海と馬と滑走路

最近、通勤時の車の運転の楽しみが増えた。
福岡空港の間を横切る広い道路があり、飛び立つ飛行機の胴体の下を横切ったり、飛行機に追われるように走ることになる。
一番エキサイティングなのは、飛び立ったばかりの飛行機のお腹に突っ込むように車を走らせることである。
これは夕方の「或る時間」に「或る方向」で車を走らせれば毎日体験できる。
ちょとした「ダイハード」気分が味わえる。
かつて松任谷由実さんが歌った「中央フリーウエイ」(1976年)の中に、「この道は夜空に続く滑走路」という歌詞があった。
数年前に松本に旅した時に、中央高速道をバスに揺られながら、あの「中央フリーウエイ」の歌詞の現場をしっかりと確認したことがある。
バスは高速で走るので、あれほど全身をマナコにして「風景」を見たことはない。
歌詞の中に、「右手は競馬場、左手はビール工場」という箇所がある。
高速バスが調布付近にサシかかった時、その時がやってきた。
まぎれもなく「右手の東京競馬場」「左手にはサントリー武蔵野ビール工場」だった。
タブン、何もしらない乗客が私を見たら、何でオジサンが突然ホクソエンデイルのか、不思議がったにチガイない。
しかし高速道路から見た競馬場のスタンド風景は、唐突に表れた巨大建造物だっただけに、ソノ「残像」はイツマデモ消えなかった。
都会の競馬場といえば、羽田を飛び立つ飛行機を背景とした「川崎競馬場」がある。
最近、NHKの「小さな旅」という番組で川崎競馬場界隈の人々の生活が紹介されていて、心に沁みる「旅の風景」を見させてもらった。
NHKの「小さな旅」で、1950年に開設された川崎競馬場周辺のことが紹介されていた。
京浜工業地帯の人たちを中心に、ささやかな娯楽の場となってきた競馬場である。
番組では、馬と共に懸命に人生を歩んできた人々に出会う旅で、大都会の喧騒の中でこのような「生活圏」があるのかと、オアシス気分に浸れた。
神奈川の川崎駅のほど近くにある「川崎競馬場」は、終戦間もない1950年に開設され、京浜工業地帯で働く人を中心に、ササヤカな娯楽の場になってきた。
一方で開設当時、戦争で夫を亡くした「女性」を優先的に雇用するなど、貴重な女性の働く場でもあった。
今も競馬場内には、女手ひとつで子供を育てた母の思いを受け継ぐモツ煮店が営業を続け、また女性調教師として活躍する人もいる。
多摩川沿いに開けた競走馬の練習場では、川崎競馬場でのレースに出る馬の調整を毎日おこなっている。
練習は午前2時頃から8時頃まで行われ、念入りに走りをチェックしている。
川崎市には馬たちの暮らす小向厩舎があり、200人ほどが競走馬の世話をしている。
調教師の安池成美さんは、馬主から預かった9頭の血統や性格など全て把握している。
馬の適性を考え、どの馬をどのレースに出場させるのかを決めるのは調教師の仕事だ。
馬の特性を見てから、関東各地の地方競馬にも出場させている。
川崎競馬場は、工場やマンションが立ち並ぶ町の中心地にある。
県と市が運営に関わり、1月に5日ほどレースが開催される。
この地は度重なる空襲に見舞われ、1945年4月の大空襲であたり一面が焼け野原になった。
戦後、収益を町の復興資金に当てるために始まったのが競馬で、開催日には人が詰め掛けた。
競馬場が出来た年から続く飲食店では、いち早く仕込みを始めている。
店には古くからのなじみの客も数多く訪れる。店を切り盛りする白井さんは、母親の代から受け継ぐ鍋を大事にしている。
競馬場の中央には芝生の広場があり、17年前からレースのある日はこの広場を市民も使えるようにした。
夕暮れには近くに住む家族連れが集まっている。
午前4時過ぎ、多摩川沿いの練習場では馬たちの調整が行われていた。
ここに安池さんの姿があり、安池さんは2歳の牝馬・リアハッピーを気にかけていた。
安池さんは19歳のとき、「川崎競馬場初」の女性旗手としてデビューした。
しかし、思うような成績を出せずに6年で引退したが、37歳で調教師の資格をとり、愛情深く馬の面倒を見ている。
リアハッピーが試験を受ける日を迎え、会場の川崎競馬場へ専用の車を使い移動し、能力・調教試験を受け、無事に合格した。
そしてまた、多摩川沿いの練習場でいつもの朝を迎える。

さて、松任谷由実の「歌の風景」としては、「リフレインが呼んでいる」(1988年)がある。
♪どおして どおして 僕達は出会ってしまったのだろう♪でハジマるこの曲は、80年代後半のユーミンの代名詞ともいえる。
この曲は、葉山から秋谷海岸が舞台とされているが、この歌の歌詞に♪ひとつ前のまでのカーブ いつか海に降りた あの駐車場に あなたがいたようで♪とはドコナノカ色々と推測されているようだ。
歌詞に登場する駐車場は、秋谷海岸の立石駐車場というもあるが、カーブに位置し、海に降りられ、車道から見える駐車場は長者ヶ崎駐車場なのだそうだ。
数年前に、神奈川県の茅ヶ崎に海岸に行ったことがある。
茅ヶ崎の駅前にはサザンストリートというのもあるが、バスで15分ほどで茅ヶ崎海岸につく。
サザンオールスターズのファンであるならば、誰でもが知っている「エボシ岩」を見に行く旅である。
一人企画、一人参加、割増料金ナシ、要するに「ひとり旅」であった。
「エボシ岩」は、サザンの歌の中で「勝手にシンドバッド」では♪エボシ岩が見えてきた~。俺の家も近い~♪
「チャコの海岸物語」の♪えぼしぃ~いわが遠くに見える~星はなんでも~知っているぅ~♪
「HOTEL PACIFIC」の♪エボシ岩を見つめながら 夜霧にむせぶシャト~♪
といった具合に大ヒット曲の風景の中に登場している。
そのほかに 「希望の轍」、「夏をあきらめて」等にもエボシ岩が登場する。
サザンの歌詞にあるかつて加山雄三つまり上原家が経営していた「ホテルパシフィック」はすでに存在せず、伝説の「シャトー」と化してしまっていた。
茅ヶ崎の砂浜から2キロmほど先に唐突に突き出た5~6mの高さの「烏帽子」の形状の岩である。
さて、この「エボシ岩」のは意外な歴史がある。
ソノ名前の由来は、昔、公家や武士などが用いた帽子である烏帽子に似ていることからこの名が付けられたといわれている。
この岩は、驚いたことに、関東大震災の時に生まれたモノだった。
1923年9月1日のマグニチュ-ド7.9の大地震は、茅ヶ崎と大島との中間点の海底を震源地として起こったものだった。
これにより当時名所のなかった茅ヶ崎には烏帽子状の岩が隆起し、これにより茅ヶ崎名物となる烏帽子岩が誕生したのである。
ところで、この時の「エボシ岩」と現在の「エボシ岩」とでは随分と形状が異なる。
実は1951年、アメリカ進駐軍による「砲撃の的」とされ形が変わったのである。
浜にはずらりと米軍機関砲搭載機甲車が並び「エボシ岩」を砲撃練習の標的として実弾訓練をし、この演習は1年間続けられた。
当時、岩の中腹にあった八大竜王の社は無くなり、左に傾いていた烏帽子は、現在の右斜へと姿を変えたという。
しかしそれでも、湘南のシンボルであることに変わりはない。
戦争やその関係した出来事が、現代ポップミュージックの歌詞の風景をつくっていたとは意外だった。

現代のイケメンNO1といえば福山雅治氏だが、長崎生まれの福山氏にも戦争の影が付きまとっている。
福山氏は、小学校の五、六年生の頃から新聞配達のアルバイトをしていて、将来は音楽の先生になりたかったようだが、家庭の事情で進学をあきらめた。
福山氏は、長崎の工業高校時代に兄とバンドを組んで音楽活動をはじめいつしかミュ-ジシャンに憧れるようになる。
福山氏はギター、兄はドラムを敲いていた。
そんな福山氏は、意外なことに茶道部に所属していたそうだが、その理由はお菓子が食べられるからだそうである。
福山氏はバスで学校に通っていたそうですが、近くの女子高生のファンクラブができて「バス停の君」といわれていた。
兄は自衛隊に就職し、福山氏は高校卒業後地元で電機会社で数か月間働いたが、あまり仕事には身が入らなかったようだ。
ところで福山氏には米軍基地の影がある。
ミュージシャンをめざし上京しはじめて東京で生活をした町が昭島市の福生である。
福生といえば横田基地の町で、村上龍の芥川賞受賞作「限りなく透明に近いブル-」の舞台となった町だ。
数年前にラジオ放送で、福山氏は自ら被爆者2世であることを告白している。
2009年8月11日にレギュラー番組に出演した福山君は、「父親はもろに被爆しました。母親 も厳密に言うと被爆してることになる。 だから僕は被爆2世ということになる」と言っている。
年譜を見ると、高校卒業後、父親が他界しており、兄も自衛隊に入隊していたため、母親をひとり残して東京に行くことができず、地元の電気会社に就職することになったようである。
上京する時は、さすがにミュ-ジシャンになるとはいえず「古着屋」になると言って上京した。
福山氏がデビュー時のオーデションで歌った歌が泉谷しげるの「春夏秋冬」である。
あの歌の歌詞に「♪季節のない街に生まれ、風のない丘に育ち 夢のない家をでて 愛のない人に会う♪」といったフレーズがあるが、当時の福山氏の心境を物語っているようにも想像する。
福山氏はある面接で、特技を聞かれた際に「材木担ぎ」と答えた。
福生で生活していた時にピザ屋の配達、日雇いの運送屋のアルバイトそして材木屋でアルバイトをしていたようである。
ライブ活動をしながら1988年にあるオーディションに合格し、俳優デビューしている。
1993年フジテレビ系ドラマ「ひとつ屋根の下で」で人気に火がつき、歌手としてもブレイクした。
ところで福山氏の最大のヒット曲「桜坂」の地は、東急多摩川線の沼部駅からほど近い大田区田園調布本町に実在している。
普段は閑静な住宅街のなんでもない坂道が、桜の季節のほんの2週間程だけ、 桜のトンネルのようなみごとな景観を創り出して、そこを通る人の目を楽しませてくれている。

朝日新聞の土曜版「be」に、様々な歌が出来上がった経緯を書いた記事が掲載されている。
あれを読むと、歌の舞台は全く予想もいない場所であったことに驚かせられる。
その内のひとつがダークダックスの名曲「銀色の道」であった。
作曲者の宮川泰氏が、小学生の一時期在住した北海道紋別市の住友金属鉱山鴻之舞鉱山(1973年閉山)で、土木技術者の父親が建設に携わった専用軌道「鴻紋軌道」(鴻之舞元山 ~ 紋別間)の光景を下敷きに作曲した。
もうひとつが倍賞智恵子が歌った「月の沙漠」(1923年)で、ソノ舞台は関東のサーフィンのメッカである千葉県の御宿(おんじゅく)ということであった。
この詩は「ラクダ」に乗った「王子様」と「お姫様」が月下の沙漠を往く情景を描いており、異国を連想させる内容からか、また現在では「沙漠」という表記が一般的ではないことからか、しばしば「砂漠」と誤記されるが、詩文中ともに一貫して「沙」の字が用いられている。
つまり「月の沙漠」の風景は「すなはま」なのである。
学生時代に結核を患った作詞家の加藤まさを氏が、保養のために訪れた御宿海岸の風景から発想したという。
さて、高橋真梨子の歌に「桃色吐息」(康珍化作詞)というのがあるが、この歌詞について「チョー独断的」に書いてみたい。
アノ歌の歌詞を聞くと、どうしてもクレオパトラにまつわる「歴史の風景」が浮かんでくる。
古代ローマ史の中で、アントニウスは、カエサル(シーザー)亡き後では、何といっても随一の存在である。
カエサルの養子オクタヴィアヌスがいるが、まだ若すぎた。
武人のアントニウスは、気前のよい、ごく単純な性格の持主だった。
彼はカエサルのような名門の出ではなく、田舎者マル出しのところがあって、場所柄もわきまえず酒と女に溺れて人々の顰蹙を買ったりしたこともあったが、このころでは男マサリの妻に教育されて、ダイブおとなしくはなっていたが。
それがでトルコのタルソまで来て、戦勝の宴に酔ううちにカエサルの恋人クレオパトラのことを思い出したのである。
アントニウスはかつてはカエサルの家来であったが、今やカエサルの一派を支援したことへの「申し開き」をさせる名目で、クレオパトラを呼び出したのである。
そしてクレオパトラにとっては、来るべきものが来た感じだった。
しかしクレオパトラは美しさの絶頂にあり、自分の置かれた立場の不利さを吹き飛ばす自信があった。
クレオパトラは、エジプトの女王とはいってもギリシア人の血を受け継いでいる。
アントニウスはトルコのタルソスで、彼女を待ちうけていた。
それは、クレオパトラがかつてカエサルと極秘裏に会うために「絨毯」にクルマレて運ばれた時とは雲泥のチガイがあった。
タルソでアントニウスはまずクレオパトラを会食に招待したが、彼より役者が一枚上手の彼女は、それよりも自分の処つまりアレキサンドリアへ来ていただきたいと願った。
そして、招待された夜の宴の、聞きしにまさる豪華さに、ローマの軍人たちはすっかり度胆を抜かれた。
翌日も、翌々日も同様だった。
四日目には床一面、くるぶしを没するまでの深さに「薔薇の花」が敷きつめられていた。
♪咲~かせて 咲~かせて 桃色吐息♪
こうなると、アントニウスはもうクレオパトラのいいなりだった。
誘われるままに彼は、ローマへ帰るかわりにアレクサンドリアへ冬を過ごしにでかけた。
アレクサンドリアは、当時の地中海世界の最も富裕な、優雅と豪奢と倦怠の都だった。
港では、世界のあらゆる富がたえず陸揚げされ、港の入口には、古代七不思議の一つといわれたファロスの燈台が、出入する船を導いていた。
ところでクレオパトラがアントニウスとタルソスで最初に出あった時に見せた演出は、「林立する燈火」の数とソノ趣好をこらした配置だけでも、アントニウスの目を見ハラセルに十分だった。
数多の美しい侍女たちが、海の精ネレイスの衣裳で、舳先や艫に立ち並んでいた。
クレオパトラは、「金色の船」に「銀の櫂」で、「紅の帆」をかかげ、楽の音に合せてシズシズと河を遡ってきた。

♪金色 銀色 桃色吐息♪
♪海の色に染まるギリシアのワイン♪
♪灯り採りの窓に 月は欠けていく おんなたちは そっと呪文をかける♪
♪愛がとおくへと いかないように きらびやかな夢で しばりつけたい♪

ひょっとしたら、「桃色吐息」はクレオパトラとアントニウスとの出会いをイメージして作ったのでは。