成功は邪魔

数週間ほど前、日本の「貿易赤字」が報じられたが、実に31年ブリのことナノだそうだ。
「円高」の影響で輸出が伸びナカッタといいたいトコロだが、従来「円高」をモノトモセズに輸出を伸ばしてきたことを考えると、日本製品の「競争力」が相対的に低下していることは明らかである。
日本の「技術力」が落ちているとは思えない。だのにナゼ。
東日本大震災やタイの洪水で工場がダメージを受け、「サプライ・チェーン」が崩壊したり、また原発事故により火力発電所向けの燃料LNGの輸入が増え「原油高」が影響したといった理由もあげられる。
しかし、日本が多くの分野で「市場シェア」を失ってきたのは、今年以前からズット見られるヒトツの「趨勢」であった。
国際貿易の「比較優位の理論」によれば、輸出産業は日本の中でも「優良企業」に占められることになる。
いわば日本の「稼ぎ頭」なのだが、そうした企業をモッテシテも、黒字を生み出すことは出来なかったということである。
個人的には、1980年代に世界を席捲したソニーとニンテンドーの不振が伝えられると、「昔日」の思いにカラルる。
1980年代の初頭の一年間だけ、アメリカの西海岸で暮らしたことがあるが、スケボー、ジーンズ、ウォークマンで街を滑走する若者にアフレていた。
彼らは「ウォークマン」という商品名ではなく、「ソニー」というブランド名で呼んでいたのを記憶している。
スティーブ・ジョブスはソニーの盛田会長を大変尊敬していたそうだが、おそらくはサンフランシスコでヒッピー生活をやっていた時期には、「ウォークマン」を片時も離さず聞いていたにチガイナイ。
そのソニーは、「ウォークマン」以来の大ヒット商品がない。優れた「試作品」を作ってはいるのに「ビジネス・モデル」を作ることができず、「商品化」に至っていない。
任天堂は、明治時代初期からあった京都の「花札」制作会社であるが、この会社がトランプ制作に転じ、「ゲーム・ソフト」の制作へと「戦略」を転換するまでは、見事スギルほどの変身/脱皮をハカルことに成功した。
1980年代当時、マドンナが彗星のごとく登場し、シンディ・ローパーが若者のハートを鷲づかみにし、プリンスの魔性が大人までもが魅了していたソノ時、ニンテンドーのゲームが、アメリカの家庭で子供達をトリコにしていたのだ。
最近のソニーやニンテンドーの信じがたい「不振」を見て強く思うことは、どんな成功者も「成功に安住しているイトマはない」ということである。
ウォークマンやニンテンドー・ゲームソフトを開発し売りまくった人々は、今「成功の報酬」として高い位置におられると思うが、そうした過去の「成功体験」をもつ上層部が、新たな企業展開の「障害」になったりすることはないだろうか。
それを裏書するように、昨日のニュースで平井社長が「ソニーは変る」と何度も語っていたが、ソニーを出た社員達の証言によれば、「組織の壁」がソニーを停滞させているように思えた。
日本が高度経済成長を成し遂げた理由のヒトツは、戦前の企業上層部が戦争協力者として「パージ」されてしまい、政府統制下での成功体験を持たないイワユル「三等重役」が会社を牽引したからではなかったか。
つまり、変化をトゲラレナイ組織は、どんな安泰に見える巨大組織でもイツカ淘汰されて消滅していくのが、この世界の「オキテ」だといってよい。
1990年代を迎えてインターネットが急速に普及するや、ダウンロードした音楽やCDの音楽をウォークマンよりハルカに「軽装」なアイポッドで楽しむというのが今の若者のスタイルである。
今や、ネット上で「ソーシアル・ゲーム」なんて楽しめる時代なのだから、家庭で一人黙々とゲームと格闘するスタイルは、過去のものにナリツツあるのかもしれない。
「ソーシアル・ゲーム」は、人々がネット上で出会い、協力したり、競ったりするもので、従来の「ゲーム・ソフト」とは全く「別次元」の楽しみ方を人々に与えているようだ。
ネット上で「セカンド・ライフ」を楽しめるようになっている。
実世界では平凡な人間が、ネット上の「ハンドル名」ではカリスマになったりする。
ウォークマンなどが「御用済み」となってしまうハカナサさは、万葉の「花の色は移りにケリナ」という歌を思い浮かべる。

成功が邪魔をする。
そのワカリヤスイ例として、イーストマン・コダックの「経営破綻」があげられる。
イーストマン・コダックは、写真の「フィルム」で世界をリードした。
しかし、コダック社の経営ミスは、フィルムカメラの「成功体験」が、デジタルカメラへの「転換」を遅らせたことにある。
成功した企業が「新技術」の台頭に直面して、「現行技術」を継続するのか、アルイハ「新技術」に移行するかという経営判断は、その会社の「命運」を決定するといってイイかもしれない。
成功体験が大きく、その基幹技術で他を凌駕していればいるほど、つまり自信を持っていればいるほど、「新しい技術」へ飛び込むことへの「抵抗」は増すということがいえそうだ。
人情として、人は自分の成功を「永遠化」し、「完結/完成」シタモノとしたいからだ。
「成功は邪魔」な話は、「企業レベル」の話ではなく「国レベル」にも広げることができる。
日本は「半導体」を最も得意な分野として、「半導体優位」をもって「モノツクリ日本」を世界にアピールしてきた。
ところが最近、エルビータという会社が倒産した。
エルピーダという会社はアマリ聞き慣れないが、DRAMという半導体をつくっていた日本のメーカーの事業をヒトマトメにしてできた会社である。
政府の支援も受けていて、マサニ官民を挙げた「日の丸半導体」とも呼ばれていた会社である。
半導体といっても様々な「種類」があり、いわば「頭脳」に当たるCPU、自動車など向けに様々な制御機能を備えた「マイコン」、情報を記録するための「フラッシュメモリ」など多様である。
エルピーダが手がけてきたDRAMは、情報を「記憶」するための半導体である。
汎用性の高い製品で、80年代後半のピークには、日本のメーカー各社が世界のシェアの80%近くを占めていた。
そして、「産業のコメ」とも呼ばれ、「モノツクリ日本」のシンボルであったといってよい。
しかし世界市場におけるシェアを韓国勢に逆転されたのが、エルピーダ発足のキッカケであった。
1999年、ライバル韓国に対抗しようと、「国の主導」で日立製作所とNECが事業を統合し、その後、三菱電機の事業も引継ぐカタチで、エルピーダが、国内唯一のDRAMメーカーとなったのである。
その後、一時期シェアを挽回したものの、リーマンショック後、再び沈下した。
2009年には「公的資金」を活用した国の支援を受けて、経営の立て直しをハカッタが、「低迷」が続き大幅な赤字を計上することになった。
国は、エルピーダの「発足」を主導しただけでなく、「公的支援」に踏み切ったという経緯がある。
国が一企業に資金を投入してイイノカという声にもカカワラズ、最大280億円分が「国民の負担」になる可能性がある。
エルピーダが、国の支援を受けながらも、ワズカ3年で破綻に追い込まれたのは、「円高」ダケで説明できるものではないし、シテハいけない。
DRAMという技術は、優れた製造装置サがあれば、誰でもドコデモつくることができる「汎用品」なのである。
韓国メーカーがDRAM事業で大胆かつスバヤイ経営判断で、次々と大型の投資を続け、韓国勢のシェアは、サムスン電子とハイニックス半導体の二社だけで世界の70%を占めるまでになって、圧倒的な差をつけられていた。
しかしエルピーダで「半導体日本」の巻き返しをネラウ戦略は、「過去の栄光」にスガッタ「大失敗」だったといえよう。
円高やコスト競争が続く中、同じDRAMを国内でつくって、海外に輸出する事業構造には限界があり、結果は、一時の「延命」となったにすぎない。
過去の栄光にスガリ、イタズラに国民のカネを浪費しただけとなった。
エルピーダが陥った構図は、日本の産業全体にアテハマルのかもしれない。
かつて、DRAM競争で日本に負けたアメリカのインテルは、早々とDRAMから撤退し、モット付加価値の高い「CPU」にカジを切って、「高い収益」を上げ続けている。

さて日本企業の後退は「成功が邪魔をする」以外にも、「国内競争」にエネルギーを費し、グローバル化に適応する「戦略」を立てられないという面もある。
例えば日本と韓国と比較して見られる「顕著な特徴」は、自動車、鉄鋼、家電などの主力製品では、韓国では一社か二社というゴク「少数の企業」で世界市場にクイコンデいるのに対して、日本では多くの分野で「数社」で競争を繰り広げている点である。
自動車で、韓国は現代(ヒュンダイ)自動車が市場をほぼ独占しているが、日本国内では何社もの企業が競争している。
鉄鋼で言えば、韓国はポスコが市場を独占しているが、日本には何社かの企業が国内競争の「延長上」に世界市場を争う形となっている。
韓国は日本に比べて市場規模がはるかに小さいにも関わらず、「1社アタリ」の国内販売量では「韓国企業」の方がハルカニ大きい。
韓国企業は1990年代の末の「通貨危機」を経て、「政府主導」で非常に大胆な「産業再編」を行った。
多くの企業が倒産したが、サムスンは自動車や流通から撤退し、現代(ヒュンダイ)はエレクトロニクスから撤退するというように、「財閥」ごとに「得意分野」へ集中することを求められた。
つまりソレゾレが「強み」を生かすべく、「捨てる」ベキものを捨てていったということだ。
韓国の企業は「国内市場」での売り上げを土台にしながら、積極的に海外市場での展開を行っている。
一方、日本の企業は国内での他社との競争に精力を使い果たしてしまい、「グローバル競争」に有効な戦略を「展開」できないでいる。
「国策」をカラメテ興味深いのは、「日本郵船」という海運会社が世界市場に打って出た経緯である。
「国策会社」とは主に満州事変後、第二次世界大戦終了までに、国策を推進するため、政府の援助・指導によって設立された「半官半民」の会社のことであるが、明治時代の「政商」岩崎弥太郎が築いた船会社である「三菱商会」は、この時期に面白い展開をトゲルことになる。
三菱の海運事業「郵便汽船三菱会社」が大規模な「値下げ攻勢」で勢力を広げ、欧米系の船会社に握られていた日本の「航海自主権」を取り返した。
その一方で日本国内の中小の船会社も追い出してしまった。
独占的な地位を得た「郵便汽船三菱会社」は今度は運賃を「上げて」大きな利益を上げていた。
しかし「三菱」の独占と専横を快く思わない渋沢栄一や井上馨、品川弥二郎、益田孝らの「長州系/三井系」が「三菱」に対抗できる海運会社の設立を画策し、三つの海運会社を結集させて1882年7月に「共同運輸会社」が発足した。
共同運輸会社は、有事の際の「軍事輸送」を引き受けることを条件に政府の出資を得ており、社長も海軍少将が就任するなど「政府色」が濃いものとなった。
1883年に営業を開始をすると、三菱側が運賃を2割引にして対抗したことから共同運輸側も対抗値引きを実施し、以後2年間は「ダンピング競争」による「消耗戦」が続いた。
ヤガテは出航時間を揃えて同時出航し、「優劣」を直接競い合うナドの子供ッポイことマデして、「接触事故」を起こすなど安全面においても懸念が示されるようになった。
こんな状態で、「国際競争」に勝とうナドというダンではないのである。
こうした事態を重く見た農商務卿・西郷従道が「仲介」に乗り出し「協定」を結ばせ、一旦は競争は沈静化したモノノ、やがては「協定破り」が常態化し「共倒れ」が危惧される事態となった。
1885年、三菱の社長・岩崎弥太郎が死去したことを契機に、政府が両者の「仲介」に乗りだし、共同運輸の社長を更迭し、両社を合併させ「日本郵船」が成立したのである。
社長には共同運輸サイドから就任するなどして、発足当初こそ「共同運輸色」が濃いものであったが、やがては三菱系の社員が台頭し、名実ともに「共同運輸」は消滅することとなった。
こうして日本の「フラッグシップ・キャリア」となった日本郵船は、積極的に航路を拡大していった。
国内主要港に支店、出張所を設け、外航では朝鮮半島や中国、マニラ、ウラジオストクまで定期配船を行うとともに、東南アジア、南太平洋、北米などの海洋航路に不定期船の運航を始めている。
当時、基軸産業として日本経済をリードしていた紡績業でインドからの綿花輸入量が急増していたが、外国会社との競争にもウチカチ、念願の「ボンベイ定期航路」を開設した。
ちなみに、日本郵船の客船サービスは世界トップクラスで、特に食事のスバラシサには定評があった。
帝国ホテル、精養軒と並び、「日本郵船」が日本の「洋食の源流」と評されるほどで、船の厨房で鍛えられたコックが下船して広くその味を伝えたためである。
よく知られるのはカレーライスに「福神漬け」というアイデアは、日本郵船の一人のコックの発想にヨルものである。

今、世界中に広がったアップルの「iPhone」は、米国のソフトに韓国や台湾地域のデバイス、そして中国国内での組み立てという「世界連合」の生産システムを築いている。
日本の「携帯電話」は、実質「世界連合」と戦っているようなものだから、国内市場はオクとしても、世界市場で勝ち目はナクなっている。
かつて、世界を席巻した日本のテレビや液晶パネルも、いまや「世界連合」で作り出される「汎用製品」となっているために、「日の丸」だけで「勝ち」を呼び寄せることは不可能にナリツツある。
今、「東北の復興」「電力の再編成」「郵便事業の見直し」ナドといった「国のビジョン」が大きく問われル問題が、目前に立ちハダカっている。
官主導でイクカ、民間主導でイクカ、「官民」でイクカ、イママダに「国のビジョン」が見えないが、過去の「成功体験」にヨリすがっては「大失敗」する。
京都セラミックス社長だった稲盛和夫氏に面白いことを語っている。
人間は「試練」によって磨かれる。しかし、その試練とは一般的にいわれる「苦難」のことだけを指すのではない。
成功さえも試練だという。
なぜ、成功も「試練」なのかというと、成功を糧にさらに謙虚に努力を重ねるには、 それ相応の「人格」が必要だからだという。
成功して得た地位、名声、財には、「人を溺れさせる」だけの強大なパワーが秘められていて、その「誘惑」に負けずに、 崇高な精神を保てるかどうかも、「天が与えた試練」というワケである。
しかしこういう言葉は、慢心によって叩き落される経験をカイクグッテこそ生まれる言葉だと思う。
イマ話題の「断捨離」は、「過去の成功」とか「過去の栄光」にもムケられていい。
それが、「エルビータの教訓」でもある。