一点「我々」主義

「民主主義」という言葉は、それ自体では宙に浮いた言葉で、その意味で経済学における「完全競争」に似ている。
経済学では、「異なる」条件下で理論がヒックリ返るようなことが起きているが、それと同様に「民主主義」も違う条件下で「暴政」と化すこともありうる。
経済学で理論がヒックリ返る例をいえば、ケインズ経済学の「有効需要の原理」によると、減税すれば消費が伸びるし、投資も伸びるというのが巷間に知られたテーゼである。
しかし、「増税した方が消費が伸びるかもしれないし、投資が増えるかもしれない」。
今日ソンナことが言われるようになった。
なぜかといえば、増税によって「財政基盤」がシッカリすれば、国債暴落の不安もなくなり、社会保障も幾分充実し、老後の安心度も増すからである。
すると人々は、お金を貯蓄にマワサズ安心して物が買えるし、リスクはあっても収益の多い投資もできるというわけである。
こうした現象はウスウス感じていたことだが、最近の新聞によれば「逆ケインズ効果」というらしい。
実際の経済は、例えば消費税や法人税の「増税/減税」がケインズ効果と逆ケインズ効果とが、どのように「相殺」し合うかによって決まることになる。
しかし、コノ問題を政治とカラマセルと、次ぎのようなことも起きる。
日本の「消費税増税」のニュースが海外に伝わる「財政破綻」は免れたという「アナウンス効果」により、海外からの投資を招きヤスクなる部分もあろう。
他方で、国民に「マニュフェスト」ではシナイといった「増税」をヤッテしまったのだから、民主党は「マニフェスト政治」をホネヌキにしてしまった。
その「政治不信」は修復不能で甚大であるため、その後の政治状況に悪影響をもたらすという見立てもアリうる。

今日のような極度の信用不安と財政危機の世界の下では、経済は通常の理論から異なる結果が生まれるケースもあるということだ。
ソレに同じく「極度の」少子高齢化の下では、果たして民主主義的「解」がマトモな「選択」ナノカかということが疑問が起きる。
具体的にいうと、若年層と老年層が全体票に占める割合があまりに開くと、かなりのバイアスのかかった「政治選択」が行われるということである。
政治家は多くの票をもつ「中高年向けの政策」を優先シガチとなる。
厚生労働省の2013年度予算の概算要求では、重要施策と位置づける「若者雇用戦略」は396億円にとどまった。
正規労働対策全体でも約6千億円で、30兆円を超える社会保障全体のわずか2パーセントにとどまっている。
また、過去の物価下落を反映せずに、累計7兆円規模のモライ過ぎとなっている「年金の減額」は解消されないままである。
さらには、「インフラ崩壊」の問題がある。
ガス管や水道管の破裂、橋の亀裂、公民館や学校の老朽化で、ココ数年、全国で「インフラ崩壊」の危機が顕在化し、生活に直結する事故が相次いでいる。
高度成長期に多くが整備されたインフラであるが、40年~50年の耐用年数を経て、いま一斉に「老朽化」が進んでいる。
インフラ全ての維持・更新に必要な費用は、今後40年間で実に600兆円にも達すると試算されている。
しかし、これまで国も自治体も有効な対策を講じず、問題を先送りにしてきたが、これらの負担も若者の肩にノシカカッテくるのである。
今、「シルバー民主主義」という「もうひとつの一票の格差」が問題となっている。

昨今、若者の政治への関心度は低くなり、投票所へ行く者が減ると、マスマス国政への若者の政治的「チャネル」は細くなるように思える。
しかし若者は今、ソーシアル・メディアを道具にして従来とは異なる「政治意識」をもち、「選挙」とは違うカタチで政治参加しつつある。
朝日新聞にこの1週間で、「ソーシアルメディアと若者」をテーマとして二人の政治論評が掲載された。
一人は濱野智史氏で、モウ一人は橋本治氏のものである。
濱野氏の方はAKB48の選挙やアメリカ大統領の長期にわたる選挙戦を引き合いに出しながら、政治は「祭り」の要素を取り入れて活性化すると主張している。
この場合の「祭り」とは、歴史上の「祭政一致」の宗教的祭祀と政治の一体性を意味するものではなく、エンターテインメント性のある「祭り」に近いといえる。
その代表が、アメリカ大統領選である。
アメリカの大統領選はただ「選ぶ」のではなく、国民のなかで我々が選んだ大統領という意識が「熟成」するまで時間をかける。
そのために「長期化」に耐えうるように、政治ショーとして、人々の政治参加への意識を除々に高めていく。
アメリカは多民族の移民国家であるから、国家意識を形成するのに多大の時間と労力が必要だということであろう。
一方の橋本治氏は、オリンピックのメダリスト登場に動員もしないのに50万人も集まったことに注目した。
中国や韓国の反日デモをみて「あの人たちはなんであんなに怒っているのだろう」と思う人は多いが、橋本氏はそういうメンタリティーをいつのまにか日本人は失ったのではないかと指摘する。
反面50万人もの人が動員もなく銀座に集まるのはなぜなのか。
「国のヒーロー」というより、自分または「われわれ」のヒーローという意識に違いない。
国のことよりも「自分」の感情を主軸とする風に変わってきている。
それはまた「国民」という意識が薄れていることのアラワレというように論じている。
ところで今日、様々な意味で民主主義が問われている。
民主主義が自分を「主人」(神)にしているということならば、どうして「リーダー不在」を嘆く必要があろうか、ということにもなる。
しかし現実の人間は自分の意見を持たず、付和雷同的で何をシデカスかわからない。
だから彼らを教え導くリーダーが必要なのだということを感じている。
この問題を歴史に探れば、ヨーロッパの信用不安の「震源地」となっている古代ギリシアのアテネ「民主制」の成立の経緯から多くのことを学ぶことができる。
アテネの「民主制」は一言でいえば、自らリーダーを喪失していくプロセスのように見える。
日本は今どうして「決められない政治」に陥っているのか、ギリシア末期の政治状況から色々な共通点が見えてくる。
「人間は逆立ちした樹木である」とはプラトンの言葉だったか、樹木を人間に喩えると、栄養を摂取する口(=根)は地下に埋もれ、生殖器(=花弁)は空中にさらされている、というような見立てである。
プラトンがどうしてコンナ比喩を使ったのかわからない。しかし、アテネの民主政治の姿の一面であったのかもしれない。
アテネでは奴隷制があって、12万人の市民に対して9万人の奴隷がいた。
市民が政治参加して議論絵できる余地があったのは、こうした「奴隷労働」から栄養を吸い取って咲いた「花弁」であったといえるかもしれない。
しかし民主主義を「花弁」とは過激だが、民主主義という言葉が人々を酔わせ引き寄せる「魔手」のような言葉だとすれば、あながち的ハズレではない。
こういう時代の記憶を背景に、ギリシア人は労働は奴隷のやることで、一生懸命働くことは「人間らしく」ナイと思っているのかもしれない。
紀元前6世紀初めのアテネで、貧しい多くの市民は、金持ちから金を借り手りて何とかヤリクリしていた。
借金のカタは自分の体であり、返せない者は奴隷となった。
落ちぶれた人が増えると社会がスサンダ雰囲気になっていく。
そこに、ソロンという政治指導者が登場する。
彼は借金を帳消しにし、多くの人を隷属状態から市民に戻した。 人間を借金のカタにすることも禁じた。
財産に応じて、権利義務の差をもうけていたが、富裕層な限られていた政治参加を土台貧しい市民に広げた。
次々打ち出した改革は、「古代民主制」の土台となった。
ギリシア民主制の過程で登場した貴族と平民の調停者たる「僭主」という存在に注目したい。
ソロンの改革後、ペイシストラトスという人物が、亡命貴族の土地を没収して分配し、「小農民保護」の改革を行った。
ペイシストラトスは、ソロンが手をつけなかった「土地の再分配」に手をつけ、一歩進んだ改革を行ったのである。
ペイシストラトスは、このように民主的姿勢を見つつも、一族を高官につけ、その一人が暗殺されるや「暴政」と化した。
こうしてアテネ市民は、人望厚き「僭主」であっても、「独裁者」と化することを学んだ。
そこで、亡命貴族の一人であるクレイステネスが民衆と手を結び、「僭主」となるおそれがある者を、陶器に書いて投票させた。
陶器のカケラがいわば「投票用紙」の役目を果たしたので、「陶片追放」(オストラシズム)と呼んでいる。
一定数以上名前が書かれた者は、市民権を失わずとも、10年間はアテネへの立ち入りをさせないというものだった。
「陶片追放」の対象になった人物には、サラミスの海戦の英雄であるもいたりして、この結果が有能なリーダーを失うということにも繋がったのかもしれない。
紀元前462年、ペリクレスはアレオパゴス会議の実権を奪って、全アテナイ市民による政治参加を促進した。
翌年、貴族派が陶片追放によって正式に国外追放されると、以後アテナイの最高権力者の地位を独占した。
前444年から430年までの15年間、ペリクレスは毎年連続ストラテゴス(=「将軍職」)に選出され、ペルシア戦争に勝利し、アテナイは全盛時代を迎えていた。
大国ペルシアの脅威が薄れると、デロス同盟の盟主であったアテナイはその同盟資金を自己の繁栄のために流用するようになった。
デロス同盟は対ペルシア防衛機関という本来の主旨を失い、所謂「アテナイ帝国」を支える機関へと変質を遂げていたのである。
ペリクレスはデロス島において管理していた同盟資金をアテナイでの管理に移し、パルテノン神殿などの公共工事に同盟資金を積極的に流用しアテナイ市民の懐を潤した。
ペリクレスは弁舌に優れた政治家であり、格調高いペリクレスの演説は現代にまで伝えられ、欧米の政治家の手本となっている。
その中には「アテナイの住民は富を追求する。しかしそれは可能性を保持するためであって、愚かしくも虚栄に酔いしれる為ではない」という言葉もある。
ペロポネソス戦争で民主化に反対するスパルタとアテネが戦うが、ペリクレスが亡くなり、「衆愚政治」へと陥っていく。
結局、アテネはこの戦いで破れ、ギリシアのポリス社会全体も疲弊し衰退していく。
ソクラテスは、「衆愚」と化した民主政治に批判的で、それによって「青年に悪影響を及ぼしている」と獄に入れられ、紀元前399年に自ら毒杯をあおいで自決している。

今日日、オリンピックのメダリストが「我らのヒーロー」ならば、「われわれ」とはどんな範囲をサスのだろうか。
ゴーギャンが描いた大作のタイトル「われわれはどこから来たのか われわれは何者か われわれはどこへ行くのか」の場合、「われわれ」とは全人類を含んでいるといえる。
反原発のデモに参加した人々の「我々」とオスプレイ反対デモの人々の「われわれ」は違ってくる。
つまり、問題にヨッテ投げ渡された「共通課題」や「共感の輪」の広さで決まってくるといってイイかもしれない。
ということは、人々は「恒久不変」の輪によってカタマッテいるものではなく、問題設定ゴトに違う輪が作られ、共感が得られれやすいものに、自らを投じるといったカンジの「政治参加」をしている。
一点「我々」主義なのだ。
かつてのように中心になる人物がビジョンをもって、社会を引っ張るということではないのである。
そしてこうした政治参加のカタチは、決まりきった顔ぶれの「選択肢」の少ない選挙よりズット「政治参加」の実感がもて、楽しいと思えるにちがいない。
タダ必要な時に「まとまり」「つながる」というもので、ある特定の思想によって動員されるという傾向は薄れていく傾向にある。
つまり人々は融通無碍にも思えるネットワークの中に、時折「共感」できるものにツナガルだけなのである。
このユビとまれというカンジかもしれない。
しかし、その「つながり」が怒涛のような力となり得るので、決して軽くみることできない。
濱野氏によれば、今世界をユルガシているのは、「思想=内容」ではなく、ネットワークでつながる「形式」なのだという。
デモに行ってきたよ、楽しかったよという友達のツブヤキを「見て」、じゃあ自分も行ってみようかなと。
そんな普通の無数の環が積み重なって、数万人を路上に出現させる。
江戸時代末期に「ええじゃないか」の乱舞がおきたが、あれは庶民に何か世の中が動き出そうとしている直感もとで、その「方向性」を見出だせないママ、何がなんだか分からない状況でのエネルギーが発露した事態なのではなかろうか。
先日行われた毎日新聞の世論調査で、「強力なリーダーシップを持った政治指導者の出現を期待するか」という問いに対し、「期待する」と答えた人が74%もいたそうだ。
しかし、すべてを首尾よく導いてくれるリーダーを求めておきながら、少しでも不満が出ると「この人にはリーダーシップが足りない」といってすぐに非協力的になったり、的ハズレな批判をしてヒキズリおろしたりする。
実際、組織が円滑に動き、業績が順調に右上がりになるためには、リーダーの影響力はセイゼイ1割から2割であり、残りの8割から9割はリーダーの下で働くフォロワーの力によるとする研究もある。
「すぐれたリーダーがいない」と嘆く前に、本当に模範的「フォロワー」の層の厚い社会になっているか、リーダーが出たとしても、それを支えるような意識があるのだろうか。
それは、誰かが「リーダー」になろうとすると、マスコミの「スキャンダル暴露」合戦が必ずといってイイほど週刊誌に登場するのである。
これは現代版の「陶片追放」の一種といえないだろうか。
そういえば、マクドナルド社長の原田泳幸が、「市場調査を信じるな」というようなことを書いていたのを思い出した。
例えばお客様に「どんな商品が欲しいですか」とアンケート調査をすると、必ず「低カロリー」とか「オーガニック」とか「ヘルシー」とか、健康重視のメニューが挙がる。
ところが4枚のパティが入ったメガマックを発売しても、クォーターパウンダーを発売しても、若い女性が平気でメガマックやダブルクォーターパウンダーを食べているわけである。
すなわち、客がいうことと、実際の行動はマッタク違うということである。
つまり客の希望ばかりを聞いて、その通りにしてはダメということである。
中国の船舶が尖閣列島の領海に侵入していた時に、若者がAKB48の選挙にウツツヲ抜かしていたと批判された。
しかし、前述の濱野氏によると「AKBがなぜあれほど盛り上がっているのか、ポイントは二つアルという。
ひとつは多様な選択肢があること。もう一つは、昔のアイドルのファンは「追っかけ」と言われ、文字通り、追っかけるしかなかった。
でもAKBのファンは「推す」という。AKBは「我々」の代表なのだ。

ソーシャルメディアの登場で、個人が賢くなったわけではないのに、ソーシャルメディアが媒介する集合体としての「力量」は上がっていくことになる。
誤って流れたデマもすぐに追加・修正・検証されるからである。
つまり、政治に「集合知」が活用されることになる。
となると、必ずしもリーダーは必要ではなく、リーダー不在なのではない。
リーダーがいたとししても、最後までツイテ行くという「フォロワーシップ」が希薄化しつつある。
また、ソーシャルメディアは頻繁に悪意の捏造もなされるゆえ、いつも情報が「正される」方向には動くとは限らない。
その意味で「集合知」も一定の条件化でしか生かされないし、それの発露であるデモなどが実際の政治の場にドウとりこむかという問題もある。
ちなみに、江戸末期におきた「ええじゃないか」の乱舞も、倒幕派がタイミングよくお札をふらせるという演出をやったという説サエある。
ルソーは、政治とは単なる「集計」でしかない「全体意思」ではなく、「一般意思」の発見コソが重要であると論じた。
少子高齢化社会における民主主義のバイアス正すのは、この「一般意思」の発見であり、その実現は強力なリーダーシップなしにはナイエない。
しかし実行力ある「リーダー」というものは、どうでもいいスキャンダルの暴露で現代版の「陶片追放」によって果てる可能性の方がキワメテ高い。
リーダーを求めながらも、リーダー不在のまま、あるいはリーダーを育て守ることもしないで、ソーシアルメディアの「集合知」または「悪意」で揺すぶられる政治状況。
これが、近未来の政治状況になりつつあるのではなかろうか。少なくとも日本ではソウ感じる。
この状況が日本ひいては世界をどう導くかは、イマダ「未知数」といってよい。