ちょいゲリラ

韓国ドラマ「逆転の女王」では、リストラにあった夫婦のゴミ捨て場での会話がトテモ印象的だった。
妻にリストラがバレて責められた夫は、妻に代わってゴミだしに行ったママ、帰ってこない。
心配した妻がゴミ捨て場にいくと、「自分は役に立たずに捨てられたゴミだ」と涙を流して謝る。
妻はそんな夫を抱きしめ、「世の中にこんなに素敵なゴミがあるか/そのゴミを好きになってくっついた女です/ゴミだってリサイクルされる」と慰める。
実は妻は夫が勤める会社のヤリ手であり、コンナ夫を好きになってしまい主婦にオサマッタという経緯がある。
夫はトッポギ屋台をして事業を始めようとするが、妻の方はコノ会社の「窓際」チームの班長として再雇用されることになる。
また経営者一族のハグレ御曹司がこのチームに興味を持って責任者となり「逆転」を予感させる。
サラリーマンの哀感をとても「楽しく」描いたこのドラマは、キャリア・ウーマン同士の戦いも見所である。
というのも、互いに涙を隠しながらのケナゲナ戦いであり、女性視聴者の共感をよぶ(にちがいない)。
そういえばアンパンマンの声で知られる戸田恵子さんがコンサートで歌う、女性の圧倒的な支持をもって受け入れられている曲のことを思い出した。
実は声優兼女優の戸田恵子さんにも、「知られざる歴史」があった。
小学生の頃からNHK名古屋放送児童劇団に在籍し、「中学生日記」で女優デビューもした。
その後演歌歌手「あゆ朱美」という曲でデビューしたが、まったく売れなかった。
名前が世間で知られたのは、アンパンマンの声優になってカラだが、「あゆ朱美」がアンパンになるとは「あくシュミ」な冗談のような話ではある。
その戸田さんが女優として活躍しハジメテ、ようやく出したアルバム「アクトレス」のなかに強烈な「光」を放つ曲があった。
中村中作詞の「強がり」という曲で、ヒトコロは働く女性の「泣ける曲」ナンバーワンともいわれた。
ちなみに中村中さんの曲は、人の心を奥深く掘り下げた「隠れた」名曲ばかりである。
「強がり」の歌詞の全部を紹介したいが、冒頭部分だけ抜粋すると、
♪いつからだろう強い女になってしまった。
口先ばかり上手になって本音いうのも楽じゃないわね。
どうせみんな見てる事ばかり信じたがるのよ♪
♪馬鹿にされるのは癪だから強い女になりました♪という名曲「強がり」の制作に当たっては、戸田恵子さんと中村中さんがスタッフも入れずに二人きりで飲み明かし語り合って出来たという。
イワバ二人の心の「コラボレーション」と結実といっていい。
戸田さんのステージでこの曲が披露されるや、各地で反響を呼び、会場では「号泣」する人が続出した。
そして舞台終了後も熱烈な要望が寄せられ、ついにシングル化が決定した。
「家政婦のミタ」のテーマ曲「やさしくなりたい」は斉藤和義という男性アーティストの作詞作曲だが、あの「愛なき時代に生まれたわけじゃない 強くなりたい やさしくなりたい」という歌詞とも通じる曲のように感じた。
ところで「逆転の女王」では、日本で「勝ち組」「負け組み」という言い方があるように、韓国の企業社会にも「甲組」「乙組」に分けられる格差社会であり、主人公は「乙子」さんから「甲子」さんへのリベンジが、痛快なカタルシスとして描かれている。
ところでサラリーマンの悲哀は「沈まぬ太陽」や下級武士の世界に人々にソノ思いを託した藤沢周平作品など描かれている。
また自らサラリーマン生活を送ったことのあるミステリー作家の赤川次郎氏にもその類のものがある。
例えばサラリーマンの不条理、悲哀が描かれたホラー「駐車場から愛をこめて」なんて短編は、冒頭の「ゴミ捨て場」の話と重なって哀しいものがあった。
とあるビルの会社で行われる会議に出席するため、車で訪れた助教授がいた。
駐車場に車をとめようとするが、突如、男が現れ、「駐車場は満車」と告げたまま立ち去る。
「空」スペースが予約してあるハズと訝しがる助教授は、会議でそのコトを持ち出す。
すると営業部長の男が、「あなたは幽霊に会ったのだ」とアル男の話を始める。
つまり、仕事が出来ずに「駐車場」に回された男が、コーンを空きスペースに置く仕事を任されたが、 ふと目をソラシた時そのスペースを他の車が占めようとした。
男はその瞬間、そのスペースに身を投げてその車の下敷きになって亡くなったというのである。
本作は最初から主人公が幽霊であることが明かされたが、仕事を命じた女上司までも主人公の後を追って亡くなった「幽霊」だったという点で意表を突いていたのは、サスガだった。
ところで、サラリーマン社会から一度外れてしまえばという恐怖は強く、どんな犠牲を払ってでも会社にシガミつきたい気持ちはというのは、日本も韓国も共通しているのがわかる。
ただ日韓で少し違うのは、韓国は兵役があるため、そこで意外な人間関係がうまれ、この「逆転の女王」の場合、夫とその上司たる御曹司が同じ部隊で、夫が散々御曹司を苛めたという「痛すぎる」過去をもっていたということである。

最近の若者の離職率が大きな問題となっている。
折角高い競争率を勝ち抜いて入社しても、何もソコマデして「会社」にシガミツクことはないという「意識の表れ」である。
こうした意識の持ちようからすると、「フリーター」という仕事の形態は、さらに一般化していく気配がある。
となると、夫婦で派遣やアルバイトの仕事をカケモチしながら家族を支えていくという労働形態が増えて行きそうである。
それならば、人々は「一生をかける」仕事という職業意識はもちにくく、その日その日を食いつないで行く「ナリワイ」的な労働観をもつようになるかもしれない。
もっとも、ちゃんとした会社に入って職業に就いている人でも、主観的には「ナリワイ」的に働く人も多い。
「ナリワイ」とは、生活そのもの、あるいはそのための仕事という意味である。
「ナリワイ」と「職業」がドウ違うのかというと、トリアエズ生活が「主」で仕事が「従」か、仕事に「主」で生活が「従」かという「分類」もあるだろう。
江戸時代の仕事の大半は、少しばかりの複数の技を身につけ、カケもちしながらなんとかやってく仕事が ほとんどあり、そうした位置づけの仕事が「ナリワイ」といってよい。
一年とうしての仕事もあるが、多くは季節仕事といっていい。
お百姓は自力で家を建て衣類も調達でき、布や紙を出荷できる職人兼商人であったし、鳶職は火消しでもあり商売人でもあった。
「ナリワイ」と職業の区分を「目的意識」からみるのもよい。
職業の目的は、収入を得ること、仕事を通じて自分をいかすこと、社会の一員として義務を果たし貢献することなどがアゲられる。
つまり職業とは、単に生計を維持するための働き方ではない「プラス・アルファ」をもつものである。
わが国における「職業の歴史」をヒモ解くと、この用語が登場するのはヨウヤク18世紀の中葉から維新期にかけてである。
それ以前は生業、なりわい、活計、そして「渡世の業」などと言われていた。
農工商の家業や事業をさして、コウシタ用語が編み出されたようである。
山鹿素行は、農工商は家業や事業で忙しいので、彼らに道徳を教え、人倫を正す必要がある。それを担う役割が武士にあり、これこそが武士の職業だといった趣旨のことを述べた。
そこでクローズアップされたのは、職業には、生活を保持するための「ナリワイ」と、社会的役割を果たすための「職分」とが相互に絡み合っているという「職業観」である。
実はどの職業とも、濃淡の差はあっても、生業という要素と「職分」という要素の「二重構造」になっているということである。
江戸時代の職業といえば、士農工商の身分制度があったので、仕事といえば四種類しかなく「職業選択」の自由というものが全くなかったような印象を抱きガチである。
しかし、一言で「商人」と言っても様々な商売があるし、職人や商人も今でいう自営業のようなかたちで働いている者も多く、非常に個性的な職業も多かったのである。
当時の庶民の1日の時間の使い方は、時期ごと季節ごとに変っていることに表れる。
人口の約80パーセントといわれる農民も、天候が荒れれば家で藁細工をするなど、その時々の状況に合わせて仕事をしていた。
もちろん職業によっても異なるが、やはり農民は日の出とともに起きて仕事をして、日の入りとともに仕事を終わらせる。
では大工などの職人はというと、朝7時から夕方5時ぐらいまで働いていたようである。
長い休憩を3回ぐらいとるのが普通で、実質8時間程度働き、さらに日が短い冬などは、4時間ぐらいしか働かなかったという。
江戸時代には仕事が非常に「細分化」されて、「新茶売り」、「たけのこ売り」、「胡瓜(きゅうり)売り」、 「自然薯(じねんじょ)売り」、「柏葉(かしわば)売り」、「空豆売り」、「カツオ売り」、「飛び魚売り」、「鯛売り」、「干しふぐ売り」、「漬け梅売り」、「苗売り」、「麦こがし売り」、「白玉餅売り」、「辛皮(からかわ)売り」、「孟宗竹(もうそうちく)売り」、「菅笠売り」、「しゃぼん玉売り」、「海ほうづき売り」、「甘酒売り」、「ほうき売り」、「うなぎ屋」などなど、スベテ挙げようとしたらキリがないくらいの商売があった。
また当時は、贅沢さえ言わなければ「日銭」程度でも稼げたのである。つまり、「元手」が無くても仕事が始められるような仕組みが出来上がっていた。
例えば、ある人が一念発起して仕事を始めようと思えば周りの友人達が、友人・知人・顔見知りの商家に 「奉加帳」を廻し、カンパのお金を集めた。
「奉加帳」で集めた資金で商売を始めてしまえば、後は町内の信頼と期待を担っているので辛抱強く仕事をしなければならなかった。
周囲の人々の厚意を励みにして仕事を続けていたことが、江戸時代には失業率が低かった理由の一つといえる。
江戸のお仕事事情は、誰かに雇ってもらうだけじゃなく、自ら商売を「考案」してソレデ稼いでいたというのが適当かもしれない。
町人が江戸の町に住むには、女性や子供、隠居以外は何かマトモな職業に就いていなければナラナイという「不文律」があった。
そして、本人に働く気サエあれば仕事が無いということはホトンドなかったという。
仕事は「長屋の大家」が見つけてくれたり、「口入れ屋」という「職業斡旋所」のようなところがあった。
ところが現代において、サラリーマン社会に出現した途端に、男は会社一辺倒になり、女は「専業」主婦を目指した。
その場合、女性の仕事はといえば、イバン・イリイッチのいうところの「シャドワーク」である。
つまり産業社会の「影」を担うような仕事に徹することなり、充足や自立とはホド遠い「補助的」なものとなる。
ある本によると、大正半ばと比べて今の職業の種類は16分の1に減ったという。
業種を減らして高度成長の担い手とした結果である。
世の中必ずスキマがある。
そこに「ナリワイ」を作りだす。時間の使い方としては、資本主義社会をゲリラ風に生きるのである。
博物学者の荒俣宏氏が社会人になって一番感動したことは、「サラリーマンは絶対に遅刻しない」ことだったという。
日本の古い武家社会から、武士つまりサラリーマンの基本は君主の作ったスケジュールを守ることだったから、これもうDNAに組み込まれているといっていい。
その時間の中で落ち度なく過ごせる人材を、「素性のわかる」縁故から採用する慣習が続いていった。
だけれども産業社会の進展にともなって、未知数の人材が流れ込むこととなり、こういうタイプをどう使うかという「労務管理」が大きなテーマとなったといってよい。
そしてそれは、終身雇用年功序列の「偽制」イエ社会でそれを成し遂げたということだろう。
ただし皆が皆「忠君」であるはずもなく、朝はキチンと出勤してくるけれど、空き時間を見つけては将棋をさしているとか、昆虫好きで昆虫採集の日程優先で残業が頼めないとか、仕事よりもマズは組合活動だとかという「ややゲリラ風」もいた。
趣味優先で中央には置かれず窓側に置かれていても、役立つこともアルノデハナイカということで、とりあえず「戦力」にならずとも、マア置いておこうという人々もいて、柔軟で長続きする組織というものが生まれるのだろう。
というわけで、「ちょい悪」オヤジとかいう言葉もあるが、「ちょいゲリラ」という「仕事観」も面白い。
テレビで見た一人の若者は、包丁の研磨をしつつ商店街をまわるナリワイとしているのだが、包丁を研いで皆がコンナに喜んでくれるなんて、これほど楽しい仕事はないといっていた。
時々商店街にアラワれて「包丁」をピッカピカに研いでサット消えていくこの若者、なんかゲリラ風に生きていないか。
日頃はバンドマンなんかやって夢を追い続けているのかもしれない。
こういう「ゲリラ的」仕事は、決まった時に決まったように回る必要もなく、時間の裁量はキクので、幾らでも他の仕事をすることも出来そうである。
「ナリワイ」の本質は、スキマを見つけてはソレを仕事にするが、単なる「ナンデモ」屋ではなく、ソレナリに「アマチュア以上」という自負心があって、そのことが仕事の「充足感」をもモタラスという部分もある。

最後に男が夢を見て一生をかけた仕事に対して、とても「意味深」な言葉をナゲカケて世を去った杉田秀雄氏のことを紹介したい。
瀬戸大橋の建設のきっかけとなったのが、昭和30年の国鉄連絡船 紫雲丸の沈没事故の大惨事である。
橋さえあれば、こんな大惨事が起こらなかっただろうということで、瀬戸大橋開設を求める声が大きくなった。
そして、橋を作るための公団である本州四国連絡橋公団ができ、そのリーダーとなったが香川県丸亀市出身の杉田秀夫という人物であった。
本四公団への出向という中途半端な状態ではこの難工事は完遂出来ないとし、本四公団に転籍し、通常3年間で転勤になる現場所長に10年勤務し、「瀬戸大橋」を完成させた。
杉田秀夫は、片道40分の道のりを自転車で通勤した。工事再開に備えてのトレーニングだったという。
瀬戸大橋の必要性を500回もの説明会の中で、現地の漁師達に語り、ようやく「人々の輪」が出来始めた。
しかしソノ矢先、妻が突然末期癌に侵された。妻にも会社にも家族にも病名は伏せていた。
毎晩、仕事が終えると妻の病室に泊まり込み、点滴から下の世話までし床にマットを敷いて寝た。
朝は妻の洗濯ものを家に持ち帰って洗い、子供達の食事の準備をし、新しい着替えを病院に届けてから出勤した。
しかし、12月24日のクリスマスイブの日に妻の和美が34歳の若さで死んだ。
瀬戸大橋は様々な難関を超え1988年4月、延べ900万人が10年の歳月をかけた夢の懸け橋が誕生した。だがそこに杉田の姿はなかった。
工事完成とともに、現場から身を引き四公団の東京本社に転勤し、昇進も望まなかった。
杉田は後半生を三人の娘に捧げた。長女は中学二年生、次女は小学五年生、三女は小学二年生だった。
毎朝5時半に起き、食事の準備をし娘たちの弁当を作り、洗濯をし三人を起こして食事をさせ出勤した。
帰宅途中に献立を考えて買い物をし、毎晩夕食を作った。その後、あとかたづけをしアイロンをかける日課を続けた。
杉田氏は再婚の話もあったが全て断り、1993年娘達に囲まれ62年の生涯を終えた。
母校県立丸亀高校で全高校生に講演した際に語られた言葉がある。
「橋をつくるということの経験が人より多少に余計にあったからといってこれは人生の価値と全く別のことなんですね。 偉大なる人生とはどんな生活を言うのかいうことなのですが、これは非常に難しい問題でありまして、瀬戸大橋をつくるよりはるかに難しい」。
結局杉田氏は、人生において瀬戸大橋を作ることより「大困難」がアッタという「意味深な」言葉を残されている。
昨今の社会情勢の変化は、従来の「職業観」を根コソギにしそうな勢いがある。
人生という「荒波」を乗り切るのに、「ナリワイ」風もアリ、「ちょいゲリラ」風もアリ、ということである。