集合知と群集心理

お笑い芸人AMEMIYA君の歌「東京ウォーカーに載りました」は、今時の「情報誌」を批判していて面白い。
自分の店が「雑誌に載った」という「快挙」とはウラハラな家族の「冷淡さ」と、店主の家族の実情がアブリだされていて、笑えます。
この家の店主つまりオヤジは「味でしょうぶせず、あらゆるコネを使って」載った東京ウォーカーの記事を、中二の娘に自慢気に渡したら、鼻で笑われ捨てられてしまった。
実は、その娘もかつて「ピアスとタトゥーだらけの彼氏」と、東京ウォーカーに載ったことがある。
その彼氏に店を手伝わせたら、「薄気味悪いと」急速に客がハナレてしまった。
ヤケクソで「オール値下げ」すると「安い店紹介」ということで、マタ東京ウォーカーに載った。
だが、安さにツラレタ客層のガラは悪くなり、娘の彼氏とトラブルとなり、傷害事件に発展した。
悪いことは重なるもので、店の下から「不発弾」が発見され、それがマタマタ東京ウォーカーのネタとなった。
以上のようなストーリー性のある歌詞で、ソレデモ「東京ウォーカーに載りました」と繰りかえすAMEMIYA君の絶唱には、「哀感」ただよい「鬼気」せまるものがあって、笑えます。
ところで、最近インターネットの街角情報の中で、当の店サイドが、うまい 行ってよかった、などと自ら「書き込んでいる」ことが問題視された。
ウスウス思ってはいても、全国ニュースにまでトリアゲられるほど常態化しているのかと、今までのような「書き込み」への信頼を放棄することにした。
例えば病院の「名医」なんて調べる時、実際に診察をうけたり手術を受けた人の情報が一番タヨリになるし、「名旅館」なんていっても、実際に行った人の声こそが一番確かではないか、と思ってきた。
しかしこうしたネット上の書き込みでさえも、「店サイド」で都合よく「操作」されてしまえば、どうしようもない。
一般論として、有益な情報とは、過去の栄光とか権威にヨルのではなく、「今どうか」が一番であり、タイム・ラグがないユガミのない「みんなの声」を見つけ、それを活用できるかにかかっている。
そしてインターネットこそはそうした「みんなの声」を集計した「最も旬な」集合知を生み出すことを得意とするものである。
問題はそれをどう活用するかだが、操作されたり、加工されてイナイ「素の情報」であることを「大前提」とすることは、いうまでもない。
話は飛ぶが、今世界で起きていることで最も心痛めるニュースといえば「シリア情勢」である。
ソーシャルネットワークを通じて盛り上がった反政府運動を、アサド政権は「武力」で押さえ込もうとして日々数百人単位で死者が増えている。
「親アメリカ」のイスラエルに対して、隣接するシリアは「親ロシア」であり、「国連安保理」に制裁措置の行使を求めたが、ロシア・中国が「拒否権」を行使したため、国連としては実力行使が出来ない状況にある。
かつて中国で1989年、ソレトナク群集が天安門広場に集まり、銃声によって死亡者は数千人でたものの比較的短時間で鎮圧された。
この「天安門事件」の時代には、いわゆる「ソーシャル・メディア」は発達していなかった。
しかし今シリアで、反政府運動が立ち消えにならずに波状的に続いているのはソーシャル・ネットワークの影響が大きいように思える。
しかしモシ、ブログやツイッターの「書き込み」でさえも、政府・軍が「一般民衆」を装って行えば、反政府系の活動家を「一網打尽」にすることサエ可能となる。
つまり表には出ていないが、「民衆革命」や「ツイッター革命」といわれるなかで何が起きているのか、起きウルのかという点は、全くのブラック・ボックスなのである。

海外のインターネットの「検索エンジン」といえば、かつては複数が競いあっていたが、最近ではグーグル以外はホトンド見かけなくなった。
ただ日本は、ヤフーがグーグルより利用頻度が高い世界的にみて特異な国らしい。
グーグルが生き残った理由のひとつは、「リンク数」が多いサイトから順に「検索結果」が表示されるようにいたことが大きい。
そこに「控えめな広告」を出して収入源としたのである。
そのサイトへのリンクが多いというのは、人々の中で「有益なサイト」として認められていることを意味する。
そういう意味でグーグルは、リンクの数という「集合知」をうまく利用した結果成功したといえる。
「集合知」は多くの人々の知識を集めたものだが、この「集合知」を活用したモウ一つの例がネット上の百科事典ともいうべき「ウィキペデア」である。
いろんな人が自由に書き込み編集を行ううち膨大な百科事典ができあがりつつある。
もちろん記述に間違いもあろうが、誰かが間違いに気づいて書き直したりするので、少しづつ良いものに仕上がっていく。つまり「未完の百科事典」なのだ。
ただ「集合知」への懐疑として、「群集心理」とソレとの関連があげられる。
「群集心理」は暴動や株式バブルなどのに代表されるように、一般的に集団は個人を愚かにしたり、狂わせたりする「集団心理」のことである。
しかし「集合知」の条件は、かつて独裁者がマス・メディアを通じて煽った「集団心理」とはカナリ違った性格のものである。
集合の知恵を上手に取り出すためには、一般に以下のような条件がトトノッテいる必要がある。
(1)意見が多様なこと~誰かが私的優位情報持っていてそれらが加算されるような状態 が実現。
(2)メンバーが互いに独立していること~インターネットでは他人を意識せずに様々な考えを表明できる。
(3)中心を持たないこと~ 各人が身近な情報に特化し誰も知らない情報を発信できる。
(4)意見を正しく集約できること~ 個々の判断を集計し1つに集約する場(ウェッブ・サイト等)がある。以上である。
「集合知」は、独立した個人の判断を積み重ねることで集合的に形成される意見のことである。
つまり、群れる人々の「衆愚」ではないということである。
そして集合知の活用には様々なバリエーションがある。
ネット上で知識を加算して「みなが作るレシピサイト」という優れたサイトが出来あがっている。
最近、NHKの番組で「ゲーミフィケーション」(=ゲーム化)の紹介がなされていたが、これを「集合知」と組み合わせると、短時間で素晴らしい成果をだすことができる。
エイズ・ウイルスと戦うタンパク質の安定的構造を見出すために、タンパク質構造を3次元に立体化して、マウスでソノ形を変えるたびに「構造」の安定度が「点数化」されるソフトを開発した。
ネット上でこのゲームに参加したのは、「タンパク質」に何の知識もない世界中の数万人のゲーム好きであった。
そして専門家がどうしても見出しえなかった「安定構造」をわずか「3週間」で見出したのである。

最近、早稲田大学教授の東浩紀氏のJJ・ルソーの「新解釈」は興味深い。最近のソーシャル・メディアの発展と重ね合わせた「解釈」だからである。
ルソーのいう「一般意志」も「全体意思」も、複数の人々の意志を意味している。
我々は「みんなの意志」として「世論」をイメージするが、世論がいつも正しく「公共の利益」に向かうかといえば、そうとはカギラナイことを知っている。
そこでルソーは、そうした「全体意思」よりもサラニ抽象度が高い「一般意志」という概念、つまり「誤ることなく公共の利益をめざす」意志を措定したのである。
ルソーはジュネーブのような小さな都市国家での「直接民主制」を理想として、「代議制」を必要悪と考えた思想家だった。
つまり政治的権利の他者への「委譲」なんということはありえず、有権者の権利というものは、アクマデモ直接国家に結びついていなければならないとする。
ならば議会政治の前提としてある政党、つまりその中で勢力拡大や権力奪取をはかろうとする「政党」に価値を求めるべきでない。
しかし、ルソーの「直接民主制」への固執は、通常考えられる以上にはるかにラディカルである。
ルソーは「社会契約論」の中で次のようなことを言っている。
「もし、人民が十分に情報を与えられて熟慮するとき、市民はいかなるコミュニケーションもとらいないのであれば、小さな差異が数多く集まり、結果としてつねに一般意志が生み出され、熟慮はツネニ良いものとなるであろう」と。ちょっとビックリな考えである
ルソーがいいたいこととは、市民は十分な情報が与えられた上で、互いのコミュニケーションをとってイナイほうがヨイ、といっているのだ。
ルソーは結社ばかりか政党をも認めず、一般意志を形成するための市民間の討議や意見の調整さえも、認めてイナイということなのだ。
そしてコレは、前述の「集合知」の条件とカナリ重なっているのだが、これが果たして「政治論」といえるだろうか。
ルソーは、一般意思は特殊意志の単純な和(全体意志)ではなく、むしろ「差異の和」だとした。
数学の「ベクトル」や「スカラー」という言葉を思いうかべる発想である。
ルソーによれば、みんなの利益を意味する「一般意志」は、皆の意見の差異が消えて合意が形成されて生み出されていくのではナク、差異のアル多様な意見が公共の場に表れて「一気」に成立するものとしている。
こういう考え方だと、「二大政党制」などというものは、「差異」の数を最小限に限定するものであり、モットモ「一般意志」の条件から遠いものであるといわざるをえない。
ルソーは、一人一人の人間は孤独で不完全な存在ととらえている。
ダカラ皆を利する「一般意志」と、特殊意志の総和たる「全体意志」とが異なるのは、ソレゾレの人間が何が本当に幸せであるかを分かっていないからである。
現代において、ネット上のブログの書き込みを見ると、人々のナントナク表出した「無意識」みたいなものでしかない。
また検索においても、一文字打ち込むと多くの人々が打ち込んだ文字の組み合わせの数が多いものから表示され、多くの人々はその検索のパターンを無意識にタドリつつ情報を集めたりしている。
そうやって「無意識」が形成した政治意識みたいなものがナントナク「みんなの意見」を形成している。
それがルソーの「一般意志」と等しいとはいえないにせよ、差異が差異のまま一気に「みんなの意識」が溢れ出ているという感じは、似かよったものがある。
ルソーはもちろん、インターネットやソーシャル・ネットワーク社会を予知したわけではないが、まとまっていないことにこそ価値がある「集合知」というものに気がついていたのかもしれない、と思う。
ところで、日本の社会にもホンノ少しだけ「集合知」の条件に近接した社会があった。
ということを、山本七平の「日本人とは何か」という本の中に見出した。
人が氏族や大家族に属している場合、家長権等を無視して意志表示を行うことなどまず望めない。
しかし「縁」を断ち切って「出家遁世」し、「個人」となって僧院に入り「平等な」立場で仏陀に仕えている立場だと、自由とか独立の意志を示すことができるということである。
だが、寺院といえども組織には上下があり、その組織の長は人事権を握っている。
特に平安時代は「鎮護国家」の時代で僧は国家公務員だから、あるゆる俗世の作用を受けやすい。
しかし時として、氏族や大家族と違い血縁や序列のない「一味同心」的な集団が表れることもあったというのだ。
比叡山延暦寺では衆徒3千で、集会は大講堂の庭に集まる。そのときの服装は異形であり、全員が袈裟で顔を覆い隠して意志決定が行われた。
つまり「秘密投票」が守られた。
ちなみに多数決を採用した多くの民族において、その結果は「神慮」や「神意」が現われたと考えられたので、投票結果は全員を「拘束」することになる。
だから、こういう場で賄賂などで動かされれるようなら、それこそ「神仏の冒涜」となるのだ。
この比叡山での意思決定方法を見ると、シガラミに拘束されない「集合知」を生かしているようにも思える。
全米ベストセラーになったある本によると、一握りの天才や専門家の判断よりも、普通の人が集まったごく普通の集団の判断の方が実は賢いことが往々にしてあるという。
そして「集団知」が専門家を含めた個人の知を凌駕する理由をきわめて簡単に説明している。
個々人がもつ私的情報は常に不完全な情報であり、そのため、私たち個々は「有限の合理性」しか持ちえない存在である。
だが制約がどんなに多くても、一つひとつの不完全な判断が正しい方向に積み重ねられると、集団として優れた知力が発揮されることがある。
先述のウィキペデアの例でいうと、間違いはいつまでも放置されず、多様な見地から修正・加筆されていくことで、より完全なものに近づくからである。
また経済学における「合理的期待形成学派」の主張とも符合する。
個々人の経済予測は間違っても全体としては(つまり平均すると)専門家一人よりも正しく経済予測する。
そして「合理的期待形成学派」は、経済予測が当たる時、人々の経済行動はあらかじめ「折り込まれ」てしまい経済政策の効果を期待できないという結論を導き出した。
まとめていうと、「群集心理」は「同調」によってうみだされるが、「集合知」は「差異」によって生み出されるということだ。

ところで最近のニュースで、ソーシャル・メディアの中でも「フェイス・ブック」があるが、このフェイスブックが集めた「個人情報」は、巨大な「集合知」を形成している。
27歳のCEO・ザカーニ君の「より良いサービスを提供するために金儲けをする」という「経営哲学」は立派なものだ。
このたび、株式上場となったことにより「広い範囲」から資本を集めることができる一方で、様々な勢力にサラサレルことも意味している。
つまり「フェイス・ブック」が蓄積した「個人情報」も、今までとは違った形で利用されるようにナル可能性が高まったということである。
ザカーニ君の経営哲学が死んでしまわないことを祈る。
ところで、ソーシャル・メディア世代の「シンボル的存在」として、レディ・ガガがいる。
そして、各地に広がった「ウォール街占拠運動」で、よく歌われているのが、レディ・ガガの「ボーン・ディス・ウェイ」(こんなふうに生まれた)である。
レディ・ガガといえば、なんか「背徳的」な香りがして「違和感」を覚えていたが、その実像は生真面目で地味な人ではないかと感じるようになった。
ただ、「マスク」や「衣装」でメイクすると躍動する性格の人のように思える。
自らがイジメられっ子であったレディ・ガガは、14歳の少年がいじめをうけて自殺をしたことにショックを受け、2011年11月、若者の政治力を強化するための財団「ボーン・ディス・ウェイ」を作った。
その少年はアリノママの自分を賛歌する「ボーン・ディス・ウェイ」を聞いて自分を励ましていたという。
そして、ボーン・ディス・ウェイ財団は、ソーシャル・メディアを使った動員力で、イジメ撲滅の運動などもしているという。
ソーシャル・メディア世代は「世界は私が中心」という考えを持ちながらも、仲間との「連帯」を大切にするという傾向がある。
その「連帯」の手段が、フェイス・ブック、ツイッター、そしてユーチューブといったソーシャル・メディアである点に特徴がある。
ところで、こうしたソーシャル・メディアが「オバマ大統領」を実現したといっても過言ではない。
これはオバマ大統領自身が「合衆国再生」に書いていることだが、選挙期間中のアル時点から「不思議なウネリ」起こって「当選できた」と書いている。
2012年大統領選挙も陽表的な「政策」以外に、そうした「暗黙の力」を味方にした人が、新大統領となる可能性が高いように思われる。
その暗黙の力を「一般意思」とよぶか「集合知」とよぶのかよくわからないが、少なくとも歴史上の独裁者を生んだ「群集心理」(=集団心理)とかいうものとは、性格を異にするものであろう。
つまりソーシャル・メディアの拡大は、従来の政治次元とは、かなり異なる土壌を用意しているといえる。