく生きる「哲学」があった。
一方、洋七自身は中学野球で頭角を現し、広島の野球進学校に進学するために広島に戻っているため、そのガバイばあちゃんと過ごしたのは八年の間でしかなかった。
しかし、島田洋七の祖母の「逸話」を耳にしたビートたけしが、最初に「書籍化」を強く勧め、洋七がそれに応え執筆した。
1987年に「振り向けば哀しくもなく」という題名で自費出版した。
そして2001年に加筆・修正のうえ「佐賀のがばいばあちゃん」と改題し、2004年に徳間書店で再出版され、一気に話題となった。
この本は、ガバイばあちゃんの人々を勇気付ける「驚きの知恵」と「名言」にあふれている。
バアチャンは、洋七に「学校はどうだ?」とか「勉強はどうだ?」とか聞いたことはなく、でも、バアチャンひとつだけ口やかましく言っていたことがある。
それは「笑顔」で「笑顔できちんと挨拶しろ。貧乏人が一番やれることは、笑顔だ」 「笑っておけば、周りも楽しそうになる」と、バアチャンはドンナ時も笑顔で挨拶をする人であった。
小さくても一生懸命が何より大切なことを教えてくれた。
「花屋の花は肥料やったり、人の手が加わっているから大きくて当たり前 小さくても一生懸命、 自分の力で咲いているのが一番きれい」
「金、金と、言うんじゃなか。一億円あってて、金魚一匹つくれんばい」
さすが貧乏でも、明るくたくましく生きたバアチャンだった。
たとえば、小学2年生の洋七がお腹がすいて「さあ、うちもそろそろご飯かな」 と思っていると、バアチャンは、「さあ、寝よう」
「えっ、でも、ばあちゃん、ご飯は?」「晩ごはんはな、毎日食べるものと違う」 とキッパリ!
「だって、お腹がへったよ」「気のせい、気のせい、さあ、早く寝よう」
朝になると、ばあちゃんは仕事に行く支度をしている。
「ばあちゃん、朝ごはんは?おれ、ご飯たくから」「朝ごはん?昨日、食べたろ」 「?・・・・うん」
「さあ、はよう学校いけ。お昼には、給食、給食。給食を食べてがんばれ」
そして、バアチャンは、さっさと便所掃除の仕事にでかけていく。
モチロン米櫃には、一粒の米もない。しかし、洋七は「お腹はすいてたけれど、家の中は明るく、笑いが絶えなくて、不幸だなんて考えたことは一度もなかった」と語っている。
バアチャンは「いちばん食べたいものが、いちばん高級品」「うまいから高いんじゃない、品物が少ないから高いだけ」
コノ言葉、経済理論にカナッテいるし、安くてもウマイものはたくさんある。だいたい、空腹であればタイテイのものはおいしいものである。
それに、最近の科学研究によれば、空腹が長寿遺伝子を活性化して「長生き」を可能にしてくれるそうだ。
さて運動会で小学生の洋七は、教室でひとりバアチャンの作ってくれた梅干弁当を食べようとしていた。
が、担任の先生が「ちょっと腹壊してしまって、弁当変えてくれんか」と頼みに来るのであった。
取り替えた弁当は、これまで食べたことのないほどの豪華なオイシイ弁当だった。それは毎年続いた。
洋七は「うちの先生たち、おかしかばい。運動会になると腹ば壊しよるもん」と、そのことを家に帰って話すと、バアチャンは初めて涙を流して言った。
「先生たちは、お前に気をつかわせんようにしとるとよ。人に気づかれないのが本当の優しさ、本当の親切ぞ」。
佐賀のばあちゃんの家を去った洋七は、広島の野球名門、広陵高校に入学するが、ケガのため、挫折した。
甲子園への夢は、アエナク閉ざされ、その年、広陵高校は全国準優勝した。
高校を卒業し、八百屋に勤めるものの悶々とした生活を送る毎日に、ヒョンナことから知り合った女の子と知り合い、 駆け落ちをすることにし、この女の子が、後の律子婦人であった。
おばあちゃんは「結婚は、ふたりでひとつのトランクを引いていくようなもの。ひとりじゃ重くて運ばれん」とサトシている。
洋七は、中学では野球部のキャプテンになり、しかも、番長でヤタラと目立つ存在となった。
そのせいか、人に陰口を言われたり、意味もなく嫌われることがあったそうだ。
「何もしてないのに、どうして悪く言う奴がいるんだろう」それを聞いてばあちゃんは笑顔で言った。
「二、三人に嫌われても、反対を向けば一億人いる。お前が好きな人がおっても、その人も誰かに嫌われている。お前もいい人やと言われても、お前を嫌いな人もいっぱいる。世の中、それで成り立ってる」と。
洋七自身ノチに「このばあちゃんの言葉にどれだけ救われたことか」と語っている。
今の豊かな時代からは想像付かない程の貧乏生活ではあるが、そんな中で培われたばあちゃんの知恵はほとんど「息を呑む」といってイイ。
「貧乏も悪くない」と根本から考えを変えられる。
そして、現代人がカカエル「悩みの解決策」がこの「ガバイばあちゃん」にはたくさんツマッテいる。
たとえば小学生の洋七が、見るも悲惨な通知表をバアチャンに申し訳なさそうに差し出した場面の会話が、もっとも印象的であった。
「ばあちゃん、1と2ばっかりでごめんね」
「大丈夫、大丈夫。足したら、5になる」
「えっ!通知表って足してもいいの?」
「人生は、総合力!」
そして、「死ぬまで夢を持て! 叶わなくても、しょせん夢だから」と。