日本初「ペア誕生」

1980年代以降、日本には人権の国際的潮流にオサレて女性管理職を増やす動きがおきた。
いわば「カタチ」から入ったのだが、ココ10年多くの業界で女性の視点や感性がなければ生き残れないと、「実質的」な意味での女性管理職が数多く誕生している(ように思う)。
安倍首相も、その辺ことをコノタビの「所信表明」で述べたと記憶している。
日本が「カタチ」からはいったといえば、明治の「鹿鳴館時代」を思い起こす。
いわば外国のマネゴトをしたのだが、それでも「華」とも称された日本人女性達がいた。
夜ごと、西洋の男性を相手にダンスに励んだというのだから、よほど「西洋風」がイタについていなければ、デキナイ「芸当」であったであろう。
残念ながら鹿鳴館にやってきた外国人は彼女らの踊りについてコメントしていない。
また、歴史家が彼女らのダンスを「評価」するのを聞いたタメシがない。「優しさ」ゆえにか。
もっとも、鹿鳴館を彩ったこうした女性達の中には海外留学の経験があり、アメリカの大学で学んだ者達もいた。
しかし「付け焼刃」では無理なのは確かで、ある意味彼女等の「豪胆さ」は明治の元勲に匹敵するとサエ思っている。
鹿鳴館世界に日本人女性が参加するのが至難なのは、海外経験のナサというより、もっと「本質的」なことがありそうだ。
それは、日本人には「ペア」の伝統がないということである。
それは日本人男性の側にもいえることで、映画「シャル・ウイ・ダンス」では、一人のサラリーマンが、「あの世界」に入っていく姿が描かれていた。
それは「ペア」というものにマッタク馴染んでいない男の不安と恍惚が描かれたものであったかと思う。
ところで「ペア」というのは「対」(つい)のことだが、「同族でありつつも異なる機能・作用をもつ」がゆえに「対」となる。
しかし日本の伝統文化の中で、ペアによる舞踏とか、ペアによる社交とか、ペアによる遊技とかいうものを、なかなか思いつかない。
ヨーロッパでは、中世の頃から、農民の素朴な踊りも、漁村の野卑な踊りも、貴族の踊りも皆ペアではじまった。
それは、異性のペアもあれば、同性のペアもあった。
確か、ブリューゲルという画家が、ペアで踊る農民を描いたモノがあったかと記憶している。
しかし、日本の江戸の町人にせよ、京の公家にせよ、ペアでやる踊りなど存在したことがあっただろうか。
西欧の「ペア」の思考が、ギリシア芸術ナドに顕著にみられるデザインである「シンメトリー」と、どのくらい関係アルのかナイのかはしらない。
しかし「シンメトリー」には、左右対称で描かれた「ペアの意匠」を明確に見てトルことができる。
東野圭吾原作の「白夜行」という映画は、異常な犯罪を描いたサスペンス映画であったが、その背景にある「ボーイ・ミーツ・ア・ガール」的要素は、この「事件」の異常さを吹き飛ばすほど美しいものがあった。
この映画の中では少年と少女のペアを型どった「切り絵」がとても印象的に使われていた。
少女が愛読していた本が「風とともに去りぬ」で、本の栞としてコノ「切り絵」が使われていたのである。

日本の歴史を振り返る時、最も本質的なことは、日本で「夫婦」や「男女」が果たして「ペア」として認識されていたかということである。
それは欧米諸国では、皇帝とよばれた世襲君主には「男子に限る」という枠が設けられなかったことと関係ナシとはいいきれない。
オーストリアのマリア・テレジア、イギリスのエリザベス一世、ロシアのエカチェリーナ女帝の存在をみればわかるとうり、彼らは「男の君主」を凌ぐ存在であった。
オランダのある政治家が「この世の中が、男性と女性という異なる特性からなっているならば、政治外交の分野でも、”ふたつのものの見方”は生かさなければならぬ」とマデいっている。
つまり「男と女」に優劣はなく、互いに「補完」しあって存在するという認識なのである。
またキリスト教の見方では、その相互補完を徹底させて両者を合わせて「一体」という男女観・結婚観を生み出した。
また現代においてアメリカでは、大組織のトップにでもなれば、夫婦そろってペアで社交に励むのが常識である。
SONY元会長の盛田氏が書いた「Made in Japan」に、その辺のことが書いてあった。
日本人の夫人の場合は、たとえ社長夫人であろうと「国内」にいる限り、そこまでオモテに出る必要はないのだ。
逆に出過ぎると嫌われる感じもする。つまり夫人はあくまで、「奥さん」なのである。
そういう伝統文化で育ってきた日本の女性が、突然にしてあの「鹿鳴館の華」として表に出たのは、ヨホドのことではなかったろうか。
ところで、日本でそうした「ペア」の思考が長年生まれなかったのは、「儒教」の影響であったことは否定できない。
儒教は江戸時代以来、「男尊女卑」の傾向を生んだので、夫婦も「横関係」のペアであるよりも、「上下関係」になってしまった。
そういう意識が根強くあるとなると、女性の視点や感性はスッカリ「埋もれて」しまうことになる。
そして今日、市場を活性化するなどして社会の「閉塞感」を打破する為には、「女性の感性」が必要となっていることは頷けるところである。

ところで「鹿鳴館」の華といわれる女性の中には、山川捨松という女性がいた。
捨松は会津出身だが、「敵軍」である官軍の将たる大山巌(薩摩藩)に嫁いだ女性で、大山捨松を名乗るようになった。
実は、捨松がいた若松城(鶴ケ城)に砲弾を雨アラシのように撃ち込んでいたのが、官軍の砲兵隊長・大山巌だったのである。
捨松は後に海外留学して、大山巌と出会い鹿鳴館で盛大な結婚式をあげている。
大山夫妻を見ると何か「運命の糸」のようなものを感じるが、実は、歴史的に見て女性が敵軍の男と結婚するのはムシロ当たり前に行われていたのである。
タダシその場合、女性達は「運命の糸」に導かれたといったロマンチックなものではなく、「戦利品」の一部と認識されていたのである。
歴史上マズ思い浮かべるのが、アレクサンドロス大王が行った「集団結婚」である。
征服地で、ギリシア兵士とペルシア貴族の子女との間で「集団結婚式」をやった。
自分自身もペルシア王族の女性を妻にして、広大な帝国を治めるためにもペルシア人をどんどん登用した。
ペルシアに傾いていってしまったアレクサンドロスと、これがマケドニア以来アレクサンドロスの身近にいた貴族グループとの間にシックリしない関係を生み出していく。
そのことが大王の32歳における「若死」と無関係とはいいきれないだろう。
アレクサンドロスは、ヨク解釈すればギリシアとペルシアの「民族融合」を考えたようだ。
そしてこうした「融合」によって生まれたヘレニズム文化は、インド・中国を経て日本の飛鳥文化にまで影響を及ぼすことになる。
さて、「お姫様抱っこ」とは、ローマ人の風習である。
塩野七生女史による「ローマ人の物語」は、ローマにおける「略奪婚」の事例を紹介している。
現代において「略奪婚」といえば女性が既婚男性を奪うという意味で使われるが、人類の過去の歴史を見れば、男が女を武力により略奪して「強制的」に婚姻関係を結ぶパターンが圧倒的に多い。
時代は今から2800年前、伝説ではロムルスとレムスという狼に育てられた双子の兄弟が、付近に住む羊飼い(牧畜集団)を率いてアルバ王国を滅ぼし、その後ローマの地に都市を建設した。
ローマ建設時にロムルスとレムスの関係が悪化し、ロムルスは双子の弟であるレムスを殺害しローマの初代王になる。
建国当初のローマの最大の課題は、「男集団」によって都市を建設したことから圧倒的に女性が少なく、「結婚相手」が少ない事であった。
そこで、ロムルスは「計略」をめぐらし、近くに住むサビーニ族を「祭り」に招待した。
神に捧げられた祝祭日には、戦闘は禁じられているため、サビーニ族も気を許して一家総出で「招待」に応じてローマまでやってきた。
祭りの気分も高潮した頃、ロムルスの命令一下、ローマの若者たちはサビーニの若い女たちに襲い「お持ち帰り」してしまった。
不意を突かれたサビーニ族の男たちは、妻や子供や老人たちを守って自分たちの部落に逃げ帰ることしかできなかった。
とはいえサビーニ族も、強奪された娘たちの「返還」を要求した。
それに対してロムルスは、正式に結婚して妻にすると答え、自らモ率先して「結婚式」をあげた。
それでも満足しないサビーニ族はローマに対して戦いを宣告し、両者の戦闘は、合計すれば4回にもおよんだ。
だが、4度目の戦闘の最中、強奪されていたサビーニの女たちが戦いの間に割って入った。
そして口々に、夫と親兄弟が互いに殺しあうのは見ていられないと「訴え」たのである。
女たちは、強奪されたものの「奴隷」にされたわけではなく、「妻」として相応しい待遇を受けているといったのである。
そこで、ローマの王ロムロスもサビーニ族の王タティウスも、女たちの訴えを聞き入れることが良策と判断し、二部族間の和平が成ったのである。
そして今日に伝わる花婿が花嫁を抱き上げる「お姫様だっこ」の風習は、ローマ人がサビーニ人女性を「お持ち帰り」した歴史から生まれたものである。
ところで、お祭りにきていたサビーニ人女性をローマ人の若者が「略奪」したという物語は、1950年制作のアメリカ映画「掠奪された7人の花嫁」というミュージカル映画の下地となっている。
1850年代、オレゴン山中の農場に住むポンティピー家の長男アダムが町で美しい花嫁ミリーを見つけて帰った。
六人の兄弟たちも色めきたち、兄嫁ミリーに女性交際のエチケットを仕込まれるが効果なく、兄の入れ知恵で古代ローマ人に倣って、「略奪結婚」を敢行する。
ミリーはこの蛮行に怒って男どもを納屋に追いやり、娘たちと母屋で冬を送る。
町の人々は彼らを懲らしめようにも農場と町をつなぐ一本道は雪崩で通行不能となる。
やっと春が来て彼らのもとに押し寄せると、人恋しいひと冬を離れて暮らした男女にはそれぞれ確かな感情が芽生えていた。
ミリーに子供も生まれ、六組合同の結婚式で賑やかなフィナーレとなる。

NHK大河ドラマ「八重の桜」の主人公・新島八重は1845年生まれ、つまりペリーが浦賀に来航する9年前に、会津藩の「砲術師範」の家に生まれた。
女の子として裁縫や機織りを習う一方で、薙刀や剣術を学び、父からは砲術の手ほどきを受けた。
兄・山本覚馬が江戸から「最新式の銃」を持ち帰ると、その扱いを学んで約45メートル先の的を撃ち抜いていた。
銃の重さは約12kgもあり、持つだけでもヨロメキそうな銃の重さである。
そして銃の仕組みにも精通し、男の子達にも銃の撃ち方を指導するようになる。
明治元年、鳥羽伏見の戦いに幕府軍が敗れると、藩主・松平容保が京都守護職を務めた会津藩は新政府軍から「朝敵」とみなされ、薩摩藩、長州藩などから攻撃を受けることになる。
飯盛山で悲劇的な最後を遂げた「白虎隊」で知られる会津戦争のはじまりである。
このとき、約1か月に渡る若松城での「籠城戦」には、山川捨松など約500名の女性も参加していた。
このとき八重は24歳で亡き弟・三郎の装束を身につけて「男装」し、大小の刀を身につけて七連発のスペンサー銃を手にし、身体には100発の銃弾を巻きつけていたという。
籠城した女性のなかで最初に「断髪」したのは八重であった。
昼間は兵士のために食事の用意や負傷した人の「看護」に励み、夜は刀を差して銃を携え夜襲にも参加した。
銃を持って戦ったのは八重だけだったと言われている。
最初の夫とともに「大砲」を操作しさえした。
そして戊辰戦争で会津藩は敗れ、青森県斗南へ強制移住されて最初の夫は病死した。
しかし、戊辰戦争が終って3年後、死んだと思っていた兄・覚馬が京都で活躍していることを知り京都へ移った。
その後、京都に日本初の公立女学校「女紅場」が開かれると、八重はここで英語を学ぶとともに教師として教えることになる。
当時、キリスト教に傾倒していた覚馬は、アメリカで洗礼を受けてアーモスト大学や神学校学んで帰国した新島襄に出会い、ともに同志社英学校の開設に奔走した。
そして八重は当時の京都府知事から紹介されて新島と出会う。
西洋の文化になじみ「亭主が東を向けと命令すれば、三年でも東を向いている東洋風の婦人はご免です」という新島と、男勝りで自分の意見をハッキリと持つ八重はお似合いのカップルであったといえる。
八重は、京都で初めてプロテスタントの洗礼を受けたのち、キリスト教式の結婚式をあげて新島と夫婦になる。
ふたりは、京都でキリスト教式の結婚式で結ばれた最初のカップルで、式後にふたりで同じ「人力車」に相乗りして人々を驚かせた。
男女が同じ人力車に乗るなんてあり得ない時代だったからである。
また、八重は京都で初めて「洋装した花嫁」でもあり、日本で初めて自転車に乗った女性ではないかとも言われている。
新島とともに暮らした家には、畳の部屋は作らず、寝室はふとんではなくベッドを使用した。
しかし、同志社大学設立のために病身に鞭打ち続けた新島は、48歳という若さでこの世を去った。
新島と八重との幸せな結婚生活は14年間しか続かず、その2年後には、愛する兄・覚馬も亡くした。
その後、会津戦争で負傷者の世話をした経験から看護の仕事に関心を持ち、夫の死後3か月後に日本赤十字社の社員になって、やがては「看護婦」の育成に関わった。
1887年(明治20年)、同志社が「京都看護婦学校」を設立すると、八重は助教師として教鞭をとった。
明治27年の日清戦争時には、篤志看護婦として傷病者の看護にあたり、10年後の日露戦争時にも、大阪の陸軍予備病院で篤志看護婦として活躍した。
結局八重は、夫の死後42年の間、看護婦の育成に務め、茶の湯を楽しみ、同志社の学生たちに「お母さん」「おばあさん」と慕われ、86歳で亡くなった。
ところで新島八重は、坂本竜馬に似て「日本初」と冠されることの多い女性である。
八重は、夫・新島を「愛夫」と呼んでいた。
「愛」という言葉がまだ新しく、また妻は夫の後ろにつき従うのが当然だった時代に、新島を“愛夫”と呼んで肩を並べて歩く八重は、「悪妻」と非難されることもあった。
しかし、新島は別に気にする風でもなく、八重もまたそのスタイルを変えなかった。
新島は「彼女は決して美人ではありませんが、やることが非常にハンサムです」といっている。
新島夫妻コソ、日本初「ペア誕生」といえまいか。