カタチの記憶

世の中には、マズは「カタチから」とか「カタチを整えよ」という言葉があるが、インドのシュリニヴァーサ・ラマヌジャン(1887-1920)ほど、コノ言葉にピッタリの人物はいない。
ラマヌジャンは、南インドのクンバコナムで貧しいバラモンの家に生まれ、現代数学の薫陶をほとんど受けずに、いろいろな「数学上の公式」をヒネリ出している。
彼の業績の姿に心打たれたイギリス・ケンブリッジ大学の教授・ハーディは、1914年ラマヌジャンをインドから招聘する。
そして驚いたことに、数学者であるはずのラマヌジャンは、「証明」という「基本的な概念」が全然理解できていなかった。
後にラマヌジャンの公式に「証明」を与える仕事を、別の優秀な数学者が挑み、ラマヌジャンの発見した公式は、20世紀末まで「証明」が与えられたのである。
ラマヌジャンは「智恵の女神」の恩恵で着想したと語っているそうだが、数学の公式が直接「カタチ」として現われてくるのだという。
となると、彼を果たして「数学者」と呼べるだろうか、という気がしなくもない。
昨年、若い日本人で「化学式」暗記のチャンピオンが、漢字検定で「一級」に合格したといニュースを見たことがある。
スゴイと思ったが、タブンこの若者にとって「漢字」も「化学式」も、パターン認識の一つとして、脳の「作用」としては同じような働きで「記憶」しているのではなかろうかと思う。

プラトンの「イデア論的」にいえば、人間にアラカジメ「円のイデア」や「正義のイデア」がなければ、 円も三角形も愛も正義も存在しないということになる。
そういえば、コノ世の中には「感謝」という「言葉」が存在しない、トアル少数民族もいたという話を聞いたことがある。
しかし、「イデア」などという「形而上」にマデいかずとも、人間の「心理」と「認知」を結びつける「ゲシュタルト心理学」という分野がある。
「ゲシュタルト」とは、形態・姿などの意味で、人間の知覚は「個別的な要素」によるものではなく、「全体的な枠組み」(=ゲシュタルト)によって大きく規定されると考えた。
例えば、ある文字を見た時、線の数や払いの位置などを一つ一つ追わなくても、パット見でその文字を読み取ることができる。
さらに、文字が傾いたり、フォントが変わったり、場合によっては線が一本少なかったりしても、その部分に気が向くことなく同じように文字を読み取ることができる。
これは、「部分の違い」よりも「全体的な枠組み」が優先された結果である。
一方、誰しもが体験する「ゲシュタルト崩壊」というものもあるらしい。
文字や図形などをチラット見たとき、それが何の文字であるか、何の図形であるか一瞬で判断できるのに、「持続的」に注視し続けることで全体的な形態の印象、つまり認知が「低下」してしまうことをサシている。
例えば、文字の認知力の低下は段階的に、ハジメは「あれ、この字ってこんな形だったっけ?」と疑念が生まれ始め、ヤガテ正確な字がわからなくなり、サラニは線や点などの部分部分しか認識できなくなり、文字としての理解がデキナクなる。
つまり「ゲシュタルト崩壊」とは、「全体的な枠組み」が崩壊し、「部分」に認知の対象が向かっている状態のことである。
「ゲシュタルト崩壊」を起こしやすい文字は、「傷」・「借」・「多」・「野」・「今」・「粉」・「若」・「を」・「丈」・「ル」等であるらしい。
これらの文字を注視したり、何度も書き続けたりすることでこの現象が起こることが報告されている。
この現象は文字や「幾何学形態」において起こることが知られているが、「聴覚」や「皮膚感覚」においても発生しうる。
大戦中 ナチスがユダヤ人に行なった実験に人格をコントロールするという名目で一日数回 被験者を鏡の前に立たせて、「お前は誰だ」とか言わせ鏡の向こうの自分に話し掛けさせ、精神の変化を「観察記録」していったそうだ。
実験開始後10日間経過したころには「異変」がみられ始めた。
3ヶ月経った頃にはスッカリ「自我崩壊」し「自分が誰だか分からなく」なって狂ってしまったという。
これは、人間が他者との関わりの中でノミ「正常」でいられる存在であることを明らかにしているのかもしれない。
長く引き篭ったような生活をする人々が、「痛ましい」犯罪に到るケースがあるが、こうした「自我崩壊」と無関係ではないかもしれない。

長く「自分」にノミ話かけると、自分は誰だかワカラナクなるというのは、人間が抱く「死の不安」とも結びついているのかもしれない。
人間は骨になって土に埋まれば、自分らしい「痕跡」は消えてなくなる。
最近、テレビで「樹木葬」というのがハヤッテいると聞いた。森があって、若い木々の根の先にパイプをいれてそこに「遺骨」を入れるという方式である。
頑丈な墓石に名前を刻むのではなく、自分の命の「残滓」が木々の命となって生き延びるという感覚が残る。
そして木が育っていくことが、亡くなった人がソノ命をドコカで保っているようで、人の心に「安らぎ」を与えるものである。
また見ず知らずの人であっても、同じ木の下に眠ってしまえば、何人かが「一つの木」を育てることになる。
木を基に据えた「共同墓地方式」というのも悪くない。
自分の命が木というカタチを通じて、イロンナものと繋がってると感覚をも抱かせる。
「エコな生き方」とは、本来エコロジーに適うということだから、単に環境に優しいというダケではなく、様々な命と「繋がって」生きるということならば、この「樹木葬」は、本来の意味でエコロジカルな「埋葬法」ではなかろうか。
また人間の存在は、自分が生きた風景とドコカで結びついて「確かめられる」ものなのだろう。
だから、人間は「故郷」を懐かしむ。
その風景というものが、とてもユニークな位置をしめていると、それが自分の「核心」となったりする。
漫画で「俺の空」というのがあった。日本最大の財閥、安田グループの総帥を父に持つ主人公が、「旅に出て1年以内に自らの手で、グループ首脳も認める人生の伴侶を見つけなければならない」という一族の掟により、人生の伴侶を見つける旅に出て大人物になってゆく物語である(ソウダ)。
ものの見え方は、「心の風景」としてある。
高村光太郎夫人の智恵子の「あどけない話」は、風景が人間に与える「つながり」という意味で、強い印象を与える詩である。
「智恵子は東京に空が無いといふ。 ほんとの空が見たいといふ。
私は驚いて空を見る。
桜若葉の間に在るのは、 切っても切れない むかしなじみのきれいな空だ。
どんよりけむる地平のぼかしは うすもも色の朝のしめりだ。
智恵子は遠くを見ながら言ふ。
阿多多羅山(あたたらやま)の山の上に毎日出ている青い空が 智恵子のほんとうの空だといふ。
あどけない空の話である」。
このあどけない「空」が放射能に汚染されているのは、痛々しく思うが、空は表情というよりイロンナ形に「切り取られる」ので、そのカタチでみる「空」が「俺の空」ということになる。
高層ビル上に四角く切りトラレた空もあるし、甲子園のスタンドから見るように「丸く」切り取られた空もあるだろう。
自分の会社の窓から見えるスカイツリータワーの背景になる空もあろうし、川崎の中小企業群の窓から見る飛行機が飛び交う空もあるだろう。
空は普通、人間の頭の上にあるものだが、足元に「空」を見つける子供もいる。
ソノ子供はいつも「水溜り」を見ている子供で、水溜りに映る「空」こそが、その子にとっての空なのである。
この子の書く絵は、すべて「水溜まり」を示すマルイ「縁取り」があるという。
遠藤周作がフランスに戦後初の留学生として渡った時は、海がよく見える部屋ですと言われて船にのったら、丸く切り取られた「海面」しか見えなかったそうだ。
遠藤氏にとって、丸く縁取られた「海」は心の中に忘れがたく染み付いたものとなった。
空を足元に見つける人もいれば、空の方に木の根ッコを見つける人もいる。
作家の大江健三郎は四国の山林に育ったが、森の斜面に住んでいたせいか、木の根元が家の上にあった。
そして、自分達の生活がマルデその木の根っこから「命」をウケながら生きているように思えたという。
この風景は、作家的イマジネーションの源泉であったにちがいなく、大江氏は木を「メタファー」として多くの作品を書いている。
ところで、「古事記」に登場する話に、ワニの背を飛び飛びしながら海を渡る兎が登場する。
この話は確か「因幡の白ウサギ」といわれる話だが、日本海にウサギもワニも古代からいるはずもない。
しかし或る学生がボーット浜辺に佇んでいると、海にたくさん走っている「白いウサギ」を見つけてハットしたのだという。
しかしよくよく見ると、ソレハ遠くから押し寄せる白い「波頭」であった。
またワニの背を渡ってやってきたということだが、海中から時折顔を出す「岩肌」というのは、ナンカ「ワニの背中」に似ていないだろうか。
というわけで、「因幡の白うさぎ」を書いた人物も、自然の風景の中から見えた「カタチ」を実に素直に表現したのではないのか、と思った。

ドコカで見たカタチがあって気になって調べてみたらピタリという体験がある。
長崎にいってグラバー邸の横にあるリンガー邸の家の形がドコカで見た感じがした。
リンガー邸は、幕末の「死の商人」グラバー商会の「幹部」だったリンガー氏の自宅である。
リンガー氏は、グラバー商会が没落すると独立して、長崎市内に「リンガー商会」を設立した。
リンガー邸にシバラク佇んでて思い浮かべたのが、チャンポン屋さんの「リンガーハット」である。
リンガー邸は、チャンポンの店の「カタチ」と同じ形なのだ。
気になったので、リンガーハット本社広報部にメールで問いアワせたら、会社の創業者が長崎で繁盛した「リンガー商会」のような元気な会社になりたくて「リンガーハット」と名づけたのだそうだ。
辞書で調べると、英語の「ハット」は帽子のスペル(hat)とは少し違う、「屋敷」(hut)だった。
リンガーハットとは、なんと「リンガー邸」という意味だったのだ。
もうひとつ「似たカタチ」にハットして、調べてみたケースがある。
今から約400年前に、夢想権之助(むそうごんのすけ)により創始された「神道夢想流杖術」という武術がある。
「夢想権之助」は、宮本武蔵に戦いを挑み敗れたという体験を持つ人物の一人である。
敗れた後、福岡の霊峰・宝満山で武術を磨いて「夢想流」という流派を築き「一門」を開くまでになっていった。
それは剣術というよりも「杖術」であり、「杖」を駆使した「変幻自在」な戦法で、相手の「急所」をツく。
テレビでその「杖使い」を見てハットした。
どこかで見た「杖使い」。
かつてテレビでやっていた新人警察官の訓練で見た「棍棒使い」と実に「カタチ」が似ている。
夢想権之介は宮本武蔵と戦った際に120cmの長い木刀で挑んだのに対し、武蔵は短い「木切れ」で受けてたち、撃退された。
夢想権之介は数多くの剣客と仕合をし、一度も敗れたことはなかったが、宮本武蔵と仕合をし二天一流の極意「十字留」にかかり、押すことも引くこともできず敗れてしまう。
権之介は、この武蔵の「剣術」に目覚めさせられたのである。
以来、武者修行の為諸国を遍歴し、筑紫の霊峰・宝満山に祈願参籠し、「丸木をもって水月を知れ」との御神託を授かった。
権之助は御神託をもとにさらに工夫を重ね、ついに四尺二寸一分、径八分の樫の木で、「槍」、「薙刀」、「大刀」の3つを統合した「杖術」を編み出したという。
権之介は宝満山で修行し、その後「杖術」の使い手となる。
福岡藩に召抱えられて、術を広め「夢想流」という武術一派を確立した。
「傷つけず 人をこらして戒しむる教えは 杖のほかにやはある」
杖は、四尺二寸一分、直径八分の樫の円形である。
一見、杖そのものには、他の武術がもつ様に、それ自体の力強さは何一つとてない。
則ち、先もなけれな後もない、見るからに「平凡」であり、「平和」そのものでさえある。
武術として、最も非攻撃的であるかの様にみられるこの杖が、ひと度難局に面した時、その繰り出す技は千変万化なのだ。
伝書の中に「突けば槍 払えば薙刀 持たば太刀 杖はかくにも 外れざりけり」とあるが、「杖」は左右の技を連続的の使い、相手をして応戦に暇なしからしむ状態に陥し入れるのが特色である。
「神道夢想流杖術」は当初黒田家の「男業」の一つとして、主に足軽、士分の者、家老等の武士の家臣が学んだという。
そして、「黒田の杖」といわれ無頼の徒に恐れられたが、 幕末までは「杖を学んでいる者を数えるのに暇がない」ほど門弟も数多くいたが、明治維新の改変に伴う「廃藩置県」で、藩の庇護をはなれ急速に衰えて行った。
しかしが白石範次郎重明という人物が「杖術」の伝統を守り抜いた。
白石氏没後(1927年)、一人の高弟が「福岡道場」を発足させ、流派の「継承」に尽力した。
昭和の始め、もうひとりの高弟が「杖術」普及をめざして上京し、頭山満、末永節等の「玄洋社」社員の後援を得て普及発展をはかった。
その後「大日本杖道会」を発足し、それをもって柔道の講道館で「警察」の警杖術を指導したのだという。
そして、「神道夢想流杖術」の技法の一部は、日本の警察で「警杖術」として採用され、全日本剣道連盟の杖道形として普及し、剣道の理合と融合した武道の「杖道」となったのである。
テレビで見た「夢想流」は、やっぱり警察官の「棍棒使い」と繋がっていた。
しかしこの「夢想流」も宮本武蔵の木刀使いにハット「目覚め」させられた男が生み出したものならば、宮本武蔵の「木刀使い」の「カタチ」は、実に今日の「近代警察」の「棍棒術」とも繋がっているわけだ。

最近、人間の「認識」は人間の「心理」と深く結びついていることを思わせられることが多い。
心で受け入れないことは、「見ても見えない」、「聞いても聞こえない」ということはアリウルということだ。
また「ゲシュタルト心理学」の成果は「啓発的」で、要するに、ジ~~ト見るより、ぼ~~~と見るほうが、「全体の枠組」が消えずによくワカルということもアルということである。
配偶者の顔をジ~~ト見て「なぜコノ人が自分の妻なのか」などと問うてはナラナイ。
「ゲシュタルト崩壊」でも起きたら、「コノ人誰だっけ」ということにもナリカネナイ。