四人の少年

最近の中国や韓国による尖閣初頭・竹島の「領有権」主張は、かつてアッタ時代のことを思い起こさせる。
江戸幕末には、産業革命を終えたヨーロッパやアメリカの蒸気船が日本近海に表れ、外国船とみれば無条件で打ち払うか(無二念打払令)、とりあえず燃料だけを与えて速やかに去らせるか(薪水給与令)、その判断に幕府の「外交政策」は揺れに揺れた。
翻って日本は、西日本の大名を中心南蛮船(スペイン・ポルトガル船)を西欧文化を積極的に受け入れて各藩が独自に繁栄を築こうとしていた時代もあった。
外交の窓口は幕府に必ずしも「一本化」していなかったとう意味では、「地方外交」に近いものがあったといえる。
例えば室町時代に、日明貿易を盛んに行った山口の大内氏の前例などもあるが、これは単なる「貿易」の域を出ない。
貿易と外交ではかなり開きがあるが、九州の大名が協同して「使節」を派遣するとなるとモハヤ「地方外交」といってもいいのではなかろうか。
1582年、九州の大名である有馬・大友・大村氏の三大名が、その「名代」として四人の少年を派遣し、少年達はローマ法王と謁見されることを許された。
この天正遣欧使節の「仕掛人」は、イエズス会の司祭で日本でカトリックを伝えていたアレッサンドロ・ヴァリニャーノである。
イタリアの名門貴族出身で、巡察師として日本を訪れたヴァリニャーノは、キリシタン大名・大村純忠と知り合い、財政難に陥っていた日本の布教事業を立て直しと、次代を担う邦人司祭育成のため、キリシタン大名の名代として使節をローマに派遣しようと考えた。
つまりコレマデの布教の成果をローマ法王に「具体的」なカタチで示したかったのであろう。
そこでセミナリヨで学んでいた「四人の少年達」が選らばれてヨーロッパに派遣されるや、各地で大歓迎を受け「ローマ市民」にまでなり、8年後に無事帰国した。
なお、彼らが持ち帰ったグーテンベルク印刷機により、長崎の教会でイソップ物語などの日本語訳などが出版されることになる。
四人の少年の中で後述する千々石ミゲルを除いて、三人の少年の経歴を紹介すると次のとうりである。
正使・伊東マンショは、日向国(宮崎)都於郡出身で、大友宗麟の遠戚にあたる。
四人の少年の中で最年長で帰国後、1591年天草の修練院でイエズス会に入会した。
1601年マカオで神学を学び、1608年長崎で司祭となるが、布教活動の長旅で体を壊し、1612年に43才で長崎にて病死している。
副使・原マルチノは、大村領波佐見出身で、四人の少年の中で最年小であった。
帰国後、1591年天草の修練院でイエズス会に入会し、1608年長崎で司祭となる。
布教活動を行うが、徳川幕府の「禁教令」によりマカオに脱出し、1629年マカオにて病死している。
副使・中浦ジュリアンは、大村領中浦出身(現在の西海市)で、中浦領主中浦ジンクロウの子である。
帰国後、1591年天草の修練院でイエズス会に入会し、1601年マカオで神学を学び、1604年長崎に戻り、司祭となる。
徳川幕府の「禁教令」後も日本に残り、布教活動を続け、1633年、64才で長崎西坂にて殉教した。
以上の経歴でわかるとうり、ローマ法王に謁見するという栄誉を担って晴れがましく帰国した四人の少年を待ち受けたのは、「悲壮」としかいえないものだった。
秀吉が博多滞在の折に突然に「バテレン追放令」(1587年)を出したからである。
しかしコノ段階では、外交人宣教師に対する立ち退き令であったに過ぎず、長崎の「二十六聖人の殉教」(1597年2月)という例外はあったといえ、信者に対する弾圧はソレホド徹底したものではなかった。
なにしろ、日本に戻ってきた四人は、聚楽第で豊臣秀吉と謁見したのである。
好奇心旺盛の秀吉は彼らを気に入り、「仕官」を打診したほどである。
サスガニ四人はそれを断り、司祭になる勉強を続けるべく天草にあった修練院に入り、コレジオに進んで勉学を続けた。
そして1598年秀吉が亡くなり、翌年四人はそろってイエズス会に入会しホボ「同じ歩調」で歩んでいた。
ところが江戸時代になって次第にキリスト教への「弾圧」は激しさをまし、カツテの「四人の少年達」の歩調に開きがでてる。
四人の内三人は、ある者は布教の道半ばで倒れ、また国外に追放されたり、拷問の中で殉教したが、特筆すべきことは彼ら四人の中で、一人の「離脱者」が出たことである。
「棄教した」少年は千々石ミゲルで、肥前国領主千々石直員の子で有馬晴信の従兄弟で、大村純忠の甥にあたる。
「遣欧使節」では正使となり、もっとも期待されていた少年だったのかもしれない。
しかし、そのミゲルが誰に強制されたのでもなく自ら棄教するのである。
江戸幕府の「禁教令」により大村氏は領内でそれをドウ実行するかで緊迫する。
幕府に大村氏は藩内の切支丹を始末しろといわれて、さすがに気が重くなって「転封」を願い出ている。
最も単純な構図をいえば、身内にキリシタンを抱えておくことは、幕府に対する「姿勢」を疑われるため、千々石ミゲルは「棄教」せざるを得なかったというわけである。
しかしミゲルは「禁教令」が厳しさを増す1601年には既にイエズス会を退会し信仰を捨て、「清左衛門」と名乗っていた。
他の3人が神学をより奥深く学ぶためマカオへ留学したのに対し、身体虚弱で勉強も中々捗らなかったミゲルは留学を許されず、その事に対するハンパツ心からイエズス会を退会するに至ったという説もある。
しかし「日本一有名な棄教者」になった千々石ミゲルとて「イバラの道」を歩まざるを得なかった。
その後結婚し、長崎で暮らしていたが、後半生はさまざまな苦難に会い、従兄弟にあたる大村喜前や有馬晴信からも疎まれ、晴信の家臣に暴行され、失意のうちに死去した。
なお、息子・玄蕃により建てられた清左衛門夫妻のものと思われる墓所がゴク最近(2003年)、長崎県西彼杵郡多良見町(現・諫早市)で発見されている。

ところで小説家というものは、こうした「棄教者」に対して想像力を刺激されるものらしい。
その代表は日本のカトリック作家遠藤周作氏である。
江戸時代、東京小日向の地には「切支丹屋敷」があった。
遠藤氏が、このキリシタン名簿を見た時に外国人宣教師らしい「棄教者」に目がとまったのが、小説「沈黙」執筆のキッカケとなった。
遠藤氏は、この外国人宣教師の内面を、自分さえ信仰を捨てれば多くの信者を殉教や迫害から救うことが出来るという「葛藤」を通して描いている。
また、村木嵐という司馬遼太郎の最後の秘書が書いた小説「マルガリータ」(文芸春秋/松本清張賞)でも、アマリに高潔な殉教に対する「素朴な疑問」を、「棄教者」千々石ミゲルの内面から描している。
素朴な疑問とは、磔(はりつけ)になったり、熱湯を浴びせられたり、穴吊りにされたりするのだが、死ぬよりは普通に生きていった方が、ヨホド神様の「意思」にソウたことではないかということである。
「殉教を望む天主教の禍々しさを知った」ミゲルは誰も殉教させぬ導く司祭になることを誰よりも強く祈った。
「この国のことはこの国の司祭がひきうける。南蛮人のそぞむ殉教など、この国のものには一人もさせぬ。生きて天主の道を歩む」。
作家は「南蛮人司祭は、名誉を重んじて死を選ぶ武士の生き様を、信仰を守っていく殉教者に似ていると申された。だから私たちは天主教を学ぶにふさわしい民なのだと教わった。ミゲルはコレを聞いてとても怒っていた。まさか日本への殉教者を募りにきたわけではあるまい」とも語らせている。
この小説の最後に、潜伏して信者を支えた中浦ジュリアンが捕われるが、仕置きの前に代官所に呼ばれ、取り調べに立ち会わされたミゲルとその妻の口述にはナントか中浦を救いたいとという気持ちにアフレ、作家の思いがソコニ「集約」されているように思われる。
村木氏の「千々石ミゲル像」は、たとえ日本一有名な「棄教者」となっても、「信仰」を捨てたわけではなかったというものであった。

「天正遣欧使節」の仕掛け人たるヴァリニャーノの脳裏には、旧約聖書の「ダニエル」書に登場する「四人の少年達」のことが脳裏にあったのではなかったかと推測される。
単なる「小説」と聖書を比較するのは少々気がヒケルが、この「ダニエル書」において神は「沈黙」するどころか、様々な不思議な働きと力によってご自身を「顕して」いる。
新バビロニアの王ネブカドネツァル(在位紀元前605~562)がエルサレムを攻めてユダヤ人を捕囚として首都バビロンに連行した。
間もなく、ネブカドネツァルはユダヤ人の王族や貴族の中から、見目麗しい才能と知識と理解力に富んだ少年を集めて教育し、宮廷に仕える能力のある「四人の少年」を自分に仕えさせた。
このとき選ばれた少年の中でも、ダニエルはとりわけ優れていた。
王はあるとき不思議な夢を見たため、バビロンの占い師や祈祷師を呼び、夢の意味の解答を求めたがだれも答えられなかった。
この話を聞いたダニエルは、その夢の謎を解いたため王は感心し、ダニエルを全州を治める長官に任命した。
しばらくすると王は、ドラという都市に突然高さ27mもある巨大な金の像を作り、決まった時刻にひれ伏して拝むように人々に命じた。
ところが、その地にいたユダ捕囚民の中にソレを拒否する者たちがいた。
ダニエルと一緒に宮廷に仕えるようになったハナンヤ、ミシャエル、アザルヤの3人の少年達だった。
ユダヤ人を中傷しようとしていたバビロン人がこのことを王に告げた。
王は3人を呼び出し、直接命令を下したが、それでも3人は拒否した。
怒りに燃えた王は燃え盛る炉をいつもの7倍にも熱くすると、3人をその中に投げ込んでしまったのである。
このとき不思議なことが起こった。3人は衣服をつけたまま縛られて炉の中に入れられたのに、炎の中にはナゼカ「もうひとつ影」があって、しかも自由に歩き回っていたのだ。
これを目撃した王は3人が信じるヤハウェ神の偉大さに驚き、3人を炉の中から引き出すと、これまでよりも高い地位につけた。
またダレイオス王の時代、ダニエルは王国にいる120人の総督を管理する3人の大臣の1人として働いていた。
しかし、あるとき総督と大臣たちはダニエルを陥れるために王に次のような禁令を発布させた。
「向こう30日間、王様を差し置いて他の人間や神に願い事をする者は、だれであれ獅子の洞窟に投げ込まれる」。 ダニエルはこの禁令を知っていたにも関わらず、日に3度自分の神に祈りを捧げ続けた。
役人たちはそれを確認した後、ダニエルをライオンの穴に投げ込むように王に訴え出たのである。
ダレイオス王はダニエルのことを気に入っていたので大いに悩んだが、役人たちに迫られ、ダニエルをライオンの穴に閉じ込めた。
その翌日、王が心配してライオンの穴に出向くと、中から無傷のダニエルが現れた。こうして、ダニエルの信じる神の力に感心した王は、人々がその神を恐れ敬うように勅令で命じたという。
またベルシャツァル王が千人の貴族を招いて大宴会を催したときのこと、彼は前王がユダ王国のエルサレム神殿から奪ってきた金銀の祭具を「器代わり」にして、貴族や後宮の女たちと共に酒を飲み始めた。
すると、突然に人の指だけが空中に現れ、ともし火に照らされた王宮の白い壁に「文字」を書き始めた。
王は恐怖にかられ「この文字を解釈をしてくれる者には、紫の衣を着せ、金の鎖を首にかけて、王国を治める者のうちの第三の位を与えよう」といった。
一人の男が、ダニエルが王の奇怪な夢の謎解きをしたことを思い出し呼んできた。
ダニエルはその文字の意味をこう解釈した。
神は「それはバビロニアの時代がもうすぐ終わり、ペルシアの時代がくることを意味している」というのである。
ベルシャツァルはその夜のうちに何者かに殺されてしまうが、この謎解きでダニエルは王国第三の地位を与えられたという。
ところで「ダニエル書」は、旧約聖書の中で預言書に位置づけられるものである。
ダニエルに現れた幻は当時の時代のことばかりではなく、この世界の「終末」のことが含まれている。
その内容と、それからおよそ600年後に使徒ヨハネがギリシアのパトモス島で見せられた幻をまとめた「ヨハネ黙示録」の内容とは、見事に「整合的」である。

「ダニエル書」に登場する「四人少年」に見るとうり、人間の側が「信仰者」をどんなに貶めようとしても、信仰者は神の祝福を受けていくということである。
すなわち「呪いを祝福に変える」(詩編109編28節)のが神の働きである。
それはペテロやパウロの伝道を伝える新約聖書の「使徒行伝」などにも同様に見られる「神の恵み」なのだが、ソレニシテモどうして日本の切支丹の弾圧はアノヨウニ陰惨の「極み」なのかと思う。
世界史を多少でもカジッテ明らかなことは、西洋版キリスト教はゲルマンやケルトの異教と「習合」したものであり、もともとエルサレムで使徒達が創設した「初代教会時代」のオリジナル版とはカナリ隔たっている。
一言でいえば、ヘブライの「唯一神信仰」が、ヨーロッパの「多神教」信仰と習合したものである。
その一番の表れがマリア崇拝であり、各地の「守護聖人」といわれる存在である。
また殉教した人間を「聖人」に勲するようなことは、「神のみ」を崇める唯一神信仰からすれば、「多神教的」つまり「偶像崇拝」といわざるをえない。
またローマの太陽神崇拝と習合して聖日を「土曜安息日」から「日曜聖日」に変えている。
実は聖像や聖画をつくるかといったことは、キリスト教会の「東西分裂」の原因になっているほどだが、江戸時代に安っぽい「踏み絵」で「信仰のありやなしや」を問われるのだったら、神はコレを「踏む」者を果たして厳しく裁かれるであろうか。
踏み絵を前にして、一度「転んだ」ものは二度と信仰に立ち返れないというのならば、それは結局「信仰」に名を借りた「自己愛」でしかなかったのではないか。
人間が「脚色」しすぎたたキリスト教はスデニ神の恵みを失っていった。
そのことは何よりヨーロッパ中世の「暗黒時代」が物語っている。
カトリックに属する「イエズス」会は、宗教改革によるプロテスタントの刺激により、ある程度の改革の気運はあったものの、そんな時代の「キリスト教」が日本に伝わったのである。
つまり神の働きが失われた「暗黒時代」を引きずったキリスト教が日本に持ち込まれたということである。
さらにいえば、キリスト教の布教はヨーロッパ植民地主義の「手先」となった部分も多いにあった。
ソレコソが豊臣秀吉が「バテレン追放令」を出した際の「危機意識」でもあった。
江戸時代の「殉教死」を見ると、信じるモノの為に命を捨てることは美しくもアり感動をよび起こすが、神の存在はアマリニ遠く感じられる。
神が人間をどのように裁かれるかは「神のみぞ知る」だが、神が人間の働きに対して「しるしと不思議」をもって応えるか、神が「沈黙」をもって応える他ないかで、オノズカラ明らかであろう。