分岐点の人

或る時気がつかなかったが、後になてようやく、アノ時が「分岐点」であったのかと判る、という場合がある。
では、その「分岐点」に立っていた人々は、誰であっただろうか。
昨年11月、野田首相が、雑誌に「範とする首相」として大平正芳元首相のことを語っている。
大平正芳が首相になったのは1978年、第二次石油ショックが起きた時代で、なんとか「第一次石油ショックを乗り越えた時期だった。
大平首相は、「財政再建」を第一の使命としたという点で、野田首相と似ている。
しかし、大平首相を「範とする首相」としたのはドウイウ意味か、少なくともアノ時には判らなかった。
大平氏の首相在任中、福田赳夫氏との政権抗争やら、60日間抗争やら国会の空転やら、増税など散々タタカレまくっていた印象しか残っていない。
1981年、造反による「不信任」可決による解散によって衆参同時選挙が行われ、その選挙期間中に大平氏は急逝した。
その「弔い選挙」で、自民党は「大勝」した。
そういう「混乱」にバカリ目がいったが、大平氏が何を言ったのか、何を構想したのか、という「中身」については、ア~ウ~という「冠頭言」ばかりが耳に残っていて、全く知らなかった。
そして今思うに、大平首相は「中身濃い」珍しいリーダーであったということだ。
その構想の「先見性」は今になって「評価すべき」ところが、トリワケ大きいように思われる。
つまり、「大平構想」のヒトツダケでも実現していたら、日本の今の姿はナカッタということである。
ちなみに、最近のテレビドラマである「運命の人」では、大平氏は「小平正良」(役:柄本明)という人物に擬せられて登場する。
実際に、その「突然の死」のインパクトからしても、大平首相自身が日本の未来にとって「運命の人」とまでもいわないまでも、今日的課題からみて「分岐点の人」であったことは間違いない。
ところで、ライシャワー駐日大使が最も信頼をおいた人物が、大平正芳氏であった。
大平氏は、「キューバ危機」のアオリもあった時代に、池田内閣の外相として「日米核持ち込み問題」における「核密約」の取り交わしに関わっている。
1963年にはライシャワー駐日大使を通じて原子力潜水艦の「寄港申し出」でがあり世間でも議論の的となったが、秘書によれば、ライシャワーから「密約」の存在を伝えられて苦悩していたという。
現在日本では、「TPP参加」には国内的に様々な問題点が取り上げられるものの、参加がどんな結果を招くかは相変わらず不明だが、戦後の日本が唯一自発的・主体的に提唱した「世界秩序構想」が、「APEC(アジア太平洋経済協力)」というものである。
これは、1978年に大平正芳首相がアジア太平洋地域の経済協力体制構想すなわち「環太平洋連帯構想」を呼びかけたことに始まる。
1980年6月の大平首相の死去により頓挫したが、次の次の中曽根康弘首相が「大平構想」に注目し、大平首相時代ののブレーンを中曽根内閣のもとに「再結集」して、大平構想の実現に意欲を示した。
その結果1989年に生まれたのが、APECだった。
当時のASEAN加盟6カ国に加え、1993年には中国と台湾が加盟、文字通りアジア太平洋地域を包含する経済協力機構となった。
しかし、このAPECもアメリカの自由貿易体制に組み込まれつつあるばかりか、今アメリカが主導しているTPPは、APECを分断して中国に対抗する「経済ブロック化」を推進しようとしている印象がヌグエない。
日本は1973年の第一次オイルショックで戦後ハジメテのマイナス成長を記録するが、1975年度の予算編成で、三木内閣の蔵相であった大平正芳氏は連日の省議の末、やむなく2兆円の「赤字国債」発行を決断した。
大平氏は、もともと「小さな政府」論者であったが、このことをひどく無念として「万死に値する」とまで言っている。
さらには大平氏は「一生かけて償う」とマデ周辺に誓ったという。
そして、官僚たちによる「赤字国債」発行の「恒久化」への要望をシリゾケ、毎年毎年しっかり議論して決めるべきコトとして、1年限りの「特例法」にして今日に至っている。
それでもコレダケ借金がカサンデいるのだから、政治家や官僚は、大平氏が踏みとどまらせた「特例法案」の意味をもっとカミシメルべきであったろう。
以上のように、終戦から現代を結んで一番の「分岐点」を探すならば、「大平首相」の時代ではナカッタカと思えるのである。
言い換えると、「大平構想」の中に今日的課題を「先読み」したかに思える内容がフンダンに含まれていたということだ。
また大平首相は、民間人や官僚による9つの「研究会」を組織したのも注目すべきことであった。
それぞれの議長の選任は佐藤誠三郎、公文俊平、香山健一の三氏を中心に進められたが、30歳代から40歳代の21世紀にかけて「第一線」で活躍できる在野の碩学を集めた。
中でも香山健一慶応大学教授は、大平氏の「田園都市構想」の中核を担った学者であるが、大平首相自身が「施政方針演説」で、その構想を次のように語った。
「公正で活力のある日本型福祉社会の建設に努めたいと思う。そのためわたくしは、都市の持つ高い生産性、良質な情報と、民族の苗代ともいうべき田園の持つ豊かな自然、うるおいのある人間関係を結合させ、健康でゆとりのある田園都市づくりの構想を進めてまいりたい」と。
大平氏のいう「民族の苗代」という言葉の中には故郷である香川県の風景があったに違いないが、それが「日本型福祉社会」と結びついている点で、印象的である。
そして氏の茫洋とした人柄とあいまって、開発と経済成長を重点的に説いてきた歴代の首相、特に朋友の田中角栄とは明確に違った「人間重視」の哲学をもつ指導者という印象を国民の多くに与えた。
また前述のように、大平氏にとって二度の石油ショックで「膨大な」公債に頼っている「財政再建」こそが最大の「政策課題」であった。
その為に政治家にとっては最も言い出しにくい「増税」を前面に持ち出した。
大平氏は「増税」を、様々な措置のうちの一つの「可能性」として取り上げたまでだが、マスコミと野党はこの部分を大きく取り上げ、大平氏の意図は歪曲されて国民に伝えられていった感がある。
その点について、国民が好まないことでもヤラナケレバならいのが政治だ、と周囲にモラシていたという。
しかし、解散して総選挙に突入するも、与党の候補者ですら一般消費税の反対、増税反対を訴えるという異様な選挙となり、投票日が台風の到来と重なったこともあり、自民党は過半数をかろうじて確保するものの、実質的には「敗れた」といっていい。
また、大平氏が打ち立てた9つの研究会の1つに「家庭基盤充実研究」グループがある。
経済学者の伊藤善市を議長とするこの研究会は1年間の議論を経て、大平首相が亡くなる直前の1980年5月末に報告書「家庭基盤の充実」が提出された。
その内容を簡単にまとめると、
(1)国や地方自治体が国民の福祉を全部みるのは無理であり、国民の健全な勤労意欲も失わせる。
(2)まずは、国民一人ひとりの自助努力が必要で、その上で家庭・地域・企業・同業者団体が国民の福祉を担い、国は最後のセーフティーネットとなるべきだ。
(3)そして、家庭が福祉を担う存在として国はその基盤を充実させる政策を採るべきで、その意味で英国型でも北欧型でもない「日本型」の福祉社会を目指すというものだった。
大平首相はこの段階ですでに、「自助努力」や「家族福祉」の路線をウチダシており、少なくとも大平氏が「回避」しようとしたのは、このまま「少子高齢化」が進めば、年金財政の破綻も必至であり、生活保護費の急増も財政を逼迫させていくといった事態である。
ところで各政権における「家族」に対する考え方は、マズ税金の「控除項目」の中に端的に表れる。
「家庭基盤の充実」構想はその後の内閣によって、配偶者控除の拡充や配偶者特別控除の導入・拡充、同居中の老父母の特別扶養控除の導入、専業主婦の第3号被保険者制度の導入などの形で実現し、家庭を子供や高齢者の福祉を担う存在として財政的に支援してきたのである。
例えば老父母の特別扶養控除の導入によって老父母が子供と同居が促進されれば、現在の年金給付額でもソレホド困窮することはない。
結局大平氏の構想は、「家庭による福祉」を国が税制でも支援し、国民を導こうという「長期的ビジョン」に立脚するものであった。
民主党の「マニュフェスト」が生きていた頃は、「配偶者控除」を廃止してその財源を「子供手当て」に当てるというものがあったが、この考えを極限化すれば、妻も夫同様に働きナサイ、子供は社会が面倒みるから、ということになる。
ちょうど「大平構想」の「家庭基盤の充実」とは正反対のことをやろうとしたのである。

日本社会の「分岐点の人」にならって、アメリカ社会の「分岐点の人」は誰であったかと考えた時に、部分的に大平氏と交叉するニクソン大統領ではなかったかと思う。
それは二つの意味においてである。
一つはアメリカや世界が完全にペーパーマネーの時代になったという意味において、もうひとつはアメリカの「精神的な価値」の失墜においてである。
アメリカという国の「天才的特質」は、新しくやってきた人々を吸収し、アメリカの海岸にたどりついた共通点のない多くの人々から「国家」としての独自性を築きあげていく力にある。
その点でアメリカを支えてきたものが二つある。
ひとつは、「奴隷制度」という原罪の傷はあっても、法の下で市民は「平等」という考えと中核に据えていること。
もうひとつは、他のどんな国にも劣らず、地位や肩書きや身分に関係なく来る者みんなに「機会」を提供してきた経済システムがあることである。
それで、「アメリカ」を人々の意識の中にスリコマセていく長期の過程が「大統領選挙」というもので、アメリがで国をあげての「お祭り騒ぎ」になるのは、「古い伝統」というものに訴えて国のアイデンテティを確保することがで期待できない、アメリカ独自の「国のまとめ方」なのであろう。
もちろん、ヨソの国の「お祭り」が古い伝統に戻ることと同様に、アメリカも大統領選で「建国の理念」に立ち戻るということをするということである。
当然にして、「ピューリタニズム」が語られるものであり、どんなに世俗的な力が働いていようと、そこには「聖なるもの」としての雰囲気がカモシ出されるように「装われる」ことになる。
それは、「アメリカの使命」と「人類の未来」が重ねあわせて語られる「ショータイム」と化す。
つまりアメリカ人であることは特別な「ミッション」をもつものであり、その代表者である大統領を皆で選ぶことにおいも「特別な意義」をもつものであることが、メディアや演説や討論会を通じてウエツケられていくのである。
だから、それほどにアメリカにおける「選挙」が神聖なものならば、「祭り」を汚す不正や腐敗があることは、ピューリタニズムという「建国の理念」を汚すことであり、1979年におきたニクソン大統領のウォーターゲート事件が、ドレホド深刻に「自画像」を傷つけたかということを、今更ながら思わせられる。
ところで、デカプリオ主演でその半生が最近「映画化」されたJ・エドガーは、1924年から72年の48年もの間、FBIの長官を勤めた人物で歴代の大統領が最も恐れた人物であった。
J・エドガーは、ケネディ一族との関係がしばしば取沙汰されるが、歴代の大統領の「暗部」を知りつくしていて、そのことが大統領に対する「チエック機能」を果たしていた面がある。
しかしニクソン大統領の時代には、そのチェック機能が働かなくなったことも大きい。
例えば、日本への「核の持ち込み」をマスコミに告発したエルズバークという人物は、今日のウイキリークスのジュリアン・アサンジと同様に、アメリカ政府にとっての「困りモノ」だったが、この人物の通う病院の精神科で火事をおこし、そのカルテを盗むことなどが計画されていたという。
つまり、エルズバーク氏を「精神病」に仕立てることをも考えたのである。
このように、「ウーターゲート事件」とは、民主党ビル侵入・盗聴事件ダケをサスのではなく、この事件をきっかけにアカラサマになったアメリカ政界の腐敗を示す「一連の出来事」なのである。
「ウーターゲート事件」により、アメリカが「誇り」や精神的意味での「使命」を失っていった。
その分、あとは「経済力」と「軍事力」といった力だけを頼りに、ホコリを取り戻そうとする国家となっていった。
それが最もよく表れたのが、レーガン大統領であったといえよう。
また1971年のニクソンショック、すなわち金とドルとの「交換停止」の意味するとこことは、世界で最後に「金本位制」を維持してきたアメリカがソレを放棄したことにより、世界が完全に「ペーパー・マネー」の時代に移行したということである。
またそれはアメリカだけが、お金を「印刷」するというコストだけで、ドルを自由に使うことができるようになったということでもある。
しかし、この自由は「クセモノ」でそこに何らの歯止めが利かないということだ。
20世紀の前半まで、アメリカは「世界の工場」であり、「世界の農場」であったのだ。 工業製品も農業製品も世界中に供給するモノヅクリ大国だった。
ところが、アメリカはドイツや日本の追い上げをうけて、貿易赤字と財政赤字に苦しんで、「ドル安」にしても競争力を維持することができず、1990年代の初めには一転して「ドル高」政策に転換した。
これによって世界中の投資をアメリカに呼び込むことにした。
そして、貿易赤字を投資マネーで補うことにしたのである。
つまり、「金融部門」を強化し幾多の金融商品を開発していくのである。
というわけで、今日の欧州信用不安もサブプライムローンという金融技術によって惹起された面が強いが、もう少し長い目で見ると、「ペーパーマネー時代」の起点となった「ニクソン・ショック」にいきつくことになる。
ところで、ピューリタニズムとは人間の「職業倫理」つまりドンナ小さなことでも汗水たらして働いて富を蓄積すれば、それが天に富を蓄えたことの証明になるという信仰であった。
それが、それとは全く違う手法で富が一部の人々にカタヨッテいったことが、今アメリカ精神が「根っこ」から腐り始めていることを「証明」しているのではなかろうか。
結局、アメリカが生んだ最も「ピューリタン的」ナラザルものが、サブプライムローンを代表とする「金融技術」であったということである。
サブプライム・ローンは、貧しいものでも住宅を手にすることができる「福袋」みたいなものだったが、実際にはジャンクボンド(クズ)を集めて、投資会社が一二年で売り逃げるために都合よくツカマセられた「疫病神」のようなものだった。
アダム・スミスのいう神の見えざる手による「予定調和」の世界は、取引によって相互に利益を出し合う ような世界が想定されているが、アメリカはイカに相手を出し抜くかが、富を獲得するということになっていったのである。
そうした大国アメリカの富とココロの向きは、1970年代初頭のニクソン大統領の時代に「分岐点」があったように思えるのである。

1970年代初期のアメリカ大統領・ニクソンと1970年代末期の日本の首相・大平正芳とは、あまりに性格が異なり比較対照となることさえマズ、ない。
しかし上記のような観点からすれば、日米の「分岐点の人」という意味では共通している面がある。
とはいっても、「アンナことしなければ」という分岐点の人と、「アレをしておけば」という分岐点の人とでは、随分意味合いが違う。
アメリカ大統領は、権力を保持しようと自ら仕掛けたワナにはまって、任期半ばにして「辞任」した。
一方、日本の首相はそのビジョンがアマリに「長期的構想」であったために国民に受け入れられず、首相在任中に「急逝」した。
両者は、1972年10月18日、大統領と外務大臣という立場で、ワシントンで会談している。