プロシューマーの時代

アルビン・トフラーの「未来の衝撃」(1970年)や「第三の波」(1980年)がでてからハヤ30年以上がたつ。
その「未来像」と今日とを比べて、何が当り、何が外れたのか。
今一番強く思うのは、あのトフラーは、スマートフォンや携帯電話の普及を予想することはできなかった。
また、欧米の企業が「コスト安」を求めて海外へ、マシテ社会主義圏にまでに生産拠点を移したり、国内企業のサプライチェーンが新興国にまで張り巡らされるといったグローバリゼーションの進展を、予想するまでには至らなかったように思う。
トフラーは、第一の波である農業社会、第二の波である工業社会で、その当時が第三の波にあたるの1980年代が情報化・脱工業化の「入り口」にあることを明言していた。
さらにトフラーのいう「第三の波」のポイントは、産業社会(第二の波)で「分離」した生産と消費が、再び「統合」する社会への動きのことである。
トフラーは、それをプロダクションとコンシューマーを合成した「プロシューマー」という言葉でアラワした。
そして、家庭が工業化によって「外在化」してきた機能を取り戻して「家族ベース」の社会がヤッテクルことを予測したのである。
確かに、家庭が居ながらにして「職場」になる動きはスデニ起きていた。
しかしトフラーの予測で一番「マサカ」と思えたことの一つは、家庭が「生産機能」をもつことであった。
当時でも、「DIY」の普及とか、家庭菜園の可能性とか、或る程度の「在宅医療」の可能性ぐらいは、頭に描くことはできた。
しかしこの程度では「プロシューマー」とはいえるほどのものではない。
個人的には、家庭で「モノを製造する」消費者の登場をまってホンモノの「プロシューマー」登場なのだ。
もっといえば、消費者が必要なものを自分でつくる「自給自足」に近似していく社会コソが「プロシューマーの時代」といえる。
しかし、大規模生産における「規模の経済」のメリットを捨ててまで、「プロシューマー」が広がっていく可能性があるのか、ヨホド新たな「生産方式」でも生まれない限りは、「プロシューマーの時代」の「実現性」はカナリ薄いと思っていた。
しかし今年2013年になって、真正の「プロシューマー時代」への幕開けがスデニ始まっていることを知った。
さて、トフラーの予測で一つ外れたように思えるのが、「家族ベース」の定住社会というものである。
トフラーは「情報化」がすすめば、人は会社と繋がった家庭の中でコンピュータを使って仕事ができるので「在宅勤務」が増えるとした。
確かに、最先端の情報機器を備えつけた自宅で、店に行かずとも銀行に行かずとも、オンラインで繋がるので外出の必要がないし、「家庭」で過ごす時間は増える。
人々は、会社通いで満員列車の揺られることもなく「エレクトリック・コテッジ」(電子小屋)と化した家庭で「快適」な生活を営むことができる。
人々の移動は少なくなり、交通ラッシュが解消され、公的交通機関のコストも軽減するといったスマートな「未来像」であったように思う。
確かに今日、スマートハウスやスマートシティのあり方が構想されている。
スマートシティは、ITや環境技術などの先端技術を駆使して街全体の電力の有効利用を図ることで、省資源化を徹底した「環境配慮型都市」である。
この流れは、トフラーのいう「エレクトリック・コテッジ」を想起させるものがある。
しかし家庭で仕事が出来るようになったからといって、必ずしも人々が「家族時間」を増やし、地域の紐帯を強めるようになったようには思えない。
それは一部の地域でアリエても、「所得格差」の広がりがそういう紐帯を妨げているし、派遣社員や非正規雇用の増大は、人々は「移動」の度合いを高めているように思う。
つまり「ノマド的」(=放浪民的)生き方をする人が増えているということだ。
トフラーの未来像とは異なり「情報化」すればするほど、人々はかつてよりサラニ頻繁に「移動」するようになったということだ。
企業は、コストの安い海外に生産拠点を移し、その点でも人々の「移動」傾向に拍車をかけている。
それは、当時トフラーの頭にはホボなかった「携帯」という「個人メディア」の普及と関係がある。
「携帯電話」や「スマート・フォン」などの「個的」な情報機器の発達は、人が家にジットしている方向に社会を向かわせたのではなく、ますます「移動する」可能性を高めていったように思える。

トフラーのいう予測が外れたことのモウ一つは、コンピュータ社会は電子で処理されるために「ペーパーレス社会」となっていくというものである。
確かに書籍の電子化はおきているものの、「紙資源」が節約されるどころか、我々の前では膨大な数の「紙」にプリントされており、加えて「印刷ミス」をした膨大な紙がシュレッダーにかけられている。
しかし意外なことに、この「印刷技術」の新しい展開こそが、今「真正プロシューマー」の時代を拓こうとしているのである。
個人的に「3Dプリンター」という言葉を聞いたのは、今年になってからである。
プリンターというと「軽そう」な技術であるが、「3D」となるとSFまがいのトンデモナイ技術である。
我々の身近な物作りを一変させるだけでなく、産業全体の仕組みソノモノを変える可能性を秘めている。
つまり、トフラーが予測した真正の「プロシューマー」が、この技術をもって実現しそうな気配なのである。
3Dプリンターとは、三次元のCADやCGデータを元に「三次元のオブジェクト」(実物)を造形する装置のことである。
これさえあれば、誰もが簡単に拳銃、バイオリン、仏像、臓器などあらゆる本物(立体)のソックリを、パソコンと組み合わせて、製作できる装置のことである。
ところで、最初の産業革命は、18世紀後半に、イギリスの繊維工業の機械化によってもたらされた。
第二の産業革命は、20世紀の初め、フォードの自動車生産によって本格化したが、これは「大量生産方式」という新しい生産方式によって実現した。
この大量生産方式は、当初の「画一的大量生産」から、「少品種多量生産」を経て「多品種少量生産」へと進化してきた。
トフラーの「第三の波」で「第三産業革命」時代の未来の生産方式は、この多品種少量生産を超えるによるものと指摘していたた。
これは大量生産と「カスタム生産」という、それまで「相反する」と考えられていた生産方式を両立させる概念である。
カスタム生産とは、メーカーなどによって生産された商品を自分の趣味に応じて改造(カスタマイズ)することで、自分だけのものに乗りたいという顧客の要望に沿った自動車やオートバイの「改造」などによく見られるものである。
「マス・カスタマイゼーション」は、それを大量に実現しようとする概念だが、これはあくまでも「生産者側」からの視点である。
ところで「3Dプリンター」は消費者の視点のもので、「パーソナル・ファブリケーター」というべきものである。
「ファブラボ」とよばれるものがすで存在している。
最新の工作機械を設置した 「市民工房」や、その世界的ネットワークを指すもので、日本にも鎌倉・渋谷・つくばに「拠点」がある。
ここでは所定の手続きさえ踏めば、誰でも3Dプリンタやマシニングセンタ・カッティングマシーンなどの高価な工作機械を無料で使用することができ、自分の思い描くアイデアを形にすることが可能となっている。
我々が普段使用している食器や家具などの多くは工場で大量生産されて店頭で販売されているものだが、3Dプリンタさえあれば、自分でデザインした物を自分の手で形にすることが可能になる。
これにより、トフラーいうところの「プロシューマー」という個人が、「パーソナル・ファブリケーター」という手段で、自らの好みに応じて作品や製品を作れるようになってきたというわけである。
現在では、家庭用のファビリケーター(3Dプリンタ)を使って、低コストで「フィギュア」を個人的に作ったりしている人がいる。
そしてソノ可能性は、食品加工、自動車、衣服・装飾品・アクセサリーから医療、研究開発、製品のプロトタイプ、歴史的建造物、建築業、製造業までアラユル分野で対象範囲が広がる可能性を秘めている。
ヒトの細胞を使って組織や臓器の実験素材を作ったりする事例が、報告されている。
3Dバイオプリンターは、近い将来「再生医療」の現場を大きく変える可能性がある。
「臓器」もプリンタで複製できるとなると、あの中山教授のiPS細胞を使った「再生医療」とは全く異なる発想で、実現できる可能性があるのである。
日本の富山大学の研究室では、二種類の細胞をインクとして使い、紙ではなく特殊な水溶液内で血管を模したチューブを「印刷」することに成功したと報じられている。
それでは3Dプリンターとは「具体的」にどのような技術であろうか。
まず3Dプリントでは3次元の「設計図」が必要となる。
設計図は実在の物体をスキャンするか、もしくはCADやCGなどの3Dデータを基に、1回の印刷で厚さ数mm~数μmの「断面形状」を作製し、これを高さ方向に積み上げていくことで立体物を作製する。
この設計図から2次元の「層」のデータを構築し、プリンターへと送られる。
プリンターはプラスチック、カーボン、金属などの「素材」を薄い層として何度も重ね、一つの「物体」を作り上げる。
堅い製品にも柔らかい製品にも対応でき、「可動部品」を組み込むことも可能だ。
「素材」として使用されるものは各種樹脂やラバー材をはじめ、最近のハイエンド機種では金属を溶かして「射出」するような機種もある。
現在実用化されている3Dプリンタのうち、主流となっている方式の一つが過熱・溶解させた樹脂材料を徐々に積み上げていく「熱溶解積層方式」であり、5万円程度の家庭用3Dプリンタまで登場している。
パソコンでデザインしたデータを3Dプリンタに送ると、溶けた樹脂をデータの通りに重ね塗りして、アットいう間に考えた通りの「立体的」な製品を作りあげることができる。
また3Dプリント技術を使うことで、必要な製品を必要とされている場所で製作し、環境への「負荷」を減らすことができる。
とりあえずは工業製品の「試作品」を短期間にコストをかけずに作れるほか、大量生産をしなくても、様々な種類の製品を少しずつ作ることができるようになる。
個人や中小企業でも、「ものづくりの主役」となって、大きな挑戦ができるというわけである。
こうして「欲しいものは自分で作る= パーソナル・ファブリケーション」という概念が、3Dプリンタの発展とともに世界中で急速に広まってきている。
アメリカのオバマ大統領は、この3Dプリンタを1000の高校に配備する計画を打ち出している。
最新の技術を身に着けてもらい、新しい時代のものづくりの担い手を増やそうとしている。
一方、3Dプリント技術は、知的財産の分野をはじめ、多くの問題を内包している。
すでに所有している物の複製を作るのは正しい行為と言えるのか。
例えば歴史遺産や文化財も「印刷可能」となる。
3Dの物体をデザインした人々の権利は、音楽産業を悩ませている「ファイル共有」のような問題から守られることになるのか、などである。
さて、この3Dプリンタはデジタル時代の「DIYブーム」をもたらすだけではなく、「第三産業革命」の起爆剤になるかもしれない。
それほど、強烈なインパクトを持っているのである。

ところで、トフラーが予言したごとくに人々は、家庭に居住する時間が長くなって自然に「地域コミュニティ」が育っていくことを予言したが、それに近い動きとして「プロボノ」というというものが表れている。
ここ数年、日本国内でも「プロボノ」と言われる、新しいボランティアの形に注目が集まっている。
「プロボノ」とは、「公共善、公共の良きことのために」を意味するラテン語「Puro Bono Publico」に由来する言葉で、仕事を通じて培った経験や専門スキルを活かした「ボランティア活動」のことをいう。
例えば、弁護士の資格を持つ人が、地域のお祭りの運営を手伝うのは、一般的なボランティア活動だが、プロボノとはいわない。
これに対して、弁護士の人が、例えば、東日本大震災の被災者に法律相談を「無料」で行うことはプロボノと呼ぶことができる。
同じように、企業で経営戦略を担当している人が、NPOの経営戦略をサポートすることや、デザイナーとしてホームページやパンフレットのデザインを本業としている人が、NPOのホームページなどのデザインを手伝うことはプロボノということができる。
また、伝統工芸を応援するプロボノプロジェクトの実験も始まっている。
日本の伝統工芸を応援することに「賛同」する有志がプロボノで、伝統工芸の生産者に対して、新しい商品の開発や、売り方の提案をする取り組みである。
一例をあげると、カーデザインの世界的に知られた奥山清行氏が、自身の出生地である山形での活動に力を入れて、伝統工芸である東北の「南部鉄器」に着目した。
自ら立ち上げた山形工房ブランドを中心に家具(天童木工)や照明、急須等のデザインも手掛けており、シンプルな形態を保ち素材の持ち味を活かすデザインで話題を呼んでいる。
奥山氏は、日本人で唯一「フェラーリ」を手がけた人物である。
奥山氏は「地元山形の高い職人技術と工業デザインの融合をはかり、伝統工芸を今日に生かすこと実現したのである。
ところで「プロボノ」が広まりを見せる背景には、「社会的課題解決」に取り組むNPOなどの団体が育ってきており、人々の中に、そうした活動に関心を持ち、それに参加できる時間的余裕を持つ人が増えていることが挙げられる。
かつての職場一辺倒ではなく、「公共善」に参与しながらも、「自分も食べていける」というNPOの活動は、これからの人の「生き方」を考える上で関心がたかいものではなかろうか。
「プロボノ」とは、こうした働き盛りの世代にとって、日頃のビジネスで培ったスキルや経験を存分に活かして取り組むことができ、やり甲斐を感じられるボランティア活動となっている。
また、プロボノとしてNPOの活動に関わることによって、日頃会社では得られないような「経験」や「人脈」が広がる。
参加した人の人間的な成長につながったり、視野が広がったことが、本業においても「役立つ」というメリットがあると考えられる。

トフラーは人々の「定常的な」紐帯の復活を予測したが、トフラーがホボ予測しなかった人の繋がりの「あり様」としては、「フラッシュ・モブ」というのがある。
それはトフラーの「第三の波」では想定していなかったスマホや携帯、ツイッター、フェイシブックなどのコミュニケーション技術を通じて起きている「動き」である。
インターネットを通じて広く呼びかけられた群集が公共の場に終結し、あらかじめ「申し合わせた行動」を取る即興の集会である。
人々の出会いが「刹那的」「一時的」であるかろこそ面白いし、楽しいものが生み出せるという面がある。
2003年頃メールを通じて不特定多数の人に呼びかけられたもので、ニューヨークのある駅に集まってバレエダンスをして解散するという内容だった。
事前に計画が警察に知れて警戒されたことと、予想を上回る250人もの群集が集まったことにより、この企画はあまり成功しなかったが、そのアイデアはネット上の口コミで広く知れ渡り、一種の「ブーム」となった。
そして突然マクラたたきをしたりする。
このフラッシュモブの特徴は、街角で招待された「見知らぬ者」同士でパントマイムをするなど政治的なメッセージを含まない「無目的な」「突発的」「ゲリラ的」な行動を取るという点である。
「招待」といっても企画者の知人しか参加できないというわけではなく、企画者の書いたメールがメーリングリストや友人などへ転送されることによって、互いに知らない「不特定多数」の人間が参加することになる。
参加した人からは、元気とか勇気をもらったとか、何かが変えられそうだという感触を得たとか「前向きな」意見が寄せせられている。
こういうプロボノやフラッシュモブの動きなども「自前でヤル」という点で、「プロシューマーの時代」に相応しい動きではなかろうか。