アフリカを舞台にして

「ニューヨークで暮らす私は、バーで写真を見せられた。アフリカの青年が持つ木の彫刻には、懐かしい人の面影があった」。
以上は、アメリカの作家トルーマン・カポーティの「ティファニーで朝食を」の一節だが、なぜか印象に残った場面である。
この小説の主人公「私」が木の彫刻を見て思い出した女性の名は「ホリー・ゴライトリー」。
そして「私」は、何にも縛られず、自由に生きていたアノ女性は、今どこで何をしているのだろうという感慨を抱く。
仄かな思いを寄せる人の「面影」に敏感になるのは、誰しもが体験するところである。
映画化された「ティファニーで朝食を」では、オードリーヘップバーが「ホリー・ゴライトリー」役を演じて、新境地を開いた。
ところで小説では、この「木の彫刻」のイメージについて具体的には描かれていない。
ただ、アフリカの青年が持っていたのが「木の彫刻」ということから、トーテムポールに刻まれたような「顔」を思い受かべる。
それはちょうど、画家のモディリアーニが描いた「面長の女性像」のようなものではなかっただろうか。
実際にモデリアーニはパリの街を歩いていて、たまたま街中の美術商で見つけた「アフリカ彫刻」に衝撃を受け、強い影響を受けたという。
モディリアーニは、もともと彫刻をやっていたが、ピカソやセザンヌと同時代の画家であり、モデリアーニ独特の「単純化された線と表情の無い仮面のような顔」の女性を描き続けた。
モディリアーニは、アフリカ彫刻の中に自己の本源と通じ合う何かを発見したに違いない。
アフリカといえば、幼い頃よくテレビで見た「ターザンの物語」を思い浮かべる。
ただ、ターザンにはサザエさんの「磯の家の謎」のごとくに、いくつかの「謎」がある。
ナゼいつも髭をそりスッキリした顔で登場するのか、動物語がわかる原始の男がなぜ突然英語を解するのか、恋人ジェーンはなぜいつまでもターザンの子を宿さないのか、などなどである。
そういう「謎」を秘めた「ターザン物語」の創作者は、バロウズという男であった。
1875年シカゴで生まれたバロウズは36歳まで「不運続き」であったといってよい。
学校の試験はことごとく失敗、軍隊、牧場、鉄道、セ-ルスマンと次々に職につくもののクビになった。
「適応性」に欠け体も丈夫ではなかったが、「鉛筆削り」を売る会社の代行業をするようになった。
その仕事の合間に、アフリカに投げ出された白人の赤ん坊がドノヨウナ人生を送るのかという「空想物語」を書き始めた。
そしてこの「空想物語」が、1912年ある雑誌で発表されるヤ、大変な人気を集めた。
「ターザン」が映画作品となるに及び、バロウズは大富豪となっていく。
ハロウズはまちがいなくアメリカン・ドリ-ムの体現者となり、世界各地を「豪華船」で巡り歩いた。
しかしその彼も、自分の小説の舞台アフリカにはツイニ足を踏み入れることはなかった。

アフリカを舞台にした「冒険」を描いた映画といえば、「アフリカの女王」という映画を思い浮かべる。
海洋冒険小説の大家、セシル・スコット・フォレスターの原作「アフリカの女王」をジョン・ヒューストンが映画化した。
この映画で主役となったハンフリー・ボガートは、この作品で念願のアカデミー主演男優賞を受賞した。
舞台はドイツ領東アフリカの奥地、イギリス人女性ローズ・セイヤー(キャサリン・ヘップバーン)は宣教師の兄とともに、布教活動をしていた。
しかし第一次世界大戦が勃発し、住民達は無理矢理徴収され、村は焼き払われ、そしてそのショックから兄は死んでしまう。
ローズは、オンボロ船の船長で呑んだくれのイギリス人、チャールズ(ハンフリー・ボガード)に助けられる。
ところが、ローズは突拍子もないことを言い出す。
川下の湖に浮かぶ、東アフリカ最強とされるドイツの砲艦「ルイザ号」を、酸素ボンベと爆発性ゼラチンで作った「お手製」の魚雷で攻撃、沈没させようというのだ。
途中には、ドイツ軍の砦や航行不能の激流や大瀑布がある。
自殺行為だと反対したチャールズだったが、頑固なローズを前に渋々承諾させられる。
性格がまるで正反対の二人だったが、イガミ合いつつお互いに惹かれていく。
二人は想像を絶する数々の困難を克服し作戦は見事成功し、最後にはドイツ軍によって救出される。
メデタし、メデタシのハッピーエンドである。
ところで「アフリカの女王」というタイトルが腑に落ちなかった。
キャサリン・ヘップバーン演じた宣教師の娘ローズをソウ呼ぶのにはカナリ無理があったからだ。
しかし後に知ったことは、「アフリカの女王」とは、チャールズの所有する「オンボロ船」の名前だったのである。
そういえば、若い頃聞いたロック・ミュージックの定番「プラウド メアリー」(1969)という曲のタイトルを訝しく思ったことがあった。
この曲は、クリーデンス・クリアウォーター・リバイバル初の全米ポップ・チャート・トップ10入りを果たし、最高順位2位を記録した。
「プラウド メアリー」とは、誇り高い傲慢チキな女性のことを歌ったのかと思ったら、この曲が 「メアリー・エリザベス」という名の「蒸気船」にちなんで制作されたことを後に知った。
実は、ジョン・フォガティは実物の「メアリー・エリザベス」を見てこの曲を作った訳ではなく、全くの想像で曲を書いたという。
その後、この曲がヒットしたことで初めて「メアリー・エリザベス」を観に行ったというエピソードが残っている。
ちなみに、「メアリー・エリザベス」はアフリカのナイル川ではなく、アメリカのミシシッピ川を悠然と航行した船である。

アフリカに夢を翔けたのは、「星の王子様」の作家・サン=テグジュペリも、その一人であろう。
サン=テグジュペリの学校時代は、「ターザン」を書いたハロウズに似ている。
学校の机に向っているのが嫌いで、成績はふるわなかった。特に算数が苦手だった。
海軍の学校を目指して3年も受験勉強をしたのに、結果は不合格だった。
モロッコで兵役に入隊し、民間航空機の操縦免許を取得したが、婚約者の家族が飛行士という仕事を良い目で見ていなかったため、フランスに帰国後は地上での仕事についた。
そこで、サン=テグジュペリは、瓦製造会社に入社したものの、そこで過ごした1年は死ぬほど退屈でな時間でしかなかった。
時計を見ては、帰れるまでの時間を計算していた程だった。
次にトラック製造販売会社のセ-ルスマンとなった。
はじめ3ヶ月の研修期間に、機械工場でエンジンの分解の仕方をおぼえた。
以後トラックを売り込むために、中部フランスを走り回ったが、あまりの単調さにうウンザリして、夜は街にくりだし金を使い果たし、すぐに貧乏暮らしに戻るという生活だった。
つまり不真面目でダラシナイ生活をつづけ、結局トラックは1台しか売れず、自ら会社をやめた。
婚約も破棄され、職もなく、何の目標もなく失意の中にあった。
考えることといえば、「空」のことばかりで、少しばかりの短編小説を文芸誌に発表したりしたのが、せめてもの「救い」だった。
その後、郵便航空会社の面接をうけ、まずは整備士の仕事をした。
それから「輸送パイロット」の資格をとり、ついにその仕事に「理想」を見いだした。
彼が従事した航空郵便事業は、ヨ-ロッパと南米との間で、一刻も早く通信を送り届けることを「使命」としている。
ようやくシステムが出来たとはいえ、まだ飛行機の性能が低く未熟な当時の飛行士達に、危険な「夜間」にも飛行することが強要されるのであり。
そして飛行士達はシステムが最大の効率をもって働くために、不可能を可能にする技術が求められた。
サン=テグジュペリは危険をおかしながらも、操縦能力をタメサレル偉大な事業に身を挺することに喜びと「意義」を見出したといえる。
ただし当時、サン=テグジュペリのようにエリート階層の出身でこうした仕事に従事するものはほとんどいなかった。
しかし、空に魅せられ 飛行に没頭する中、サン=テグジュペリは「虚飾」にみちた地上での生活にマスマス嫌気がさしてきた。
「私は石のように不幸だ」「論争や除名や狂言に、酷く疲れてしまっている」は、この頃の彼の言葉である。
サン=テグジュペリは1927年アフリカ北部のモロッコにある飛行場の主任に任命される。
当時、飛行機はタビタビ燃料を補給しなければ長距離飛行ができなかった。
そして飛行機が不時着したりすると、現地のムーア人たちは飛行士達を捕虜にしてスペイン政府に武器や金品を要求するという事件が起こっていた。
しかしサン=テグジュペリは、中継点でムーア人の子供と親しくなったり、サハラ周辺の動物のことを教わったり、アラビア語を学んだりしたのである。
星の降る村、熱砂、スナギツネ、そして砂漠の民など、壮大な自然が、サン=テグジュペリの心を成長させ豊にしていった。
そしてこの体験が、文学的なイマジネーションの「源泉」ともなった。
月の光に輝く砂などの絵本のイメージは、こうした日々の記憶から生まれた。
降る星を見上げて暮らした1年あまりの年月は、「孤独だが、人生で一番幸せな日々だった」と、作家になってから回想している。
こうした体験を元に「星の王子さま」は第二次大戦中に、亡命先の米国ニューヨークで書かれた。
さらに帰国後に書いた「夜間飛行」などで名声を博し、経済的にも豊かになった。
しかし、ダンスホールやナイトクラブに出入りするようになり伴侶とも出会うものの、心の空白はだんだん大きくなっていくようだった。
孤独な心は癒されることもなく、彼の心を慰めたものは結局「飛行機と空」ダケだったのかもしれない。
1944年7月31日、フランス内陸部を写真偵察のため単機で出撃したママ、「消息」を絶っている。

一般の人々が抱く「アフリカの夢」とは、「クレオパトラ」や「ソロモンの秘宝」や「シバの女王」やに代表されるのではなかろうか。
ポールモーリア楽団の「シバの女王」は、イージーリスニングの「定番曲」の一つだが、これが旧約聖書に登場する「シバの女王」だと知ったのは、わりと最近のことである。
女王は「シバ王国」の支配者で、ソロモンの知恵を噂で伝え聞き、自身の抱える悩みを解決するために遠方の国からエルサレムのソロモン王の元を訪れたとされる。
その来訪には大勢の随員を伴い、大量の金や宝石、乳香などの香料、白檀などを寄贈したとされる。
ポールモーリアの「シバの女王」は、こうした場面での荘厳な華やかなさをを元にして、曲が出来たのではなかろうか。
新約聖書では「シバの女王」の言及は無いが、代わりに「地の果て」からやって来た「南の女王」(Queen of the South)と表現されている。
「シバ王国」の所在については有力視される二つの説がある。
エチオピア説によればその名をマケダ(あるいはマーキダ)と呼び、イエメン説によればビルキス(あるいはバルキス)と呼ぶ。
ただし、両説ともこれを裏付ける「考古学的発見」は未だ皆無である。
エチオピア説ではさらに、ソロモン王とマケダの間に生まれた子をエチオピア帝国の始祖「メネリク1世」であると位置づけている。
ちなみに 世界史的に見て、2000年以上他国の侵略に一度も屈することなく存在しつづけた国は世界中では日本とエチオピアだけらしい。
エチオピアは高山で守られ、しかも肥沃な大地を保有していたので比較的、「王朝」が安定していたのも事実である。
大きな「異変」があったのは1869年のことである。
この年にスエズ運河が開通したことによって、ヨーロッパ列強がこの今まで見向きもしなかったこの地に「利権」が生じたのである。
その中でイタリアが半分騙したような形でエチオピア全土が占領された。
これが元で1985年にイタリア・エチオピア戦争が勃発し、これにエチオピアは勝利したが、またもや1935年、台頭したイタリアのムッソリーニが強力な軍事力を背景にエチオピアに侵攻し一時は首都が陥落する。
しかし、イギリスとの連合によって1941年に「王位」が復活した。
帝国主義の時代、欧州列強に抵抗したエチオピアは、日露戦争でロシアに勝利した日本を近代国家建設の 模範とした「親日国」である。
国民の1割が食料支援に頼る最貧国ながら、「約80年の外交関係がある友好国のために」と、震災後に日本支援委員会を発足させ、現地企業などに寄付を呼びかけた。
東北の震災でエチオピアと日本との意外な「友好関係」を知ったが、最近イスラム過激派のテロによって、日本との意外な「繋がり」を知ったのがアルジェリアである。
昨年、日本にとって衝撃的な事件は、アルジェリアで起こった石油プラント襲撃事件であった。
このアルジェリアの「テロ事件」に、50年も前に作られたアルジェリア独立を描いた「アルジェの戦い」を思い出した年配者も少なくはないであろう。
「事実は小説よりもドラマッチク」ということの「見本」みたいな映画だった。
小学生高学年で見たにもかかわらず、その「迫真性」は今でも覚えている。
その「リアル」さはどのようにして演出されたのだろうか。
1954年11月1日、仏領アルジェリアのカスバを中心として、暴動が起きた。
それはアルジェリアの独立を叫ぶアルジェリア人たちの「地下抵抗運動者」によるものだった。
激しい暴動の波はアルジェリア全域から、さらにヨーロッパの街頭にまで及び、至る所で時限爆弾が破裂した。
1957年10月7日、この事件を重大視したフランス本国政府は、マシュー将軍の指揮するパラシュート部隊をアルジェに送った。
独立運動地下組織の指導者はサアリ・カデルという青年であった。
彼はマシュー将軍の降伏勧告に応じようとせず、最後まで闘う決意を固めた。
1954年秋、アルジェリア解放戦線が6人のアラブ人青年によってアルジェ市の裏通りの靴屋の二階で結成されている。
映画「アルジェの戦い」の中でジャファルを演じているヤセフ・サーディは「実際に」カスバで地下組織を指導した闘士の一人で、多くの同志をフランス落下傘部隊に殺害されている。
独立後はカスバ・フィルムの社長として「全財産」を投げ打ち、この映画のプロデューサーをつとめたという。
戦車、大砲、トラック、ヘリコプター、小火器などすべての武器はアルジェリア軍当局から提供をうけ、スベテを忠実に再現するため衣裳などは全部新らしく作られた。
後にヤセフ・サーディは、「私は機関銃をカメラにとりかえたのです。当時を再現し、あの感動を再びよびさますことによって、ある国家や国民を審判するのではなく戦争や暴力のおそろしさを伝える客観的な映画を作りたいと念願していたのです」と語っている。
そして8万人に及ぶ全住民が、エキストラとして感動的なクライマックス・シーンに出演した。
かくしてヤセフ・サーディ社長の前代未聞の「映画構想」は見事に当たり、多くの人々をコノ映画のスクリーンに惹きつけた。
ところで、映画「アルジェの戦い」の撮影の舞台となったのが、アルジェのもっと古い地区で「城塞都市」のカスバというところである。
ちなみに、日本の昭和歌謡の中で「カスバの女」という歌があった。
内容は、異邦の兵士に恋する女性を歌ったものであるが、カスバがアルジェリアの「カスバ」であったとは知らなかった。
「カスバ」は、ジャン・ギャバンの主演の「望郷」の舞台ともなっているので、「カスバの女」のタイトルはこの映画にちなんだものであろう。