ステージ上の奇跡

チャーリー・チャップリンの初舞台は、母親のステージ上でのアクシデントがキッカケだった。
チャーリーが1歳の時に、両親は離婚していたが、母親がミュージックホールのスターであったため、生活にはサシテ困らなかったが、母親がノドをこわして歌を歌えなくなり、母子の生活は一変した。
ある日、母親は客に野次を飛ばされ、舞台から引き下がらざるをエナカッタのである。
わずか5歳のチャーリーはその「代役」に急遽、舞台に引き出された。
それも、無心に母の「嗄れ声」をマネ歌い歌い踊ったのだった。母親にとっては残酷な話で、実際にソノ声の戻る日は二度と来なかった。
そんなことは意に介しない客は大喜びで、笑いと拍手と小銭の雨が舞台に降ったという。
ともあれ、これが「世界の喜劇王」チャーリー・チャップリンの「初舞台」となったのである。
「ステージ上」では予期せぬ「奇跡」がシバシバ起きる。
1993年、ニューヨークのハーレムの小学校教師ロベルタ先生と50人の子供達による、有名ヴァイオリニストを交えたセッションが、カーネギーホールで行われた。
これを記録した「ドキュメンタリー」をもとに、メリル・ストリープの主演の映画「ミュージック・オブ・ハート」が制作された。
夫に「逃げ」られて意気消沈したロベルタ(メリル・ストリープ)は、赴任先で購入した大量のヴァイオリンとともに実家へ戻る。
同級生ブライアンの口添えで、彼女はヴァイオリンを教える「臨時教員」の職にありつくことができた。
場所は、イースト・ハーレムの小学校で、複雑な家庭環境に育った「一筋縄」にいかない小学生バカリであった。
しかしヴァイオリンを手にした子供たちは、音楽を奏でる喜びと誇りを抱くに至ってミルミル上達し、保護者を前に開いた「演奏会」も大盛況に終わった。
しかしロベルタ先生の「実生活」は大変なものだった。
離婚以来荒れて手のつけられなくなった息子との関係に悩み、交際していたパートナーとも別れることになった。
しかし苦難の時を経て10年後には、ロベルタ先生のヴァイオリン教室は3校に150人の生徒を擁し、受講者を「抽選」で決めねばならないほどの人気クラスとなっていった。
そこへ晴天の霹靂のごとく、市の「予算削減」のためクラス閉鎖が通告される。
そこで、クラスを続けるための資金を得るため、保護者の協力で「救済」コンサートを開くことになった。
友人の夫がヴァイオリニストだったことも手伝って、一流のヴァイオリニストがこのコンサートの趣旨に「賛同」した。
しかし、コンサート会場がトラブルのため使用不能になり、開催さえもが危ぶまれる羽目に陥る。
ところが、ここから「サプライズ」がおきる。
事情を知った有名ヴァイオリニストの「運動」で、ナント、会場が「カーネギーホール」に決定したのである。
大勢の観客が見守る中、ロベルタと50人の子供たちは、世界の「音楽の殿堂」で、プロのヴァイオリニストとの「夢の共演」を果たしたのである。
観客は、子供達のヴァイオリン演奏にスタンデイング・オベーションで応えた。
そしてロベルタの作ったヴァイオリン教室は大きな話題となり、市の支援で「その後」も存続することになった。

世界的に有名な音楽祭として、「タングルウッド音楽祭」がある。
「タングルウッド」(Tanglewood)はマサチューセッツ州バークシャー郡にある土地である。
そこで毎年夏に、タングルウッド音楽祭とタングルウッド・ジャズフェスティバルが開かれる。
1850年に作家のナサニエル・ホーソーンはタッパンという人物からこの土地のコテージを借り、1853年にギリシア神話を少年少女向けにまとめた「タングルウッド物語」を書いた。
タッパンはそれを記念してコテージを「タングルウッド」と名付け、周辺のタッパン家が所有する土地も「タングルウッド」と呼ばれるようになった。
1936年、ボストン交響楽団が初めてバークシャー郡で演奏会を開き、そのコンサート・シリーズは「テントの下」で開かれ、1万5千人の聴衆を集めた。
それを聞いたメアリー・タッパンはタングルウッドの一族の土地210エーカーをボストン交響楽団に寄贈したのである。
それ以来タングルウッドは、ボストン交響楽団の夏季の「活動拠点」となっている。
1938年には「演奏会場」として5100席の扇型の建物が建てられた。
さらに2年後、指揮者のセルゲイ・クーセヴィツキーは300人ほどの若手の音楽家を集めて、夏季講習会を開き、これが今日の「タングルウッド音楽センター」となっている。
また1994年には、新たに拡張された土地に「小澤征爾ホール」も建設された。
世界的指揮者レナード・バーンスタインの「最後の舞台」は1990年8月のタングルウッドでのボストン交響楽団との演奏会であった。
この音楽祭には「タングルウッドの奇跡」として、今でも「語り草」となっている出来事が起きている。
奇跡の「主人公」は、当時わずか12歳の日本人ヴァイオリニスト「みどりちゃん」であった。
五島みどりは2歳の時、ヴァイオリニストであった母親が数日前に練習していた曲を正確に口ずさんでいたことから、その優れた「絶対音感」を見出される。
それからピアノのレッスンに通わせたが、3ヶ月程で挫折してしまった。
しかし母方の祖母が、3歳の誕生日プレゼントとして「1/16サイズ」のヴァイオリンを買い与えたのを機会に、ヴァイオリンの「早期英才教育」をうけるようになった。
6歳の時、大阪で初めてステージに立ち、パガニーニの「カプリース」を演奏した。
1980年、8歳の時、演奏を録音したカセットテープをジュリアード音楽院のに送ったところ、「入学オーディション」に招かれた。
1982年五島みどりは、周囲の反対をモノトモせず、母に連れられて渡米した。
そして、ジュリアード音楽院において高名なディレイ教授の下でヴァイオリンを学ぶことになった。
アメリカの演奏会にデビューするや、日米の新聞紙面に「天才少女」として紹介された。
1986年、当時14歳の五島みどりは「タングルウッド音楽祭」に参加し、ボストン交響楽団と共演した。
レナード・バーンスタインの指揮の下で「セレナード」第五楽章を演奏中にソノ「出来事」は起こった。
ヴァイオリンのE線が切れるというアクシデントに見舞われたのだ。
(ちなみにG線だけで演奏するヴァイオリン曲が「G線上のアリア」です)。
当時みどりは「3/4サイズ」のヴァイオリンを使用していたが、このトラブルによりコンサートマスターの「4/4サイズ」のストラディヴァリウスに「持ち替え」て演奏を続けた。
しかし、再びE線が切れるという信じがたいトラブルが起きた。
そして二度目は副コンサートマスターのガダニーニを借りて、演奏を「完遂」したのである。
これにはバーンスタインも言葉を失い、演奏後には彼女の前にカシズキ、驚嘆と尊敬の意を表した。
翌日のニューヨーク・タイムズ紙には、「14歳の少女、タングルウッドをヴァイオリン3挺で征服」との見出しが「一面トップ」に躍った。
またこの時の様子は、「タングルウッドの奇跡」として、アメリカの小学校の「教科書」にも掲載されるほど、大きなインパクトを与えたものだった。
五島は2001年、ニューヨーク大学ガラティン校で心理学を学び、「優等」で卒業し、その後、同大大学院修士課程を修了し心理学の修士号を取得している。
その後音楽学校の教授などをつとめ、日本では2002年、「みどり教育財団(Midori & Friends)」東京オフィスを改組し、特定非営利活動法人「ミュージック・シェアリング」として新たに日本法人を発足させた。
最近では2006年より、開発途上国での「社会貢献型」の演奏活動である「インターナショナル・コミュニティ・エンゲージメント・プログラム」を開始している。
これまでに、ベトナム、カンボジア、インドネシアなどで、オーディションで選ばれた「若手演奏家」たちと共にカルテットを編成し、無料のコンサートを開催している。

今や世界的スーパースターといえば、レディー・ガガである。奇抜ファッションはさることながら、ハイクオリティーな音楽とパフォーマンスで、世界中から注目をあびている。
さらにガガは、数々の奇行でも世間を騒がせてきた。昨年、東日本大震災の復興支援チャリティー・イベントに出演するため、ド派手な衣装とメイクで来日した。
世界中のアーティストが日本公演を次々に「キャンセル」する中で、ガガは「日本が安全である」ことをアピールした。
このレディー・ガガと「奇跡」の共演を果たした無名の少女がいる。
その少女とは、カナダ在住のマリア・アラゴンちゃんで、フィリピン系カナダ人の両親と4人兄弟の6人暮らしていた。
そんなマリアちゃんの趣味は、大好きなアーティストの歌を歌うことであった。
小さな頃からビヨンセやマイケル・ジャクソンの歌が大好きで、曲を覚えては家族の前で披露していたという。
そして、最近の彼女のお気に入りがレディー・ガガで、歌やダンスの才能はもちろん、自分をストレートに大胆に表現するガガが大好きだった。
というわけで、彼女主催の「家庭内コンサート」では、もっぱらガガの曲がメインとなっていた。
一方レディー・ガガは1986年3月ニューヨークで生まれた。
中流階級の家庭でありながらも、両親は教育に熱心だった。そのため、物心ついた頃から音楽に関心を持ち、毎日2時間はピアノを弾く「英才教育」を受けて育てられた。
そして、4歳になる頃には、楽譜なしでピアノが弾けるようになり、13歳にして始めて「オリジナル曲」を作曲するまでになった。
そして14歳で、セレブが通うことで知られるニューヨークのカトリック系の名門校に入学した。
しかし、中流階級の家庭に生まれたガガは、生粋のセレブっ子達からイジメに遭うこともシバシバで、この頃からエキセントリックな性格が顔を出し、周囲から「浮いた存在」になっていたという。
それでも、人一倍勉強をしていたガガは、17歳で全米屈指の音楽大学に「飛び級」で入学した。
しかしガがは、既成の音楽を習うより自分で「新たな音楽」を創造したいと考え、ナント1年で大学を「自主退学」してしまった。
そして、「音楽の道」で生きることを決め、大学退学と同時に親元から「独立」することにした。
ガガは親の援助も受けず生計を立てるために「就職活動」を開始したが、彼女が最初に就いた「職業」というのは、なんとストリッパーであった。
ガガはショーの中で自分が作曲した曲を流し、ダンスの腕をヒタスラ磨いた。
そんなある日のこと、遇然ガガのショーを見て声をかけてきた一人の音楽プロデューサーがいた。
まもなく2人は恋人同士になるが、この「出会い」コソが、華々しいガガ伝説の「幕開け」となったのである。
その後しばらくの間、レディー・ガガは、ブリトニー・スピアーズなど他のアーティストに曲を提供するなど、「裏方」としての音楽活動をした。
そして 2008年にデビューアルバムをリリースするヤ、その「圧倒的な歌唱力」と「パフォーマンス」に、世界中が魅了されてしまった。
CDの売り上げ枚数はナント1200万枚を突破したのである。
ガガは22歳にして、一気に「スターダムの階段」を駆け上ってしまったのである。
しかし2011年2月、デビューから3年が経った頃、ガガは深刻なスランプに陥っていた。
数多くのヒット曲に恵まれていたが、その「産み」の苦しみは想像を絶するもだった。
さらにガガを苦しめたのは、若くして成功したガガを妬む者からの様々な妨害やイヤガラセであった。
ガガにとって、プレッシャーに押しツブサレそうな日々が続いていた。
そんな頃、カナダではマリアちゃんが家族の前で大好きなガガの歌を披露していた。
実は彼女は以前、地元テレビ局が主催するコンクールに応募するも、何度か落選していた。
家族はマリアちゃんが次のコンクールで「良い結果」が出せるよう、彼女の歌う様子を頻繁に「撮影」していた。
そして、その練習風景をインターネットにアップしたのである。
それは、マリアちゃんがレディー・ガガの新曲「Bprn this way」を弾き語りしている映像だった。
彼女にとってそれは、普段通りの何気ない「動画」だったのだが、数日後、ガガの友人が遇然この「動画」をインターネットで発見した。
彼はすぐさまガガに報告し、マリアちゃんの「動画」を見たガガは、翌日の2月16日、自身のツイッターで次のようにツイートした。
「これを見て涙が止まらない これが私が音楽を作る理由なの 彼女こそ 未来」
世界のスーパースターであるガガが、マリアちゃんこそ自分の音楽の「原点」だとツブヤイタのである。
彼女は純粋に音楽を楽しむマリアちゃんの姿に、「若かりし頃」の自分をカサネていたという。
苛められても、将来に何も見いだせなくても、アリノママの姿で音楽を楽しみことが、何よりも大切であることを思いだした。
そんな気持ちコソが、「Born this way」の歌詞に込めたものではなかったか。
そして、ガガがツイートした翌日のこと、遠く離れたカナダのマリアちゃん宅では、早朝から電話が鳴り響いた。
その電話は従兄弟からレディー・ガガがマリアちゃんのことをツイートしたことを知らせる電話だった。
その後も家の電話は鳴り止まず、学校に行くと、マリアちゃんは全校生徒から「注目の的」になっていた。
世界中の人々が、ガガのツイートに注目していたのだ。
そんなガガのツイートによって、マリアちゃんの「動画」は1日、120万回以上、44日間で600万回も閲覧されたという。
レディー・ガガのツイートはさらなる奇跡をマリアちゃんにモタラした。
トロントのラジオ局からの出演依頼がきて、普通の小学生だった彼女は、一躍「時の人」となった。
そして翌日、マリアちゃんは地元のローカルラジオに出演した。
ガガの動画をアップした経緯や、ガガからツイートされたときの気持ちを語った。
そしてレディー・ガガは、カナダから遠く離れたアメリカのスタジオから、ラジオ出演していたマリアちゃんに「電話」をした。
2人の人生が「交叉」した瞬間だった。
感極まるマリアちゃんに、トロントで行われるガガのライブでの「共演の約束」を交わしたのだ。
2011年3月3日、カナダのトロントで全世界の注目が集まる中、レディー・ガガのコンサートは始まった。
そしていよいよ、マリアちゃんがステージに登場した。
ガガがマリアちゃんを膝に乗せ、2人で見事なデュエットが実現したのである。
ガガとの夢の共演から5か月後の2011年8月、普通の小学生だったマリアちゃんは、CDデビューを果している。