民主的な「解」

二夜連続のNHK番組「フローズン・プラネット」にはイクツモ印象的な映像があった。
それらはタブン、心の片隅に在る「イメージ」と重なったからだと思う。
広いが薄い氷山上にアザラシ一匹が海に浮かんでいる。
そこにやってきたシャチの群れが氷の盤をトリ囲み、一斉に波を起こして少しずつ氷を割っていく。
氷山はダンダン小さくなっていき、わずかに残った氷にしがみつくアザラシ。
氷の上を逃げ惑ったアザラシは、すっかり体力を消耗していた。
そこへ一匹のシャチが海中から頭をモタゲ、アザラシをゆっくりと海中に引きこむ。
北極の氷はここ数十年で2分の1の薄さになったそうである。
夏に、北極では氷がなくなる事態が真近にセマッテいるという。
シロクマ(北極熊)は氷上でアザラシの狩りをするが、ソレができなくなる。
番組では、シロクマがアジサシのヒナをねらって近づく姿があった。
しかし空中から親の集中攻撃をうけて鼻の頭が血染めになってしまい、這う這うの体で退散する姿が映っていた。
シロクマは、これほどエネルギー効率の悪い「狩り」をしなければ生き残れなくなっているのだ。
つまり、北極で生態系の頂点に立つシロクマもいよいよソノ「生存」が脅かされるようになってきている。
薄氷の上で何とか体重を支えているアザラシは、厳しい財政状況でたくさん高齢者を支えなければならなくなっている国々を連想させる。
さらに、シャチの群れは近海に出没する「軍事的脅威」と見るならばならば、まさにドコゾの国である。

民主主義というのは色々と問題のある制度だが、これまで「年齢構成」の観点からコレを考える必要はなかった。
しかし「団塊の世代」が大量退職をする時期を迎えて、「一人一票」の民主主義の下では、団塊の世代以上の「引退世代」が多数をしめ、そうした「高齢者」の意見がホボ通ることになる。
民主主義では「多い方が正しい」というのが原則だから、なかなか若者の意思はとおりにくいことになる。
つまり若者はマイノリティになり、日本は「老人支配」の国となっていく。
ドンナに自分の子供や孫を大切に思う人でも、抽象的な「次世代」の為に何かをナソウという気は起こりにくい。
引退世代の関心事は、今後をイカニ安心して快適に暮らせるかということである。
政党の側も、選挙のために「高齢者ウケ」をネラウ政策を次々と打ち出すことになる。
少なくとも、高齢者がミを削らねばならないホドの政策または制度選択は成り難いといっていい。
身を削って身が細るのは、若い方の世代である。
赤字国債(特例国債)の発行にナカナカ抑制が効かなくなっているのもそのアラワレである。
引退世代が社会保障などで「使いすぎ」てしまえば税金だけではたりない。
そこで赤字国債を発行するが、現役世代が「税負担」をモッテそれを返していかなければならない。
つまり現役世代からから引退世代の「所得の再分配」が生まれることになる。
この「所得の再分配」は日本の場合、特別な意味をもっている。
社会保障制度による「所得再分配」システムは、富裕者から貧困者へと行われるのが正常である。
ところが高度経済成長を働いてきた団塊の世代は、バブルがハジケタ後に「超就職氷河期」を乗り切って就職した現役世代に対して、相対的に裕福である。
つまり高齢者は「既得権益者」なのだが、こうした高齢者のために財源や資源がさらに多く割り当てられることになる。
この所得の「逆」再配分を何とかしなければならないが、今の政治状況では、選挙に勝ちたかったら、数が圧倒的に多い老人に美味しい話をしないといけない。
老人とてドンナに保障がナサレようと、健康面などに不安を抱えていれば、アマリ自覚することもなく肥え太るのである。
あまり考えたくはないことだが、税以外の実働としての「軍事的負担」までも課されるとなると、どう考えても60以上の年齢層は除外されることになる。
かつて「階級闘争」という時代には、少数の資本家による多数の労働者の「搾取」というテーゼがあった。
しかしそういうイデオロギーが社会を動かすほどの力は失せている。
今もっとも鮮明な「対立軸」は高齢者(既得権益者)と若年者の「世代間抗争」であり、それは高齢者による若年者の「搾取」というカタチで表れる。
しかもコレコソが、現状日本の民主的な「解」なのである。

ところで、多くの企業年金がこのまま放っておいたら立ち行かなくなることが指摘されている。
企業年金を維持するためには年金支給額を削減しなければならない。
しかしソレを実現させるには、年金受給者から「3分の2」の賛成を得られないといけないことになっている。
ということは、「決定権」はヤハリ高齢者が握ることになる。
日本航空の場合には、年金支給額削減をギリギリになって退職社員は受け入れた。
ただ日航の場合は元々がモライ過ぎなので、支給額の削減がタダチニ生活苦にツナガルわけでない。
それよりも企業年金ソノマノが潰れてしまっては、元も子もなくなるという「理性的判断」が働いたのである。
しかも日航の場合、税金による補助があったが、他の企業年金の場合はカナリ生活に響くことが予想される。
しかし保険料なりを早めに引き上げるなどした方が、最終的に傷が浅くなるのだが、これも現役世代の負担増となる。
最近では、芸人の親が生活保護をもらっている話があり、ゼイタクだから「返せ」ということが話題になったりしたが、芸人の親はケシテ法に反しているわけでも何でもない。
こういう不満は、部分的には「世代間抗争」の一端であるかもしれない。
今政治が、若者の「政治的意思」を充分に反映することができなくなっている。
かといって「革命」を起こすほどの「強力な理念」やパワーがあるものではナイ。
アメリカで若者がウオール街を占拠したり、ティー・パーティといわれる「散発的」運動で表れているのノミである。
今国会で「一票の格差」が問題になっているが、「世代間」の公平になるようにするには、「一人一票」ではなく20代は1人2票、30台は1.5票というように「重し」をつけないと、現役世代の「未来」がマスマス削り取られてしまいそうである。

「フローズン・プラネット」で、バイソン(牛)の群れを狼が20頭あまりで襲うシーンがあった。
巨大なバイソンは集団でイルかぎり、体の大きさが全然違う狼から襲われる心配はない。
そこで狼の群れはバイソンの「集団」をかき乱す作戦にでる。
若すぎるのか年なのかワカライが、孤立したバイソンは狼につかまってしまい、足をカマレて動きがドンドン鈍くなっていく。
そこへ驚くべきことがおこった。後ろから別のバイソンがソノ弱ったバイソンに体当たりして、倒してしまったのである。
狼の群れは一斉にその倒れたバイソンに群がる。これだけのエサがあれば狼は何も食べずに一週間は生きられる。
エサに群がった狼の姿を見て、他のバイソンはゆっくりとしたイツモノ足取りに戻って移動していった。
このように動物の世界では、弱ったものや傷ついたものは、他の動物の生存のために「積極的に」捨てられる運命にある。
モチロン人間の世界では、そういうわけにはいかない。
「健康保険組合の破綻」の危険は、直接人間の命の問題にツナガルので、企業年金の破綻以上に難しい問題がある。
つまり民主的な「解」で済ますのか、ということである。
かつて自民党が出した「後期高齢者医療制度」は、年寄りを見殺しにするのか、とサンザンたたかれた。
これまでは国民健康保険の加入者が扶養していた75歳以上の高齢者の保険料を免除していたところを、全員が支払うようにした。
この制度によって、75歳以上の高齢者とその扶養家族は新たに保険料を支払う必要が生じた。
一番の批判を浴びたのが、その分の保険料が「年金から天引き」されるようになったことである。
老人は比較的裕福で貯金もあるだろうが、それでもヤッパリ不安もあるし、とてもその「負担」さえもニナイきれない老人には「死ね」といっているようなものだという批判である。
一方、民主党はこの「後期高齢者医療制度」を破棄して新しい高齢者の医療制度をつくることへのコダワリをみせている。
「後期高齢者医療制度」を否定して、高齢者に高度医療を施すことを保障するという内容だが、その負担はというと健康保険組合だけでは到底マカナウことはできす、結局「税金の負担」増ツマリ現役世代の負担になってしまう。
確かにカネナイ人にも高度先端医療を与える社会は美しいけど経済的に持たないのは当然である。
具体的にいうと、選挙公約の医療政策では「高齢者の保険料負担は現行水準の維持または軽減」つまり「70歳以上の自己負担1割」と主張したのである。
厚生労働省が、新制度に移行した際の高齢者と若い世代の保険料負担がどう変化するかについて将来見通しの試算をまとめたが、75歳以上の保険料の伸びを抑制する結果、大企業の健康保険組合や公務員らの共済組合に「負担増」を求める内容となったのである。
簡単に言えば、給与の高いサラリーマンに、より多く負担してもらおうということだ。
実は、医療関係の予算の大半を70以上の老人が使っているという。
しかも、老人の暇つぶしにサロン化している病院もある。不自然な延命処置をして、医療費に税金ツギコミまくっている。
もちろん医療費などで困窮している高齢者も多くいるのも確かである。
サラナル「延命」が至上命令であるため、「終末医療」には相当な費用がかかり、そのほとんどを「保険」でカバーするというのはどうであろうか。
病院にすれば、死の直前の「1週間」に高度な医療を施せば収益があがる。
その高額医療費が公的医療制度でカバーされていれば、代金の取りハグレはない。
亡くなる人への家族の思いも判らぬではないが、この最後の「一週間分」が、例えば若年層の雇用対策に回せば、と思わざるをえない。
民主党は、後期高齢者医療制度を「姥捨て山」だの批判しておいて、ヤッパリ若い世代の「負担増」でよろしくナンテ、国民の批判が出にくいところから取ろうといているだけという印象を受ける。
現在、健保組合の8割が赤字で、追加負担には「解散に追い込まれる組合も出てくる」との懸念が広がっている。
民主党政権は、健保組合などの反発をやわらげようと、高齢者医療への税投入割合を現在の47%から50%に増やす案や、70~74歳の窓口負担率を1割から2割へ段階的に引き上げる方針も示している。
つまり民主党の「医療制度」案も老人票欲しさのものだが、「後期高齢者医療」制度はムシロ健全ではなかったかという気にさえなる。
いずれにせよ医療についての「民主的」な解は、全体から見るとかなり歪んだカタチで実現する可能性が高いということである。

「フローズン・プラネット」で見た南極にいる皇帝ペンギンの姿は立ち居振る舞いが人間を思わせ、まるで「鳥獣戯画」を見ているような気持ちにさせられる。
なんかタキシードかなんか着ている人間がアフレカエッテいるように見える。
まずはツガイで子を育てる「役割分担」が実に明確でホホエマシイ。
ツガイのキズナは長時間「同じポーズ」をジットとり続けるということらしい。
南極の中心でオスたちは巣作りを始める。リッパな巣をつくらないとメスに気に入ってもらえない。
近くから石を拾ってきて巣をつくるが、隣のオスが目を離している隙に石をチョロマカシて、それを自分の巣の素材としていたりする。
自分の石が盗まれていることにナカナカ気がつかない。
おひとよしではなくオトリよしのペンギンはどこまでもオトリよしであり、要領のいいペンギンはどこまでも要領がいいようである。
メスが卵を産み付けると、その卵をオスに渡しオスは足元の窪みでその卵を温め続ける。
その際に卵を足で転がしてオスに渡すが、この「足渡し」に失敗して卵が割れたりするから、ペンギンは慎重に慎重を期してタマゴの「足渡し」をするのである。
さてタマゴを生み落とすと、メスのペンギンは海岸へ食糧をとりにいく。
その距離はナント200キロ、歩くというよりも「お腹」でスベッテ海岸にたどり着く。
そうして海にはいって腹イッパイにエサを貯め込んでお腹をパンパンに膨らませて、また200キロの道のりをスベッテ帰っていく。
ところで、オスたちは冬の寒い時期を集団でカタマッテ過ごす。ペンギン達の身を守ったり隠したりする障壁は一切存在しない。
寒風吹きスサブ嵐の中を身を身を寄せ合っている姿を「連続写真」で見ると微妙に変化しているのがわかる。
外側に立つペンギンは順番に少しずつ内側に移動するなどして、皆が公平に「体温」が維持できるようにしている。
そしてこの寒い時期を乗り越えこえ、2ヶ月ぶりに腹にたっぷりとエサをため込んだメスたちが帰ってくる。
ニオイや鳴き声えで判別するのか、自分のツガイの相手(夫)を見出して、足元にいる孵った赤ん坊にエサを口移しで渡すのである。
皇帝ペンギン達は過酷な世界を生きる為に、かくも寄り添い温めあって生きている。

小津安二郎監督の映画「晩春」が伝えるメッセージがある。それは「老い」というものが、人間がひとつひとつ何かを失っていくということである。
妻に先立たれた学者が一人鎌倉に住んでいる。美しい娘は嫁いだ後の父の一人暮らしを思って「縁談」を断り続けている。
思いあぐねた父親は自分の架空の「再婚話」を捏造して、美しい娘を結婚させてしまう。
娘が結婚した学者の家がローアングルから映し出されるが、かつてあったミシンや家財道具が部屋からなくなっている。
娘の結婚とともに、父親の周りから多くのもの消えていってしまった。
この映画の「声なき」ラストシーンは見事である。
老人が椅子に座って林檎の皮をムクが、その無骨な剥き方で皮は長くはツナガラない。
だんだん薄くなる皮と不格好に歪んだリンゴの形に、老人の孤独を見た思いがした。
小津安二郎の一番の名作といえば「東京物語」である。この映画は世代間の気持ちのズレを通して「老い」が描かれていた。
老夫婦が尾道から子供達を尋ねて東京に出てくる。
しかし、子供達が育っていきそれぞれの生活をもっており、生活上の都合でセッカク上京してきた老夫婦にたいして、チットモ「温かく」接することができない。
長女はむしろ親を積極的に「邪魔者扱い」したりもする。
親も自分たちが歓迎されていないことを感じつつも、相手を責めるでもなく、ある種の「諦め」をもって温かく接している。
老夫婦が尾道に帰る途中に、母親が発病して亡くなるが、家族は「義務」のように葬儀を終えて日常に戻っていくという淡々とした映画である。
老夫婦を演じたのは、笠智衆と東山智恵子で、そのホノカナ笑顔や単調とも思える語りの一つ一つが奇妙にも心に残る。
この映画はドコニモある家族の姿を描くが、とても普遍的な広がりをもつ老夫婦の存在感の出し方は、オヅの「魔法」といってもいい。
小津映画で見るように、老人の周辺からはひとつひとつ欠けていくのだとしたら、老人は孤独であり「老後の保障」はいくらあってもタリナイという気持ちになる。
しかし若い世代にも差し迫った生活というものがあるし、人生の終焉を迎える者にとってコレ以上何をか望まんという「境地」に達することもあろう。
東北の大震災で、高齢者が若いものに食べさせろといってオニギリを渡すような場面があったが、「既得権益者」たる高齢者のコウイウ穏やかな気持ちコソが、多少でも若者達の未来の糧になっていく。
人々の気持ちの有り様で、民主的な「解」も随分変ってくるのではなかろうか。