人道的介入か

世界で一番多くの国と国境を接している国とはドコカといえば、まずロシアのような大国の名が浮かぶ。
しかし、今日「政情不安」が伝えられる中東のシリアは「小国」でありながら、5カ国と「国境」を接している類マレナ国家である。
したがってソノ外交政策たるや、日本人の想像が及ばない「神経戦」が求められているに違いない。
1990年に、イラクがクウェートに侵攻した湾岸危機では、それまで「反米」を叫んでいたのに一転してアメリカ側につき「多国籍軍」に参加した。
ソ連崩壊から冷戦時代の終焉ということが背景にあったにせよ、シリアは「その見返り」に隣国レバノンを「実効支配」することをアメリカに認めさせた。
こういう外交上のシタタカサも、シリアという国の特徴といえる。
ところで最近のシリア政府による「市民弾圧」には心が痛むところだが、アサド大統領はテレビでみるカギリ「物静かなヤサ男」という印象を受ける。
少なくとも、無防備な市民を無差別に殺戮したりする人物には見えない。
実際のところ、アサド大統領の前職は医者で、イギリスのロンドンで眼科医として研修していた。
1994年、兄が自動車事故で亡くなったため、急遽呼び戻され、2000年に父親が亡くなって大統領の座が転ガリこんだのだ。
今日のシリア情勢は「アラブの春」の広がりの中で起きたことだから、基本的にリビアと同じことが起きてシカルベキだが、「大国の思惑」が錯綜する場合には国連安保理が有効な解決策を打ち出せないというのはイツモのことだが、シリアに対する西側の軍事介入の動きはない。
「石油資源」の豊富なリビアには早々と軍事介入をしたが、シリアに対する軍事介入は、コストに見合わないということなのだろうか。
それとも、シリアには何か特別な「支配の構図」があるのだろうか。

シリアは、紀元前20世紀におこったアッシリア帝国に「シリア」の由来があるともいわれている。
そのアッシリア帝国が紀元前7世紀にエジプトからイラン西部まで統一、これが紀元前612年に崩壊していろんな国に分かれるが、このなかの新バビロニア王国の征服地域にすでに「シリア」という地名があり、首都である「ダマスクス」もできていた。
それぐらい古い歴史をもつ国だが、その後ローマ帝国→イスラム帝国→オスマントルコ→フランスと支配の歴史がくりかえされ、独立したのは1946年である。
しかし独立してからも政情不安がつづき、バース党の政権ができてからも派閥抗争などが頻発する。
1970年、アサド将軍がクーデターにより政権を獲得、翌年大統領になってようやく安定化した。
シリアという国は、人口の10%程度のイスラム教アラウィー派という「少数派」が、政権と軍・治安機関の主要ポストを独占し、圧倒的多数のスンニー派の国民を支配している。
そこで、アサド政権側も反政府勢力側も「相手側を倒さない限り、自分たちは生き残れない」という危機感にトリツカレている。
シリアでは、アサド大統領親子の世襲支配は40年以上に及ぶが、軍や治安機関の最上層部はアサド政権を「死守」することで「結束」し、「秘密警察」を動員して反対派を徹底的に抑え込むことを行ってきた。
多数派のスンニー派からも政権に「忠誠」を誓っている軍人たちがいて、彼らが今サラ「反体制派」に立返ったとしても、「裏切り者」としてホボ確実に殺されるだけである。
そこで彼らは支配層にシガミツイテ、支配層を「死守」する外はないのである。
またツイッターやフェイスブックなどの「ソーシアル・メディア」が、結果的にソウシタ相互の「恐怖心」を煽っている感もある。
こうした「少数派が支配者層」である構図は、幾つか似たケースがあった。
ソノ一つとして、1990年代のアフリカの「ルワンダ内戦」を思い浮かべる。
戦争中にベルギーがこの国を植民地支配したが、ベルギ-支配下でツチ族が優遇されたのは、ツチ族がフツ族に比べて外見上「背が高く鼻筋がとおって西欧人に似ている」とい理由ダケからであった。
そして、人口の9割にあたるフツ族に、大きな憤懣と怒りがふつふつと高まっていった。
戦争が終わり1960年のイワユル「アフリカの年」をむかえ、アフリカの国は次々と独立し、ルワンダも1962年に独立を達成した。
その結果、長年差別をうけた圧倒的な「多数派」を占めるフツ族の怒りが爆発し、多くのツチ族が襲撃された。
そして1990年、ツチ族も「武装戦線」を結成して軍隊を派遣し、ルワンダは泥沼の「内戦状態」に入ったのである。
そして10年間の内戦の結果、約80万人~100万人のツチ族が虐殺されたという。
またシリアの政情不安のケースは、記憶に新しい「コソボ紛争」とも似かよった面がある。
振り返れば、第二次世界大戦後ドイツから西ヨーロッパはアメリカによって「解放」され、東ヨーロッパはソ連によって「解放」された。
これに対して旧ユーゴスラビアだけはチトーを中心にした共産党がドイツ軍を打ち破り、「自力」で独立を勝ち取った。
戦後チトーは共産党による独裁政権を作ったが、「自力で国を解放した」という自負が強く、ほかの東欧諸国のようには旧ソ連のイイナリにはならず、社会主義にも資本主義にも属しない「非同盟中立」の独自路線を歩んだ。
結果、ユーゴスラビアは「強大」な軍事力をもつソ連と真っ向から対峙しために、国民はソノ危機意識から民族や宗教の違いを「乗り越え」て団結したのである。
そればかりではなく、チトーの「民族の権利」を認めるという「統治の巧みさ」も光っていた。
つまり、連邦国家の中に「共和国」を作り、さらには「共和国」の中には「自治州」を作って、対等な立場で「連邦」を形成するという「絶妙な」バランスの仕掛けを作った。
そして、それぞれの共和国は独自の警察を持つが、軍隊は「連邦軍」になるという形をとった。
その一方でチトーは、独力でナチス・ドイツを破った経験から「全人民武装化」をおしすすめた。
高校生になると、軍事訓練をして武器の使い方を教え自宅に銃を保管させ、この結果国民のほとんどが武器を扱うことができるようになっていた。
1980年に「建国の父」であるチトーが亡くなり、1990年代には冷戦の終結により、「対ソ連への恐怖」で結束していたユーゴスラビアで一気に民族感情や宗教感情の相違が表に噴出し始めたのである。
マズは、ユーゴスララビア内のセルビア共和国の中の「コソボ自治州」では、「多数派」を占めるアルバニア系住民と「少数派」のセルビア系住民の紛争がおきた。
そこでセルビア共産党議長スロボダン・ミロシェヴィッチなる人物は、「セルビア民族主義」を掲げて、イスラム教徒が大半を占めるアルバニア系住民の弾圧政策をとった。
ミロシェビッチの「強圧」ぶりを見て他の民族は、ユーゴスラビアがセルビア人による一方的な「支配国家」になるのではないかと恐れ、「独立」を志向しはじめた。
1991年先陣を切ってスロベニアとクロアチアが独立を宣言した。
しかし、スロベニアとクロアチアは旧ユーゴの中で最も豊かな地であった。
この一番オイシイところを「手放す」ものかと、セルビア人を主体とする「ユーゴスラビア連邦軍」が両共和国を攻撃して内戦が始まったのである。
この戦争に対してはヨーロッパ諸国が調停に入り、スロベニアとクロアチア両国は独立を果たしたが、あらたに1992年にボスニア・ヘルツェゴビナが独立を宣言した。
一旦は独立を宣言したものの、「独立志向」のイスラム教徒やクロアチア人と、連邦離脱に反対するセルビア人との間で激しい「殺戮戦」がくり広げられたのである。
1999年NATO軍は、セルビア人によるアルバニア人への無差別殺戮が続くコソボ自治州において、「人権擁護」の名の下に空爆を行い、セルビア軍をコソボ自治州から撤退させることに成功した。
その後アメリカの調停によって、ボスニア・ヘルツェゴビナは「統一国家」として存続し、その国の内部でセルビア側とイスラム教徒とクロアチア人が、ソレゾレに領土を分け与えられ「分離」されることになった。
実態はトモカク、コソボ紛争以降「人道的介入」という言葉が頻繁に使われるようになった気がする。

今日のシリア情勢の危機的事態と、「シリアの古代」を重ね合わせると、人間がヤッテイルことはホトンド昔と変らないという気持ちにカラレる。
まずは、人類で最初の「殺人事件」がおきたのは、シリアのカシオン山の存在である。
つまり、この山でカインがアベルを殺したことを旧約聖書は伝えているが、エデンの園に住んできたアダムとエバの子供がカインとアベルである。
エデンの園から追放されるや、人類は早速殺人を犯したということだ。
シリアの首都はダマスカスであるが、古代より交通の要衝であり、世界最古の「都市」といっていい。
日本の福岡と同緯度にあるダマスカスは、美しい都でエデンの園が「天上の楽園」ならば、ダマスカスは「地上の楽園」とよばれた。
さらに十戒で知られる「モーセ終焉の地」ネボ山、ヤコブが妻リベカで出会ったハランの地、ダマスコのクリスチャン「弾圧」に向かっていたパウロ回心の地など、シリアはマサニ「聖書の舞台」である。
ダマスカスはまた、イスラム教徒にとっても特別な町の一つである。
預言者ムハンマドにより啓示されたイスラム教は「ムスリム共同体(ウンマ)」を形成し、ムハンマドの死後はウンマの総意で選ばれた「カリフ(教主)」が最高指導者となった。
656年にウマイヤ家の長老であった第3代カリフのウスマーンがメディナでの暴動で殺害された。
そして「シリア総督」であった同じウマイア家のムアーウィヤは、血族としての報復の権利を求めて「第4代カリフ」に即位したアリーと対立し、軍事衝突にまで発展した。
661年にアリーが暗殺されるとムアーウィヤは唯一のかつ正式のカリフとなり、それ以降カリフ位はウマイア家により世襲されることになった。
これがウマイア朝(661-750年)であり、ムアーウィヤは都をダマスカスに置き、イスラム世界をサラニ拡大していくことになる。
ところで、このシリア王国には、歴史に名を残す一人の「女王」が出ている。
紀元3世紀頃、砂漠の国シリアの中央に、パルミラという小さな町があった。今では廃虚のみで見る影もないが、強大な「ローマ帝国」を向こうに回し、地中海の覇をかけて雌雄を争った偉大な歴史を残している。
その当時、この地に君臨したのは、ゼノビアという気丈で美しく気高い女王であった。
彼女はシリア東部のある砂漠に誕生した。
ジプシーの首領だったアラブ人を父とし、母は美しいギリシア人女性だった。
ゼノビアは子供の頃から、才色ともにすぐれ、12才になる頃には頭角を表わし、ラクダに乗れば大人顔負けの技量を発揮し、父に代わってジプシー全体を指導できるほどになっていた。
パルミラのオアシスは、タクラマカン砂漠を経て延々と続く「シルクロードの終着点」に位置しており、東西貿易中継の要として繁栄の絶頂にあった。
パルミラではたくさんのバザールが開かれ、東西から金、銀、宝石、絹、塩などの商品や装飾美術品、様々な珍しい品々が取り引きされ、各国の商人で賑わう毎日であった。
それゆえに、東のササン朝ペルシアや西のローマ帝国が、コノ国を虎視眈々と狙っていたのである。
そしてローマ帝国はその軍隊を送り込み、パルミラを自らの支配下におき、思惑通り重税を課すことに成功したのである。
しかしパルミラの人々は、いつの日か反乱を起こし、ローマの「束縛」から逃れるべく機会をウカガッテいた。
その頃、ローマ帝国支配の元でパルミラを統治していた若い貴族オーデナサスが、当時18歳のゼノビアを見初め、二人は結婚し、ゼノビアはパルミラの王妃として宮殿に移り住んだ。
オーデナサスもゼノビアもローマの支配から逃れるべく、密かに砂漠に野営しては「兵の訓練」に大半の時間を費やすようになっていった。
ゼノビアの誇り高く類マレナ美貌とで、部下の兵士たちを魅了し、士官たちの心を完全に掌握するようになっていた。
そして今や、ローマ帝国からの解放の時が到来したとばかり、満を持してパルミラの北に駐屯しているローマ軍に襲いかかったのである。
不意を突かれたローマ軍は、たちまち大混乱を起こし、算を乱して敗走した。ゼノビアの軍は、敗走するローマ軍を徹底的に打ち破り、ここにパルミラ市民の「悲願の独立」は達成されたのである。
この勝利に喜び、驚嘆した周辺の国々は、次々にゼノビアの軍団に寝返って、たちまちのうちに強大な力に膨れ上がった。
しかし、夫であるオーデナサスが行軍中に暗殺されるという突然の悲劇に見舞われた。
ゼノビアはオーデナサスの意志を受け継ぐことに全力を傾けて、自ら「絶対専制君主」となり、一息つく間もなくローマの「属州の」一つであるエジプトに7万の大軍を進めた。
彼女の軍団は一度の戦いで勝利をおさめ、エジプト全土を制覇してしまったのである。
ゼノビアは、すべての民から慕われ、快く最高君主として受け入れられた。また人々はゼノビアの軍をローマからの「解放者」として歓迎したのである。
しかしやがて、ローマ帝国は、パルミラを一気にタタキ潰さんと「最精鋭」とうたわれた最強の軍団を多数くり出してきた。
戦いは地中海沿岸の都市で幾度となく繰り返され、ゼノビアの軍は後退を余儀なくされていった。
しかし紀元272年ローマ軍の追手は、たちまち従者数人を殺して、ゼノビアを捕らえてしまった。
女王を捕らえたローマ軍は、パルミラにわずかの守備兵を残して、ゼノビアを連れてローマに凱旋すべく帰途についたが、まもなくパルミラの住民が守備兵を皆殺しにして反乱を起こしてしまった。
この知らせを聞いたローマ軍は、ただちに引き返すや否や、パルミラの住民に情け容赦なく襲いかかり一人残らず虐殺してしまった。
一方、ローマに連れていかれたゼノビアは、その後の記録は途絶えたままである。
歴史家ギボンは、「褐色の肌、異常な輝きを持つ大きな黒い目、力強く響きのある声、男勝りの理解力と学識をもち、女性の中ではもっとも愛らしく、もっとも英傑的である彼女は、オリエントで最も気高く最も美しい女王であった」 と書いている。

一般的には、シリアはアラブ圏の中で最もロシア(旧ソ連)に近く、アメリカと「一心同体」に近いイスラエルと国境を接して対峙しているというイメージがある。
1967年の第3次中東戦争によって、イスラエル国境付近のゴラン高原が占領され、1973年の第4次中東戦争で一時奪回したものの、その後最占領され今日に至っている。
今ではPKOが入り、両軍の兵力を引離しているが、シリアは「反イスラエル」の急先鋒であったのだ。
2007年には、イスラエルは空爆によりシリアの「核施設」を一気に破壊するナドのことあった。
とすると今日の「シリア情勢」は、アメリカが「人権擁護」の錦の御旗の下にシリアに「介入」するいいチャンスであるといえなくもない。
一方、国連安保理の常任理事国であるロシアと中国は、シリアとの軍事的・経済的な関係を重視し、アサド大統領の退陣を強く表明マデはしていない。
さらに「アラブの春」の動きの中で、イスラエルはエジプトやトルコでイスラム色の強い政権が誕生したことで、スデニ「孤立」を深めている。
したがって、イスラエルはシリアの「アサド体制」が倒れて「イスラム色」の強い政権ができることをムシロ恐れているという。
「砂漠の女王」でも登場しない限り、時間だけが過ぎ無辜の市民の血が流され続けることになる。
「決められない政治」の国際版といったところか。