日本カワイイ

若い人を中心に「かわいい」と言葉を頻繁に聞くが、「びみょ~」と同様に、曖昧な言葉だ。
ギャル語の「カッワイイ~~」というのはナンラカの感情表現だが、内実が欠如しているようにも思える。
少し好意的に解釈すれば、誰もが傷つかない、便利な言葉であるということ。
しかしこの「かわいい」がイマヤ「Kawaii」として「国際語」ともなっていると聞くと、チャント日本から「Kawaii」を発信をしなければ、いけないようにも思う。
ノーベル平和賞をとったワンガリ・マータイ 女史が日本語の「もったいない」という言葉の奥行きを知り、それを「Mottainai」として、世界に紹介したことにナライたい。
欧州では、女性が「あのクルマ、かわいい」という形で、自動車「売れ筋」トレンドなっているホドに、実用とも結びついている。
一頃いわれた「ジャパン・クール」ばかりではなく、「日本カワイイ」、「東京カワイイ」は新たな重要コンセプトなのである。
ところで、日本語で「かわいい」は、英語で「Cute」と訳されることが多いが、あえていえば「Cherish」(「慈しむ」)という言葉のニュアンスを含んでいる。
それは「メインテナンス」よりも奥行きがあり、「Mottainai」にも通じる言葉といえよう。
つまり、「かわいい」というのは、単純な「子供っぽさ」を表す言葉ではなく、「いとしむ」心からくる心のやヒダやカゲまでも含むものではなかろうか。
となると、古典でならった「いみじ」とか「をかし」とかいった言葉を連想する。
最近の我が家族の「カワイイ」の使用例をあげると、DeNAの中畑新監督が、宮崎キャンプ中インフルエンザでベットで寝込まなければならなくなった時、ホテルのベランダに立って、キャンプ中の選手にゲキをとばしていた姿を見て、「カワイイ」と表現していた。
そういうヒタムキな姿もカワイゲなのだ。
あるいはマンションの下に住むオジサンが、自分が好きなバイクをアキズに磨き上げているの姿を見て、「カワイイ」と表現していた。
こういう使用例をみても、ちょうど「Mottainai」という言葉と同じように、[Cute]ではなかなか表現しツクせない中身の「かわいさ」が、国際語「Kawaii」にあるハズなのだ。
では、ソコのところを外国人にどう伝えればいいのだろうか。

古来、日本人は花鳥風月を友とし、季節の微妙な移ろいを感じとりながら、自然の美しい風物を「愛でる」感性に溢れていたといわれる。
確か、古典の時間に、爬虫類のたぐいを一生懸命に「愛でる」、意表をツクお姫さまが登場する作品があったのを思い出す。
「愛でる」文化というのは、世界の若者をひきつける日本のアニメの中に溢れてる。
おそらく「Kawaii」は、この日本アニメの普及から広まっていったものだろう。
日本人は何でも「小さく」しようとする傾向があるが、コレヲ土地や居住空間の「狭さ」に求めるのは少し違うように思う。
例えば、茶室をナゼわざわざ小さくするのか、ソコには何らかの「美意識」が横たわっているように思う。
つまり「小さく」まとまって、「愛でる」ような気持ちにさせるモノこそ「いとをかし」なのだ。
できることならば、ゆるされることならば、「手の上に」乗せるくらいにして、慈しみたいという思い。
これが「縮み志向」を生んだのではないだろうか。
実は「愛でる」ためには、「小さく」するのが一番なのだ。
小さくあることによって、「手塩にかけて」育ててみたい。つまり「食べてしまいたく」なるほど、カワイクなるということなのだ。
ところで、日本の礼儀作法の1つに「折形」というのがある。ソノママ広げておく状態を、「小さく」まとめておくと「愛でる」気持ちがおきる。
つまり、同じものでも特別な「マトメ方」を工夫すると、「めでたいもの」となって、大切にしようとする気持ちも起ころうというもの。
そのことが、単純な「所有」の感覚に「大切さ」を付加させるということかもしれない。
和の伝統に「折方」(おりかた)というものがある。
「折方」は、物を包む紙の「折り方」の作法なのである。
たかが「折りたたみ」の技と軽くみてはならない。
「つづら折り」など、「折り方」にも特有の美意識があるし、後述するように「宇宙装備」にも応用されているのだ。
「面白系」としては、最近ネットで評判なのが千円札、五千円札、一万円札を「折り紙」する。
そして「お札の顔」つまり野口英雄や夏目漱石や福沢諭吉を上手に生かし、「ダイバー野口」、「ターバン夏目」、「ピエロ野口」などに折るというもので、樋口一葉が壁の隙間から覗き込むような姿をしている「家政婦のヒグチ」まである。
日本では「織り方」や「畳み方」など伝統的に様々なワザが工夫されてきた。
日本人が考えた「折りたたみ傘」というのにも、相当な工夫がなされていて、かわいく掌中におさまるようにしてある。
折りたたみの技は、世界のどこにもない「扇子」にもっともよく現われているし、ソレニ経典を書いて神社に納めた芸術品が「平家納経」である。

1980年代に李御寧(イー・オリョン)が書いた「縮み志向の日本人」は、当時としても読み応えがある本だった。
さらに、携帯・スマートフォン時代の今日、あらためて読んでも、目からウロコといえるような指摘がツマッテいる。
李御寧氏はソウル大学で国文学を修め、梨花大学と国際日本文化センターの客員教授を務め、さらに韓国最初の文化大臣を歴任した文化学者である。
李御寧氏は自ら俳句つくりにハマルほど、日本研究もスジガネ入りである。
李御寧氏は当初、日本の昔話に、一寸法師や桃太郎や牛若丸といった「小さな巨人」がよく出てくることに注目した。
韓国の昔話にはこういうタイプのヒーローはおらず、巨人チャンスウであり巨岩のような弥勒たちなのだ。
韓国語のワンはキングサイズという意味で、ワン・デポは特大の杯、ワン・ヌンは大きな眼、ワン・ボルはクマンバチをあらわす。
ソレに対して、日本語には「縮小」をあらわす言葉が多く、またとても大切にされている。
「ひな」「まめ」「小屋」「小豆」「豆単」などだ。
日本では何かをつくりあげることを「細工」というし、「小細工」という悪いニュアンスの言葉もある。
日韓を色々比較してみると、ごはん茶碗なども韓国のサバルにくらべて、ボリョと座布団も大きさがちがう。
こ さらに、李御寧氏は世界の説話を調べて「小人伝説」はどこの国にもあり、韓国にも二、三の昔話があることを知るのだが、しかしさらに日韓を比較していくと、やっぱり日本には「縮小」をめぐる美意識や「リトルサイズ」へのイレコミ様は特別なものだという。
これが現代日本の「トランジスタ」の開発や「ウォークマン」の商品化にもツナガルものであろう。
日本人は「折り畳み傘」やカップヌードルのような、世界中の誰もが考えなかった「縮み商品」も発案してしまう。
中国や韓国の小説にくらべて、日本の小説に「短編」が多いし、さらに短い「掌篇小説」なんてものもある。
中国は古来、「三国志」や「西遊記」や「水滸伝」などの長大な大河小説こそがモてはやされた。
当然に、日本の「縮小志向」の代表的な例として、「俳句」にあらわれていることに気がつく。
俳句はたった17文字で、世界で最も短い文芸型であるし、そこに世界観や心情をツメこむのである。
日本には「極小主義」があり、ミニアチュアこそが、愛でたいものなのだ。
。 石川啄木の「東海の小島の磯の白砂にわれ泣きぬれて蟹とたはむる」という歌だ。
広大な東海の荒波から蟹のような小さなものに視線が急激にズームインされている。
その効果を支えているのは、31音24文字の短歌のなかに「の」がたくさんつかわれていることによる。4つの名詞が「の」だけで連結されている。
「の」を込め、「の」による「入籠」(いれこ)のイメージをつくっている。
それが「の」によってつながっていくのは、「箱の箱の箱の‥」という「入籠の感覚」なのだろう。
日本人は、扇子だけではなく、ハンガーに吊るさず、着物もたたむし、洋服でさえタタンデ使用していた時代があった。
シカモ「扇子」は儀礼にもつかうし、日本舞踊にもつかう。
扇子は、落語では箸になったり櫂になったりする。扇はナンニデモ「見立て」られるのだ。
何にでもなるといえば、「能面」がある。
「能面」は無表情というよりも「中間表情」であり、役者の演技によりドノヨウにも見えるし、時として「劇的」な表情サエ見せるの。
ドナルド・キーンは、源氏物語ばかりではなく、そういう「能の世界」に日本の美の「極致」を見出している。
また、農民が野良仕事をしていたころからずっと、行器(ほかい)、曲げわっぱ、破籠(わりご)、提げ重、重箱などの弁当型の「マトメ」方を工夫してきた。
ポータブルな持ち運び自在の「弁当」が発達しただけではなく、そこに何をドノヨウニ「詰める」かという工夫がなされた。
小さな間仕切りをして、折り詰めの「幕の内」弁当を創案している。
日本では布団や着物など小さくマトメテ収納でいるように工夫がなされ、風呂敷のようにシンプルで便利なものは、世界中にアリソウでなかなか存在しないものだ。
アリソウデないもおといえば、日本の「お線香」がある。
「お線香」作り一つの中にも、日本人のモノツクリの「感性」の「細やかさ」を見出すことができる。
そして、手ヅクリであることも「かわいさ」の一因ではなかろうか。
線香は基本的には「木の皮」だが、なかでも粘りや質感が重要で、機械に通すと繊維がつぶれてまう。
その繊維がほどよく火をつきやするが、粘りが強いとつきにくい。また逆に繊維が目立ち過ぎると燃えてまうという。
香は新芽や若葉でネバリの原料を作るが、その原料は漢方薬と同じくイロイロな原料を調合するが、普段は香りを出さずに、火を焼べると香りが出るものを選ぶの難しい。
時代にあわせて商品に工夫が必要だが、今は「けむりの少ない線香」が売れている。
機械では絶対にできず、人間の感覚でしかできない。
ところで、線香の長さは、坊さんが「お経を唱える時間」なのだそうで、その線香を短くしたのが「お香」である。
最近では、ハーブやラベンダーといろんな香りがあるが、香の伝統をフマエ、匂いの世界にも「日本kawaii」が浮上している。
「Kawaii」はヨーロッパばかりではなく、アジアやロシアでも通じる「国際語」となっている。
小さな世界に独自の価値観を詰め込んで「いとおしむ」文化が理解され、単なる「幼稚」と区別されている。
日本のギャル系雑誌「SCawaii!」のタイ国版は、タイの女の子のファッションバイブルとされている。
主婦の友社がタイの企業にライセンスを提供して昨年8月に創刊した。
タイの若者にとって、欧米系の雑誌をお手本にしても似合わない。
タイ人は若く見られたがるし、その点、日本のギャルファッションの方は取り入れやすいのだという。
読者の多くは、渋谷で買い物をスルのが夢で、渋谷のファッションビル109や日本ブランドやモデルの名前をよく知っている。
その読者モデルは、Kawaiiの体現者ともいえるが、ソノ一人である国立大3年の女学生は、「欧米のファッションは強いイメージだけど、日本のはソフト」と語っている。
この読者モデルは、Kawaiiという言葉は“キュート”と違ってもっとエモーショナルで、アメリカにはナイモノだと語っている。
テロやマネーゲームが当たり前の現代に、本能的に優しくハッピーな「Kawaii」を求めているのかもしれない。

先述の李御寧氏は、日本文化の中の「折る」「畳む」「包む」などに注目した。
「折る」伝統は、さらに現代の最先端のテクノロジーの中にも生かされている。
和の伝統でもある「折り紙」に対しては、様々な数学的研究が行われてきた。
古くから関心をもたれる分野は、作品を傷めることなく折紙作品を平らに折り畳むことができるかどうかと、紙を折ることで数学の方程式を解くことができるかどうかなどである。
折紙に関わる数学的探求活動を折り紙による作品づくりと区別するため、芳賀和夫は1994年の第2回折り紙の科学国際会議において世界共通語である折り紙 (Origami) に学術・技術を表す語尾 (-isc) を合わせて「オリガミクス」という名称を提唱し一時注目された。
中でも「剛体折り紙」という分野で、「たたむ」伝統と最先端技術を合わせたものの中に「ミウラ折り」というものがある。
「ミウラ折り」とは、1970年に東京大学宇宙航空研究所の三浦公亮(現東大名誉教授)が考案した折り畳み方である。
人工衛星の大きなソーラー・パネル配列を効果的に折り畳み、展開するなどといった応用がなされている。
さらに今、「地図」の畳み方などにも使われているという。
きわめて緩い角度のジグザグの折り目を付けることにより、縦方向へと横方向への展開・折り畳みが、並列にかつ極めて非線形な比で移り変わることが「核心」である。
要するに、紙の対角線の部分を押したり引いたりするだけで即座に簡単に展開・収納ができるものである。
こういものは、アルミ缶のツブシ方などにも応用がきき、ダンロップのスタッドレスタイヤの「ミウラ折りタイプ」というものもある。
また、地図では、利用者により、折り畳まずに市販されている「地図の折りたたみ方法」として工夫されている他、最初からミウラ折りにし、広げたり畳んだりが容易なように工夫された地図が市販されている。
人間生きていくために木を伐るが、一方では木を植えたり、あるいは愛でるということもする。
特に、日本では花木を中心に木に親しむという文化が息づいている。
それは盆栽なんかに現われているが、「盆栽」にハマッタ人の話では、日がなナガメたりイジクッタリたりで、時を忘れてしまうのだそうだ。
老若の相違はあっても、最近の「イジくる対象」は、携帯やスマートフォンが格好の対象となっている。
ストラップに凝ったり、「カワイサ余って」の凝り様は、世界のどこにもない「和」の伝統の上にあるのカモしれない。
それは、携帯を作る側の「小さなモノ」に何もかも詰め込もうとする「幕の内」弁当的発想ナノか。
ハタマタ「平家納経」的凝り性によるものナノか。
ともあれ、電車やバスの中で携帯をイジクル人々の姿を見て思うことは、携帯の多くの機能は「使用する」ために存在するのではなく、「愛でる」ために存在するのではなかろうか。
あんまり、メデたくはありませんが。