古井戸のコイン

日露戦争の際、日本軍が携行した「軍隊用手帳」の冒頭は「軍人勅諭」ではなく、「戦時国際法」の条文であった。
「われわれは文明国人として捕虜と非戦闘員に接するように」と、捕虜と非戦闘員の取り扱いが詳細に記されている。
先立つ日清戦争では、旅順口を占領したときの日本軍の行為が国際的に非難されていた。
日本軍は戦闘員と非戦闘員を区別なく襲撃した、戦闘力を失った敵の兵士を殺戮した、民家から財貨を掠奪した、といった「報告」が世界中に打電された。
それは、文明国の「仲間入り」を目指していた日本にとっては「致命的」な悪評であった。
もし、日露戦争においても同様な非難を浴びることになれば、たとえ戦争に勝ったとしても、これから「一等国」を目指す日本が残酷で野蛮な国であるという印象を決定付けることになる。
それどころか欧米列強を敵にまわす可能性もあり、なんとしてもソノ「悪評」を払拭する必要があったのだ。
日露戦争の開戦直後、陸軍大臣は34ヵ条からなる「陸軍俘虜取扱規則」を制定した。
その中には、「俘虜ハ博愛ノ心ヲ以テ之ヲ取扱ヒ決シテ侮辱、虐待ヲ加ヘルヘカラス」とあり、虐待はおろか侮辱も加えてはならないとの「先進的」な規則であった。
日本人の伝統的にある「敗者をいたわる」の武士道精神にも通じるものがあった。
というわけで日露戦争後、日本は7万人を超えるロシア兵を日本各地の29か所の俘虜収容所に収容した際に、「戦時国際法」を遵守するように最大限の努力をした。
とりわけ、国内に受け入れた捕虜の扱いについては、最大限の配慮をもって対応したといってよい。
各地の首長は、家族や友人を殺したかもしれない敵国人を受け入れるため、住民が捕虜を危害を加えたり侮辱しりしないかという懸念があったため、住民の指導を徹底するように通達が出されていた。
その結果、ロシア兵は 捕虜は一等車で収容所入り、 皇后、知事、軍人から義肢、義眼の贈り物をうけた。
また地域の運動会、芝居や見物と県外旅行、温泉地や料理屋への自由な出入りが認められた。
さらには、充分な医療の提供や、死亡した際には丁重な埋葬をうけるなどの「厚遇」をうけることになった。
開戦間もない1904年3月、最初に愛媛県・松山俘虜収容所が開設された。
気候が温暖で風光明媚で温泉があるなどの条件が整っており、船着き場には歓迎のアーチが立てられ、町の人々は紋付き羽織で捕虜たちを出迎えたという。
道後公園では捕虜と市民の自転車競走が催され、伊予鉄道に乗って砥部焼の見学にも行った。
捕虜達も、お返しに道路の清掃をしたり、市民の靴を作ったりして、市民との交流も盛んであった。
将校の中には、妻子を呼び寄せ、家族水入らずの生活を享受する者までいたので、VIP待遇並の捕虜もいた。
捕虜たちは、脱走しないことを「宣誓」の上、自由な散策が許されていた。
その一方で、料理屋で横暴な振る舞いをしたり、 道後温泉の遊郭に登楼する捕虜までもいて、苦情も寄せられるケースもあり、「捕虜厚遇」の行き過ぎを批判する声もあがっている。
全国29の俘虜収容所のひとつに福岡県の久留米俘虜収容所があった。
福岡県久留米では第48連隊の練兵場の中に「収容所」が新設された。
1905年4月、九州鉄道の京町停車場にロシア兵捕虜500名が降り立ち、そこから徒歩で三井郡国分村の収容所へ向かった。
その後も捕虜は続々と到着し、最終的に2800名余りのロシア兵(下士卒)が滞在した。
戦時下の牛肉不足の中で、新鮮な牛肉を調達するなどしたため、日本人兵士の倍額の食費がかかることになった。
久留米俘虜収容所は短い期間しか使用されなかったが、地元の住民との交流も盛んであった。
1905年9月の筑後川水泳大会には、15、6名の捕虜も参加している。
この時の捕虜との交流経験が、10年後の第一次世界大戦時のドイツ兵捕虜との交流にもつながり、今日の久留米市の発展の礎となっている。
第一次世界大戦では、1914年10月31日、日本は青島(チンタオ)のドイツ軍を攻撃した。
この時、青島戦の日本軍の主力は、久留米の第18師団を中心に編成された。
この戦いで5千名弱のドイツ兵捕虜が久留米、坂東、松山、大阪、習志野などへ送られた。
久留米俘虜収容所は、最大時で1315名の捕虜を収容した。
徳島県の坂東俘虜収容所では、1918年6月1日、日本で最初にベートーヴェンの交響曲「第九」を演奏されたことで有名だが、久留米俘虜収容所のドイツ人捕虜たちはコレに先立つ1917年3月4日にベートーベンの「第五」(運命)を演奏している。
しかし、ドイツ人捕虜を迎え入れた久留米にとって重要な意味をもつのは、何といっても「技術交流」であった。
久留米の日本足袋製造会社がドイツ人将校捕虜のパウル・ヒルシュベルゲンから車のタイヤの製造技術を学び、日本足袋製造タイヤ部となり、後にブリジストン・タイヤになったからである。
ブリジストン創業者の石橋正二郎は1889年久留米の仕立物屋「志まや」に生まれた。父が病で兄は陸軍に入営したため経営を任されることになった。
石橋は徒弟制度をやめ、給料を払い労働時間を短縮する一方、仕事を一番有利な「足袋」にしぼった。
「志まやたび」の名では古臭いので、好きな言葉「昇天旭日」から「アサヒ」を思いついた。
そして、ドイツ人捕虜の技術者は、先端的なゴムの配合、接着技術、文房具の消しゴムの作り方などを教えた。
「20銭均一アサヒ足袋」には、注文が殺到した。
石橋正二郎は、将来発展するのは自動車タイヤであることを見越し、九州大学のゴム研究の先覚者である教授の元を訪れ、タイヤの国産化をめざす決意をする。
そして1931年にブリジストンタイヤを創立している。
久留米の俘虜収容所にいて亡くなったドイツ兵の墓は、現在久留米競輪場に隣接した一角に並んでいる。
久留米俘虜収容所は短期間に閉鎖されたが、久留米から福岡市の柳橋や須崎の収容所などに送られた。
ドイツ兵は自ら労働を希望したために糸島半島の今津の元寇防塁の修復にあたっている。
この移送の際にドイツ兵たちはローレライを歌いながら意気揚々として現場にむかったという。
このため今津の元寇防塁は、市内各地の元寇防塁の中で最も良く保存されているのである。
しかし、捕虜と市民との文化交流という点では、徳島の坂東が突出しているといえる。
徳島の地をドイツ人の俘虜に「楽園」(がくえん)の地として提供したのは、戊辰戦争で「敗軍の惨めさ」を味わいつくした会津出身の坂東俘虜収容所長の松江豊寿であった。
暗澹たる気持ちで日本にむかったドイツ兵が徳島・坂東で出会ったものは予期せぬ「歓喜の世界」であった。
彼等は俘虜の身に追いやられたものの、徳島の市民と交流し、山を楽しみ海を楽しみ、そして音楽を楽しむことを許された。
そこは「らくえん」のような「楽(がく)えん」でもあった。
この収容所では、楽団が3つも結成されその中のエンゲル楽団が日本で初めてベートーベンの「第九」を演奏している。
日本人がいまだ知らなかった化学を伝え、ホットドックを伝え、ハムの作り方を伝え、バームクーヘンを伝え、サッカー技術を伝えた。
彼らは俘虜の立場でありながら、ドイツから妻や子供さえも呼び寄せることを許され、ドイツ人俘虜は家族ぐるみで日本の片田舎の人々と交流を温めた。
そしていつしか日本を愛すようになった。
戦争は終わったが、彼等のうち少なからぬ者達がドイツ本国に帰るよりも日本に留まることを選んだ。
神戸元町にかまえるバームクーヘンの有名店「ユーハイム」は、そうした捕虜の一人によって開かれた店である。

日本の最初の俘虜収容所は、1904年3月設立の松山俘虜収容所である。
この松山俘虜収容所は、あらゆる面で後続の収容所の「手本」となった。
日本軍人は「生きて虜囚の辱めをうけず」、つまり捕虜になるくらいならば潔く切腹した方がましという伝統的な考えがあった。
俘虜収容所設立にあたっては、命惜しさに生き長らえた卑怯者どもをナゼ我々が面倒をみなければいけないのかという意見さえあった。
歴史は勝者によって書かれるという言葉があるとうり、戦争終結によって勝者が敗者に文化を押しつけるのが一般的である。
まして、自由をうばわれた敗者の側が支配者たる勝者に「何か」を伝えるのは極めて考えにくい。
しかし、日本の俘虜収容所の幾つかはその例外となっている。
当時の愛媛県が県民にあてた勅諭には、「捕虜は罪人ではない。祖国のために奮闘して破れた心情をくみとって、一時の敵愾心にかられて侮辱を与えるような行為はつつしめ」というものもあった。
日本赤十字社もロシア人負傷兵の救済に尽力し、 病院に収容されていたロシアの負傷兵と献身的な日本人看護婦との間で何某かのロマンスがあったとしても不思議ではない。
2010年、松山城の二の丸にある防火用水を兼ねた古井戸より、表面にロシア語とカタカナが刻まれたコインが見つかった。
1899年製造のロシアの10ルーブル金貨だが、この金貨の発見が思わぬ波紋をよび、事態の進展を呼び起こした。
ロシア語は人名で「M・コスチェンコ」、カタカナは「コステンコ・ミハイル」それに「タチバナカ」と読める。
調査が進められ、「コスチェンコ氏」は、当時24歳のロシア人歩兵少尉であることが判明した。
では、「タチバナカ」も名前だが、「橘力」ならば日本人の男性である。そのため当初、このコインは、「日本人男性と将校との友情の証ではないか」という推測がなされていた。
さらに資料が調べられが、当時の捕虜収容所の関係者に該当しそうな人物は見つからなかった。
その後、「チ」と思われていた文字が、「ケ」ではないかとの 指摘があった。
そうなると刻まれていたカタカナは「タケバ ナカ」ということになる。つまり女性の可能性がある。
そしてその名前で探した所、「該当者」が見つかったのである。
コインにはペンダントにしたと思われる溶接跡もあったという。
松山市の調査でタケバ・ナカさんは日露戦争当時この場所にあった陸軍病院に勤めた日本赤十字社の看護婦であった。
また一方の、コステンコ・ミハイル氏は貴族出身のロシア軍少尉で、捕虜になって陸軍病院に入院したことが判明した。
かつて久留米に近い佐賀県鳥栖の小学校で、終戦直前にベートーベンの「月光」を弾いた二人の特攻兵を探した当時の音楽教師であった上野歌子先生のことを思い起こした。
上野先生は新聞社の協力で二人の特攻兵を探されたが、特攻兵の一人は沖縄の海で亡くなられていたが、もうひとりは生存が確認され、阿蘇でピアノの先生をされていた。
そして40年以上の時を経て、旧特攻兵は鳥栖小学校で「月光」を演奏されている。
なお上野先生は、講演先のホテルで急死されている。
この経緯は「月光の夏」というタイトルで映画化された。
ところで、松山城の古井戸で見つかったコインは、どのような状況で投げ入れられたのだろうか。
映画「タイタニック」のラストシーンなど浮かぶし、 イマジネーションが膨らんでいく。
二人が実際にどんな関係にあったかは知るよしもないが、当時の松山市長であった中村時広氏は、このエピソードをもとにした作品の提案を受けた時に、「坊っちゃん劇場」の次のテーマはこれでいこうと決めたという。
この話をテーマにしたモニュメントが作られ、地元の劇団「わらび座」によって発見されたコインをもとにミュージカルが上演された。
ちなみに「坊っちゃん劇場」は松山市の隣の東温市に2006年4月、450席で開場した。
愛媛飼料産業の宮内政三会長が東温市に文化の拠点を設けたいと秋田県仙北市に本拠を置く劇団「わらび座」に提案されたのが始まりである。
関西以西では唯一のミュージカル専門劇場で、毎年オリジナル作品を280回前後上演する。
ジェームス三木氏が名誉館長となっている。
開場前は「四国でミュージカル劇場が成り立つわけがない」「3年でつぶれる」といわれた。
そこで地域との共生を掲げ61年の歴史をもつ秋田の「わらび座」との提携の話がすすんだ。
四国の自然や歴史、人々の営みなど「地域の魂」を表現できれば、受け入れられると考えた。
そういう経緯であるために「坊ちゃん劇場」は、地元に密着した題材を選ぶことにしている。
初演はジェームス三木氏作の「坊っちゃん」で始まり、最近では瀬戸内の大三島を舞台にした「鶴姫伝説」、松山出身の「正岡子規」、シーボルトの娘・楠本イネを扱った「幕末ガール」などが上演されている。
このたびの古井戸でコインが発見されたことにより、劇作家の高橋知伽江氏に脚本と作詩を依頼し、2011年4月に「誓いのコイン」として上演がされた。
病院に収容されたロシア捕虜のニコライが、ロシア語の話せる看護師のサチに次第に心を開き、松山市民とも交流を深めるというストーリーである。
脚本の高橋氏はロシア人墓地保存会の会長への取材や多くの資料にあたり、松山市民が敵国のロシアの捕虜に礼節をもって温かく接した事実を劇中に取り込んだ。
市民が伊予漫才で、捕虜がロシア民謡で、歌って踊って新年を共に迎える場面が見ドコロのひとつとなっている。
さて、戦争は終わり、愛を誓ったニコライとサチに別れが訪れる。二人は1枚のコインに願いを込め、お城の泉に投げ込んだ。
しかし帰国したニコライは、革命の混乱の中で命を落とす。
実話をモチーフにした作品は評判となり、「誓いのコイン」は今年3月までの279回の公演で約8万人を動員した。
しかし「誓いのコイン」の話はここに留まらずに、思わぬ方向に展開する。
ロシア招聘の話が舞い込んだのである。
そうして「坊ちゃん劇場」の初の海外公演が実現することになった。
「坊ちゃん劇場」の舞台初日に招いた当時の駐日ロシア大使が、作品に描かれた日露の交流に「大変感激した」と述べたのが発端だった。
その後、日露青年交流事業で来日したロシア訪問団のオレンブルク国立大学日本情報センター長がロシア大使館の計らいで「観劇」する機会をもった。
訪問団長は「戦時下なのに日本人がロシア人を大切にしたことを初めて知った」と語り、その働きかけでオレンブルク州政府などが動き、「誓いのコイン」のロシア公演が決まったのである。
ロシア公演は、日本大使館や日露青年交流センター(東京都)などが主催し、2012年9月14日~19日、ロシアを代表する劇場「マールイ劇場」(モスクワ市)と国立ドラマ劇場(オレンブルグ市)で計4回上演される。
舞台装置も「坊っちゃん劇場」から持っていき、ロシア語の字幕装置も設置する。
芸術大国ロシアに日本の劇団が招致されるのは極めて異例である。
主演を務める同県西条市出身の女優、佐伯静香さんらが、県庁に中村時広知事を訪ね、「国境を越える愛の物語を届けたい」と意欲を語った。
劇中にも「心の国境を越えたい」という言葉が登場する。
終幕後は、大勢が立ち上がって拍手し「ブラボー!」の声が場内に響いていたという。