外交ファイター

日本の「外交力」の低下がシバシバ指摘されるところであるが、日本において強い「外交力」を示した首脳や外交官がカツテ存在したのだろうか。
つまり、外交界の「サムライ」はいなかったか。
今日の日本の外交は「弱腰外交」というより、原則がアイマイで何がシタイのか不明である場合が多い。
それは、尖閣列島における中国漁船員の「逮捕」から「釈放」に到るテンマツや普天間基地移設をめぐるコンメイを思い浮かべればコトタリル。
従来、尖閣諸島は日本が「実効支配」してきたから日本にとって「領土問題」ではなかった。
中国が「領有権」を主張して漁船がやって来ても追い返せば良かった。
漁船員を「逮捕」して事をアラダテルと、「領土問題」に発展する可能性があった。
領土問題となれば、最後は「力」の勝負になり、ムシロ中国の思うツボではないか。
実際に今、日本にとってサラニ面倒な事態に発展しそうな気配である。
また、鳩山首相は、軽々に普天間基地の国外ないし県外への「移転」の可能性を示唆して、それまでの14年間にわたる米国および沖縄との話し合いの結果をクツガエシ、結果は双方に「不信感」を残すだけに終わった。
首相の人のヨサがかえってアダになった感がある。
さて、外交界における「サムライ」を探してみると、今では語られることの少ない昭和天皇の皇太子時代の「ヨーロッパ外遊」にイキアタった。
1921年3月3日、皇太子(後の昭和天皇)をノセタ戦艦「香取」が横浜港からイギリスに向け出港した。
この「外遊」の発案者は「平民宰相」といわれた原敬首相で、山縣有朋ら元老が積極的に推進した。
当時大正天皇が病弱なために、皇太子が「摂政」となって、天皇の「代行」をする必要が生じていた。
そこで、摂政に就く前に皇太子が国民から「高い評価」を得るための「切り札」として、この海外渡航が浮上したのである。
時代を先取りした「皇室」のあり方を模索せざるを得ない状況とはいえ、従来の宮中の発想をハルカニ超える壮大な企画だった。
この「外遊」は、父・大正天皇の病状の悪化や「宮中某重大事件」も重なり、猛烈な「阻止」行動もあったが、皇太子の「識見」を広めることを「最優先」に洋行が実現したのである。
訪問先はイギリス、フランス、ベルギー、オランダ、イタリア(バチカン含む)の欧州5カ国で、日本の皇太子が「外遊」するのはコレが初めてのことであった。
この艦上に「随行」したトップの三人は「外交界」の重鎮となった珍田捨巳と澤田節蔵、そして山本信次郎・海軍大臣であった。
この三人は偶然ナノカ、「教派」は異なるモノノいずれもキリスト教信者で、珍田捨巳にいたってはメソジスト派の牧師の資格もあり、カトリック信者であった山本信次郎海軍大臣が「バチカン訪問」をネジコンダと言われている。
この「皇太子外遊」で意外だったことは、地中海に浮かぶマルタ島訪問カラ始まったことであった。
コノ時から溯ること4年、日本も英国と同盟を結んでイタ関係から、第一次世界大戦のおりに地中海に艦船を送ったが、敵の魚雷攻撃をうけて艦船が沈没し、マルタ島には1917年6月11日に撃沈された駆逐艦「榊」の59人の戦死や傷病による戦死者の「大日本帝国第二特務艦隊戦死者之墓」があった。
皇太子の欧州歴訪の旅はココノ「墓参り」から始まったのである。

実は冒頭に皇太子の「外遊」をトリアゲタのは、国際社会において「気骨ある」外交官を調べるうちに、この「外遊」に随行した珍田捨巳と澤田節蔵という二人の外交官にイキ当ったからである。
彼らが、皇太子の「外遊」反対を押し切って、ソレを実現すベク「一役」カッタこと自体、彼らの「見識」を示すものであったといえるかもしれない。
珍田捨巳(ちんだすてみ)は弘前出身で1877年から4年間インディアナ州の大学に留学し、その後帰国して外務省に勤務した。
1890年、在サンフランシスコ日本領事に就任し、日本人排斥運動がアメリカに起こるであろうことを早くから予想し、賭博場や売春宿などの問題を指摘し日本本国に報告するなどして「移民制限」を促している。
一方1913年のカリフォルニア外国人土地法論議の際には、ウィルソン米大統領に法案通過阻止を陳情するなど尽力した。
また、サンフランシスコで日本人会を組織しコミュニティーの形成にも寄与した。
その後ブラジル公使やオランダ、ロシア公使をも勤め、1911年「駐米全権公使」をツトメている。
英語での演説は朗々としたものであったが、皇太子随行をなすにアタッテ、「余も軍人が敵陣に向かい突入し、又は敵艦隊と交戦するは決して難事にあらず。唯だ殿下に諌言を言上するは至難中の難事なり。之を敢えてするはよくよくの事」と語っている。
珍田はこの外遊中皇太子に欧米事情、国際平和協調、国際法、立憲君主制度など教えているが、宮中とは違い「外遊」期間中、天皇(皇太子)と臣下の距離が非常に近かったことがよくワカル。
珍田捨巳は、外務大臣への就任を二度も断り、アクマデ「外交」一筋に身をソソイだ人物である。
珍田が駐米大使時代、当時のブライアン・アメリカ国務長官は、日米関係以外の問題であっても、ワザワザ珍田に会って意見を訊ねるほど信頼を寄せていた。
第一次世界大戦後の1919年にパリ講和会議が開かれたが、その時日本が送った5人の全権委員の中にも、当時「駐英大使」であった珍田捨巳もいた。
珍田はこのパリ講和会議では「人種差別撤廃案」などを提出し、非白人国やアメリカ黒人の賛同を得る一方、「中国の二十一か条要求」の取り消し要求や「韓国併合」などの件についてはワキにおいて、自国のためにダブル・スタンダードも平気でできるタフな「交渉人」ブリを発揮した。
珍田は大国のリーダーを相手に、一歩も引かず日本の主張を展開したため、ウイルソン米大統領やロイドジョージ英首相は、珍田を「ファイター」と呼んだという。
珍田は日本の外交官の中でも珍しいくらい、欧米流の外交における「シタタカさ」を身につけていた唯一の「外交のプロ」ともいうべき存在だった。

1921年皇太子の「欧州歴訪」に随行したモウヒトリの澤田節蔵も、「外交」におけるサムライとよべる人物ではなかったろうか。
澤田節蔵は1884年鳥取県の旧家の長男として生まれた。東京帝国大学法学部に入学し、1909年に外務省に入省している。
国際連盟の日本事務局長となった人物で、弟の澤田廉三は初代国連大使となっている。
日 満州事変の翌32年、当時国際連盟の日本政府代表は松岡洋右で「リットン調査団報告書」を認めず日本は連盟から脱退した。
澤田は、全権大使の松岡佑右に対抗し何とか「脱退」の事態を避けるべく日本代表団の一員として最後まで努力した唯一の日本人であった。
1924年からの米国勤務での北米移民法による「差別待遇撤廃」のために奮闘した。
1934年ブラジル大使を経て帰国した澤田は、有田八郎外相の顧問として、「バスに乗り遅れるな」の時代に「日独伊三国同盟」に対しても「ヒットラーのドイツと結ぶが如きは害多くして益なし」として「強硬」に抵抗した。
悪化する日米関係の改善を「外交筋」で、また日本経済連盟(後の経団連)対外副委員長として「通商筋」も試みた。
戦争末期の鈴木貫太郎内閣では内閣顧問に登用されるや、政府が手をつけていたソ連への「仲介依頼」は不毛であるとして他の道をトラせようとしたが、これもナラなかった。
澤田節蔵を「サムライ」と思う所以は、日本が「世界の孤児」となったり道を「踏み誤る」岐路において、必ずといっていいほど、強硬な反対の立場を貫いたという点である。
戦後は日本の外交界において「重鎮」となり、国際司法裁判所の田中耕太郎判事の実現支援、初代東京外国語大学学長を勤めた。
サラニ意外なことは、ラジオ放送の「文化放送」設立などをしていることである。
ラジオ放送の「文化放送」はもともとは「カトリックの布教」を目的に、1951年聖パウロ修道会が設立したもので、経営上の内紛を経て1956年に現在の株式会社に改組している。
聖パウロ修道会は、2012年現在も、文化放送の筆頭株主である。
ところで日本の近現代史において、日本人指導者層とクエーカー教徒との「接点」が目に付くが、戦後皇室教育にはキリスト教が積極的に導入され、皇太子の家庭教師に二代続けて敬虔なクリスチャン(クエーカー教徒)が指名されている。
実は、上述のサムライ外交官・澤田節蔵も熱心なクエーカー教徒だった。
クエーカー(Quaker)とは、17世紀イングランドで設立された「キリスト友会)に対する一般的な呼称で、身を「震わせて(Quake)」祈るので、コノ名称がついた。
しかし、会員自身はこの言葉を使わずに「友会徒」(Friends)と自称している。
日本における「普連土学園」(東京都港区三田)は、このクェーカー教徒が設立したものである。
当時アメリカ合衆国に留学中だった内村鑑三と新渡戸稲造の助言で、アメリカ合衆国ペンシルベニア州フィラデルフィアのキリスト友会(クエーカー)の婦人伝道会が女子教育を目的として創設した。
現在でも日本国唯一の「キリスト友会」の教育機関である。
ところで、澤田家の長男として鳥取に生まれた節蔵は、叔父に頼って鳥取中学から水戸中学に転学する。
ここでコチコチのクリスチャンであった母や叔父叔母の影響からクエーカー教徒となった。
後に節蔵の妻となるのは薩摩出身で駐伊公使を務めた大山綱介の長女・美代子である。
美代子も長らくローマに住み、帰国後は双葉女学校カトリックで学んでカトリック信者となっている。

1940年11月25日、二人のアメリカ人神父が横浜港に降り立った。カトリックの神父ウォルシュとドラウトである。
港には同派の京都教区長バーン司教と、熱心なカトリック信者として「軍服をまとった修道士」の異名をもつ、前述の「皇太子外遊」の随行員・山本信次郎予備役海軍少将が出迎えた。
挨拶を終えた一行が向かったのは同夜の宿舎・帝国ホテルで、その晩二人を迎えて歓迎会が催されている。
翌日、長旅の疲れもものともせず、二人は外務省にむかった。
ウォルシュ・ドラウト両神父は「おもて向き」はカトリックの布教だが、本当の目的は「日米緊張」を和らげる。もしくは日米関係改善の感触をウルことであった。
この神父を派遣したのが当時アメリカ政府の郵政長官ウォーカーで、アメリカ大統領フランクリン・ルーズベルトの「選挙参謀」を務めた人物であった。
ココで重大なことは、満州問題に端を発する「日米関係の悪化」の打開策ルートを、日本のカトリックまたはクエーカー教徒の指導者層に求めたということだ。
約1ヶ月間、両神父は寸暇を惜しんで日本の各界要人を訪問して回った。
そして、松岡洋右外相をはじめとして、その側近である外務官僚グループとも接触している。
松岡外相私邸での昼食、汎太平洋倶楽部での講演、星ケ岡茶寮での昼食会には外務省若手グループが寄り集っている。
夫婦そろってカトリック教徒だったという寺崎アメリカ局長に至っては婦人を交えての食事を含めると四回も顔合わせしている。
そしてクエーカー教徒の外交官澤田節蔵宅で夕食をとったり、上智大学のカトリック神父と面会もしている。
一方、外務大臣松岡洋右は両神父を相手に日米国交回復を自信たっぷりに語ったという。
彼の方策がどのようなものであったか、その後の展開が示すことになるが、神父たちは日本外交の代表者が意外に日米国交回復に「楽観的」であることに驚いたようである。
ちなみに、松岡はオレゴンの州立大学に留学した経験をもちメソジスト派の教会で洗礼をうけたが、アメリカで差別体験をしたことがトラウマになって「反米感情」を抱いて帰国している。
後に近衛首相は、「日米関係改善」のために松岡が障害であるという理由で内閣を一旦総辞職させている。
少なくともコノ段階で、松岡をはじめ日本の外務官僚らは、日米間に生じた軋轢の「重大性」をまだ認識していなかったようである。
いわゆる「日米間のパーセプションギャップ(認識のギャップ)」が存在したのである。
両神父の来日は、決して儀礼的に日米友好を「勧進」して回るためにワザワザ来日したのではなく、より具体的な「戦争回避策」を求めていたのだ。
日米国交打開策を携えて来たその案とは「アメリカ・ルーズベルト大統領と日本の近衛文麿首相が、太平洋沿岸のアラスカあたりで会談し、一気に日米両国の懸案を解決する」というものであった。
その前提条件として、日米の「敵対関係」を整理解決するという内容だった。
悲壮な覚悟の両神父としては、日本側の「楽観」ムードにさぞやヒョウシ抜けしたことであろう。

新渡戸稲造は敬虔なキリスト教徒として知られるが、正確にいうと「クエーカー教徒」であった。
1900年にだした「武士道」は世界各国で読まれていて「普遍的」な精神をもったモノであったことがわかる。
現代において、世界で最も「尊敬される首相」であったマレーシアのマハティールは、日本人の「武士道」精神を学んだ指導者である。
マハティールは裕福言えない家庭に生まれ、働きながら医科大学を卒業した。
卒業後は、医師として地方の医療活動に専念したが、患者の多くは貧しいマレー人の農民であった。
その惨めな暮らしぶりにナントカしなければとの思いから、下院議員に当選し政治家としてのスタートを切った。
1973年に訪れた日本で、貧困と教育水準の悪循環を断ち切る「解」を得たように思えた。
街にあふれる高品質の製品も、秒単位の正確さの新幹線も、質の高い教育がもたらしたものである。
そして1981年、首相に就任すると、「ルック・イースト」政策を打ち出した。
そして東南アジアの「旗手」にふさわしい経済発展を実現させた。
実際に、マレーシアをゴムとスズの原材料輸出国から、近代工業国家に脱皮させたマハティール首相の実績を背景とした「発言」には重みがある。
このマハティールと同じく日本に学んだ台湾の李登輝総統は、本家の日本で武士道精神の「素晴らしさ」が置き去りにされていることを、ソノ著書「武士道解題」のなかでクリカエシ強調している。
今、日本人が「武士道」を語ることは少ないが、日清・日露戦争における軍規の徹底や、敗れた敵軍の将・ステッセルに帯刀を許したこと、収容所におけるロシア人やドイツ人捕虜の「人道的扱い」なども敗者をいたわる「武士道」のナセルわざであったことは否定できない。
そして、ファイターの珍田(メソジスト派牧師)にせよサムライの澤田(クエーカー教徒)にせよ、「武士道」を精神的基盤として「キリスト教」的世界観を身につけた外交官であった。
それは、世界の指導者と「共通の土俵」、というより「同じ天を戴く」カタチで議論できる教養を身につけたということだ。
ところで昨日、アメリカのキャンプデービットで「G8」が始まったが、そのニュースで「野田首相はその存在感を示しえたのか」という字幕が出ていた。
戦後から今日に至るまで、多くの国際会議、例えばサミットなどにおいて、日本の首相が片隅近くでカゲが薄いのはマイドのことである。
欧米からみて「天を同じくしない」国の指導者と見られているのか、とカングリたくもなる。
ただ一方で、今日の日本の「外交力」の乏しさの原因は、世界ビジョンを打ち出すダケの「精神基盤」がナイいうことではなかろうか。
松下政経塾でも、たぶんソコマデは教えてはくれないのでは。