神の指が書く

新約聖書には、「被造物が虚無に服したのは、自分の意志によるのではなく、服従させたかたによるのであり、 かつ、被造物自身にも、滅びのなわめから解放されて、神の子たちの栄光の自由に入る望みが残されているからである」(ローマ人8章)とある。
人を「虚しき」に陥いらせるのは神のワザというのだから、ヒューマニズムの信奉者なら猛反発しそうな言葉である。
しかし、この世の果敢なさや虚しさを知るというということは、神に近づく第一歩ともいってよい。
それは、世から「剥がれる」状態といっていい。
この「剥がれる」という言葉、「あなたがたの切り出された岩、掘り出された穴を見よ」(イザヤ書51章)という言葉から浮かんだ状態である。
この世から「ハガレル」ということであり、「ハグレル」ではない。ましてナゲヤリに生きるというのではない。
なぜなら「後」と「望み」があるからである。(第一ヨハネ3章など)
ところで、世の中には宗教的な戒律でガンジガラメにしておくことが、マルデ自分を「この世」よりも高い位置にいるかのよう錯覚させる宗教がある。
しかしそれはイエスが攻撃した如く律法学者・パリサイ人に「人を裁く」傲慢のタネをマネクものでしかない。
さらには、その「戒律」そのものが、時として人間的都合で変化し、とても「宗教的」なものとは思えないものがある。
熱心なユダヤ教徒は今でも朝夕祈りを唱え、安息日の戒律を厳守し、「清浄と不浄」および「不浄の清め」の定めに従っている。
ユダヤ人の「戒律」志向は、紀元前598年から約50年バビロン捕囚から帰国し、二度と偶像崇拝に陥ることなきよう深い反省の下に神殿と信仰の復活をめざして、極度に細かい戒律が定められた。
モーゼの「十戒」は、石版に「神の指」が書き記したものとしても、聖書にサエ書いてない細かい戒律の中には、人間の生活の都合上「恣意的」に作られたと思わざるをえないものが多い。
とくに安息日には39の主要な労働が禁止され多くの判例が決められていた。
例えば2~3本の麦の穂を摘んだだけでも安息日の刈り入れ禁止に反するとされた。
安息日当日に「二つの文字」を書いてはいけないとされている。
しかし右手と左手で書いたり、別のインクで書いたり、二つの国語で書いたりしてはいけないモノノ、二つの文字でも液体や砂などのように文字がとどまらないものに書いた場合は違反ではない。
とすると安息日に書いた「砂に書いたラブレター」は問題ナイということになる。
さらに、一字を地面に、他の一字を壁に、あるいは別の二つの壁に書いて二つの文字を同時に読むことができない場合は違反ではないとされた。
安息日には火を消してはならないので火事の場合はヤヤコシくなるが、聖書を火の中から取り出すことは許された。

こんなことを守って生きることが本当に「宗教的」あるいは「信仰的」といえるだろうか。
パウロは、「律法はきたるべきよいことの影にすぎず、そのものの真のかたちをそなえているものではない」(ヘブル10章)といいきっている。
「きたるべきよいこと」がくれば「律法の縄目」から解放さるということだが、ソレデハ「きたるべきよいもの」とは何なのだろう。

最近のニュースで、イランや北部アフリカなどのイスラム教国では未だに「石打ちの刑」ということが行われたということを聞いた。
半身を生き埋めにして、動きが取れない状態の罪人に対し、大勢の者が石を投げつけて死に至らしめたという。
罪人が即死しないよう、握り拳から頭ほどの大きさの石を投げつける。
こんななことをイマダやっているのかと驚きあきれたが、イエスの時代にはそれが「普通」に行われていたのである。
新約聖書の「ヨハネ福音書8章」がその出来事を伝えている。
//律法学者たちやパリサイ人たちが、姦淫をしている時につかまえられた女をひっぱってきて、中に立たせた上、イエスに言った、 「先生、この女は姦淫の場でつかまえられました。
モーセは律法の中で、こういう女をを石で打ち殺せと命じましたが、あなたはどう思いますか」。
彼らがそう言ったのは、イエスをためして、訴える口実を得るためであった。
しかし、イエスは身をかがめて、指で地面に何か書いておられた。
彼らが問い続けるので、イエスは身を起して彼らに言われた「あなたがたの中で罪のない者が、まずこの女に石を投げつけるがよい」。
そしてまた身をかがめて、地面に物を書きつづけられた。
これを聞くと、彼らは年寄から始めて、ひとりびとり出て行き、ついに、イエスだけになり、女は中にいたまま残された。
そこでイエスは身を起して女に言われた、「女よ、みんなはどこにいるか。あなたを罰する者はなかったのか」。
女は言った、「主よ、だれもございません」。イエスは言われた、「わたしもあなたを罰しない。お帰りなさい。今後はもう罪を犯さないように」。//
以上がコノ出来事の顛末だが、「年長者たちから始めて、ひとりひとり出て行き」というのも、含蓄のある言葉ではある。
しかしそれ以上に気になる場面は「イエスは身をかがめて、指で地面に何か書いておられた」という箇所である。
遠藤周作に強い影響を与えたカトリック作家・フランソワーズ・モーリャックによれば、何を書いたかではなく、地面に文字を書いて女から目をそらしていたことがポイントだという小説家らしい解釈をしてる。
しかし全体の文脈の中で地面に書くということが重要な位置を占めるらしいということだけはわかる。
何故なら、パリサイ人や律法学者が問い続けているマサニその真ん中で主は文字を地面に書いており、さらに「そしてイエスは、もう一度身をかがめて、地面に書かれた」というように二度までもソレが起きている。
したがって、この「地面に指で書く」ということがこの物語の趣旨を理解するカギとなるものであることがわかる。
聖書に意味のない記述などなく、「聖書のことは聖書にきけ」というのが、解釈が恣意的にならないための「大原則」である。
どこか別の箇所とツキ合わせてみると、その意味が明らかになることが多い。
特に新約聖書を旧約聖書をツキ合わせてみると、「謎」が氷解することがある。
これがパウロの言葉にあるように、旧約聖書の内容は「きたるべきよいことの影」なのである。
例えば、「旧約聖書」の出エジプト記には「香の壇」という長さ幅は45cm 高さは90cmの純金で覆った壇がある。
これは、神を礼拝する幕屋(移動式礼拝所)で、絶やすことなく香が焚かれていた。
そして古代イスラエル人の間で香をたくことは,幕屋での祭司の務めの中で重要な位置を占めていた。
この「香を焚く」ということは、新約聖書では「祈り」としてたとえられている。
ダビデは「わたしの祈りがあなたのみ前の香として備えられますように」(詩篇141編)と歌っている。
さて、話を元に戻して、主イエスが指(単数)で地面にものを書くということは、新約聖書全体を見回しても「単数の指で」ものを書いているという記事はこの箇所ノミである。
すると旧約聖書の中でも一箇所だけ、単数の指でものを書いている箇所がある。
それは他でもない神が石の板に十戒を記述している箇所がある。
出エジプトに「こうして主は、シナイ山でモーセと語り終えられたとき、あかしの板二枚、すなわち、神の指で書かれた石の板をモーセに授けられた」(31章)とある。
それではここでイエスが地面に書かれた文字が、モーセのオキテ「十戒」であるならば、「地面に文字を書く」と言う行為は、そのオキテを与えたのはイエスであり、イエスが神であることを示そうとしている。
イエスは身を起こして、その女に言われた。女よ、みんなはどこにいるか。あなたを罰する者はなかったのか」。
「十戒」のなかの第7戒は「汝 姦淫するなかれ」でるが、イエス「わたしもあなたを罰しない。お帰りなさい。今後はもう罪を犯さないように」。 彼女は言った。「誰もいません。」そこで、イエスは言われた。
「わたしもあなたを罪に定めない。行きなさい。今からは決して罪を犯してはなりません。」
この「わたしもあなたを罪に定めない」という言葉は神の言葉だからこそ重いのである。
モーセに律法を与えた神自身が罪のゆるしを宣言したからである。
この出来事に似た箇所は、マタイの福音書12章にもある。
//そのころ、ある安息日にイエスは麦畑を通られた。弟子たちは空腹になったので、麦の穂を摘んで食べ始めた。
パリサイ派の人々がこれを見て、イエスに、"御覧なさい。あなたの弟子たちは、安息日にしてはならないことをしている"と言った。
そこで、イエスは言われた。 『ダビデが自分も供の者たちも空腹だったときに何をしたか、読んだことがないのか。神の家に入り、ただ祭司のほかには、自分も供の者たちも食べてはならない供えのパンを食べたではないか。
安息日に神殿にいる祭司は、安息日の掟を破っても罪にならない、と律法にあるのを 読んだことがないのか。言っておくが、神殿よりも偉大なものがここにある。
もし、「わたしが求めるのは憐れみであって、いけにえではない」という言葉の意味を知っていれば、あなたたちは罪もない人たちをとがめなかったであろう。人の子は安息日の主なのである。//
コノ場面で、パリサイ人がどんなに「弟子達は安息日にしてはならないことをしている」と批判しても、イエス自身「安息日の主」であり、その行為に問題ナイと宣言しているのである。
「十戒」のなかの第三戒が、「安息日を聖なる日とせよ」だが、この出来事は「戒律」というものは一旦文字にしてしまうと、人間は戒律という「文字の奴隷」になってしまい、本末転倒が起きることを教えている。
さらに重要なことはイエスが戒律を与えた神であるということである。
もうひとつ「神の指」を示す出来事は旧約聖書の「ダニエル書」にも登場する。
思いのままに裁き、殺し、やりたい放題の独裁を続けていた国王は、ある夜の大酒宴の会場で、目の前の白の漆喰で塗られた壁の上に、文字を書く「指」の幻を見た。
その指は、壁に文字らしきものを書いた。
しかし、その場にいた者たちの誰もが、その文字を読めなかった。国王は不吉な予感にかられ、恐怖のあまり顔は蒼白となった。
ただちに、あらゆる学者が集められたが、それを読める者、意味を解ける者は誰もいなかった。
しかし、一人ダニエルという信仰深いユダヤ人の若者がいた。
ダニエルは、その壁に書かれた文字は、「メネ、メネ、テケル、ウ・パルシン」で、「数える」「分ける」という文字であることを王に伝えた。
その意味は、永遠に続くように思える国であっても、国王であっても、その悪政の年月は、神によって数えられている。
そして、そのごう慢な心は量られていた。そして、ついには、その全ての力は、王から取り上げられ、他の国の者に分け与えられてしまう意味を持つ文字だったのだ。
そして、この壁に書かれた神の言葉はそのとうり実現し、王は殺され滅びた。

さて、「律法はきたるべきよいことの影にすぎず、そのもの真のかたちをそなえているものではない」という言葉の「きたるべきよいもの」とは何なのだろう。
旧約聖書と新約聖書との決定的な違いは、旧約の時代には「聖霊」という言葉は一切登場しない。
しかし、旧約聖書には「霊」という言葉があり、「特別な個人」に下るものである。
創世記冒頭に「初めに、神は天地を創造された。地は混沌であって、闇が深淵の面にあり、神の霊が水の面を動いていた」とある。
「特別な個人」とは例えば、「士師記」に登場するサムソンは、主の霊によって力ある者となり、事が起こるとき、主の霊によって怪力を出し、敵のペリシテ人と戦っている。
「サムエル記」の預言者サムエルから油を注がれたヘブライ王国の初代の王サウルに、主の霊が激しく下ったとある。
これは、神がサウルとともにいることのシルシだが、或る時から神の臨在はサウルから離れダビデに移る。
つまり、神の霊は、「油注がれた者」に与えられる。
「油注がれた者」とは、のことでキリストを意味している。
サウルの次の王としてダビデが選ばれ、彼に油が注がれると、“霊”は、激しくダビデにおりるようになる。
つまり神が立てた民を治める者に、神の霊は与えられる。
とろで、神が去ったのサウルは、「悪い霊」に悩まされ精神を病むようになる。
また旧約聖書は多くの「預言書」があるが、王だけではなく神の霊は、選ばれた人が預言する時にに下ったことがわかる。

旧約聖書の時代における“霊”は個人に与えられるもので、民全体に与えられたものではない。
新約聖書の「使徒行伝」によれば、聖霊はイエスの死後50日目に下ったとある。
このことは仏教の49日を思い起こすが、人々の集まりの中に舌のように別れて聖霊が下った。
これがエルサレムにおける初代教会の誕生の時である。
「新しい契約」は、かつてエジプトから脱出したユダヤ人の石の上にしるされたものとは違い、イエス・キリストが私たちに聖霊を与えられることによって「保証」されるものである。
したがって、パウロがいう「きたるべきよいもの」とは「約束の聖霊」を指しているのである。
パウロによれば、この聖霊が救われた者たちに与えられることにより、自分を縛っていた律法に対して死んだ者となり、律法から解放されるとしている。
つまり、文字に従う古い生き方ではなく、“霊”に従う新しい生き方で神に仕える。
つまり律法ではなし得なかったことを、神の霊がしてくださるというのである。
「キリスト・イエスによって命をもたらす霊の法則が、罪と死との法則からあなたを解放したからです。 肉の弱さのために律法がなしえなかったことを、神はしてくださったのです」(ローマ人9章)とある。
「もし、イエスを死者の中から復活させた方の霊が、あなたがたの内に宿っているなら、キリストを死者の中から復活させた方は、あなたがたの内に宿っているその霊によって、あなたがたの死ぬはずの体をも生かしてくださるでしょう」と「復活」についてもふれている。
さらにパウロは「旧約聖書」の生贄とイエスの十字架の死について次のように述べている。
「キリストは、ユダヤの大祭司が幕屋で行ったように祭司自身の罪のため、次に民の罪のために、日々、いけにえを捧げる必要はない。
なぜなら、自分をささげて、一度だけ、それをされたからである」(ヘブル7章)
つまりキリストはご自身を完全な生贄を自ら捧げたので、罪の許しのために「生贄」はこれ以上いらないということである。
それでもアエテ「生贄」という言葉をつかうならば、ダビデは「砕けた魂」つまり「謙った心」と謳っている。
//神の受けられる「いけにえ」は砕けた魂です。
神よ、あなたは砕けた悔いた心を かろしめられません。
あなたのみこころにしたがってシオンに恵みを施し、 エルサレムの城壁を築きなおしてください。
その時あなたは「義のいけにえ」と燔祭と、 全き燔祭とを喜ばれるでしょう。(詩篇51)//