五輪、原発そして会津

原発誘致と1964年東京オリンピック招致の人脈を辿ると「不思議と」絡み合っていることに気がつく。
しかもソノ架け橋として「会津人」がイルのも不思議である。
そんな中でも、歴史の「深い因縁」をカンジさせるのが、北村正哉・元青森県知事の「核燃料サイクル」誘致である。
1994年、青森県下北の一角六カ所村に、「電気事業連合会」が核燃料サイクルの立地を要請した。
当時の北村正哉知事は、新たに雇用を支える産業や、施設を支える立地が「県政を担う者の任務」、というのがクチグセだった。
北村知事は、「要請」から1年間、緊張の中で悩み続けたという。
安全であること、国策であること、そして地域のメリットは1日たりとも脳裏から離れなかった。
死の灰や放射能を振り撒く事態を、政府は黙って見逃せるだろうか、それはアリエない。
プルトニウムが危険なことはわかるが、「防衛策」が万全ならば必ずや農家や地域の為になるにチガイナイ、と受け入れを決定した。
北村氏にとって、「風雪の大地」で農業ダケで生き抜くことがイカニ厳しいことか聞き及んでいるし、自ら体験もした。
戊辰戦争後に、会津から青森県「斗南」(現青森県むつ市)に移転させられた「会津藩士の子孫」であったからだ。
2011年「3・11」以後、放射能もマキちらされたし、汚染水は福島から流され続けている。
ソノ結果六カ所村の「核燃料サイクル」も、当初の高速増殖炉でプルトニウムを燃やす構想は完全に「頓挫」したカタチである。
北村正哉氏は、上北郡三沢村(現・三沢市)で、牧場主の長男として生まれた。
それは、先祖の北村豊三は元会津藩士で、会津戦争敗北後に同藩が斗南藩へ移住させられたことによる。
斗南は農業で生きるにアマリニ厳しく、北村豊三は広沢安任と共に日本初の西洋式牧場である「開牧社」の経営に参加した。
ちなみにNHK「八重の桜」では岡田義徳が「広沢安任」を演じている。
北村元青森県知事は、盛岡高等農林学校(現・岩手大学)から大日本帝国陸軍の獣医部に編入した。
軍の獣医少佐として出征し、インドネシアで「終戦」を迎えている。
その後は1952年に大三沢町議に当選した後、竹内知事の下で「副知事」を務めた。
副知事時代には「むつ小川原開発」で政府や企業との折衝にあたった。
1979年に県知事になると「産業構造の高度化」を掲げ、特に東北新幹線の青森までの整備には副知事時代から取り組み、盛岡駅以北の早期着工を訴えて地元では「ミスター新幹線」と呼ばれている。
また「六ヶ所村核燃料再処理施設」の誘致に力を入れ、1985年に六ケ所村への核燃施設受け入れを決定している。
また文化面でも、後のユネスコ世界遺産・白神山地(自然遺産)登録への道を開いたり、1994年には世論を受けて「三内丸山遺跡」の永久保存を決めた。
1995年5期目の知事選挙で敗れ、知事退任後は病で入退院を繰り返したが2004年に死去した。
享年87歳だったが、最後は同じ夫婦仲良く病院に入院しており、妻は正哉より1日早く84歳で亡くなった。

日本における「原子力発電初代委員長」は九州人・安川第五郎氏である。
安川氏は安川電機社長、九州電力会長を歴任したが、何といっても「東京オリンピック組織委員会会長」の「大役」をつとめた。
というわけで、安川氏は「原発人脈」と「オリンピック人脈」が重なった典型的人物であり、会津人とも「或る因縁」で結ばれている。
第五郎氏は、安川財閥の創始者である安川敬一郎の「五男」として、福岡県遠賀郡芦屋に生まれた。
1906年福岡県立中学修猷館を卒業するが、同期に緒方竹虎、一年先輩に中野正剛がいる。
修猷館在学中は、緒方とともに玄洋社の「明道館」において柔道を学んでいる。
福岡市渡辺通りのホテル・ニューオータニ裏に「明道館」の記念碑がある。
その後1912年、東京帝国大学工科大学電気工学科を卒業し、日立製作所に1年間勤務した。
米国にて研修の後、1915年兄・清三郎とともに、株式会社安川電機の前身である「安川電機製作所」を創設し、モーター・電動機に製品を絞り込み発展を遂げた。
第二次世界大戦後は、1946年2月に「石炭庁長官」に就任するが、同年GHQにより「公職追放」を受けている。
1949年安川電機会長に復帰し、1956年、日本原子力研究所(現・日本原子力研究開発機構)初代理事長、1960年九州電力会長を歴任後、1963年には、「東京オリンピック組織委員会会長」に就任する。
東京オリンピック「開会式」の前日夜半は雨だったが、安川が「誠心」をモッテ晴天になるようにと天に祈ったところ、その祈りが通じたのか開会式当日は「雲ひとつ無い快晴」になった。
それ以後、安川は揮毫を頼まれると「至誠通天」の四文字シカ書かなくなったという。
東京オリンピックにおいて国立競技場に翻っていた「五輪旗」は、その見事な大会運営に感動したアベリー・ブランデージIOC会長から組織委員会会長の安川に寄贈され、その後安川から母校である「福岡県立修猷館高校」に寄贈されている。
現在は修猷館高校の体育館に額に入れて飾られており、以前は同校の運動会の入場行進において使用され、現在はレプリカを使用している。
ところで、安川第五郎氏の父・安川敬一郎は明治専門学校(九州工業大学)を設立している。
そしてこの九州工業大学の「初代学長」となるのが、会津藩士の山川健次郎である。
そしてこの山川健次郎の三女が、東京オリンピック招致時の「東京都知事の妻」であった。
会津人の山川は、原発人脈と東京オリンピック人脈を「橋渡し」するカタチとなった。

「東京オリンピック招致」で大きな役割を果たしたのは当時の東京都知事である東龍太郎(あずま りょうたろう)である。
東都知事は、社会党から出馬した美濃部都知事の「前の知事」といったら分かり易いかもしれない。
東氏の父・藤九郎は医師で、弟の武雄は、東大野球部の投手として活躍した。
妻は東京帝国大学総長を務めた山川健次郎の「三女」である。
東氏は、東京帝国大学医学部卒業後、ロンドン大学に留学し、物理化学・生理学を専攻した。
帰国後は、東大助教授を経て1934年に教授に昇進している。
戦後は厚生省医務局長などを経て茨城大学長になり、1959年自由民主党の推薦で東京都知事に立候補し、日本社会党などが推した有田八郎らを破って当選し、以後1967年まで2期8年都知事を務めた。
1983年に90歳で亡くなっった。
大学在学中はボート競技の選手として活躍し、その後も日本における「スポーツ医学」の草分けとなったことから「スポーツ振興」に造詣が深く、都知事就任前にも日本体育協会会長・「日本オリンピック委員会委員長」を勤めた。
そして1950年から68年までIOC委員を務めるなど国際スポーツ界に通じ「東京オリンピック誘致」に深く関わっている。
ただし東京オリンピック開催に向けたプロジェクトを軌道に乗せた功績は、後に都知事となる「副知事」の鈴木俊一によるところが大きいと評されている。

ところで東龍太郎都知事の妻の父つまり義理の父は会津人・山川健次郎であり、1907年 安川財閥(安川敬一郎・松本健次郎親子)の資金拠出による明治専門学校(現九州工業大学)の設立に協力し「初代総裁」となっている。
山川はその次に「九州帝国大学の初代総長」となるので、福岡とも縁が深い。
ところで山川は「白虎隊士」として、会津若松城の「籠城戦」を経験している。
山川健次郎はペリーが黒船で来航した翌年1854年に生まれたが、幼くして病で父を亡くした。
山川家は代々300石の中級藩士の家柄であったが、祖父の代には「家老職」の家格となった。
ちなみに兄の山川大蔵は、NHK「八重の桜」では、玉山鉄二が演じている。
兄・大蔵は新政府軍が城を包囲する中、籠城戦では「家老」として総指揮をとった。
また1871年の会津藩の「お家再興」では、筆頭家老にあたる「大参事」となり、「斗南藩」を文字通り牽引した人物である。
鳥羽伏見の戦いで惨敗した会津藩は、江戸に戻るや急いで「洋式の軍隊」に改めた。
これまでの会津藩は青年から老人まで同じ部隊に属しており、体力にバラツキあり統一行動を取れなかった。
そこで年齢別に部隊を編成し直した。
15歳から18歳までの「白虎隊」、18歳から35歳の精鋭の「朱雀隊」、36歳から49歳の「青龍隊」、50歳以上の「玄武隊」の4部隊に編成した。
各隊の任務は朱雀隊が実戦部隊、青龍隊が藩境の守備、玄武隊と「白虎隊」は予備隊とした。
山川健次郎は白虎隊であったが、「年少」であったために戦陣では「待機」となり飯盛山には向かわなかった。
山川は城に戻り「籠城戦」に加わったが、雨アラレとふる弾丸の中で毎日この世の「地獄」を見ていたことになる。
そして9月22日朝、ツイニ城に「白旗」が上がった。
会津開城後、会津軍の死体の埋葬が許されず、半年近くも路上に放置されたまま、極寒不毛の最北の地「斗南」に移住させられた。
ところが猪苗代に謹慎していた山川に対し、重臣が相談した結果、越後へ「脱走」の藩命がでた。
長州藩士と会津藩士との「密約」により、会津の「将来を託する」人材として山川健次郎に白羽の矢が当ったのである。
山川は一時佐渡や新発田に滞在したが、1869年5月に東京の「長州藩」の屋敷に書生になった。
「北海道開拓使」で技術者養成のため、何人かの書生をアメリカに留学させることになり、山川はその一員に選ばれた。
留学生を選定するにあたり、旧幕府側に理解を示す開拓使の黒田清隆(薩摩藩士)がいたことが幸いした。
北海道は寒いということで、薩長からダケの選抜を退けたのである。
山川健次郎は長州藩士に助けられ、今度は薩摩藩士に救われた不思議な「幸運」の持ち主でもあった。
1871年、黒田に引率されて山川はアメリカに向った。そして難関のエール大学に合格する。
山川はアメリカとの国力の差は日本人の「理学の軽視」であると感じ、自らの専攻を「物理」としたという。
滞米4年、エール大学で「物理学の学位」を取得し帰国の途についた。
ちなみに山川健次郎の妹にあたる捨松も「政府派遣留学生」として渡米している。
帰国後は薩摩の大山巌と結婚し、その洗練された身のこなしと教養から「鹿鳴館の華」と称された。
帰国した山川は東京大学の前身である「東京開成学校」の教授補として就職した。
1879年には、日本人として最初の「物理学教授」となった。
そして1901年、山川48歳で「東京帝国大学総長」に選ばれた。
数多くの文官を輩出する東大総長の地位は、「朝敵」の汚名を着せられた会津藩カラの就任だけに感無量であったであろう。
明治以後も会津人は差別され、戦死者は靖国神社に合祀されず、県庁も置かれず最近まで会津には大学スラなかったのである。
山川は52歳で東京帝国大学総長を辞任するも、明治専門学校(九州工業大学)、九州帝国大学初代総長を経て60歳で再び請われて東京帝国大学総長に復帰し、61歳で京都帝国大学総長を「兼任」している。

最後に山川ほど「目だった」存在ではないが、「会津魂」を充分に示した二人の人物を紹介したい。
第一次世界大戦で中国青島で日本軍によって捕虜となったドイツ兵は、日本各地の収容所に送られた。
現在「原爆ドーム」と知られる建物は当時「広島物産陳列館」と呼ばれていた。
コノ陳列館には、広島湾に浮かぶ似島収容所のドイツ兵からバウムクーヘンなどが出品された。
同じく、ドイツ人が収容された徳島阪東の収容所は、日本で初めてベートーベン「第九」が演奏された場所として有名である。
10年以上も前の映画「バルトの楽園」は第一次世界大戦で捕虜となったドイツ兵と徳島阪東の人々の「交流」を描いた実話を「映画化」したものであった。
映画のセットでは「俘虜収容所」が見事に復元され保存されており、映画撮影が終わった後も、壊されずに残っている。
この「俘虜収容所長」松江豊寿は、塗炭の苦しみを舐めた会津人の子供であった。
日本人が捕虜に対する意識とか、俘虜または捕虜を取り扱うに際しての「因習的」な意識をこえて、松江所長が「国際的人権主義」に立っていたことに、今更ながら「驚き」を感ぜざるをえない。
ちなみに俘虜と捕虜の違いは、当人の母国以外でつままったのを「俘虜」とよび、本国でつかまるのを「捕虜」と呼んで区別している。
日本軍人は「生きて虜囚の辱めをうけず」という考えがあり、捕虜になるくらいならば潔く切腹した方がましという伝統的な考えがあった。
「俘虜収容所」設立にあたっては、「命惜しさ」に生き長らえた卑怯者どもをナゼ我々が面倒をみなければならないのかという意見さえあったのだ。
それだけに俘虜に対する扱いが酷い収容所もあった。
しかし松江所長の「俘虜待遇」は、ケシテ上から遇するということをしなかった、つまり敗者を「誇りある人間」として扱ったという点で「人道主義」にかなうものであった。
だからコソ、エンゲル楽団による日本で初めての「第九演奏」が 実現したのである。
ソレは松江自身が自らが「敗者の境遇」の中に生まれたことに関係しているのだろう。
松江が生まれ育った会津は、戊辰戦争の戦後処理において「賊軍の汚名」をきせられた。
23万石の会津藩は「朝敵」として下北半島(青森県)にわずか3万石(実質7千石)の「斗南藩」として移されたが、その「実体」は藩ごと「流刑」に処せられたといえる。
斗南での常食はオシメ粥で、海岸に流れ着いた昆布わかめを木屑のように細かく裂いてこれを粥に炊く。臭気があってはなはだ不味い。
冬には蕨の根を砕き晒してつくる澱粉を丸めて串に刺し火にあぶって食べる。拾ってきた犬の肉を毎日食べるといった生活である。
ドウニカ「餓死」を免れたのは、会津の国辱を雪ぐ迄生き延びるという「会津武士の矜持」であったといえる。
「餓死して」果てようものならばソレコソ後の世までの恥辱を蒙ることになるといわれたのである。
松江はそういう日々をシノイデ生き抜いてきた会津藩士の子であった。
薩摩や長州は陸軍や海軍で上層をしめたが、「賊軍」であった会津藩出身の軍人は、こうした「俘虜収容所」に送られたということかもしれない。
「夷(外国人)をもって夷を制す」ではなく、「賊をもって夷を制す」ということか。
映画「バルトの楽園」の中で、松江が幼少の頃に体験した悲惨極まる「会津戦争」や「斗南藩開拓」のシーンを織り交ぜながら描いていた。
一方、松江が赴任した徳島坂東は「四国巡礼」の一番札が霊山寺があり、心傷ついた人々を受け入れる素地がある優しい土地柄であった。
またこの霊山寺の境内は、ドイツ人俘虜が収容所で作りだしたハムやパンなどを徳島の人々に紹介するよい場所となっている。
青森県斗南と対照的に、徳島県坂東は所長である松江を心優しく包んだ町だったといえるかもしれない。
ところで、戦後100年は「草も生えない」といわれた広島市を復興させたのが、浜井市長である。
この浜井市長とともに「広島平和都市建設法」の成立に1人の会津人が深く関わることになる。
白虎隊士の「唯一」の生き残りの「飯沼貞吉の弟」を父にもつ内務官僚の飯沼一省は、静岡県知事、広島県知事、神奈川県知事などを歴任した。
公職を退いた後は、都市計画協会の理事長や会長を務め、都市計画に関連する「国の行政」に協力した。
とくに1949年制定の「広島平和記念都市建設法」については当時の浜井市長を助け、法案の提出に尽力したという。
戊辰戦争の敗戦で荒廃した会津人と被爆した広島人とが「共感」し合うのもわかる気がする。
このように会津人は「原発」バカリか、復興というカタチで「原爆」とも関わりをもっている。
「広島物産陳列館」は「原爆ドーム」として1966年に永久保存され、1996年に「世界遺産」に登録された。