聖書と経営者

「右手に聖書、左手にドラッカー」というのは、ある日本人経営者の言葉である。
プロテスタンティズムこそが「資本主義」を生んだというのはマックス・ウェーバーのテーゼだが、日本の経営者の中にも少数だが、それにピッタリといってよい人物もおられる。
冒頭は、その一人である社長の言葉である。
つまり、自分の職業は神様から与えられた「天職」であり、自分は仕事によって「神の栄光」を表すのだという「信仰」をもつ経営者である。
ドラッカーも、人を最も効果的に「動かす」のは、「明確な使命感」を持たせることだと書いている。
信仰と仕事の「使命感」が結びつくと、さらに強い。
ところでウェーバーが指摘したように、聖書はヤヤ迂回して「資本主義精神」を生んだけれども、即「マネンジメント」の源流のようなことが、結構書かれているのである。
まず「創世記」には、「地を従わせよ。また海と魚と、空の鳥と、地に動くすべての生き物とを治めよ」(創世記1章)と書いてある。
「治めよ」とは「管理する」ということだが、この言葉は西欧人の自然に対する態度を決定付けたという意味で、ハカリシレナイ言葉である。
紀元前10世紀頃、神にモーセは「エジプトの王パロにイスラエルを去らせよと伝えよ」と命じられるが、口下手なのでデキそうもないと応えると、お前の右手には「何があるか」と問われる。(出エジプト15章)
モーセは右の手に「杖」を持っていたのだが、この「杖」がパロの前で様々な「不思議」な働きをなすことになる。
この神の「問いかけ」の意味は、「必要なものは与えたから、それをシッカリと使え」というメッセージである。
つまりそれは、ミッション・ポシブルなのだ。
一方、モーセはイスラエルのリーダーとして、すべての仕事をショイこんでしまったが、神はソノ状態をみて「あなたのしていることはよくない」と語りかけている。
そして「すべての民のうちから、有能な人で神を恐れ、誠実で不義の利を憎む人を選び、千人の長、百人の長、五十人の長、十人の長としなさい」(出エジプト18章)と命じている。
また神はモーセに、集団の維持に必要な様々な「能力」についても、次のようなことを語っている。
「見よ、主はユダヤの部族に属するホルの子なうウリの子ベザレルを名指しで召し、彼に神の霊を満たして、智恵と悟りと知識と諸種の工作に長じせしめ、工夫を凝らして金、銀、青銅の細工をさせ、また宝石を切りはめ、木を彫刻するなど、諸種の工作をさせ」(出エジプト35章)とある。
このベザレルという人は、「神の霊によって」様々な工夫を凝らす「能力」を与えられたというのだ。
以上マトメると、神は人に何事かをナサセル時、必要なものをすべて与え、人の側は「与えられたもの」をフルに活用して、「使命」を果たすことが神に対する「責務」であるということである。
ところで旧約聖書のイスラエル人の系図では、アブラハム・イサク・ヤコブと続くが、神がヤコブの「産業」を祝福した話がでてくる(創世記32章)。
神の祝福を受けようとしたヤコブの態度は「注目」に値する。
ヤコブは自分の「家畜の持ち分」を他者とハッキリ区別し、自分が「家畜の増やした」の分を明確にしている。
そしてヤコブの家畜はかなり「不思議な」増え方をするのだが、そこに「神の祝福」を明確にしようとしする姿勢が見られる。
ちなみに家畜のことを英語で「ストック」といい、同じ言葉は「株券」にも使われている。
ヤコブ流の「所有権」は、自分に与えられた「神の恵み」を明確にせんがため、と思えたりする。
実は神は、このヤコブという人物に「イスラエル」(=神と争う)という名前を与える。
ヤコブは、神とケンカするほどに「神の祝福」を求めた人であり、神はソレに応えたのである。
世界の富者にユダヤ人(イスラエル人)が多いのも、こうした聖書の言葉に慣れ親しんでいることと無関係ではあるまい。
ところで最近、「アカウンタビリティ」という言葉をしばしば聞く。その意味は、「説明責任」ということだが、意外にもソノ源流は「聖書」にある。
新約聖書のペテロの第一の手紙に、「彼らは、やがて生ける者と死ねる者とをさばくかたに、申し開きをしなくてはならない」という言葉がある。
この「申し開き」とは、原語のギリシャ語では「説明」という言葉と同一の言語である。
つまり、「アカウンタビリティー」は語源的にいうと、「人の前」ではなく「神の前で」行うもの、ということなのである。
また、「説明責任」の経営的意味を感じさせるのが、イエスの「タラントの譬え」(マタイ25章)がある。
主人が僕たちに五タラント、二タラント、一タラントを預けるのが、「収支決算」の時がきて、タラントの使い道について、一人一人に「説明」を求める。
五タラントもつもの、ニタラントもつもの、それぞれ「財産」を倍させするが、一タラントもらった者は、、地に埋めてかくして、何も増やすことはなかった。
園の主人は、与えられたものが少ないらといって財産を増やすことをせず、それを銀行に預けることさえもせず、「眠らせ」ておいたダケのこの僕(しもべ)を園から追い出したという話である。
このタラントという「貨幣の単位」が、英語でいう「タレント」つまり才能を意味する言葉の語源となっているのは、いうまでもない。

16世紀に生まれたプロテスタンティズムは、「不完全」にしか達成できなかったものの、「聖書の原点」に立ち戻ろうとしたムーブメントである。
アメリカはその「聖書の原点」を実現すべく新大陸に渡ってきた熱烈な「ピューリタン」達が築いた社会である。
ゼロから出発した彼らにとって、聖書にある「タラントの譬え」どうりに、新大陸の「園」で財産を「増やすこと」は、神様に対する「責務」であるという信仰があった。
だから個々人「救い」の確かさは、その人が得た「神の恵み」すなわち「富」によって表れるという信仰である。
逆に見ると、富というものが、「神の祝福」(=導き)によって得られるものであるという意識がある限りは、資本主義は「信仰」に裏付けられた、ある種の「健全さ」を保っていたといえるかもしれない。
それはアダム・スミスの経済思想が、「道徳哲学」に裏付けられていることを連想させる。
アメリカで一番古い大学はハーバード大学で、ハーバード・ビジネス・スクールは「経営学」の分野でも世界をリードする存在である。
ハーバード大学は1636年、ジョン・ハーバード氏によって創立された。
ジョン・ハーバードは牧師で、私財を元にし、学問の進歩と文化、そして「信仰」の伝統を伝えるために、この大学を作った。
すなわち彼は、後世の人たちを「教育」するために自分の財を費やした。
彼はさらに教職員を確保する目的で、次から次にその枠を広げた。マサチューセッツ州にはマサチューセッツ大学、そして研究目的にはその他の施設をつくり、神を学問のベースとし学ぶ学校をつくった。
コネチカット州では、清教徒によって自由の中で宗教的教育を青年に授けるためにイエール大学が開校された。
その他プリンストン大学、コロンビア大学が同じような趣旨で設立された。
そう考えると、このメイフラワー号で初めに渡った人々(ピューリタン)が運んだ「信仰」は、後のアメリカという国に多大な影響を与えたことが分かる。

日本でも、巷間には知られていないが、キリスト教信者でありながら、企業経営トップにある人は意外に多い。
故人となられた方を入れると、次のような方々がいる。
日本生産性本部会長・郷司浩平、ソニー創立者・井深大、日立製作所社長・駒井健一郎、パイオニア会長・松本望、荏原製作所社長・酒井億尋、小野田セメント会長・安藤豊禄、山崎パン社長・飯島延浩、大丸デパート社長・井狩弥治郎、三和銀行会長・渡辺忠雄、三菱銀行相談役・田実渉などがおられる。
日本の産業界のリーダーであった郷司浩平は、ある神学校の理事長であり、パイオニアという会社は、創立当初「福音電気会社」といって、キリスト教の伝道を基礎において始まった会社なのだ。
他に、「エンゼル・マークの森永」を創業した森永太一郎を思い浮かべる。
森永は1865年佐賀県伊万里の陶磁器問屋に生まれた。幼くして父を失い母とも離別した。
親類の間を孤児として転々としたが、漢学者の家に丁稚奉公し、傍ら漢学を学んだ。
しかし謝礼の米が納められず、三度の食事にも苦労したという。
13歳の春、伯父の家に引き取られ、50銭の資本で八百屋の行商をやり、次に陶磁器の番頭となり横浜にいった。
ところが借金地獄に苦しみ1888年、23歳で単身アメリカに渡る。
知人もなく英語もできない森永が、そうそう商売で成功するわけはない。
たちまちホームレス状態となり、ある時雑役夫として働いた頃、酒をあおるように公園のベンチに寝ころがったところ、天使が舞い降りた。
そこに、「キャラメルの包み紙」が落ちていたのだ。
ピーンときて、さっそく菓子工場を探すが日本人を雇ってくれる工場はなく、農園や安宿、邸宅などを転々としているうち、ついにキャンディー工場の仕事に就くことができるようになった。
そして1899年35歳の時、森永は洋菓子の製法を身につけ日本に帰国した。
その年東京赤坂に念願の「森永西洋菓子製造所」を起こしたのである。
これが後に、「エンゼルマ-クの森永」として親しまれる森永製菓の創立であった。
森永太一郎は1937年73歳で波乱の人生を閉じ、佐賀県の伊万里神社の境内には、森永の銅像がある。
森永太一郎が、果たして「信仰者」だったのかはよく知らないが、製品に「エンゼル・マーク」を使うぐらいだから、自分の仕事が「天より賜った」ことを強く意識した人であったであろう。
さらに、キリスト教の「信仰の旗」を高く掲げて聖書からマネンジメントを学んで、実戦している経営者もいる。
その代表的存在が、クリーニング・チェ-ン白洋舎を経営する五十嵐丈夫氏である。
この五十嵐丈夫氏の父親が、白洋舎を創設した五十嵐健治である。
作家の三浦綾子が100通を越える手紙のヤリトリを元に小説「夕あり朝あり」(1987年)を書いたため、その生涯がはじめて知られた。
五十嵐は新潟県に生れたが、高等小学校卒業後に丁稚や小僧を転々とし、日清戦争に際し17歳で軍夫(輸送隊員)を志願して中国へ従軍した。
三国干渉に憤慨しロシアへの復讐を誓い北海道からシベリアへの渡航を企てるが、だまされて原始林で重労働を強いられるタコ部屋へ入れられた
脱走して小樽まで逃げた時、旅商人からキリスト教のことを聞き、市中の井戸で受洗したという。
上京して、三越(当時は三井呉服店)の店員として「宮内省の御用」を務めるが、そのことが彼の人生を大きく変えることになる。
三越で10年間働き、29歳の時に独立し1906年に白洋舎を創立した。
五十嵐は洗濯という仕事が人々への奉仕であり、罪を洗い清めるキリスト教の精神につながると考え、洗濯業を「天職」にしようと決心したという。
こうした日本の経営者のヒトツのパターンとして、英語を学ぶとか外国の文化を学ぶとかいう名目で、教会の日曜学校(バイブル・クラス)に通ううち、外国人宣教師に導かれてキリスト教信者になったケースが多いようだ。
東京大学を中心とした本郷界隈は、明治以来のキリスト教会が多い。(その意味ではボストンに近い)
特にプロテスタントの活動は顕著で、戦前に建てられた礼拝堂も現存しているが、そこには西欧文化を学ぼうとした知的好奇心が高い学生が多く通っていた。
夏目漱石の「三四郎」ゆかりの本郷中央教会や、芥川龍之介やその学友らに強い影響を与えた弓町本郷教会は、プロテスタントの系統である。 というわけで、本郷界隈のプロテスタントの教会は、経済面に限らず日本の近代史全般にに大きな影響を与えたともいえるのである。

最近再び注目を集めるユダヤ人のピーター・ドラッカーが、アメリカのビジネス界に与えた影響はハカリしれない。
ではドラッカーは何ゆえに「マネンジメント」を主題として「思想」したのだろうか。
それは、ドラッカーの「個人史」に負うところが大きい。
ユダヤ系だったドラッカーは、ナチスの勃興に直面し、またウィーン革命などでヨーロッパ社会の原理が崩壊するのを目の当たりにした。
危険を悟り、家族とともにイギリスを経てアメリカに逃れた。
そこで彼が目にしたのは20世紀の新しい社会原理として登場した「組織」である巨大企業だった。
ドッラカーはその「社会的使命」を解明すべく、ゼネラルモーターズを題材にした著作に取り掛かり、それが、「企業とは何か」に結実する。
「企業とは何か」を単なる利潤の追求の「器」として見なかったことが、ドッラカーの思想の原点である。
さらには、組織運営のノウハウすなわち「マネジメント」の重要性をハジメテ世に知らしめた点に最大の功績がある。
「企業とは何か」は、フォード再建の教科書としても使われたという。
ドラッカーは「分権化」などの多くの重要な経営コンセプトを考案したが、その興味・関心は「大企業」の世界にとどまらず、社会一般の動向にまで及んだ。
ドラッカーの究極的な関心は、「人を幸福にすること」にあった。
そのためには「組織」と「人間」の関係を深く考察したのである。
それは、ドイツのナチスのように、組織が人を狂わせ不幸に貶めることを、マノアタリにしたことによるものだった。

聖書に、「主なる神は土のちりで人をつくり、命の息をその鼻に吹き入れられた」(創世記2章7節)とある。
この「息」が「霊」にあたるもので、ギリシア人もこの存在に気がつき、「プシュケー」と呼んだ。
また聖書全般によれば、人は「霊」と「たましい(心)」と「肉体」から構成されている。(Ⅰテサロニケ5章23節)
動物は魂と肉体で構成されていて、霊によって生かされるものではない。
そこが人間と動物の違いであり、ソレゆえ動物がどのように「進化」しても人間にはなれない。
神は人間に、「ご自身」を認識し、交わることができるように「霊」を授けたのである。
したがって、「正しい」信仰は、「思い込み」などによるものではなく、そうした「聖霊の賜物」(Ⅰコリント12章7節)なのである。
20世紀初頭の思想家ニーチェがいう「神は死んだ」という言葉は、現代を預言する言葉として、ピタリといいアテテいると思う。
たがそれは、「神が存在しない」と思えるほどに、人間の「内なる霊」が死んでしまったという、現代人の「自己表明」に他ならない。
「合理主義」「唯物主義」を信奉するあまり、「霊」を活かさず生きているということなのだ。
それは、すべてをショイこんで「霊」を眠らせたモーセに対して、神が「あなたのしていることはよくない」と語ったこと、またイエスが語った「タラントの譬え」の中で「地下にタラントを隠しておいた僕」を思いおこさせるものがある。