トリドリの素行

最近、日本カワウソが「絶滅種」となったというニュースがあったが、生き物のひとつが「絶滅種」になることの意味合いを、深く考えたことはない。
しかし生きとし生けるものには、キット深い「存在理由」があるゆえに、コウイウ意識の低さこそ「警戒」を要するものなのかもしれない。
そんなことを思わせたのは、1962年に出版されたレイチェル・カーソン女史の「沈黙の春」の冒頭が蘇ったからだ。
カーソン女史による化学肥料による危機を訴えた「警告」は次ぎの文章で始まる。
「それは奇妙な静けさだった。
例えば鳥たちは、一体どこへ行ってしまったのだろう。人々は当惑し、動揺して鳥たちのことを話した。 僅かに見かける鳥は、生きているというよりも死んだようで、激しく震えて飛ぶことはできなかった。
それは沈黙の春だった。音がなく、原野を、森を、湿地を静けさだけが覆っていた。
魔法でもなく、敵の攻撃でもなかった。自分たち自身の起こしたことへの償いだった」と。
ところで鳥の生態は、様々なハイテク技術をつかって様々な「行動調査」によって解明されるようになった。
最近、日本で繁殖する渡り鳥がドコデ越冬しているのかを小型のハイテク装置を使って解明したというニュースがあった。
これまで、大型の鳥ハクチョウやアホウドリなどには「発信機」などを取り付けて、衛星を利用して地球規模の行動調査が行われている。
夏に日本へ渡ってきて日本で繁殖する渡り鳥を「夏鳥」と呼んでいる。
例えば、ツバメが代表的でだが、ハイテクを使ってブッポウソウという鳥の調査が行われた。
ブッポウソウは、日本の森林で繁殖して、秋に東南アジア方面へ越冬のために向かうが、どこへ行くのかは正確には判ってはいなかった。
そこで、山階鳥類研究所は「小型」の記録装置を使ってブッポウソウとマミジロの鳥2種の越冬地を突き止めた。
一羽のブッポウソウは、中国を経由してボルネオ島(カリマンタン島)北部の森林地帯が越冬地だったことが判明し、マミジロは、カンボジアの森林で越冬したことが明らかになった。
日本から直線距離でおよそ4000kmもの距離のある東南アジアの森林地域である。
ハイテク機器の要件は「小さく軽く安い」ことで、鳥に負担をかけず「長期間記録可能」であることだった。
ブッポウソウは体重がわずか150グラムしかないため、重い送信機を取り付けるわけにはいかず、イギリスの南極研究所が「超小型の日照記録装置」を開発した。
重さが、0.9g1円玉1枚とほぼ同じで、鳥の腰の部分にとりつける。
小型の鳥が長距離を飛行するのに負担にならない大きさや重さである。
装置をとりつけた鳥を、1年後に捕獲して装置を回収し、分析した結果「正確に」越冬地が分かった。
では、どんな仕組みで「地球上の位置」がわかるのだろうか。
この装置は、カナメとなる「フォトダイオード」というセンサーが先端にあり、「太陽の光」日の出から日の入りまでを年間、記録し続ける。
LEDは直流電圧を加えると光るが、「フォトダイオード」はその逆で、光を受けると電圧を生じるので、それを記録する。
これによって、日の出から日の入りまでの正確な長さと、同時に正確な時刻が判る。
この単純なしくみの昼の時間から「緯度」を割り出すのである。
また、南中時が、半年前とどれだけズレているかで経度がわかり、昼の長さの違いと南中時刻のずれを計算して「緯度・経度」を特定する仕組みである。
もうひとつの課題は、この装置をつけた鳥をふたたび捕まえ機器を安全に回収できるかどうかであったが、今回はそれをクリアすることに成功した。
太陽の光を追跡に使えるように考案したのは人間のすばらしい知恵だが、おそらく鳥たちは、太陽の光の長さや太陽の高度などは渡りの重要な情報としてフルに活用しているにちがいない。
いまボルネオは森林の乱開発や違法伐採が深刻で、野生の動植物の生息域が脅かされている。
ブッポウソウは「絶滅危惧種」であるが、どの森林を越冬に利用しているかがわかると、森林の環境を重点的に保護できる「道スジ」ができる。
正確で科学的なデータで、絶滅危惧種の保護・森林の保全に役立てることができるのである。

鳥たちの「行動調査」からサラニ一歩踏み込んで「素行調査」をやったら興味深い結果がでそうだ。
詐欺、偽装、横領、略奪イッパイの世界である。
ある鳥は必ず二羽の子供をセットで生み落とし、二羽を「公平」に育てる。
しかしそれも、一方の子が片方の子を文字通り巣から「蹴落とす」マデである。
親はその「蹴落とす」様子をジット見ながら、最後まで育てる一羽を選ぶ。
鳥の「子育て」で一番の驚きは「タクラン(託卵)」というサバイバル術である。
カッコウの一種ジュウシチはオオルリの巣に自分の卵をコッソリと産みジュウイチは成人すればオオルリの五倍の大きさにもなる鳥である。
オオルリは自分の卵と混じったジュウシチの卵を気がつかずに温め続けるのだ。
ジュウシチのヒナはちゃっかりオオルリの子になりすまして育っていく。
オオルリの親は、お人よしというか「お鳥よし」にも自分よりはるかにデカクなった「子供」にエサを運び続ける。
ジュウシチの「偽装」はコレで終わらない。
体の大きなジュウシチにしてはオオルリが運ぶエサの量は不満らしく、たくさんのエサをネダルために驚くべき「分身の術」をつかう。
ジュウシチの羽の裏側に毛が生えずに黄色いく露質した部分があるが、その露出した部分をタクミに動かしてクチバシに見せかけ、両翼と本物の頭を合わせてヒナが三羽いるように「演出」するのだ。
また、鳥の世界では子育てカップルを助ける「ヘルパ-」役の鳥がいる種がある。
子育てを手伝うことによって、繁殖の経験を積み、自分の子育てに役立てることができる。
子育てカップルも質の高い「ナワバリ」を占有することができるし、ヘルパ-からしても繁殖していた個体が死んだ場合、よく知り尽くしたテリトリーを手に入れる機会が増えるというメリットがある。
しかし最近では「遺伝子」の観点から、様々な動物の行動を解釈するようになってきた。
遺伝子の観点から「ヘルパー」の行動を見ると、メス鳥が血縁関係にある母の子育てを手伝うのは、結局自分と「同じ遺伝子」を残せる確率が高いからだ。
つまり、生き物の一見優しく見える「利他行動」のは多くは見返りをアテにしており、タイテイは互いに利益があるものなのである。
ライオンやリカオンの狩りは驚くべき「組織力」によって実行されるが、ライオンのムレが親を失った子の面倒を皆で見るのも「狩り要員」を確保するためだといえる。
チンパンジーの世界では、下位のものがボスの毛づくろいをしたり、アゴの下をナゼナゼしてご機嫌をとる。
ボスは地位が下の仲間からゴマをすられて悪い気はしないし、下位のチンパンジーはケンカが起きた時のボスの助けを期待できる。
一方、カラス世界のボスは、ナント地位の低いオスに「毛ヅクロイ」する。
相手がおびえていてもオカマイなしに無理やり「毛ヅクロイ」する。
なぜ相手が喜ばないような毛ヅクロイをするのか。
「群れ」が結婚前の若者の集団であることが影響している。
つまりは「女性の視線」を意識しているのだ。
メスにもてるために、仲間をイタワル自分の姿を見せて「優しさ」をアピールしているという。
カラスの夫婦は15年~25年の一生の間ずっと同じ相手とすごす故に、メスは慎重に相手を見定める。
エサを多く取れる強いオスには憧れるが、あんまり節度のない暴れん坊では、コマリマスいうことだ。
ということは、オス鳥たちも「優しさ」が女心をクスグルことは、ちゃんと心得ているということである。
実際にコノ戦略が効果があるらしいことは、野外でも一羽がもう一羽を「強引」に毛ヅクロイしている姿をシバシバ見かけることでもわかる。
つまり鳥たちの「利他的行動」と見えることにも、実は色トリドリの「サバイバル術」が秘されているということである。
鳥類はほとんどが「一夫一婦制」だが、仲良く寄り添うツバメの夫婦もソノ裏ではセメギあいがあることがわかってきた。
互いに不倫しあう夫婦が多いというのだ。数年間の素行調査で、毎年、巣の3割~4割にメスの浮気相手がいた。
メスは偶然見かけた羽の色艶がよいヨリ健康的なオスと「浮気」すれば、優れた遺伝子を受け継ぐ子を授かる。
相手のオスも浮気で自分の子を多く残せる。
ただつがいのオスにとっては、メスの浮気はヤッパリ損である。自分の遺伝子を伝える子が減るからだ。
ツバメの夫婦が寄り添っているのも、仲がいいのではなくオスがメスの浮気を見張るためだとも考えられる。
それでもメスがオスの目を盗んで自由に振舞うと、オスは子育てで手を抜くことになる。
明らかにヒナに運ぶエサの量を減らすようになる。
巣に紛れ込んでいるかもしれない他人の子供を育てるとなると、「子育て」のヤル気も失せようというものだろう。
南北アメリカ大陸に棲息するクロコンドルの場合には、パートナー以外の異性と関係を持とうとすると、パートナーだけでなく、周りにいるクロコンドルからも攻撃されてしまうといわれている。
「浮気をさせない監視社会」という恐ろしい社会を形成している。
しかし、浮気する個体がいると、ほかの個体になにか不都合でも起きるのだろうか。
マリというアフリカの国で、姦淫の罪を犯した男女を「石打ち」の刑に処した最近のニュースを思い出した。
しかしクロコンドルが浮気を監視してまで、「同じ」相手とペアを組み続けることにはどんなメリットがあるのか。
単純な理由として考えられるのは、オスとメスの個体数の比率が1:1に限りなく近いため、浮気をする個体が存在すると、そのバランスが崩れてペアになれないものが現れるということがある。
他の遺伝子をもつ子を育てるとなると「子育て放棄」か手抜きになるので、浮気を防ぐことはシッカリ卵やヒナの面倒も見ることに繋がるというわけである。
ところでハクチョウなどはペアを替えずに同じ相手と生涯をともにする。
これは繁殖期のたびに連れ合いを探してさまよったり、闘争したりする無駄を省くのに役立つからである。
クロコンドルの場合、ほかの個体が一度できたペアを続けるよう「無理強い」するのだから、群れ全体で「非暴力」「省エネ」を考えているということになる。
ところでシジュウカラは、天敵の種類に合わせて警戒の鳴き声をかえる。
ヘビがきたら「飛びたて」、 カラスがきたら「うずくまれ」といった「警戒音」になる。
へビは巣の中まで押しいってくるが、カラスは空でシジュウカラを捕まえることができるからだ。
この「警戒音」を使って、自分の遺伝子を増やそうというヤカラもでてくる。
例えば、他のオスがメスを奪い交尾しようとしたときなどに、最大の「警戒音」を発してソノ行為をヤメさせようとするのである。

世界の生物種は、確認済みで約175万種いるが、未知のものを含めると3000万種~1億種いるといわれ、それらが巨大な共存システムを構成している。
「生物多様性」に関する会議が開かれるのも、人間の活動で自然破壊や乱獲がおき、「種の絶滅」に危機を抱き始めたからだが、ソモソモ生物はなぜそこまで「多様」なのだろう。
人間は様々な環境に適応しているが、種としての変化はおきず、その分適応のあり様が「文化の多様性」という形で表れている。
それは、人間には自分達に都合よく自然を「改変」できる能力が備わっているからであろう。
「生物の多様性」を説明するには、「自然淘汰」ということが根本にあるが、「淘汰」という言葉は、激しい競争を勝ち抜くことをイメージするが、自然界の実態はそうでもない。
むしろ自然界では、競争は避けれるようになっており、それぞれの種は、独自の生態的地位で、意気揚々に生きている。
他種の生態的地位に迷い込んだものだけが、競争によって排除されていくのである。
つまり「生物多様性」は、生き物が互いの競合を避ける為に、自然淘汰を通じて、色々と異なる種類の動物や植物を生み出した結果なのである。
そして、「適者」というのは「よく争う動物」ではなく、他との争いをいっさい避ける動物のことである。
もう少し具体的にいうと、野生の動物たちにとって第一の問題は食物を見つけることであるが、 他の動物との戦いをさけるために、様々なものを食う様々な動物が進化した。
動物の形や構造の違いは、機能の違いを意味している。
食糧獲得の方法をめぐって体の構造も変化したのだから、生物の多様性の根源とは、争いを避けるためだといえる。
NHKの動物番組を見ていて驚いたのは、サバンナを移動する動物達の大群は、生えている莫大な量の草の「異なる部位」を食べていることだ。
シマウマは乾燥した長い草の茎の部分を食べる。ヌーは草の葉を下であつめ門歯でむしり取って食べる。 トムソンガゼルは、多種の動物がすでに採食した地面にへばりついている植物を食べる。
最初に移動し始めるのはシマウマ、次にヌー、最後にトムソンガゼル。他の草食動物も、ヌーが移動するのを 見て一斉に移動する。
つまり草の上から食べる動物の後に、中位を食べる動物が移動してきて、最後に根元を食べる動物が移動していく。
また一方で、これらの動物達は、色々な肉食獣によって「各専門別」にツケネラワれる。
そしてコノ「生物の多様性」は、生態系の「安定」に繋がってくるのである。

生きとし生けるものは、ソレゾレの「必要性」とか「必然性」によって生きているのだと思う。
つまり自然界の「適者」というのは自然の中で過剰なことはしない生き物なのだ。
言い換えると「他との争いをいっさい避ける動物」のことだが、ここ数年クマが各地で人間を襲い始めたのも、クマが住む山に食べ物なくなり人里におりてきた結果である。
クマの襲撃は、出会い会いたくもない人間に出会ってハカラズモ起きてしまう出来事なのだ。
動物からすれば人間と争わざるをえない「必然性」が生じたということにすぎない。
数年前、東京のある幼稚園で、手洗い場で石鹼をぶら下げた網袋が何者かによって鋭く切り取られるブキミな事件が相次いだ。
犯人探しをしてみると、カラスであることが判明した。
都会のカラスは石鹼までも食糧にするようになっていた。
またた都市のカラスは、巣作りにおいても人間様のハンガーを使うし、人間の歩道橋あたりに巣をつくるカラスは人間を襲うようになった。
また、固い木の実を車道において車の車輪で轢かせて割るという方法までアミ出している。
これらはすべて人間の文明の「過剰」が引き起こした結果である。
かつて棋士界の「女王」といわれた人が、エサを毎日与える自家の犬が、自分よりもナゼカ父親にナジンでしまうという「犬の不倫」が悔しいと書いていた。
ところで「犬の不倫」どころではない話を聞いたことがある。
ある動物園の飼育係が退職アタッテ「一番悔しい」と思ったことは、長年自分がエサをやってきたワニがいまだに自分を喰おうとしたことだったという。
いつの時代も 自然界の「必然性」を超えて「過剰に」生きようとしてきたのが人間の歴史である。
ワニはワニの「必然」に従っているにすぎないが、人間が檻の中でワニを飼っていることコソが、自然界にとってヨホド「過剰」(お節介)なことではなかろうか。
飼育員以上に悔しかったは、長年「檻に入れられた」ワニの方なのカモ。