橋を流された国

今、世界のニュースの中で、アメリカで10月からの新年度予算が決定できずに「政府機関」の一部閉鎖に追い込まれている。
また、日本がTPP交渉で聖域といわれた「五項目」の586品目中220品目が「聖域除外」の検討に入るという「公約違反では?」という事態に陥っている。
いずれも、深化するグローバリゼーションの流れの中で「国」ソノモノが押し流されているという印象を抱く。
アメリカの議会が10月17日マデに「債務上限をあげる」法がきめられない限り、アメリカ政府は「債務不履行」となり国債は暴落し、アメリカ国債を大量に保有している日本経済への影響は計り知れない。
こうした経済的概念に付帯するように政治概念として「保守とリベラル」という言葉がある。
政府の役割を重視して「大きな政府」を志向する「リベラル」に対して、市場メカニズムを重視して「小さな政府」を志向する「保守」という関係が成り立つ。
そしてアメリカにおいて共和党は「保守」、民主党は「リベラル」とされ、アメリカの選挙民は古くより「保守かリベラリか」の「二者択一」をセマラレてきたといってよい。
ところで、アメリカの政党というのは日本の政党と違って、議会投票での「党議拘束」や「党員資格」などがウルサクなく、極めて開放的で柔軟にできている。
「党綱領」もなく議員がバラバラに投票するならば、議員は一体何のためにヒトツの「政党」に属しているのかといえば、セイゼイ「大きな政府」か「小さな政府」かという点で一致しているからなのである。
具体的にいうと、「共和党」は政府の権限は縮小して自由市場や個人の自由を重視すべきとして、「民主党」は連邦政府は強力な権限を持って福祉政策などを展開すべきとしているのである。
この「基本理念」で一致していることが、民主党、共和党の議員の団結を生み出しているにすぎない。
いいかえるとソレゾレの政党のもつ価値意識がこの「基本理念」に集約できるということである。
ただ注意すべきことは、アメリカの二大政党は、歴史のアル時点で著しい「屈曲」を遂げているということである。
この「屈曲」とは、共和党初の大統領リンカーンは「奴隷解放宣言」をしたのに、今はオバマ大統領を出した「民主党」の方に黒人の支持者が多いということである。
さて、アメリカの政党は1860年代の南北戦争直前に共和党と民主党が成立して以来、1世紀半もの間、両党による「二大政党制」が続いている。
共和党大会の代議員層は、白人男性が圧倒的で黒人の数は極端に少なく、アジア系もヒスパニック系も探すのに苦労する一方、民主党の支持者たちは、白人、黒人、ヒスパニック、アジア系で「多様性」がメにつく。
ところが、米国の南北戦争の際に南部側で「奴隷制を支持」していたのが民主党であり、一方北部側で「奴隷解放」を唱えていたのが「共和党」である。
「奴隷解放宣言」を行ったA・リンカーンは「共和党」の最初の大統領であることはよく知られている。
興味深いのは、南北戦争で「敗北した」民主党はその「勢力挽回」のために、新しい移民をターゲットにして移民船の到着する港で「党員勧誘」を行ったのである。
そして「労働者や貧困の党」を看板にアピールしていく。
つまり、元々は奴隷制度支持の民主党は、「奴隷解放」後は一転して「黒人優遇政策」を唱え出したのである。
そして企業の入社や大学の入学などにおいて試験の成績に関係なく「一定割合」の黒人などマイノリティをパスさせる法を作ったりしている。
こうした動きを「アファーマティブ・アクション」とよんでいる。
こうして見ると、「古きアメリカ」を代表する中西部では「共和党」が強く、様々な移民が住みついている州が多い西海岸や東海岸なでは「民主党」が強いということがいえそうだ。

アメリカ議会で新年度予算のための「債務上限ひきあげ」法案がなかなか通らない「非常事態」が生じているのは、与野党の「ネジレ現象」が生じてイルとか「下院の優越」のようなものがナイからでもない。
アメリカという国ソノモノに埋めがたい「亀裂」が生じているといえるかもしれない。
それは、アメリカの最近の大衆運動をみても、ティー・パーティという極端に「小さな政府」を求める運動から、逆に「ウォール街を占拠せよ」といった運動までが起きたソノ「振幅」の大きさにも表れているように思う。
アメリカ社会には「二つの世界」を生きる人々がいるくらいに「二元化」し、そこに「歩みよれる」余地が狭まったということか。
要するにアメリカは、これからドウイウ国になるべきかということについて「合意形成」ができずに、政治がコトアルごとに「止まっている」感じなのだ。
そしてソンコトが最も「先鋭的」に表れているのが、オバマ大統領がコダワル「国民皆保険」の医療制度の問題ではなかろうか。
日本の医療保険制度は国民皆保険を旨としており、健康保険加入率は100パーセントに近く、医療サービスから「排除」されている人がほとんどいないという意味で日本の医療制度は平等にできている。
しかしアメリカの市民の20パーセントが「保険料」を支払う能力がなく、ごく普通の医療サービスからも「排除」されている。
アメリカの医療制度は「不平等」であるのは間違いがないが、日本でも財政逼迫のためにソウシタ傾向がでてきている。
医療の高度化にともない「健康保険」財政の逼迫とともに、財政を圧迫する可能性のある高度高価な医療が「保険外扱い」とされるようになった。
つまり患者の支払い能力が治療の成否をきめることになってきている。
さて、アメリカ社会において保守とリベラルの「二者択一」という構図自体は従来と変わらないのに、アメリカ社会の「亀裂」は一体どうして生じているのだろうか。
1980年代のレーガン大統領時代から広がった「経済格差」と、特にアメリカが製造業から金融サービス国家へシフトしていった更なる「貧富」の差の拡大がある。
さらにはソ連崩壊による軍事産業から金融業界への人材のシフトも原因となっている。
1990年代以降、ヒトとモノの輸送費と通信費が著しく低下したためである。
今世界の産業構造を見ると、先進国はハイテク製造業(電子機器、医療品、デジタル家電)とソフトウェア(金融、情報、通信)などに「特化」して、発展途上国は豊富な労働力を動員して、ある意味ドコデモ誰でもつくれるようにマニュアル化した製造業を営んでいる。
工場で集団的にモノ作りをしている社会と、少人数ないし一人の発案でつくるソフトウェアが莫大な利益をもたらす社会を考えた時に、後者の方がハルカに個人間の「所得格差」を拡大する傾向にある。
先 先進諸国は、特許をともなう高付加価値製品とソフトウェアの輸出により巨万の富を築くことができる。
そして資本を外国からの投資に頼る発展途上諸国が稼得する付加価値の約半分近くが先進国の金融資本に流れることになる。
先進国は富めるものをマスマス富ませ、貧しい者をマスマス貧しくさせる社会になりつつある。
そうして産業の中でイチハヤク金融業が中枢を占めたアメリカで格差社会を生むことになり、日本もその背中を追っているということがいえるだろう。

それでは、「経済格差」がアメリカを二極化しているとしても、それがどうして妥協のないほどの「亀裂を生む」ことなったのか、アメリカの「保守」と「リベラル」の「価値観」に遡って考えたい。
今一人の貧者がいたとするならば、保守主義者は次のように考える。
て彼または彼女が貧しくなったのは、彼または彼女の「自助努力」が不足していたためである。
なぜ「自助努力」を怠る者がいるかというと、貧者を救済するための「福祉」が過剰だからである。
福祉はモラルハザード、すなわち「依存」を生み出し、社会の活力を低下させるから、必要最小限度にとどめるべきである。
ところが、リベラリストは次のように考える。
彼または彼女が貧しくなったのは、親が貧しかったために十分な教育をうけられなかった、幼少時に健康を害した、あるいは生まれつき能力が劣っていたなど、本人には「不可抗力」の受難ゆえのことである。
そしてジョン・ロールズは次のようなことマデも主張している。
今、現在健康で豊かでいられるのもある部分「幸運」によるものだから、仮にもう一度生まれ変わるチャンスがあるとすれば、不幸な境遇に生れ落ちる可能性さえある。
したがって、あなたが生まれる社会のなかで、アリウベキ潜在的な可能としての「もっとも不幸な境遇」を出来るカギリ改善することが、民主主義の「黙約」となってしかるべきであると。
以上のように「保守」は、自助努力」と「自己責任」を徳目としてカカゲるがゆえに、市場を重視して「小さな政府」を志向する。
また保守主義の本領とは「一国の価値や伝統を守る」立場であるので、伝統的な国家と家族を守ることであり、シングルマザーとか同性愛者の同居などについては厳しい目をむける傾向にある。
そして「政府の介入」は嫌うものの、コト国を守るために必要不可欠な「軍備の拡張」については「賛同」する傾向がみられる。
一方の「リベラリズム」は、市場は不完全であるがゆえに失業やインフレなどの「不均衡の是正」のために「政府の介入」は積極的に行うべきであり、「大きな政府」とそれを支えるだけの「高負担」はヤムナシと考える。
そしてリベラリストは「文化多元主義」の立場に立ち、「マイノリティ」の権利をも大切にし、同性愛者など「異端」と見られる人々に対しても寛容ば傾向がある。
彼らは国家という「枠組み」に必ずしも捉われずに、「国防」にアマリ重きを置かない平和主義者である。

さて今グローバルな「市場化」を意味する「グローバリゼーション」が保守とリベラルに「変異」をもたらし、それが「決められない」状況を作り出しているフシが見られる。
冒頭で述べたように、グローバリゼーションの奔流は地域経済のみならず、「国民経済」を押し流し、「国家」という岩盤でさえ打ち砕きそうな勢いがある。
前記のように「保守の存在意義」が、伝統的な国家と家族を守ることだとすれば、国の伝統的価値ドコロカ国家の存在をサエ「希薄化させて」しまうグローバリゼーションと相性がヨカロウはずがないのである。
逆に、地球規模の市場化(グローバリゼーション)は、文化多元主義に立ち異文化やマイノリテーに融和的なりベラリズムとの方がヨホド「相性」がヨイのではなかろうか。
行き過ぎた「市場化」は、保守の立場を危うくしそうな気配があり、今「保守主義」と名ノルことは、こういう矛盾した相に立たせられることを意味しているのかもしれない。
そうして日本で「市場万能主義」の小泉政権やソレに近い安部政権の下で、「靖国神社参拝」や「教育改革」が前面に打ち出したりするのも、その「相反する相」の表れの一つではなかろうか。
そして市場を重んじるはずの保守主義者が、国の伝統や価値を守るべく、行き過ぎた規制緩和や撤廃に対して反対を唱えたりする。
要するにグローバル化の進展の中で、保守やリベラルも「一枚岩」はいえないのである。

アメリカの社会には昔から貧富の差はあったが、二つの世界を「橋渡し」してきたのが、「中間層」である。
アメリカの「中産階級」コソがアメリカ社会の「安定」のモトイとなってきたが、今や金もちはサラニに金持ちに貧乏人はマスマス貧しくなり、その中産階級はドンドン「縮小」していっている。
それは、大邸宅からすこしはなれると、スラムが広がるといった「南半球」と同じような光景が繰り広げられるようになている。
アメリカは、いま、爆弾テロや各地で頻発する銃の乱射などで騒然としている。
増大する中国人のいる太平洋岸、ヒスパニック系が増大している南、テキサスでは「独立運動」が起こり始めているという。
またカナダからの影響の強い北部の州がある。
物質的・金銭的成功をアメリカン・ドリームを価値体系の中心におく一方で、他方での敬虔な「キリスト教信仰」とそれに基づいた労働意欲とか倫理が、この「中産階級」によって「保全」されてきた社会だったともいえる。
イママデは製造業が「中間層」の広がりを生んできたが、ビッグバンしてグローバル化した「金融市場」が社会全体を覆ってしまった。
拡大する赤字を背景にした国債の発行、企業買収を目的とした大量の借り入れ、個人レベルでは消費者金融の拡大からさまざまな金融技術が登場した。
金融業中心の世界では、極端にいえば「1人がち」の様相を呈するのである。
そしてこうした「中間層」の存在は、共和党および民主党それぞれに「穏健派」というグループを生んでいたのである。
そうして共和党・民主党の「穏健派」が結集して大事な法案を通していくという構図があった。
つまり、議会内の穏健派が両者の「橋渡し」の役割をしていたのである。
金融業へのシフトの時期と符合して「穏健派」がことごとく消えて、保守は「保守化」の度合いを深めており、「合意形成」ができるような地盤が失われているという。
決められない政治は、かつての民主党時代の日本の「代名詞」とばかり思っていたら、より深刻なのはアメリカのほうかもしれない。
しかし、日本もアメリカの背中を追っている。
日本でも製造業から金融サービス業へのシフトはおきていて、日本の伝統的な雇用体系も崩壊しテしまった。
かつて日本型雇用慣行が労働者の「忠誠心」をはぐくんだ。
また日本企業のすぐれた製品は優れた部品ゆえであった。
大企業と部品メーカーの間には、長期的・安定的な取引関係を両者の間に構築してきた。
工場の移転などによりこうした日本独自のメリットが薄れてくる。
日本国内では製造業が脇に退き、金融・情報・通信などのソフトウエア産業が経済の「中枢」となりつつある。
そして日本型制度や慣行は、製造業にはふさわしくとも、情報やソフトウェア産業には相応しくなくなった。
「国民経済」を押し流そうとするグローバリゼーションは、国民を繋いできた様々な「橋」を押し流し国家ソノモノさえも押し流しつつある。
一体誰がこんな事態を望んだのだろうか。
大半の人が望んでいないことが起きているのだとしたら、こういう奔流を巻き起こしているのは一体何なのだろうか。
今、かつて社会主義を理想としたソ連が崩壊したように、市場万能を理念としたアメリカが分解するかもしれないという「瀬戸際」近く立たされている。
仮にアメリカの新年度予算が成立したとしても、来年以降も同じことが繰り返されるだろう。
かつてサイモンとガーファンクルの「明日に架ける橋」(1970年)という歌があった。
10月17日をタイム・リミットとして、アメリカ議会は、明日へ向けて債務の渦巻く怒涛の海に橋を架けられるか。