輝け!雑餉隈

長年住んだ町の隣に「雑餉隈」という町がある。
この名前をナント読むか、テレビの「難読地名」で登場していた。正解は「ざっしょのくま」。
博多区南部と大野城市西部にまたがる地域で、近くに陸上自衛隊の春日駐屯基地をひかえ、基地とセットの「歓楽街」が広がっている。
蔭で「第二の中洲」といわれるぐらいだから、この町が何か「生産性」や「文化面」で貢献してきたというプラス印象をもつ市民は、ホトンドいないのではないかと思う。
自称「博多っ子」の武田鉄矢の実家であるタバコ屋がこの町にあるが、「3年B組金八先生」が高視聴率を稼いでいた折に、「観光バス」のルートになったことがあったそうだ。
それ以外に、この町が何か脚光を浴びたということは一度もなかったように思える。
今、規制強化もあって歓楽街もサビレ、町もクスミがちである。
しかし、福岡市博多区にせよ大野城市にせよ、この町をアピールする努力の点で不足している、と思う。
「ザッショノクマ」は、ザッソウのように「草魂」たくましい人々が多く出たし、かつて進駐軍が駐屯した国際色をもつ町なのだ。
(1)この町は、日本の代表的企業ソフトバンクの創業の地である。
(2)この町は、鈴鹿サーキットを4度制した「バイクのヨシムラ」の創業の地である。
(3)この町は、日本が生んだ国際的アクションスター千葉真一の生誕地であり、氏の父親が経営されていた柔道場があった。
(4)この町は、九州を代表するスーパー・マルキョウの第一号店がスタートした。
(5)この町は、戦争末期の最新鋭戦闘機「震電」が開発された九州飛行機工場(現・渡辺鉄工所)があった。
「震電」は占領軍によって接収され、エノラ・ゲイと共にスミソニアン博物館にねむっている。ちなみに天神の「渡辺通リ」は、この一族の名前による。

2004年4月にNHKプロジェクトXで、「不屈の町工場 走れ魂のバイク」が放映された。
日本最大のバイクレース「鈴鹿8時間耐久レース」にわずか数人の小さなチームで、大メーカーに挑んだ「町工場」があった。
この町工場「ヨシムラ」の経営者が吉村秀雄で、マフラーやカムシャフトなどタチマチ「奇跡の部品」を生み出し、その手は「ゴッドハンド」と言われた。
「ヨシムラ」の部品には、あの本田宗一郎さえも脱帽した。
吉村秀雄は、雑餉隈で製材所を営む家庭に生まれた。1937年高等小学校を卒業し、横須賀の追浜基地にあった予科練に14歳で入隊した。
翌年、霞ヶ浦航空隊での訓練中に落下傘事故を起こし入院し、海軍を除隊となった。
九州に帰郷した吉村は飛行機への思いを断ち切れず福岡第一飛行場(通称雁ノ巣飛行場)にあった大日本航空福岡支所に入社し、独学で検定試験に合格し19歳の日本最年少の航空機関士となった。
太平洋戦争開始により正規の機関士となり、現シンガポール支部に転任となったが、戦争末期の1945年には胃潰瘍でで入院した。
吉村は雑餉隈の実家で療養中に終戦を迎え、日本は連合国軍の占領下に置かれた。
雑餉隈は板付飛行場に近くアメリカ進駐軍が駐屯した。
1948年吉村の実家は鉄工所をはじめたが、この頃吉村は空虚な心を紛らわすためか花札博打にのめりこんでいたという。
そんな時に吉村は「商売の足」として使用していたオートバイに興味を覚えるようになり、オートバイ屋「ヨシムラモータース」を創業する。
シンガポール赴任で英語を覚えた吉村のもとには、オートバイ好きの米兵が出入りし、吉村のことを米兵は「POP」(親父)と呼ぶようになった。
1954年、そんな吉村に運命の出会いが訪れる。
進駐軍の兵士からレース用にと、「バイクの改造」を依頼された。
板付基地で行われたドラッグレースに出場した吉村は、オートバイの加速に飛行機の離陸に通じる魅力を感じた。
そして、レース用にオートバイのチューニングを手掛けるようになる。
そしてヨシムラのマシーンは、レースで驚異のタイムを叩きだした。
勝利を重ねる町工場「ヨシムラ」の名は、瞬く間に全国に広がった。
1965年、吉村は九州から横田基地のある東京都西多摩郡福生町(現・福生市)に移り、「ヨシムラ・コンペティション・モータース」を設立する。
やがて、ホンダから部品を提供してもらいマシーンを改造するという契約を結んだ。
しかし、間もなく危機が訪れた。
自らレース専門会社を設立したホンダは、一転態度をヒルガエシ吉村との契約を断ち、部品の提供をストップした。
さらに、工場の未来を懸け、アメリカの市場に飛び込んだが、共同経営者に会社を乗っ取られる。
再起を掛けた新工場も火事で焼失し、吉村自身もその技術の命・両手が動かぬ瀕死の重傷を負った。
「絶体絶命」のピンチにったその時、吉村の前に現われたのは、「レースで勝ちたい」と願うバイクメーカーの技術者だった。
吉村は家族と共に、一発逆転を掛け1978年「第一回鈴鹿8時間耐久レース」に打って出る。
そして並み居る大メーカーを退けて優勝をさらった。
大企業の配下にない単なる「チューナー・チーム」が優勝したという点で、当時大きな注目を集めた。
そしてその後の優勝を含め、通算4度の優勝を果たしている。

国際アクション・スターの千葉真一のアジア映画における「影響力」は、我々の想像以上である。
日本を代表する映画スターの一人で、世界では”Sonny Chiba”の名で知られている千葉の活躍に深い興味を示したブルース・リーは共演の申し入れをしてきた。
しかし、リーの突然の死によりそれは実現しなかった。
さらにジャッキー・チェンは、千葉のようなアクションスターになることを夢みて、そのワザを磨いていったのだという。
千葉真一は1939年雑餉隈で生まれた。
父親は大刀洗町に在った陸軍飛行戦隊に所属する軍人で、母親は熊本県出身で学生時代に陸上競技をしていた。
テストパイロットの父親は、初めて建造された空母へ初着艦を成功させるなどしたが、危険な「重責業務」のため給料の半分が飲み代となり、家庭は裕福でなかったという。
千葉4歳の時、父親が千葉県木更津市へ異動となり、家族で君津市へ転居した。
終戦後、父親は漁業組合の役員に転職したが、家計は相変わらず苦しかった。
しかし千葉は、「自然に囲まれた土地では、米以外の食べ物に不自由しなかった」と述懐している。
君津中学校へ進学すると、千葉の進路に影響を与えることとなる体育教師と出会う。
その体育教師は千葉を陸上競技・バレーボール・野球など、複数の運動部の大会に出場させていた。
この頃ヘルシンキオリンピックが開催され、日本勢が体操競技でメダルを獲得したことにより、体操競技の「一大ブーム」が発生する。
体育教師が「体操部を創るから部員になれ」と千葉を勧誘したことから、他の運動部と掛け持ちを続けながら、体操競技も始めた。
そしてやがてオリンピックで「日の丸」を掲げたいという夢を抱くようになった。
「体操するなら木更津一高へ行け」とアドバイスされ、転校後は体操競技に専念し、1年生で全国大会上位入賞、3年生で全国大会優勝を成し遂げた。
その一方で西部劇など、アメリカ映画を夢中で観ていたという。
そして1957年、日本体育大学体育学部体育学科へ進学した。
同級生には後の東京オリンピック金メダリストの山下治広などがいて、オリンピック出場を目指して練習に明け暮れた。
一方で、学費を稼ぐために時給が高い土方や引越しのアルバイトを合間にしていた。
大学2年生の夏の練習中に跳馬で着地に失敗して腰を痛めるが、身体を酷使していた状態でのケガであったタメなかなか快方に向かわなかった。
医者からも「1年間運動禁止」と宣告され、モハヤ選手を続けることが困難となった。
千葉は将来を模索することになったが、たまたま代々木駅前で「東映第6期ニューフェイス募集!」のポスターを見かけた。
実はかつてミスタースポーツウエア・コンテストに入賞し、東映ニューフェイスを受験するよう勧められていたこともあった。
面接時には日本体育大学の経歴を珍しがられ、2万6千人の応募からトップの成績で合格したが、父親は芸能界入りを猛烈に反対して、千葉を勘当した。
1959年 東映ニューフェイスとして入社し、同期らと共に俳優座で6か月の研修を受けた。
翌年にテレビドラマ「新七色仮面」の二代目・蘭光太郎役で主演デビューを果たした。
父親もテレビに出演する息子を観てから考えを変え、ようやく勘当を解いていた。
そして千葉は、「アクションスターの元祖」ともいえる存在となっていく。
1968年から、テレビドラマ「キーハンター」に主演する。
これまで誰も見たことのないスーパーアクションで人気をさらい、
また、「千葉ちゃん」の愛称で一躍国民的アイドルとして親しまれた。
東映は常にアクションスターであることを千葉に求め続けて、吹き替えしてもらうことなく自ら危険なスタントを演じていく。
数々の新しく危険なアクションを演じていたが、小さなケガは絶えず負い、大きなものでは左足首の骨折などもした。
特に、柳生十兵衛役で長時間、左目に眼帯していたため右目を酷使して視力を失い、人工レンズを入れる代償も払った。
テレビドラマ「キーハンター」で共演した野際陽子と1972年に結婚した(1994年離婚)。
1990年代から「キル・ビル」などアメリカ、香港、メキシコ映画などに多数出演するようになった。
「キーハンター」が大ヒットしていた頃に、高倉健からあんまりアクションスターのイメージを持たれないほうがいいとアドバイスされたこともあり、1970年代には、テレビのホームドラマにも主演するようになり、芸域を広げた。
2008年10月から2009年3月まで京都造形芸術大学の教授を務めた後、日本・アメリカ・東南アジアと世界各国で、後進の育成・空手道の普及に貢献している。

孫正義は、24歳の時に雑餉隈の雑居ビルで、ソフトバンクの前身にあたる会社を設立している。
現在一階にソフトバンクショップが入っている「てんぐ屋ビル」というのが、ソレでないかという説がある。
資本金1000万円で、孫正義と二人のアルバイト社員でのスタートした。
木製のみかん箱の上に乗って社員に熱い思いをブチマケタ。
「30年後のわが社は1兆・2兆を数の単位とするような会社にするぞ!世界の人々に情報革命を提供するんだ!」と。
しかし、「この人おかしい」「気が狂っている」と思ったのか二人の社員はヤメ、社長一人になってしまったこともあったという。
孫正義は、在1957年日韓国人三世で、佐賀県鳥栖市五軒道路無番地で生まれた。
この周辺は戦前から韓国・朝鮮の人たちがバラックを建てて住み着いていたという。
小学校の時、孫一家は北九州に移転し成績も一番だったが、孫の頭の中には「韓国人である自分は日本で受け入れられるだろうか」という思いがメザメていた。
そして、進学した久留米大付設高校の一年生の夏休みに、カリフォルニアに一ヶ月の短期留学をする。
この語学研修は、カルフォルニア大学バークレー校の教室を借りて行われた。
そしてカリフォルニアの青い空と、アメリカという国のスケールの大きさに圧倒された。
そして、アメリカで結果を出せば、日本で認めてもらえるという思いが強くなり、アメリカの高校への編入を心の中で誓う。
その時、父は病の床ににあり、周囲の誰もが「早すぎる」という反対した。
孫も、病気の父親を置いて自分のことだけ考えていいのかと、葛藤した。
そして、親類縁者にも累がおよぶ「脱藩」の罪を犯して、国家大事に進んだ坂本竜馬の心境に自分を重ねた。
今、アメリカ行きを躊躇したら自分の道は開けない、大義の為には時に人を泣かすことがあると。
そして自分のアメリカ行きに賛成してくれた唯一の人が、外ならず「父親」だった。
そして、1974年2月久留米大学付設高校を1年でやめて、カリフォルニアに旅立った。
しばらくサンフランシスコ郊外のカッレジ内の英語学校で学び、9月にサラモンテ・ハイスクールの2年生に編入した。
しかし4年生のこの高校にいって感じたことは、レベルの「低さ」だった。
そして校長と交渉して4年生になる特例を認めさせ、わずか4週間で大学入学の為の検定試験を受検することになったた。
孫の「交渉力」は後にもシバシバ発揮されるが、ホトンド「暴挙」といえることを、その「熱意」で勝ち取っていく。
さて検定試験当日、問題はソレホド難しくないのに英語で答えを書くだけの英語力が不足している。それで試験官に辞書を貸してくれというと、君に例外は認められないという。
では自分で直接アピールしてくると試験会場をでて、職員室に向かった。
孫の熱意にホダサレテ、職員が教育委員会が教育委員長に電話し、辞書の使用と時間の延長を認めてくれた。
試験は15時に終わるのに、孫だけ23時まで戦った。これが3日間続き、孫も疲れたが、いい迷惑は試験官の方だったかもしれない。
そしてこの検定試験に合格し、1977年にカリフォルニア大学バークレー校経済学部の3年生に編入が認められた。
しかし、仕送りの負担や卒業後にすぐに事業を始めたいこと、猛勉強の為にアルバイトはしないこと、などの条件を満たすためには、自分に与えた余裕の時間ツマリ一日5分間で100万円稼ぐ必要がある。
その為には、発明以外ないと毎日ひとつの発明のアイデアをノートに書き込んでいった。
そして「音声付自動翻訳機」を案出したが、これを商品として完成させ手儲けを出すには20年はかかる。
そこでバークレー校の研究者の名簿から一流を選りすぐり、発明に協力してもらうよう「交渉」した。
その中にスピーチ・シンセサイザーの世界的権威がいた。
この世界的権威は、「金はないので成功報酬で」という孫のアイデアに耳を傾けるうちに、この一面識もない青年の「非常識」に賭けてみようと思った。
そして出来上がった自動翻訳機の「試作機」をシャープに売り込んだ。
そして得た資金1億円を元手に、在学中の1979年アメリカでソフトウェア開発会社の「Unison World」を設立し、インベーダーゲーム機などを日本から輸入した。
また、サンフランシスコ郊外のカレッジの英語尾研修で一緒に学んだ二歳年上の女性と結婚した。
1980年にカリフォルニア大学バークレー校を卒業し日本へ帰国し、翌年さっそく会社を設立するための事務所を福岡市南区に構えた。
そして1983年に雑餉隈の地に「日本ソフトバンク」を設立し1990年には、日本に帰化している。
ところで孫正義は、高校時代に司馬遼太郎の「竜馬が行く」を読んで熱烈な竜馬ファンとなった。
東京汐留のソフトバンク本社の社長室には、「坂本竜馬像」がデカデカと掲げられている。
そういえば、雑餉隈にはモウ一人「竜馬ファン」の有名人がいましたね。
そう、実家のタバコを盗んで、母親から「こら~!ナンバシヨットカ」と怒られていた、アノ人です。