bookreader.js

赤頭巾と狼

「赤頭巾ちゃん」というのは、「グリム童話」の主人公なのだが、童話の結末にカワイイ女の子が狼に食べられるという「救いよう」もない結末で終わっている。
こういう結末を描いた「日本の物語」など思いつかない。
悲しい結末はあっても、「丸ごと」食べられてしまうというのでは、身もフタもない。
繰り返し語り伝えられる「昔話」に、そんな顛末を入れるのは、気がヒケルからだろうか。
日本人は基本的に、不幸に陥ったりすることや「不吉」なことは言葉にしない。
これは「言霊信仰」のアラワレといえるが、言葉にしないということは、思わないようにしているということである。
一方、西欧世界では、神を信仰している反面で「悪の存在」も信じているので、「最悪の事態」までシッカリと想定しておく。
例えば、アメリカには他国のことながら、日本の「財政破綻後」を想定したレポートまで作っている。
「アッシャー・レポート」とか「ネバダ・レポート」とかいうのがあり、ナント日本がIMFの管理下に入って「再建」されるシナリオまでが書いてあるという。
日本ではコンナ「不吉な」ことを「具体的に」考えたがらない。
また、日本人は本人サエしっかりしておけば、「悪い」ことは起きないと思っているフシがあって、優秀で真面目な人が、どうしてオウム真理教のようなものにヒッカカッタのか、なかなか腑におちないようだ。
しかし、コノ世の中で「ユートピア」とか「社会正義」を実現しようとしたりする人が、カエッテ「悪の走狗」となったりすることは少なくない。
「悪」というものは、正義感アフレる彼らを「手段」を選バナクさせることによって、抱きこんでしまうかのようである。
その意味では、「正義」や「真理」の名で人々を引き付けようとする集団コソ、一番の狙われヤスイといえるのかもしれない。

日本という社会では、リアリティーを欠いた「空気」というものが醸成され、その空気に「支配」されることがシバシバおきる。
ソコに生きる人にとっての智恵とは、空気を読みソレを「壊さ」ナイということである。
だから、政治的指導者層の人までも「空気」に支配される。
「空気」を壊しかねないので、言いたいこと思ったことを言えない「民主主義」なんて、実に奇妙なものだ。
というわけで、「現実」をツキツケられ、弾けチルまで「ある空気」が日本社会を支配することになる。
ソレゆえに日本人は「黒船」でもやってこないカギリ、「内発的変革」ができないのである。
この「言霊」が作り出す空気に支配されている場合、何かの出来事への対応でも「責任の所在」というのがわかりにくくなる。
一方、中国では「政治指導者」の交代にによってkカナリ「空気」が変ってくる。
後任者は前任者を否定することによって基盤を固めるため、前任者に対する「責任追及」は厳しく、単なる「追求」ではなく「摘発」といった様相を呈することになる。
中国の現在の「権力闘争」を簡単にフレルと、政治改革を進めようとする「改革派」と、共産主義路線を守ろうと改革に抵抗する「保守派」の対立がある。
それよりも巷間でいわれる「出身別」では胡錦涛主席ら党の若手養成組織である「共産主義青年団」出身グループと、江沢民前国家主席に近い指導者「上海閥」との対立がある。
サラには、習近平副主席ら親が共産党幹部だった二世指導者いわゆる「太子党」グループの対立がある。
江沢民は総書記在任中、上海市長・党委書記時代の部下を次々と中央に引き上げ、枢要な地位に就けて「上海閥」を形成し、その総帥として政界に君臨した。
江沢民は、総書記退任後も党中央軍事委員会主席に留任し、「後継」の胡錦濤指導部に「影響力」を行使したといわれる。
しかし、2006年に江沢民の地盤である上海市の幹部が汚職で根コソギ摘発され、「上海閥」は大打撃を受けた。
そのために、江沢民派の官僚はかなり減少しており、胡錦濤が権力の基盤を「固めた」とされる。
ところで「太子党」というのは、かつて鄧小平の「高級幹部の子女は政治面において信頼できる上、党の政権に対してより深い愛情をもっている。また親の背中を見て育っているために、党の政治運営も熟知している」という発言がキッカケで大勢の高級幹部の子女が「親の七光り」で、各分野の重要ポストに抜擢された。
人々はこうした現象に対して感情的にハンパツし、「親の七光り」で抜擢された高級幹部の子女達のことを「太子党」と呼んで不快感をアラワした。
最近失脚した重慶市党書記・薄熙来も「太子党」で、国務院副総裁を父にもつ二世のとして「中央政治局員」となり、イツカは「国家主席」とも目されていた人物である。
中国の権力闘争を振り返ると、毛沢東は1966年に文化大革命を発動して、NO2の劉少奇と劉少奇派とみなされる鄧小平を打倒し、自分に協力した国防大臣の林彪を「後継者」に指名した。
林彪はかつて100万の共産軍を統帥しえ中国全土の3分の1を制した名将であった。
林彪は文化革命のハジメに毛沢東に仕え、NO2の地位を手にいれたものの、所詮は毛沢東に利用されるだけだと悟り、「毛沢東暗殺」を試みるがアエナク失敗する。
毛沢東はあまりに用心深かったのだ。
結局失敗した林彪は1971年9月専用機でソ連に逃亡をはかるが、途中モンゴルの砂漠に墜落して「謎の死」をとげたのである。
中国共産党の最高指導者の「後継者」は、何らかの選挙手続きによって選ばれるのではなく、党最高指導者は自分の「後継者」を一人指名するのが慣例である。
党内の選挙手続きを経なければならないが、それはアクマデすでに指名された「後継者」を追認するための「形式」にすぎない。
第一世代の毛沢東は、初に劉少奇、次に林彪、最後に華国鋒を後継者に指名した。
第二世代の鄧小平は、初めに 胡耀邦、次に趙紫陽、最後に江沢民を指名した。
しかし第三世代の江沢民は自分の後継者を指名することはなかった。
鄧小平がスデニ、江沢民の「後継者」を胡錦涛と指名してしまったからである。
その鄧小平も1997年2月に逝去した。
現在の国家主席・胡錦涛は、43歳で貴州省の党書記兼中央委員となっている。
40歳代ソコソコで中央委員とは異例の出世であるが、彼の人脈の背後には「共産党青年団」がある。
これは共産党の青年組織で、14歳から28歳までの青年で構成され、全国で六千万人以上が加盟する「エリート集団」である。
胡錦涛は北京の名門大学・清華大学に入学したが、ここは共産党幹部の子弟が多いことで有名である。
また北京の中国共産党中央党学校で偶然、「胡耀邦の息子」と同級生になった。
理系出身のテクノクラート候補である彼らはたちまち意気投合し、息子の紹介で胡耀邦と面会することができ、すぐに「親交」を深めるようになった。
当時、胡耀邦は共産党のトップクラスの地位にあった。
以後、胡耀邦は胡錦涛を重用し、やがて胡錦涛は「共産党青年団」の書記を筆頭に、急速に「昇進の道」を進むことになる。
ところで、胡耀邦は「共産党青年団」のリーダーであったが、文化大革命の時期に「実権派」として批判され一旦は失脚したが、ヤガテ復活して党書記まで上り詰めている。
復活した鄧小平のもとで「文革の清算」と「改革開放路線」が進められる中、胡耀邦はソノ「片腕」として活躍し「共産党青年団」グループは「改革派の中心」だったのだ。
しかし彼の推進する「政治改革」が、党保守派と長老グループから「ブルジョワ自由化」だと批判をあび、批判の矢面にサラサレルことになった。
その結果、胡耀邦は辞任を余儀なくされたのだが、ここで彼の辞任に反発する「学生デモ」が巻き起き、これが「天安門事件」に発展していく。
要するに胡耀邦は、若者に愛された「開明的な」指導者だったが、保守派との対立を深め、実質的な指導者・鄧小平が両者のバランスを図ろうとしても、コレニ応じなかったため「解任」されたということである。
その大きな代償が、1988年の天安門事件として払われることになったのである。

中国の文化革命時に「紅衛兵」というものがあった。失政続きで政権中枢を離れざるを得なくなった毛沢東に、「政治的劣勢」を挽回するため都合よく利用された感じが残る。
彼らは中央の権力闘争の犠牲者であり、青春を無残に食い荒らされた若者達である。
この若者たちは「紅」を身に纏って活動したのだが、当時日本で一世を風靡した「赤頭巾ちゃん気をつけて」という小説のタイトルを思い浮かべる。
庄司氏の芥川賞受賞作である「赤頭巾ちゃん気をつけて」(1966年)には、東大在学中のイイトコのオボッチャン「薫」君が、「革命」に人生を捧げようとする若者達の危うさに、疑問を抱くという甘っちょろいといえばソウカモしれない日常を描いた物語である。
当時学生運動などの盛り上がりなどで特殊な「空気」の支配下があったが、ソレモ連合赤軍の群馬県妙義山中での事件や浅間山荘事件でフットンだ。
安田講堂の攻防戦で東大の入試が中止になった薫君が、当時の若者達である「赤頭巾ちゃん」を食い尽くす「狼」とは何だったのか、という疑問がコノ小説のタイトルに秘められている。
それは今日、オウム真理教に純粋な若者達をヒキコンダものは何だったのか、という問にもツラナルのではなかろうか。
ちなみに庄司薫のゼミの指導教官は日本社会を「総無責任体制」とエグッタ丸山真男教授で、「赤頭巾ちゃん気をつけて」にも、薫君の「憧れの教授」として登場している。
一方、ロシアの文豪ドストエフスキーは、ロシアの農奴解放時に地主達を襲撃し革命を引き起こす若者を、聖書の中に登場する「豚の集団に入り込んで海に向かって駆け堕ちて行く悪霊」(ルカの福音書8章)と見立て、ズバリ「悪霊」という小説を書いた。
一方で、中国の赤頭巾チャンたる「紅衛兵」は、映画などでみるかぎり、赤い「毛沢東語録」を前に突き出して容赦なく地主も商人も少しでも「金持ち」とみたら集団で取り囲み、頭に三角の帽子を無理やりカブセ、罪状を書いた前ダレをつけさせ、引き回していったシーンなどが印象に残る。
彼らは一つのイデオロギーを「無批判」に受け入れた若者の集団で、彼らとて都会から田舎に人々の「思想改造」のために「下放された」哀れな人々の集団であった。
「下放された」紅衛兵達こそ食べるものもなく死んでいったものも多く、彼らの「悲劇」は多く映画や小説の題材ともなっている。
つまり彼らこそ食い尽くされた「赤頭巾ちゃん」だったのだ。
ところで1967年、パリの女学生が「焼身自殺」するというのことがあって世界に衝撃を与えた。
「3月30日の日曜日パリに燃えた命一つ」は、新谷のりこさんが歌う「フランシーヌの場合」という曲となって大ヒットした。
コンナ昔の話をとり上げたのは、今中国においてチベットの僧侶達の「焼身自殺」が連続して起きているからである。
ラマ僧の方々には怒られるかもしれないが、チベット仏教の赤い衣装が「赤頭巾」を連想させるものもある。
中国には56民族がいて、人口の92パーセントを漢民族が占め、残り8パーセントにあたる55の民族が全土の60パーセントを占めているという。
人口において6番目に大きいチベット族は、外見的には東アジア的特徴を持つが、7世紀に初の国家を形成し、ラマ仏教による宗教支配を機軸とする「独自の文化」を育んできた。
それを可能にしたのは、「世界の屋根」の異名をもつ平均海抜4千メートルという隔絶された地勢にあることだ。
チベット地方はマサニ地上に残された「最後の秘境」で、中国とインドの間に位置する要衝であったために、外部から様々な干渉をマネク宿命にあった。
1951年5月、北京政権は武力を背景にダライ・ラマ政府と「チベット平和解放協定」を結んだ。
それによってチベットは、「政教一致」体制の存続を認められたものの、「土地改革」を含む大幅な社会改革を義務づけられた。
特権を脅かされ漢族による支配に反発した地主、ラマ僧、貴族らの組織する抵抗が始まり、1959年ラサにまで及ぶ大規模動乱となった後、人民解放軍に鎮圧された。
ダライ・ラマはインドに亡命し、約10万のチベット族もそれを追った。
国境問題がクスブッテいた中国とインドの関係がこれで一挙にコジレタといわれている。
北京政府は1965年にはチベットに「自治区」を成立させたが、漢族を中心とした紅衛兵がチベットの歴史遺産を破壊してまわり、チベット族との間に深い民族対立の「傷跡」を残した。
ところでラマ僧の「ラマ」とは、チベット仏教における僧侶の敬称のひとつで、チベット語で上人(しょうにん)あるいは聖人という意味で、サンスクリット語のグル(教師)に相当する。
日本が東日本大震災に見舞われた5日後、チベット北東部の地方にあるキルティ僧院の若い僧侶が、焼身自殺を図った。
その後、焼身自殺が相次いでいるが、ソノ理由は、北京五輪が開催された2008年に、チベット全土に広がった抗議行動を中国当局が「武力弾圧」してから3周年となるに際し、アラタメテ当局への「抗議の意志」を表すためだったとされる。
ところが、現場に現れた警察官は、こともあろうに火を消しながらも僧侶を激しく殴打し、これが死の一因となったと伝えられている。
しかし、アノ素朴なチベットの人々のドコニそんな強さ、烈しさが潜んでいるのかと思うばかりである。
ダライ・ラマ14世法王は、「私たち雪の国のチベット人は、軟弱ではない。宗教や文化の面で誇るべき民族であり、その尊厳と信念において弱き者ではない」と語っている。

さて今年3月、天安門事件以来の「激震」と伝えられる重慶市党委書記の薄熙来の「失脚」があったが、薄氏は5年前に重慶のトップに着任した後、暴力団や暴力団と癒着する官僚の摘発を進めてきた。
暴力団は、中国語で「黒い社会」と言い、薄煕来氏のこの政策は、それをタタクという意味で「打黒」と呼ばれている。
ただソノやり方は、悪人だと目をつけたら、十分な証拠がなくても逮捕するという手荒いものであった。
しかし「打黒」によって安い公共住宅をたくさん建てたり、また、庶民を脅かす暴力団を追放したので、市民の評判も良かった。
当初、重慶のやり方は、共産党にとっても模範として評価されていたムキもあった。
ちなみにイギリス人殺害の容疑をかけられている夫人の谷開来は弁護士で、アメリカで中国企業を勝訴させて名を挙げ、「中国のジャクリーン(ケネディ元大統領の夫人)」とも呼ばれた女性である。
一方で薄煕来氏の法を無視した強引なやり方は、共産党指導部内部で次第に問題化されていった。
中央部の度重なる忠告によって、薄煕来氏の運動は、次第に「打黒」から「唱紅」つまり革命歌を歌う「大衆扇動運動」へと「軸足」を移していったのである。
こうした動きは、かつての文化大革命以来の「記憶」を蘇らせるもので、中央当局もある種の「危険さ」を察知したものと思われる。
今中国ばかりではなくアラブなど世界中で「民主化」の動きが広まっている。
その主体は、ゲバ棒とヘルメット姿の若者ではなく、「携帯」でもってソーシアルネットワークで繋がる若者達である。
彼らは情報量も多くカツテの若者達とは異なるとはいえ、狼に食いツクされないよう「気をつけて」という外はない。