カオスに飛び込め

地は形なく、虚しく無秩序だった。つまりカオスだったというのは、聖書の冒頭の言葉である。
さて人間の生きる原動力は、フロイトはリビドーとかマズローは劣等感とか、「暗い面」からの説が多くて「明るい」衝動説ナンて聞いたことがない。
その暗い衝動のセイなのか、人間はドンナニうまくいっても、一点の曇りもない成功ナドないようだ。
成功の裏側には、それと匹敵するぐらいに「代償」を払ってることが多いように思える。
また、人間は或る限定された世界で実績(利益)をあげ、互いにリスペクトとか誉れを分かち合うなどしながら、それに「生きがい」見つけて生きるものではある。
しかし、もっと広い視野からこの社会を見れば見るほど「カオス」(混沌)の度合いを深め、呑みこまれんとしているように感じる。
だからかえって、コンピュータ画面と向かい合うなどして「最小の世界」に身を置いて予測可能な「世界」に浸って生きる人が増えているのかもしれない。
しかしながら、置かれた環境によっては、人の生きる衝動のヤミクモさ、つまり人間の内側にもある「カオス」に気がつき、ソレを表現することを「生きる力」に転じた人もいる。
例えば、ヴィンセント・ヴァン・ゴッホの「自画像」を見ると、ウズをまくような筆ヅカイを見出すが、そこに強烈な「カオス」に出あってシマッタ人を感じるのである。
絵筆をとったこともなかったゴーギャンが、株式の仲買人をやめて妻子を捨ててどうしてタヒチに旅立ったのかは、一口にいえないにせよ「カオス」という言葉しか思いつかない。
しかし、皮肉なことに「カオス」に目覚めた者達は探求や創作を通じてマスマス「カオス」を深めていく傾向がある。
それがドンナに「絶望の相」を帯びようともである。
そういうことを思うようになったのは、テレビで梁石日(ヤンソギル)氏が作家になった経緯を聞いたからである。
梁石日は「血と骨」を書き、ビ-トたけし主演の同名のタイトルで映画化された。
デビュー作は、自身の体験を書いた「タクシー狂躁曲」という作品である。
「血と骨」は1930年代の大阪を舞台とし、その体躯と凶暴性で極道からも畏れられた「在日朝鮮人」を主人公としたもので、作者の実父をモデルにした小説である。
主人公は蒲鉾製造業と高利貸しにより事業は成功するものの、その裏での実の家族に対する暴力、そして愛人との結婚による転落、遂には「故郷」である北朝鮮での孤独な死をとげる。
それは、息子の梁石日が「殺したい」と思うほど憎んでいた父親の姿である。
和歌山県新宮を舞台にした中上健次の「岬」を思い起こすが、映画にある種の「迫真性」があったのも、この小説は主役を演じたビ-トたけし自身の「生い立ち」と重なっている部分があったということもある。
さて梁石日氏も自伝「一回性の人生」という自伝があるが、それを読むと梁氏自身が絶対に「範」をとりたくはなかった父親と似たり寄ったりという面が結構あるように思える。
梁氏は三十台前半にして昼は経営する印刷会社の資金繰りに駆けずり回っていたにもカカワラズ、不安から逃れるように夜はネオン街で湯水のように金を使いまくっていた。
ご本人によれば、当時の金銭感覚では10万も100万も同じだったという。
しかし、どんなに放蕩しようと不安は絶えず再生産され、翌日待っているのは「新たな」資金繰りであり、会社は倒産すべくして倒産した。
大阪を出奔した後、仙台に行って親戚の紹介で喫茶店をはじめた。
いずれは家族も呼び寄せるつもりだったが、大阪での遊びグセはあいも変わらず続き、いよいよ意識の崩壊がはじまった。
後頭部に激しい驟雨の音のようにザァ-ッと何かが「崩れていく」音が終始聞こえていたという。
梁氏はその頃の自分ををふり返って「人格崩壊」一歩手前にあったという。
ソンナ朦朧とした意識を抱える中、長いこと本を読んだことがないが何気なく飛び込んだ古本屋で手にとったのがヘンリ-・ミラ-の「南回帰線」であった。
梁石日は2~3ペ-ジを読んだだけで、電撃でもうけたような感じだった。
この作家のナンタルカは一切しらなかったが、書いてあることのすべてを理解できたのだそうだ。
それをアエテ言葉にすれば「カオス」であり、その邂逅が、梁石日氏内に眠っていた「何か」を目覚めさせたのだという。
この時、梁氏の内面で「カオス」がカタチを取り始めたといえるかもしれない。
梁石日氏は、2年後に仙台を去り、東京でタクシ-運転手となりようやく家族を呼び寄せ、約10年間ほどタクシ-運転手をした。
タクシ-運転手は辛かったが、それまでどこかに自分が抱いていた幻想が崩れ、本当の意味での「労働」を初めて知ったのだという。
東京でタクシー乗務員をしていた頃に書いた小説「タクシー狂躁曲」をはじめとするタクシー乗務員シリーズがヒットし、梁氏はドン底からの生活を抜け出し作家の道を歩み始める。
もっとも、実は梁石日氏はそれまでまったく文学と無縁だったわけではない。
朝鮮半島が南北に分断された時代に思春期を迎えた梁氏は、徐々に社会主義や文学の世界に傾倒して、マルクス思想や実存主義に感化され、自ら詩を書くようになった。
サークル誌にも参加したこともあったが、その後、大阪を追われる事になり文学への思いは自ら「封印」してきた。
以来、ヘンリ-・ミラーの「南回帰線」との出会いまで「活字」とは全く縁のない生活をしてきたのだという。
梁氏は、自分がひとり立ちできたのはようやく60歳をすぎてからと、苦笑しながら語っていた。

映画「タクシードライバー」は、アメリカ大統領の暗殺を企てた男の物語である。
主人公約のタクシードライバーがロバートで、デニーロで心通わす少女がである。
大都会ニューヨークを流すタクシー。元海兵隊員のトラヴィスはベトナム戦争に従軍して退役した後、職業あっせん所に行き、仕事を探していた。
そこで見つけたのはタクシー運転手の職だった。
家族もいない主人公は、今は将来の当てもなく、ただ毎日タクシー運転手としてその日暮らしで働いていた。
そしてドライバーが陥る孤独や空虚感の中、ただ唯一心を通わせたの幼い娼婦であった。
この時、娼婦役で出演するジョディー・フォスターは当時13歳で、アカデミー助演女優賞にノミネートされた。
さてタクシードライバーたる主人公は次第に狂気を発するようになり、アメリカ大統領の暗殺を企てるようになっていく。
この「タクシーダライバー」で注目されたスコセッシ監督は、シチリア系イタリア移民の家に生まれである。
イタリア(シチリア)移民1世の父と移民2世の母の次男として、ニューヨーク市クイーンズ区にて生まれ、同市リトル・イタリーで育った。
喘息持ちで外で遊べなかったせいで子供の頃から映画に親しんだ。
だが少年時代は、映画監督ではなくカトリックの司祭を目指していたという。
マフィアの支配するイタリア移民社会で育ったため、その人格形成と作品の双方にはその出自が深く影響したと想像できる。
そして、腐敗した矛盾に満ちた現実のなかでいかに人間としての倫理と善良さを実践できるか、それがしばしば不可能であることの苦悩を追求する映画が多い。
ベトナム戦争の徴兵を逃れ、ニューヨーク大学の映画学部で学びつつ短編映画を監督、修士課程の卒業制作を基に撮りたした初の長編映画「ドアをノックするのは誰」(1967年)で注目された。
また、そのなかでは人間の人間に対する無理解と不寛容の直接的表現として、リアルな暴力描写が重要な位置を占める。
シスコッティ監督は、意外にもロックバンドを描いた作品があるが、「ザ・ローリング・ストーンズ シャイン・ア・ライト」などの作品がある。
しかしススコッティが注目されたのは、何といってもマイケル・ジャクソンのヒットナンバー「Bad」のミュージック・ビデオの監督を務めたことによる。
この作品は約16分間の短編映画のような構成となっている。
アカデミー賞では、六度目のノミネート「ディパーテッド」によりアカデミー賞監督賞・作品賞を受賞した。
このシスコッティ監督の注目すべきことは、日本映画に強い関心をもち影響を受けた点にある。
溝口健二監督の「雨月物語」など、世界の映画の古典を見て育つ。
同じ頃、「豚と軍艦」を含む今村昌平の監督作を何作か見てその感性に共感し、今村の作品は血となり肉となったと語っている。また小林正樹監督の「切腹」、「上意討ち 拝領妻始末」など武士の世界を描いた映画に深い感銘を受けたという。
1990年には映画人として尊敬する黒澤明監督の「夢」にヴァン・ゴッホ役として出演ししている。
商業的には、「恐怖の岬」をリメイクしたスリラー「ケープ・フィアー」(1991年)がハジメテの成功作である。
また「ギャング・オブ・ニューヨーク」はスコセッシ自らが温めていた念願の企画で、ディカプリオが参加することで興行価値を見込まれてやっと出資が実現した。

カオスに生きることはマイナスではなくプラスであり、「創造」に変えうる力だと「カオスに飛び込め」というのが、昨年マサチューセッツ工科大学の「イノベーションの殿堂」と称されるメディアラボの所長に就任した伊藤穣一氏である。
伊藤氏は日本におけるインターネットの普及に非常に大きな貢献をした人物ではあるが、驚くべきことはに伊藤氏は卒業した大学とてなく、「博士号」とてもない。
親しい人々からはDJをしていた体験からJoiと呼ばれることサエある。
高橋氏は1966年、学者の父と岩手の名家のお嬢様である母のもと生まれた。
父は京都大学にて化学を研究し、師はノーベル化学賞の福井謙一であったため、幼いころから家族ぐるみで付き合いがあった。
福井教授が伊藤を散歩に連れて行った時、葉っぱが木から落ちて川に流れる姿を見て、カオスのように見えるの中にも秩序があるといったことに、自分の進むべき道を予感したという。
木の葉といえば、「プロジェクトX」で、それが岩にひっかって方向を変えるのをヒントに、自動改札のアイデアになったというのを思い出した。
伊藤氏は自らを異質なものを結びつける「コネクター」と位置づけているが、それは高橋氏が送った「カオス的人生」と深く関わったものだと推測できる。
3歳のとき、父の研究の関係でカナダへ移住し、さらに5歳のとき、父がECD社()で研究者として働くためアメリカはデトロイトへ引っ越した。
ECD社とは高校を卒業するまでに技術特許を1500も取得していたという天才、スタンフォード・オブシンスキーが社長をやっており、社員の7割が博士、ノーベル賞受賞者もたくさんいるような会社なのだそうだ。
伊藤氏は13歳のとき、このECD社でアルバイトをするようになり、1979年にここで初めてコンピューターに出会う。
独学でコンピューター言語を覚え、知らず知らずのうちに部署の社員よりもプログラムが書けるようになっていたという。
父親と母親は離婚したが、母は生活のため、父の勤めるであるECD社にて「秘書」として働きはじめるが、今度は母の方が能力が認められ、人事部長→役員→副社長と出世した。
まさにカオス的家族である。
伊藤氏が15歳のとき、日本法人の社長という待遇で母が日本に戻るタイミングで一緒に帰国し、インターナショナルスクールへ通った
帰国後すぐに、アップル2を購入し、コンピューターゲームにはまり、ゲームをコピーするためにソフトのプログラミングの勉強に没頭した。
8歳のとき、コンピューターやネットワークの本場で学んでみたいと思いアメリカの大学を志願した。
行くならハーバードかスタンフォードと思っていたが、成績が足らずタフツ大学に入学した。
しかし、大学がおもしろくないとの理由で1年で退学して帰国後、することもなかったため、再度アメリカに戻り、父のいるデトロイトのECD社に社員として働きはじめる。
しかし、シカゴ大学物理学部に入学して最初は猛烈に勉強するが、後に自分の目指す方向と違うことに気づき、クラブのDJにはまった。
そして、本格的にDJをするために、再度大学を退学。クラブのヘッドDJとなり、1年間クラブを経営する。
伊藤氏によればネットワーク時代、面白いアイディアがあれば、それがやるに値するかどうかを、時間とコストを使って調べるくらいなら、不十分でもいいから、トリアエズ始めたほうが、コスト的にもずっとリスクが少ない。
とりわけ、日本企業は失敗をあまりに恐れるために、上手くいくかどうかを調べることに力を注ぎすぎ、それでは時間の無駄であるばかりか、格好のタイミングを失ってしまうのだという。
伊藤氏自身、東日本大震災後に、メールやスカイプで世界中の友人に声をかけ、世界中の放射線を共有できるプロジェクトSafecastをあっという間に立ち上げている。
ECD社を退職した母はNHK関連の仕事をしており、その関係で伊藤氏はハリウッド映画のアシスタントとしてLAで3ヶ月ほど働いた。
この時期にコンピューター・グラフィックスと出会い、コンピューター・グラフィックスの仕事をするために、LAと日本を行き来する生活となった。
1993年、アメリカのプロバイダ会社が日本でのインターネット接続回線のテストをしたいと頼まれ、伊藤氏の自宅兼事務所に専用回線がひかれ、通信料はすべて無料の使い放題で、同年夏、事務所のコンピュータすべてインターネットが使えるようにして、自分たちのホームページを制作し、インターネットビジネスを開始した。
今、社会が急速に変化し、カオス化する現代である。
常識を覆すような革新が求められる中で、伊藤氏はマトモに専門の大学教育さえうけていないにもかかわらずMITメディアラボの所長に抜擢された。
伊藤氏は、以上の経歴のようにクラブDJで生計を立てたり、IT企業を創業したり、投資家やNPOの代表など多様な分野で経験を積んできている。
伊藤氏の「異能」は、異分野の人と人をつなげる「コネクター」としての力であるといってよい。
これまで接点がなかった分野を融合させ、そこに新たな価値を生み出す人物として期待されてたからであろう。
伊藤氏は、小さい頃から本や学校で学ぶタイプではなく、人に会って話しを聞き、自分で実際にやってみて、経験から学ぶタイプだったそうだ。
伊藤氏にとって、既存の大学教育のあり方とその生きかた必ずしもマッチせず、大学のような「狭い世界」では飽き足らなかったのかもしれない。
伊藤氏イワク「自分ができるよりも、できる人を知っていることに価値がある」。
世界中を見渡してコノ人とアノ人を結びつけたら、きっとイノベーションが起こるにちがいないと予測する。
というわけで、伊藤氏はラボの所長になってからも、ボストンにいるのは稀で、毎月地球を数周して、世界的な頭脳のコネクター役となっておられる。