戦争の清算

戦争体験は、人々を様々な方向に駆り立てた。
或る者は文学を通じて祈り、学問において正義を追求し、また或る者は「社会主義革命」や「ユニセフ支援活動」に挺身した。
ここで紹介する人々は、世の中から隠遁したり、あらぬ「レッテル」を貼られたり、夢ナカバで倒れた人々だったのだが、ソレゾレの「良心」にもとづいて精一杯の「戦争の清算」を行った人々であったように思う。

最近、「ライ麦畑で捕まえて」で知られるJ・D・サリンジャーの「未発表」5作品が、本人の遺言により2015年から出版されることが明らかになった。
ユダヤ人作家・サリンジャーは3年前に91歳で亡くなっているので、作家としてはかなり長寿といってよい。
サリンジャーは、「禁欲的な隠遁者」としても神話化され、実際ニューヨークからニューハンプシャー州コーニッシュという田園地帯に越すと、人目をサケルように暮らした。
そして40代後半からは一切著作を発表しなくなる。
しかし、サリンジャーは書き続けていた。
朝早く起きて、瞑想とヨガをして、そして日課のように書いていた。
「長寿」の秘訣は、作品を発表しないことだったかもしれない。
インタビューで「発表しないとすばらしい平安がある。安らかだ。静かなんだ」と語った。
そして「仕事と祈りのふたつは区別がつかなくなった」とも語っている。
それでは、作家サリンジャーにとって「祈り」とは一体何だったのだろう。
再来年に発表される「未発表作品」にソノ答えが見つかるかもしれないが、おそらくサリンジャーの「戦争体験」と無関係ではないだろう。
サリンジャーは、米軍諜報部員としてノルマンディー上陸作戦に参加し、ドイツ軍との最も「過酷」な戦いを強いられた部隊にいた。
ノルマンディーで活動したアメリカ陸軍の医療関係者は、交戦によって精神が崩壊した「戦闘ストレス反応」を呈する兵士があまりに多いため、時おりその数に「圧倒」されそうになったと伝えている。
サリンジャーの「未発表」作品の中には、彼が第二次世界大戦中、捕虜がスパイでないかを尋問する「防諜部隊」にいた頃の話も含まれているという。
サリンジャーらの部隊は、ノルマンディー上陸作戦後に、ドイツのダッハウの強制収容所を解放する。
そこで彼が見たものは、サリンジャーの同胞である多くの痩せ衰えたユダヤ人たちだった。
その時の体験につきサリンジャーは、「焼ける人肉のにおいは、一生かかっても鼻からはなれない」という言葉を残している。
戦後、サリンジャーは過去に数年を過ごしたウィーンに行き、恋した少女だけでなく、当時知り合ったホボ全員がナチスに殺されていたことを知る。
代表作「ライ麦畑で捕まえて」における、「無垢」で壊れやすいものを守りたいという」気持ちも、そういう彼の体験の中から生まれたものかもしれない。
「ライ麦畑で捕まえて」で、主人公ホールデンは、最後に次のように語っている。
//とにかくね、僕にはね、広いライ麦の畑やなんかがあってさ、そこで小さな子供たちが、みんなでなんかのゲームをしてるとこが目に見えるんだよ。何千っていう子供たちがいるんだ。そしてあたりには誰もいない――誰もって大人はだよ――僕のほかにはね。で、僕があぶない崖のふちに立っているんだ。僕のやる仕事はね、誰でも崖から転がり落ちそうになったら、その子をつかまえてやることなんだ。一日じゅう、それだけやればいいんだな。ライ麦畑のつかまえ役、そういうものに僕はなりたいんだよ。馬鹿げていることは知ってるよ。でも、ほんとになりたいものといったら、それしかないね。馬鹿げていることは知ってるけどさ//

思想家・ジョン・ロールズは、現代社会に次のようなメッセージを放った。
”この世で少々のツキに恵まれ豊かになったアナタが、仮に生まれ変ったら、今とはまったく違う「ドン底」の世界を生きているかもしれない。もしそうならばコノ世の中の「ドン底」を少しでも改善しようとは思わないか。”
こんな風な発想をして「正義論」を展開した人に一体どんな「ドン底」体験があったのか、とツイ想像したくなる。
ロールズは、幼き日にジフテリアに罹病し、その結果感染した弟二人が病死するという出来事が起こった。
自分が生き残って弟二人が死んだという事実は、誰も表立って言わずともロールズの心に「深い影」を落とすことになった。
ロールズはプリンストン大学に進み、花形選手だった憧れの兄を目指して、フットボールに没頭した。
大学卒業後、陸軍の士官として日本との戦いにニューギニア、フィリピンと転戦した。
そして、日本の全面降伏後は、占領軍の一員として広島長崎の「原爆の惨状」を目のあたりにして、それまで疑うこともなかった「アメリカの正義」に疑問をもちはじめた。
同時に「社会にとっての正義とは何か」を考えるようになったという。
ジョン・ロールズは1970年代初頭に「正義論」という本を書き脚光を浴び、ハーバード大学サンデル教授の「白熱教室」にもしばしば登場する。
そしてロールズの説が今頃再び注目を集めるのは、このところ進行する「格差社会」の問題への一つアプローチを提供するからではなかろうか。
ロールズは、人間にとっての一番基本的な欲求「自由 生命 財産」を基本財とした。
権利は法律上では平等といいながら、実際に成功して財産を多く得る人と、失敗して貧困に落ち込む人が出てくるのであり、成功者はこれらの「基本財」を多く享受でき、失敗者はそれらを過少にしか享受できない。
現代の日本のにおいても「雇用/医療/教育」ナドの格差が広がっているために、ロールズの思想の現代的な意義が大きさを感じさせられる。
ロールズは、自然科学と同じように「没価値」を旨とした社会科学の風潮の中で、「社会的公正」もしくは「社会正義」を正面きって論じた。
ロールズにとっての「社会正義」とは「社会的公正」のことである。つまり誰もが「等しく」社会の豊かさを享受できる社会のことである。
しかし、それは単純な「平等な社会」というわけではない。
極端な「平等」を追求することは人々の意欲をソギ社会的な「効率」を犠牲にすることになるからだ。
そこで、社会的効率を追及することは「格差」を生むかもしれないが、少なくとも「最低の生活層」の水準を引きあげうる範囲での「社会的効率」の追求と、ソノ結果生まれるであろう「格差」は許容されるというものである。
これが「マキシミン原理」つまり「ミニマム(最低)をマックス(最大化)」にする原理である。
今までモ、下層から社会を考えた学者はたくさんいたかもしれない。
しかしジョン・ロールズは、「ドン底」(最底辺)から社会の「公正」を追求したという点で、稀有な学者であったといってよいであろう。

1930年代、日本政府の中枢にまで接近し「最高国家機密」漏洩を行ったドイツ人「リヒヤルト・ゾルゲ」とはイカナル人物だったのか。
そこには、ゾルゲなりの「社会正義」の希求があったといってよい。
ゾルゲは若き日に第一次世界大戦に参加し自ら負傷し「戦争の悲惨」と狂おしさを目の当たりにした。
国家と国家の利害が激しくブツカリ無辜の市民の血が流される。
平等で平和のない世界を夢見たゾルゲは、共産主義が説く「世界革命」の思想に共感し、モスクワに本部をおく「コミンテルン(国際共産党)」のメンバーとなった。
ゾルゲはドイツの新聞社「フランクフルター・ツァイトゥング」の特派員という肩書きで、当時列強の情報が飛び交っていた上海に渡った。
そこで「大地の娘」で世に知られた女性アグネス・スメドレーと出会い、日本の朝日新聞の特派員であった尾崎秀実と出会う。
そして尾崎もコミンテルンのメンバーで、ゾルゲの諜報活動の日本における最大の協力者となる。
その後ゾルゲは、東京特派員として来日し、日本と友好関係にあったナチス党員としてドイツ大使館の私設情報担当となって活動した。
そして尾崎秀実は南満州鉄道委託職員に転職する一方、ソルゲは政界の上層部と親しい尾崎から情報を入手してソ連に送った。
ところで近衛首相は由緒ある「藤原氏の子孫」で、行き詰まりつつあった中国や米国との関係の打開のために多くの国民の期待を背負っての首相就任であった。
ただ近衛首相は若き日に東大ではなく、当時社会主義者で「貧乏物語」で世に知られた河上肇に学ぼうと京大で学んだという経歴があった。
そのことが公家階級の近衛を社会主義へと傾斜させることになる。
実は、尾崎秀実は当時の近衛首相のブレーン集団であった「昭和研究会」のメンバーなのであったために、国家の「最高機密」にアクセスできたのである。
ゾルゲの活動を助けた尾崎の目的は、ソ連に続き中国、日本に革命が起きると予測して帝国主義戦争の停止と「日中ソ提携」の実現にあったといわれている。
ゾルゲはこの尾崎に加え、西園寺公望の孫にアタル西園寺公一、アメリカ共産党員の洋画家の宮城与徳、ドイツ人無線技士のマックス・クラウゼンとその妻アンナ・クラウゼンなどをメンバーの一員とし、スパイ網を日本国内に構築し活動を行った。
近衛首相のブレーンであった尾崎がゾルゲに流した情報の中に「独ソ戦」の命運を握るようなものがあった。
中国との戦闘が長期化する中、日本は同盟国ドイツがソビエトと優位に戦うならハサミ撃ちするために「北方進出すべき」という意見と、多くの資源がある「南方進出すべき」という二つの考えがあった。
政府の最終決定は「南方進撃」であるが、これをゾルゲはモスクワに打電した。
結果的にソビエトは、日本の北進はナシとして「すべての兵力」を満州からヨ-ロッパへと振り向けることができたのである。
ところでゾルゲがモスクワにその情報を流したのはドイツ大使館からでであったが、ゾルゲはこの大使館に勤める武官オットーと上海で出会っており、オットーの紹介でドイツ大使の私設情報担当として出入りした経緯があった。
まさか日本の友好国のドイツ大使館から、敵対するモスクワに日本の「国家機密」がおくられていようとは誰が想像できただろうか。
ゾルゲは、様々な偶然に味方されて「最高機密」にアクセスできたことは否定できない。
ゾルゲの人物像につき、個人的には海千山千の「怪人物」といったイメージがつきまとうが、ゾルゲの日本人妻であった石井花子さんが書いた「人間ゾルゲ」を読むとかなり印象が違う。
ゾルゲはオートナバイに乗った快活な「好青年」というカンジなのだ。
石井さんは銀座のラインゴールドというカフェでゾルゲと知り合い、1941年に逮捕されるまで共に暮らした。
石井さんはソルゲの活動の内容につきまったく知らなかったという。
実は日本の官憲は、情報がロシアに打電されていることを知っていたが、多くの外国人を調べたものの、その「発信源」をツカムことが出来なかった。
官憲が、夫の正体を知らない石井さんにゾルゲの行動を尋ねると、時々「釣りに出かける」ことがわかった。
特高は行楽を装い富士のフモトにある湖を張り込んだ。
湖上に浮かぶ、魚の跳ねる音しか聞こえぬ静寂が覆う湖上のボ-ト上の二つの黒い影。
ひとつの影が湖に何かを投げたようだ。
二人が去った後、特高は湖上にちぎられたメモを見つけた。紙面をつぎ合わせてみると、そこには「暗号」が書かれていた。
このゾルゲと通信技師クラウゼンとのヤリトリが確認され、コミンテルンのスパイであることが「発覚」したのである。
ゾルゲは尾崎とともに巣鴨刑務所で1944年11月7日ロシア革命記念日に処刑された。
ゾルゲは最後に「ソビエト・赤軍・共産党」と二回日本語で繰り返したという。
石井花子さんは、後にゾルゲの墓を見つけ出し、2000年に亡くなるまで花を手向け続けた。
ところで逮捕後のゾルゲは「ソ連のスパイ」であることを自供したが、ソ連政府はそれを頑なに否定した。
しかし、1964年フルシチョフ書記長の失脚後に、ソ連邦政府はゾルゲに対して「ソ連邦英雄勲章」を授与し「名誉回復」がなされた。
旧ソ連の駐日特命全権大使が日本へ赴任した際には、多磨霊園にあるゾルゲの墓を訪れることが慣行となっており、ソ連崩壊後もロシア駐日大使がこれを踏襲している。

20C初頭「マタハリ」とよばれたフランス国籍のダンサーがいた。
彼女は「女スパイ」の代名詞となり、時には「妖女」ともよばれることもあった。
しかし、こういう「イメージ」というものは大概作り出されたものである。
国際的に活躍するダンサー・マタハリが何らかの「諜報活動」に利用されたとしても、彼女がドイツ側にどんな情報を流し、それが戦況にドンナ影響を与えたかは、アマリ判明していない。
それにもかかわらず、マタハリは1917年にドイツのスパイとしてフランス・バンセンヌで処刑された。
実は2005年の10月15日、彼女の裁判の再審請求がフランスの法務大臣に提出された。
それによると、マタ・ハリは当時の愛国心のために歪められた裁判の「犠牲者」であるという。
ドイツに劣勢を強いられたフランス上層部としては、マタハリがドイツと通じていたことにすれば、「劣勢の責」を回避できて都合がよかった面がある。
マタハリの本名はマルガレタ・ゲルトルイダ・ツェーレといい、通称を「ゲルダ」とよばれた。
ゲルダは1876年8月7日、オランダの北部レーウワルデンに生まれた。
妖女「マタハリ」の人生は、意外にも「天使」ともよばれたオードリー・ヘップバーンとも重なる。
まずゲルダとヘップバーンは「かけ離れて」見えるがが、ゲルタもヘプバーンも等しく「踊り子」をめざしていた点で共通している。
またヘプバーンはマタハリと同じくオランダが当時植民地とした「ジャワ」と縁がある。
ゲルダは最初の夫の赴任地ジャワのダンスに魅了され、それが彼女を妖艶な「マタハリ」へと変容させていくキッカケとなる。
ゲルタの生まれたオランダはヘップバーンにとっても、忘れようにも「忘れられない場所」である。
ヘプバーンの両親ジョセフとエラは1926年にジャカルタで結婚式を挙げている。
その後二人はベルギーのイクセルに住居を定め1929年にオードリー・ヘプバーンが生まれた。
ヘプバーンはベルギーで生まれたが、父ジョゼフの家系を通じてイギリスの市民権も持っていた。
母の実家がオランダであったこと、父親の仕事がイギリスの会社と関係が深かったこともあって、ヘップバーン一家はこの三カ国を頻繁に行き来していたという。
ヘプバーンは、このような生い立ちもあって英語、オランダ語、フランス語、スペイン語、イタリア語を身につけるようになった。
ヘプバーンの両親は1930年代にイギリス「ファシスト連合」に参加し、とくに父ジョゼフはナチズムの信奉者となっていった。
その後両親は離婚し、第二次世界大戦が勃発する直前の1939年に、母エラはオランダのアーネムへの帰郷を決めた。
オランダは第一次世界大戦では中立国であり、再び起ころうとしていた世界大戦でも「中立」を保ち、ドイツからの侵略を免れることができると思われていたためである。
ヘプバーンは、「アーネム音楽院」に通い、通常の学科に加えバレエを学んだ。
しかし1940年にドイツがオランダに侵攻し、ドイツ占領下のオランダでは、オードリーという「イギリス風の響きを持つ」名前は危険だとして、ヘプバーンは「偽名」を名乗るようになったという。
そしてナチの危険は、ヘプバーン一家に迫っていた。
1942年に、母方の伯父は「反ドイツ」のレジスタンス運動に関係したとして処刑された。
また、ヘプバーンの異父兄イアンは国外追放を受けてベルリンの強制労働収容所に収監され、もう一人の異父兄アールノートも強制労働収容所に送られることになったが、捕まる前に身を隠している。
連合国軍がノルマンディーに上陸してもヘプバーン一家の生活状況は好転せず、アーネムは連合国軍による作戦の砲撃にサラサレ続けた。 そしてヘプバーンは、1944年ごろにはひとかどのバレリーナとなっており、オランダの「反ドイツ・レジスタンス」のために、秘密裏に公演を行って「資金稼ぎ」に協力していた。
ドイツ占領下のオランダで起こった「鉄道破壊」などのレジスタンスによる妨害工作の報復として、物資の補給路はドイツ軍によって断たれたママだった。
飢えと寒さによる死者が続出し、ヘプバーンたちは「チューリップの球根」の粉を原料に焼き菓子を作って飢えをしのぐアリサマだった。
戦況が好転しオランダからドイツ軍が駆逐されると、「連合国救済復興機関」から物資を満載したトラックが到着した。
ヘプバーンは後年に受けたインタビューの中で、このときに配給された物資から、砂糖を入れすぎたオートミールとコンデンスミルクを一度に平らげたおかげで気持ち悪くなってしまったと振り返っている。
しかし、この時救援物資を送ったのがユニセフの前身「連合国救済復興機関」であった。
そして、ヘプバーンが少女時代に受けたこれらの「戦争体験」が、後年のユニセフへの献身につながったといえよう。
ヘプッバーンは女優の仕事から退き、後半生のほとんどを国際連合児童基金(ユニセフ)での仕事に捧げた。
ヘプバーンがユニセフへの貢献を始めたのは1954年からで、アフリカ、南米、アジアの恵まれない人々への援助活動に献身している。
また1992年終わりには、「ユニセフ親善大使」としての活動に対してアメリカ合衆国における文民への最高勲章である「大統領自由勲章」を授与された。
この大統領自由勲章受勲1カ月後の1993年に、オードリー・ヘプバーンはスイスの自宅で虫垂がんのために63歳で亡くなった。