「オリンピア」

「オリンピア」とは、オリンピック発祥のギリシアの地名のことではない。
オリンピックおよびソノ開催に付随しておこる様々な「問題」を含んでの「オリンピック一色」化現象と解して頂きたい。
ところで唱歌「春の小川」は大正元年に生まれて、今年100年にあたり、現在も小学3年生で習うようだ。
作詞の高野辰之氏は、渋谷の代々木に暮らし、渋谷川の支川・河骨川の景色を詠みんだ。
しかし今や、渋谷駅から上流は蓋をされて暗渠となり、下流では開渠ではあるものの、深く掘りこまれたコンクリートの三面張り水路となっている。
明治末から大正にかけて渋谷では大水害が続いた。
このため、河川改修への住民の強い要望が寄せられ、昭和初期に河川改修事業が実施されてこのような姿になった。
大きな治水効果を発揮したものの、同時に住民を川から遠ざけることにもなった。
「暗渠化」は1964年開催の東京オリンピックが契機となった。
東京オリンピックに際しては都内14河川の全部または一部の暗渠化が決定され、その後、急ピッチで工事が進められた。
すなわちオリンピックを開催するために江戸から連綿と続く風土・景観が切り捨てられたのである。
川に蓋をしたのは何も日本だけではなく、経済活動優先の20世紀の象徴が「都市河川の地下化」といってよい。
「臭いものに蓋」をして都市整備を進めた結果、それが現在の乾ききった東京、ヒートアイランド現象に苦しむ東京に繋がっている。

ロンドン五輪の「日程」が大問題なのは、今大会に参加するイスラム教徒約3千5百人である。
イスラム教徒は、ラマダン(断食月)に入るからである。
ラマダンに入ると、イスラム教徒は日の出から日没まで飲食が禁じられる。その代わり、夜明けまで食事を続けてかまわない。
イスラム暦は「うるう月」のない太陰暦のため、ラマダンは毎年11日ずつ早まり、今年は7月20日から8月18日となり、大会期間がマルマル含まれる。
ロンドンの選手村の食堂では、ラマダンに合わせて深夜でも食事がとれるよう対応しているという。
しかしイスラム教徒にとってサラニ大きな問題は女性アスリートの参加である。
今回「女性の参加」が認められた国はカタール・ブルネイ・そしてサウジアラビアである。
特にサウジアラビアでは、「女性の参加」は国をアゲテの大議論となった。
イスラム教右派から強い反対があるが、サウジ政府は「女性の権利拡大」の姿勢を国際社会にアピールする必要に迫られていた背景もあるようだ。
とはいえ、女性選手は帰国後は「罪」に問われるのホドの覚悟をもってオリンピックに出場しなければならない。
何しろイスラム圏ではソノ教義により、女性は体のラインが出る服装を禁じられ、頭や顔をスッポリ覆う布やスカーフの着用を義務づけられている。
そのスタイルが競技によっては「服装規定」に触れるトカで、参加できる競技サエも限られている。
イスラム教徒の女性とはいえ「着こんで」プールに入ることはどうだろうか。
まず「記録」の期待はできないことは確かである。
以前、パリ郊外に住むイスラム教徒の女性が、体の線などを隠すようデザインされた同教徒用の女性水着「ブルキニ」を着て地元の公営プールで泳ごうとしたところ、断られた。
プール側は、「衛生上」着込んだ格好で泳ぐのはダメと説明している。しかし、女性はイスラム教徒への差別だと反発し、裁判にまで持ち込まれる事態となっている。
ちなみに「ブルキニ」は、イスラム教徒の女性が顔までスッポリと覆って着用する「ブルカ」とビキニを合わせた造語なで、オーストラリア在住のレバノン人が2007年に発案したという。
この「ブルキニ」問題には、いくつかの「伏線」がある。
「政教分離」を徹底するフランスでは、2004年に公立学校でのイスラム教の「スカーフ着用」が禁止された。
さらに「公共の場」でのブルカなどの「着用禁止」を求める声も強まり、国会に「調査委員会」が発足したという経緯がある。
スカーフといえば、インドネシアのイスラム・ファッションの勢いを象徴するのが、このスカーフである。
おしゃれと便利さを追求して進化し、流行商品が毎年のように変わるのは西欧世界と変らない。
昨年最大のヒット商品は、数千万枚も売れた「ニンジャ」は、スカーフの下に着け、頭から首までぴったりと覆う「頭の下着」で、一昨年まで大流行した、頭だけを覆う帽子型からさらに進化したという。
イスラム教の聖典コーランにある「外に表れるものの他は、彼女らの美や飾りを目立たせてはならない」「ベールをその胸の上に垂れなさい」「彼女らに長衣をまとうよう告げよ」という章句に基づく。
イスラムの世界では女性は異性と同席することも許されないし、車の運転も禁止されているという。
サウジアラビアでは、国内では女性の「体育教育」さえ禁じている。
出勤や通学の準備で忙しい朝、「ニンジャ」をさっと付けて髪を隠してしまえば、上から好きなスカーフを短時間でカブルことができる。
絶壁頭のカタチを整えたり、小顔に見せたりする工夫がこらされた「ニンジャ」もある。
イスラムのファッションと日本の「忍者」とが結びつくのは奇妙だが、911テロを「カミカゼ」と結びつけるよりハルカに許せる。
ともあれ、新しい文化は厳しい「規制」や「制約」のなかでコソ生まれるものだ。
新発想でアレンジを加えた「イスラム風」が日本の湘南あたりで人気になる日が来るかもしれない。

古代オリンピックの始まりは紀元前8世紀にまでさかのぼる。
オリンピック発祥の地は、ギリシアのオリンピアであるが、ギリシアには本土および島嶼部があり、スケールの違いこそあれ「民族の祭典」であったことは今も昔も変らない。
オリンピアという地名の由来は、聖山オリンポスにあると言われている。
今では小さな街の松茂る丘のふもとは、かつてゼウス神に捧げられた古代世界で最も重要な聖域であった。
聖域の中には最古といわれるドーリス式の神殿があり、内部にはゼウスとヘラの像が安置されている。
つまり、古代オリンピック競技大会は他の祭りも伴う「ゼウスの神事」であったのだ。
伝説では、このゼウスこそ競技の創始者であり、ギリシアの競技大会は神々と英雄との戦いとも見られている。
大会は4年ごとに7月か8月それぞれの満月の時期に開催される習わしであった。
大会の前になると各方面に使者を派遣し、ポリス間のすべての争いを中断するよう「神聖な休戦」の始まりを告げた。
特に大きなポリスはオリンピアにテオロイと呼ばれる大使を派遣していたという。
ギリシアのポリスは分立していて小さな戦争が絶えなかった世界であり、4年ごとの盛夏に、選手や見物人の往来安全のために一切の戦争行為が停止されたところに、「民族の祭典」の姿が最もよくわかる。
競技は、競走、レスリング、パンクラチオン(格闘技)、5種競技(幅跳び、円盤投げ、槍投げ、競走、レスリングの総合)、 戦車競争、競馬などの運動競技の他に、芸術や文芸のコンテストも行われた。
「文芸コンテスト」などが行われるところから見ると、「健全な精神は健康な体に宿る」をジでいっていた時代だったようだ。
ローマ帝国に支配下でも競技大会は続くが、393年皇帝テオドシウス1世の勅令によって廃され、オリンピアの祭典は以後千年以上にわたって幕を閉じることになる。

オリンピックは、1896年にクーベルタン男爵の尽力により、「近代オリンピック」として装いも新たに復活した。
現在のオリンピックにおける「聖火」は、オリンピアのヘラ神殿において「凹面鏡」を用いて太陽から「採火」され、オリンピック記念碑の前で「第一走者」へと渡される。
この記念碑の下には、オリンピックの復活に尽力したクーベルタン男爵の「心臓」が葬られているという。
近代オリンピックの第一回大会は、1896年にアテネで開催された。
2度の世界大戦を除いては4年毎に開催され、世界各国から選手が参加する。
そして2004年に108年ぶりにオリンピックがアテネへ戻ってきたことは、まだ我々の記憶に新しいところである。
近代オリンピックと古代オリンピックを比べると様々な相違がある。
古代ギリシアでは「全裸」で競技がおこなわれていたことがあったことは事実である。
前720年に、はじめて全裸で優勝した人物の「自賛の詩」というものが今に伝わっている。
優勝者は大変な名誉を得ながら、賞品はオリーブの冠だけだであり、今日の「アマチュアリズム」を思わせられるところである。
さらに古代オリンピックにおいて最大の特徴は、出場選手はスベテ男性あったことである。
体育は本来「よい戦士」をつくることと結びついていたので、オリンピック種目に、戦車競争、重装歩兵の姿での競争があったのもソレを物語っている。
近代の市民と違って古代市民は、国家の一員として軍事・政治に身をささげてこそ、完全な人間たりうるとみなされていた。
女性は体育競技の外の存在であったが、意外なことにスパルタでは女性にも「体育競技」があったという。
スパルタといえば「スパルタ教育」で有名だが、古典古代の国家の中でスパルタだけが義務教育を行った。
満7歳で母の手を離れてから30歳になるまで寄宿生活と兵営生活に入るものであり、「義務教育」といっても今日とちがってカナリ「本格的」なものだった。
幼年、少年の段階では年齢別の集団教育、また年齢を無視した群団による共同生活が行われ、その目標はもっぱら「優秀な戦士」をつくることにムケられていた。
文芸や知育は敵視され、教育総監という役人が、全市民が青少年の訓育に目をヒカラせていた。
20歳になると市民に列し、民会にも出られ、結婚もできたが、兵営での集団生活は30まで続いた。
だから新郎はこそこそと兵営を抜け出して新婦のもとにかよわなければならなかったのだ。
スパルタ式といえば、長老の面接をうけて立派に育つ見込みのない赤子を山に捨てたことで有名である。
また優秀な子供をつくるために妻を他人に貸したり、他人から借りたりすることさえ許されたという。
またヨソと違って、彼女らはよい子を生むために、娘時代に体育教育を受けたという。
15歳位になると親が決めた30歳位の男性と結婚させられた。
戦死することが多かったスパルタでは、兄弟で一人の女性を妻に迎えたと伝えられる。
家長が不在のことが多いから、スパルタの婦人はヨソの女よりも自由と評されていた。
妻は夫と昼間に顔を合わせることはほとんどなかったが、家庭の奥に籠もって一生を送ったアテナイの女性に比べれば自由であったのだ。
この古代スパルタは395年のゲルマン・西ゴート族長アラリックの攻撃により崩壊し、間もなくキリスト教都市として再建された。
元来のスパルタ人は優れた金属工芸技術とそれによってもたらされた大きな経済力を有していたが、「国民皆兵制度」の導入以降は徹底的に贅沢を排除して、貴金属の装飾品を身につけることさえ禁じた。
商業は2万人の半自由民であるペリオイコイに従事させたが、基本的には通商では抑制策を採り、鉄貨の使用しか認めていなかったので他の諸都市との貿易は振るわず、かつての技術力も衰退し、必需品が流通するばかりであった。
このようにスパルタは、ギリシアの他の地域とはカナリ違う制度を有していたようである。

我が地元福岡は、オリンピックの開催希望地として手を上げたことがあったが、市民の支持も不十分で実現はしなかった。
しかしオリンピッックとの関係で大きいのは、1964年東京オリンピックの大会組織委員長が北九州の安川電気の安川第五郎氏であったことである。
東京オリンピックで大会期間中に国立競技場で翻った五輪旗は、IOC会長から当時アジア初のオリンピックを大成功に導いた安川氏に記念として寄贈された。
安川氏は現在の福岡県立修猷館高校(旧制中学/M39卒)であり、この五輪旗は安川氏から修猷館高校寄贈された。
というわけで「五輪旗」は修猷館高校の体育館に飾られており、以前は同校の運動会の入場行進において使用されていた(現在はレプリカを使用)。
ところで、福岡市内にはカツテ東に志免炭鉱と西に姪の浜炭鉱という二つの炭鉱があった。
西区の愛宕山のフモトには姪の浜炭鉱が広がっていたが、今でも愛宕山中腹には炭鉱の「守り神」があり、姪の浜炭鉱の創業者・葉室豊吉の顕彰碑が立っている。
この葉室豊吉の孫にあたる葉室鉄男は、修猷館高校(旧制修猷館中学校)卒業後に日本大学予科に進学し、水泳選手としてオリンピックに出場している。
1936年のベルリンオリンピック200M平泳ぎで、ドイツのエルビン・ジータスとの接戦の末に金メダルを獲得した。
この決勝戦はアドルフ・ヒトラーも観戦しており、表彰式での「君が代演奏」では、ヒトラー自身も起立し、右手を前方に挙げるナチス式敬礼で「葉室の栄誉」を称えている。
葉室鉄男氏は、引退後に毎日新聞社に入社し運動部記者として、アメリカンフットボールの甲子園ボウル創設に携わるなど、第一線記者として活躍した。
1990年に国際水泳殿堂入りを果たしたが、2005年10月30日に近所のプールから帰宅後、腹痛を訴え病院へ搬送されるも症状は悪化し88歳にして亡くなった。
葉室の死によって、戦前の日本のオリンピック金メダリストは全員物故したこととなった。

冒頭でイスラム教徒の女性アスリートのファッションについて敷衍したが、日本でも女性が体育競技をすることソノモノについては、ある種の「偏見」や「差別」と戦わなければならない時代があった。
人見絹枝は、1928年初めて女子競技が認められたアムステルダムオリンピックに出場した。
女子800m走に出場した人見は、最後まで競り合った末に、見事「銀メダル」に輝いた。
オリンピックで初めて日本人女性がメダルを獲ったものの、日本では「冷たい視線」が待ち受けていた。
日本ではイマダ、女性が短いズボンを履いて素肌を出して、男の様に走るなど、モッテのホカというような風潮があった。
それでも人見は、未来の後輩達・女子陸上選手達を守ろうと頑張りぬいた。
ちなみに女優第一号の川上貞奴(さだやっこ)だが、1899年、川上音二郎一座のアメリカ興行に同行したが、サンフランシスコ公演で「女形」が死亡する事態が生じた。
興行主から女の役は女性がするべきで「女形」は認められないと拒否されたため、急遽代役を務めたのが、日本初の「女優誕生」となったのである。
その貞奴が「自分ができなければ、女性が俳役になる道は開けない」と語っていたが、人見も同じように「自分が成績を残さなければ、女性選手の道はない」といっていたという。
「ナデシコ」第一号である。
人見はその後も数々の大会に出場する傍ら、選手の育成や公演を行い、若い選手達を連れて海外遠征を行なうため懸命に働いた。
そして1931年、疲労がたまり体調を崩し、肺炎となりワズカ24歳でこの世を去った。
現在、高校野球で当たり前のように目にするプラカードを持っての入場や、吹奏楽演奏、勝利者チームの校歌斉唱などは、人見の「発案」によるものである。
甲子園の高校野球スタイルも「オリンピア」の裾野にマギレテいたということだ。