弁士達の墓標

今時、言葉のマワリが悪い時、「カツゼツが悪い」という。この「カツゼツ」という言葉は辞書で調べても載っていない。
ネットに漢字に直すと「滑舌」と書いてあってヨウヤクその意味が掴めたが、随分と時代ガカッタ雰囲気の言葉である。
「滑舌」はもともとは舞台用語で、それが放送の世界でアナウンサーの教育の場などで使われるようになった。
本来ならそういう業界専門用語で終わるはずだったが、TVの一般出演者の発音のマズサを称して番組の中で「滑舌」という表現を使うタレントが多くなり、一般にまで広がった。
この言葉に、数年前東京の浅草寺境内で見つけた一つの「石碑」のことが脳裏をよぎった。
その石碑とは「映画弁士塚」というもので、一時代を飾った「花形」であったにもかかわらす、トーキー(音声映画)の出現とともにソノ役割を終え、マルデ泡沫のごとく消えていった「映画弁士」の名前を記した記念碑であった。
日本人が置き忘れてきた「お宝」といった感慨にふけってしまったが、あの石碑は何のために、誰が建てたのであろう。
「映画弁士塚」には、明治・大正期において無声映画が盛んだった時期の活動写真の弁士100余名の名が刻まれ、1958年、当時の新東宝社長・大蔵貢により建立された。
「題字」は当時の鳩山一郎首相が書いている。
トーキーの出現が、弁士たちを無用の存在にし始めたのは、1930年代初期のことである。
ソレマデ映画は全てサイレント(無声映画)で、それに説明を加える「活動弁士」は、映画の主演俳優より以上のスターであった。
映画館は有名な弁士を専属に抱え、その名を謳い観客を集めていた。
つまり、弁士の「良し悪し」は即観客動員に影響したのである。
このため当時の映画館には必ず舞台があった。
弁士は舞台上でナナメに構え、奥のスクリーンと観客席を交互に見ながら語った。
大正から昭和初期にかけての最盛期には、全国で数千人もの活動弁士が活躍していたという。
当時はアコガレの「花形」職業であり、活動弁士を志す人も大勢いた。そして養成所もできた。
しかし、活弁が隆盛を極めたのは、日本映画史のなかでも非常に短い期間にすぎなかった。
トーキーが日本で初公開されたのは、1929年の5月で、新宿の武蔵野棺で、この時の観客はサゾヤ驚きで画面を見入ったことであろう。
スクリーンから直接に、モノ音や音楽や人間の言葉が飛び出してくるということが、夢想ダニしなかったことである。
観客は以後トーキーの虜になってしまい、弁士がクビになるのは「時代の趨勢」であったといえる。
弁士達の中で、「時代の趨勢」と諦めてサッサと転職した人もいたであろうが、ソノ多くは時代の波に抗って戦い、抵抗した。
弁士の首切りが始まった1932年4月、「反トーキー・ストライキ」が決行された。
映画館従業員組合の連中が、浅草大勝館に寝具を持ち込み、籠城の態勢に入った。
スト組は、浅草電気館の二階から二千枚のビラを撒き、大騒動となった。
その後、東京市内の弁士200余名、楽士300余名が団結、映画界始まって以来の大ゼネストとなった。
しかしトーキーを阻止できるものではなく、結局大半の活動弁士が廃業に追いこまれ、その一部は漫談や講談師、紙芝居、司会者などに転身した。
活動弁士には映画の解説を行う際に高い「話術」が要求されるため、その優れた話術や構成力がタレントなどで活かせたのである。
しかし中には黒澤明の実兄にあたる須田貞明のように転身を図ることもできず、ストライキによる「待遇改善」の要求に失敗し、精神的な挫折から自ら命を絶った者もいた。
転身組の中には、徳川夢声、大辻司郎などは漫談家となって古川ロッパと組み、浅草常盤座に「笑いの王国」を旗揚げして一世を風靡した者達もいる。
あるいは、なぜかボクシングやプロレスの世界戦になると必ず現れてリング・アナンサーを務める者ナドもいた。
ところで、サイレント映画のほとんどは、活弁がなくても上映可能で、初期のチャップリンの映画を見るとそれがよくわかる。
しかし、客席で他の観客とともに笑ったり、泣いたり、感動したりする、通常の映画ではあまり感じることができない「一体感」は、活弁ならではのものである。
だから「活動弁士」というものの存在は日本独自の文化に根ざしたものであり、日本においてのみこうした「活動弁士」の文化が発達したのであろう。
そこで思いつくのは歌舞伎の舞台である。
歌舞伎の上演では、浄瑠璃と呼ばれる三味線伴奏による語りが加えられている。
それは、俳優の演技や台詞とは別に、状況を説明したり、人物の心情を表現したりするというもので、義太夫節に代表される。
無声映画と弁士の語りの関係というのは、この歌舞伎と浄瑠璃の関係にも似ている。
また、講談や落語、浪花節など、日本には独特の「話芸」があるが、活弁はこれらとも共通点が多い。
例えば、講談は「七五調」の言い回しで構成されるが、昔の活動弁士たちの多くも、「七五調」で活弁を行っていた。
日本人にとって親しみやすい「リズム感」を採り入れたことで、活弁は日本人の琴線に触れることができたのだろう。
ただし、活弁には特に決まった型がなく、全てが「七五調」だった訳ではない。
活動弁士それぞれが独自の工夫を行い、他者と差別化を図っていた。
それが結果的に、全体のレベルアップへと繋がり、活弁はひとつの「話芸」として成長していったのである。
実は現在でも、活動弁士の方々が全国に十数名ほどいる。
サイレント映画上映会の際に依頼をうけて仕事をするため、活動弁士の仕事だけでは生計を立てることができない。
そのため、声優やナレーターなどその他の「声」に関する仕事に携わっているケースがほとんどである。

今時、AKBやSKBやHKTといった少女グループの台頭著しい時代だが、1930年代にも、SKD、OSKなどの少女グループがあった。
昭和の少女グループSKDと平成の少女グループAKBに年齢の差はアンマリないが、昭和少女は歌よりも踊りが中心だったことと、自らの「待遇改善」を要求して戦ったという点で平成少女と大きな違いがあった。
大衆芸能史の中で異彩を放つ「桃色争議」(1933年)が起きたのは、前期の「反トーキー・ストライキ」に続いてのことであった。
「桃色争議」とは、松竹少女歌劇部(SKD)・松竹楽劇部(OSK)で発生した労働争議をサシている。
1932年、松竹はこの年4月、浅草で起こった映画活弁士、楽士の首切り闘争で一定の成果を収めた。
それで味をシメタ会社は、今度は「松竹少女歌劇部」に対し、一部楽士の解雇ならびに全部員の賃金削減を通告したのである。
同年、「レビュー・ガール」と呼ばれ少女歌劇部の大部をなす少女部員が新聞記者らを集めて「絶対反対」の意思を明らかにし、同部の誇る18歳のトップスター水の江瀧子を争議委員長に任命した。
当時、ターキーは「男装の麗人」とよばれた男役のスターだった。
しかし、少女達のストライキに対して、前年の「活弁闘争」に勝利した松竹が容易に折れるハズもないことは明白であったが、ナント水の江以下・少女部員230名は神奈川県にある湯河原温泉郷の大旅館に立てこもった。
また、大阪の松竹歌劇団・楽劇部(OSK)が、待遇条件の改良要求が拒否されたことから会社側と「一触即発」の状態に入った。
楽劇部員たちは一番人気の飛鳥明子を争議団長に据え、舞台をサボタージュしたのである。
笠置シヅ子(当時、三笠静子)はじめ70余名の部員が高野山に立てこもり、弘法大師ゆかりの霊峰で「トラスト反対」などと大幕を翻すに至った。
その時笠木は、演説をブチ参詣客のドギモを抜いて、後年の「ブギの女王」の片鱗を見せつけている。
笠置は小学校卒業後、宝塚音楽歌劇学校を受験し不合格になっている。
歌・踊りは申し分ない実力をもつものの、笠置が上背が小さい上、極度のヤセ型であったため厳しい練習に耐えうるか不安だったようだが、それは全くの杞憂であったことがコノ時判明した。
笠置は、同年「松竹楽劇部生徒養成所」を合格し、1935年の夏大阪松竹歌劇団が高野山で籠城した折に知り合った新聞記者から、「声があまりきれいでないならジャズを勉強したら」とアドバイスを受けたという。
その後、郷里の徳島で声楽を勉強しなおし、1940年、帝劇に松竹歌劇団が生まれた際に選ばれて大阪から参加した。
そして作曲家の服部良一に見出され、あの「東京ブギウギ」が大ヒットし、以後「大阪ブギウギ」や「買物ブギ」など一連のブギものをヒットさせ、「ブギの女王」と呼ばれた。
ところで、松竹は争議委員長となった水の江瀧子を「賊女」と呼んで「懲戒解雇」に処し、争議団の自然崩壊をマッた。
今とチガイ「労働者の権利」が確立した時代ではなかった。
しかし争議を行ったのはナニブン女性、しかも未成年で幅広く大衆に人気の少女達である。
世情は彼女らに傾きがちで、それにノッタ新聞各紙も徐々に松竹の態度に異を鳴らし始めた。
水の江を拘禁した警察もすぐ解放せざるをえず、少女達に追い風が吹くなか、大阪で手打ち式が行なわれた。
そして、1週間後に日東京で「協定文」が読み上げられて、水の江は「謹慎」処分で済んだ。
結局、「週休制」と「最低賃金」の設定に成功した少女争議団側の勝利に終わったのである。
しかしSKDが経営する劇場や舞台の観客動員が落ち込み、ハカラズも不倶戴天の仇敵「宝塚少女歌劇団」の隆盛を助けるという結果になってしまった。

「男装の麗人」水の江瀧子にせよ「ブギの女王」笠置シヅ子にせよ、劇団を退団し戦後はテレビ出演をすることになるが、その「心意気」から同系統に入るのが「ブルースの女王」淡谷のり子(1999年逝去)である。
淡谷のり子も、時代の波に抗った女性の一人といっていい。
淡谷のり子の「別れのブルース」が大ヒットしたのは、日中戦争が勃発した1937年のことである。
淡谷はラジオ放送を通じてスターダムへ登りつめていた。
ブルースの情感を出すために吹込み前の晩酒・タバコを呷り、ソプラノの音域をアルトに下げて歌うことまでしたという。
その後も数々の曲を世に送り出しその名をトドロカセていた。
また、戦時下であったため多くの「慰問活動」を行った。
そのド派手な衣装に注文をつけた軍部に対して、「モンペなんかはいて歌っても誰も喜ばない」「化粧やドレスは贅沢ではなく、歌手にとっての戦闘服」と、当時としては「大胆発言」を行った。
さらには、太平洋戦争中には禁止されていたパーマをかけドレスに身を包み、死地に赴く兵士たちの心を歌で慰め送っていった。
淡谷氏の慰問中に行った数々の「非行」行為は、本人バカリカか周辺の人々に始末書の「山」を築かせることになる。
例えば「英米人の捕虜がいる場面では日本兵に背をむけ、彼等に向かい敢えて英語で歌唱する」、「恋愛物を多く取り上げる」といった行動および発言で、「始末書」を書かせられる羽目になり、それが積み重なって「山」となったのだ。
淡谷のバックで演奏していた一人が、フォークソング歌手かまやつひろしの父親でアメリカ帰りのティーブ・釜萢(かまやつ)である。
淡谷のバックを勤めるダケでも「冷や汗モノ」だったのだ。

さて浅草寺境内の活動弁士達の記念碑である「映画弁士塚」には次ぎのような文が記されている。
「明治の中葉わが国に初めて映画が渡来するやこれを説明する弁士誕生 幾多の名人天才相次いで現れその人気は映画スターを凌ぎわが国文化の発展に光彩を添えたが 昭和初頭トーキー出現のため姿を消すに至った ここに往年の名弁士の名を連ねこれを記念する。建設者 大蔵貢」とある。
この碑を建てた新東宝社長であり、大蔵映画の社長でもある大蔵貢という人物はドウイウ思いでこの石碑をたてたのだろうか。
ネットで調べて驚いたのは、大蔵自身が活動写真の弁士であり、歌手・近江俊郎の実兄にあたる人だった。
大蔵は小学校を四年で卒業し、わずか13歳で活動写真の弁士となっている。
チャールズ・チャップリンの映画をチャップリンそっくりのメイクと衣装で解説するなどして、「活動弁士」として頭角を表していった。
当時、無声映画は弁士次第でヒットすると言われ、スター俳優より「弁士」の稼ぎは凄かった。
トーキーの出現によって弁士達は漫談家などに転身をハカッタが、大蔵は実業家への道を選んだ。
映画界がイズレ無声映画からトーキーへと移行するのを見越して、収入を蓄財し、映画館の買収並びに経営に乗り出していった。
貧しさの中で育った大蔵は弁士時代から「生活に必要以外の金はすべて蓄えること、積んだら下ろさぬこと、芸の向上に魂を打ち込むこと」を座右の銘としていた。
弁士時代には、肺結核の先輩弁士が食べ残した弁当を自分の昼食代わりにしたほどの倹約ブリだったという。
大蔵は、成功してからもこの信念を曲げなかった。
新東宝社長となってから、弁士時代の「名口上」を披露することがあったが、その語り口は「絶品」だったと伝えられている。

時代の推移とともに、目の前から色々なものが消えていった。
我が地元・博多の町でいえば、チンチン電車であり、映画の「看板絵」であり、そういう仕事に携わっていた人々も時代の波に呑みこまれていったことであろう。
浅草寺近くの 国際劇場はもともと松竹歌劇団の本拠地であった。
戦後のSKDレビューでは、1951年「秋のおどり」アトミックガールズの"スリーパールズ"のメンバーには、草笛光子・淡路恵子など後に女優として活躍する人達の名前もみえる。
しかし1970年代に入ると娯楽の多様化などに伴い、本拠地・浅草と共に斜陽化し、次第にはとバスの観光客で糊口を凌ぐようになっていった。
また、座付演出家の不在から、やがて再演・再構成に頼るようになり演目はマンネリ化し、やがて経費削減のため国際劇場でもオーケストラ演奏は廃止され、録音の音源を使用するようになった。
その後、ミュージカル劇団への再編おこなうなど試行錯誤を重ねたが、赤字経営と団員数の減少により、劇団も存続を断念し、1996年ツイニ「解散」のはこびとなった。
浅草のガイド本によれば、SKDの本拠地である国際劇場跡地には現在「国際ビューホテル」が建っている。
またその本には、大蔵貢が浅草寺境内に「映画弁士塚」を建てたのも、弁士時代の「朋友」たちを顕彰するためと書いてある。
しかし、「弁士」という一時代の「花形」が、時代の波間に呑みこまれてしまったことを思えば、「顕彰碑」というより「墓標」のヨウニ思えてくる。