仕事が呼ぶ

最近、仕事がナイというは人は、自身が一番「制限」を設けているカラではないのか、と思うことがある。
その「制限」というものの一つが「適性」というものにちがいない。
それならイッソ自分の「適性」に見合った「仕事モデル」を作ってみたらとも思うが、今度はソレダケの胆力や気力の方が間に合わないのか。
終戦直後の人々の写真を見て思うことは、ナリフリかまわず生きていこうと前を向いている姿が多いことだ。
アノ混乱期に「仕事の適性」ナンテことを考えるゼイタクは、許されなかったはずだ。
「仕事モデル」といえば、「たこ焼き」で有名な「銀だこ」を思い起こす。
「銀だこ」が、東北の被災地にマッサキに向かい「たこ焼き」を売ったら、自分達の仕事がこれほどアリガタがられる体験をしたことがなかったという。
そこで、トラックで「たこ焼き」道具を運ぶのではなく、本社ごと被災地の石巻に移すことにしたという。
これは業界の人々を驚かせたが、確かに都市部に本社を置いたほうが、「コスト対ベネフィット」で計算すれば、優位かもしれない。
しかし被災地だからこそ新しい展開が出来るし、今までにない「ビジネス・モデル」が作れる可能性もある。
「銀ダコ」社長ハジメ、被災地と運命をトモニするらしいが、別に彼らが「慈善活動」をしようとしているワケではない。
自分達を一番必要としている人々に寄り添い、ソレ相応の報酬を受け取っているにすぎない。
こういうものも、ノーベル平和賞のユヌス氏の唱える「ソーシアル・ビジネス」の一つのタイプだと思う。
結局、ビジネスとは、自分が何に最もヨク「応えられる」のか、ということを見極めることで、それは必ずしも、労働市場で一番高い「値段」をツケテくれるトコロとは限らないのだ。
今のプロ野球の世界を見ると、安い給料でも弱いチームでも運命をトモニしていこうというサムライがほんとどイナクなった気がする。

「職業」を意味する英語には「Occupation」、「Vocation」、「Calling」などがある。
「Occupation」は、日常的に時間を割く仕事で、「Vocation」は本人の適性に基ずく天職、「Calling」も天職だが、コチラの方は「神の呼びかけ」に応じた仕事である。
人は仕事をそれほど「意思的」に選んでいるのではなく、多くは「めぐりあわせ」や「なりゆき」によって選んでいるのではなかろうか。
そして、その「なりゆき」にコソ、神は「宿り」たもうで、「呼びかけ」られているということかもしれない。
特に、イマダ「誰も」手がけていなかった仕事となると、後から辿れば「Calling」とよぶ他はないといったケースも存在する。
例えば明治時代当時、誰も手がけていなかった教会堂建築やオルガン製造に携わることになった人々も、ソレが当てはまるように思える。
彼らはシュバイツア-などのように「神の使命」を知って仕事を選んだホドの「偉人」というわけではない。ただ彼らが磨いた技術を信頼した誰かの「お呼び」がカカッテ、その仕事に携わったにすぎない。
鉄川与助は、1879年、五島列島中通島で大工棟梁の長男として生まれた。
五島は隠れキリシタンが非常に多い島であった。
幼くして父のもとで大工修業を積んだ与助は、17歳になる頃には一般の家屋を建てられるほどの技術を身につけていた。
鉄川家の歴史は室町時代に遡りもともとは刀剣をつくった家であり、鉄川家がいつ頃から建設業にかわったのかは正確にはわからない。
ただ鉄川元吉なる人物が青方得雄寺を建立した事実が、同寺の棟札に記録されている。
明治になるとキリスト教解禁となり、長崎の地には教会堂が建設されることになった。
鉄川家は地元の業者として初期の教会建築に携わってきたが、日本の寺社建築に「装飾として」キリスト教的要素を加えるものにスギナかった。
個人的に、愛知県の明治村を訪れた際に、寺院建築と教会堂建築の「習合形式」の初期の建造物・大明寺聖パウロ教会をみることができた。おそらくソノヨウナものであったのだろう。
1906年に鉄川与助が家業を継ぎ、建設請負業としての「鉄川組」を創業したとされている。
鉄川家の重大な「転機」は、1899年フランス人のペルー神父が監督・設計にあたった曾根天主堂の建築に参加したことにあった。
これをキッカケに、「鉄川組」は神父から「西洋建築」の手ほどきを受けて、田平教会の「リヴォルト天井」の建築方法などを学んだという。
鉄川与助は家業をヒキツイで以来、主にカトリック教会の建設にあたってきた。
その工事数はカトリック教会に限っても50を越え、その施工地域の範囲は長崎県を主として、佐賀県、福岡県、熊本県にも及んでいる。
そして長崎の浦上天主堂、五島の頭ケ島天主堂、堂崎天主堂など、今もそれぞれの地方の「観光資源」となっている。
原爆によって破壊された浦上天主堂も、「鉄川組」によって最終的に完成された。
特に旧浦上教会の設計者・フレッチェ神父との出会いは、鉄川与助にサラニ大きな技術的な「飛躍」のチャンスを与えた。
浦上教会の完成後、鉄川与助は福岡県筑前町・大刀洗の「今村教会」の設計と建設に従事し、日本でも数少ない「双頭の教会」を完成させた。
この教会は、鉄川与助がタドリ着いたキリスト教建築の水準の高さを示している。
今村教会では、レンガの幅がひとつひとつ異なる点やレンガで「薔薇窓」を作った点も大きな特徴となっている。
鉄川与助はその人生の大半を教会堂建築にささげ1976年6月5日97歳でなくなった。
ところで、日本国産オルガン製作は意外な展開から生まれた。
1851年、山葉寅楠は紀州で生まれた。
徳川藩士であった父親が藩の天文係をしていたことから、山葉家には天体観測や土地測量に関する書籍や器具などがたくさんあり、山葉は自ずと機械への関心を深めていった。
やがて明治維新とともに世の中は急展開し、1871年単身長崎へ赴き、英国人技師のもとで時計づくりの勉強を始めた。
その後は医療器械に興味を持つようになり、大阪に移って医療器械店に住み込み、熱心に医療機器についての勉強をした。
1884年、医療器械の修理工として静岡県浜松に移り住んだが、医療器械の修理だけではとても暮らしを立ててはいけず、時計の修理や病院長の車夫などの副業をして生計をささえた。
浜松尋常小学校の校長が音が出なくなった外国産のオルガンを前に修理工を探していた。
ソンナ折、校長は山葉のウワサを聞き彼に修理を依頼した。
「音楽のまち・浜松」のタネは、実にコノ時蒔かれたといってもよい。
校長の依頼を受けて修理に出向いた山葉は、ネジを慎重にゆるめながら故障の原因を探りだした。
ほどなく故障箇所をつきとめるとおもむろにオルガンの構造を模写しはじめた。山葉の脳裏にオルガンの国産のビジョンが広がっていったのである。
山葉は、将来オルガンは全国の小学校に設置されると見越し、すぐさま貴金属加工職人の河合喜三郎に協力を求め国産オルガンの試作を開始した。
試行錯誤2ヵ月の末オルガンが完成し、浜松の小学校と静岡の師範学校に試作品を持ち込むがその評価は極めて低かった。
何かがタリナイと思った二人は東京の音楽取調所(現東京芸術大学音楽部)でチャントした「審査」を受けることにした。
当時はまだ東海道本線は未開通で二人は東京まで実に250kmを天秤棒でオルガンを担いで運ばなければならなかった。
二人は「天下の嶮(ケン)」で名高い箱根の難所もソレで越え、今も二人の「記念碑」が箱根の峠に立っている。
音楽取調所の伊沢修二学長は二人が持ち込んだオルガンを、カタチはいいが調律が不正確で使用にタエナイと分析した。
彼らは伊沢の勧めにしたがって約1ヵ月にわたり音楽理論を学んだ。
山葉は再び浜松に戻り、河合の家に同居しながら本格的なオルガンづくりに取り組んだ。
苦労を重ねながらも第2号のオルガンが完成し再び伊沢学長の「審査」を仰いだ。
伊沢は、第2号オルガンが舶来製に代わりうるオルガンであると「太鼓判」を押し、二人は言葉もなく涙を流したという。
これこそが、「国産オルガン」誕生の時であった。
こうしてオルガン製作を進めなが山葉の頭を離れなかったのは、「ピアノの国産化」であった。
1899年、単身アメリカに渡った山葉は精力的にピアノ工場をまわり翌年からアップライトピアノの生産を開始し、1902年にはグランドピアノを完成させた。
そして、1904年にはセントルイス万国博覧会でピアノとオルガンに「名誉大賞」が贈られた。
鉄川が建設した多くの教会堂には賛美歌とともにヤマハ製(山葉)のオルガンの音色が響いているにちがいない。
ノアの箱舟の建造にせよ教会堂にせよオルガンの製造にせよ、「天上的」製作に携わった仕事はヤハリ「Calling」とよぶのがフサワしい。

日本で最初の産婦人科医師は楠本イネと言う女性だが、数奇な運命を辿って日本人初の産婦人科医となっている。
イネの母の瀧は商家の娘であったが、長崎・丸山町遊女であったが、当時入ることのできる日本人が極限られていた出島に出入りし、シーボルトお抱えとなり、彼との間に私生児としてイネを出産した。
イネの出生地は長崎銅座町で、父シーボルトの国外追放まで出島で居を持った。
シーボルトは1828年、「国禁」となる日本地図、鳴滝塾門下生による数多くの日本国に関するオランダ語翻訳資料の「国外持ち出し」が発覚し国外追放となった。この時、イネはわずか2歳であった。
イネは、「シーボルト門下」の宇和島藩・二宮敬作から医学の基礎を学び、石井宗謙から産科を学び、村田蔵六(後の大村益次郎)からはオランダ語を学んだという。
さらにボンベやその後任のボードウィンから産科・病理学を学び、後年京都で大村が襲撃された後にはボードウィンの治療のもと、大村を看護しソノ最期を看取っている。
1858年の「日蘭修好通商条約」によってシーボルトの追放処分が取り消され、再来日した父シーボルトと長崎で再会し、西洋医学(蘭学)を学んでいる。
シーボルトは、長崎の鳴滝に住居を構え昔の門人やイネと交流し日本研究を続け、幕府に招かれ外交顧問に就き江戸でヨーロッパの学問なども講義している。
イネは、ドイツ人と日本人の間に生まれた女児として、当時では稀な混血であったので「差別」を受けながらも、開明君主であった宇和島藩主伊達宗城から厚遇された。
1871年、異母弟にあたるシーボルト兄弟(兄アレクサンダー、弟ハインリッヒ)の支援で東京・築地に開業したのち、福沢諭吉の口添えにより「宮内省御用掛」となり、金100円を下賜され明治天皇の女官の出産に立ち会うなど、その医学技術は高く評価されている。
その後1875年に、医術開業試験制度が始まったが、女性であったイネには受験資格がなく、様々な事情で東京の医院を閉鎖し長崎に帰郷した。
1884年、その門戸が女性にも開かれるが、イネは既に57歳になっていたため、以後は産婆として生きる道を選んだ。
イネは生涯独身だったが、シーボルト門下の石井宗謙との間に儲けた娘タダがいた。
彼女は未婚のまま娘を出産し、生まれてきた私生児を「天がただで授けたもの」という意味をこめてタダと名付けたとされる。
後年、タダは宇和島藩主伊達宗城により改名を指示され「高」と名乗ったという。
62歳の時、娘・高子(タダ)一家と同居のために長崎の産院も閉鎖し再上京し、医者を完全に廃業した。
以後は弟ハインリッヒの世話となり余生を送った。
さて一昨年春に、「日本人初」のバスガイドさんが亡くなったというニュースを聞いた。
コノ女性は、別府市でバスガイドとして温泉地を案内した村上アヤメさんで、享年98歳であった。
箱根宮ノ下温泉にある富士屋ホテルが、観光をかねて乗合バスの運行もはじめていた。
村上さんは1928年から33年まで、「亀の井自動車」の初代女性車掌の1人として勤務した。
「地獄巡り」などを「七五調」で説明しながらのガイドが評判を呼んだ。
引退後は後進の指導に当たり、2007年に同県知事表彰を受けている。
ところで、女性(実際は少女)バスガイド誕生は、油屋熊八というアイデアマンによるものであった。
油屋は、浮き沈みの激しい相場師を捨てて、別府温泉に移って「亀の井ホテル」を創業し、洋式ホテルに改装した。
続いてバス事業に進出し亀の井自動車を設立し「山は富士、海は瀬戸内、湯は別府」というキャッチフレーズを刻んだ標柱を全国各地に建てて回ったという。
そしてこのの油屋が、「女性バスガイド」による「案内付」定期観光バスの運行を開始した。
実は、「生きてるだけで丸儲け」という言葉は、油屋熊八の言葉と言われている。
ソレを知ってか知らずか、明石家さんまの師匠・笑福亭松之助が「生きてるだけで丸儲け」という言葉をよく使っていたそうだ。
ちなみに、明石家さんまは、娘に「生きてるだけで丸儲け」を省略して「いまる」という名前をつけている。
楠本イネの娘「タダ」と、明石家さんまの娘「いまる」、名前を並べてみると面白い。

ところで人間には、「適職」というものが本当にあるのだろうかと思うことがある。
「適性検査」を受けて、もしも「一位警察官、二位トリマー」なんて結果になったら、何を選んだらいいのだろう。
結局、仕事というのは自分で選ぶのではなく、仕事の方が呼んでいるというのが、「実相」に近いのかもしれない。
そして、仕事の能力は本人の「内部評価」よりも、外から見た「外部評価」の方が正しいことが多く、自分には向いていないと思える仕事に案外と「向いていた」モノがあったりする。
以前「プロジェクトX」で、「謎のマスク 三億円犯人を追え~鑑識課指紋係・執念の大捜査~」というのがアッタ。
警察官になれば「警視庁特捜部一課」というのが、誰しもが憧れるところらしい。
ところが、主人公は、念願カナワズ「指紋照合課」に配属になった。
しかし、ソコで仕事に打ち込んでいく中で、「捜査一課」にいては、絶対に解決の糸口さえ見つけられナカッタであろう「重要犯罪」の糸口を見出すことになる。
具体的にいうと、1986年有楽町で、3億円の現金強奪事件が起こり、鑑識課所属の塚本宇平は、「指紋の照合」という非常に地味で単調な仕事を通して、「外国人窃盗団」の存在を明らかにする。
この「指紋の鬼」とまで呼ばれた塚本宇平の生涯を見ると、「仕事に呼ばれた人」というのがピッタリの感じがする。
長く大学の教職におられた哲学者の内田樹氏は、「適職は幻想である」とマデ言われている。
そして「キャリアのドアにはドアノブがついていない」というのが持論なのだそうだ。
つまり、キャリアのドアは自分で開けるものではなく、向こうから開くのを待つ姿勢が正しい姿である。
自分が「何を」持っているかは、自分で見つけるものではなく、周りの状況がソレトナク「教え」てくれるものということである。
そして大事なことは、ドアが開いたらタメラワズニ踏み込むこと、なのだという。