英語で冒険

英語が好きでも、会話は今ひとつ。しかしナントカ英語でコミュニケーションをしたい。
というわけでで英語でホームページを作ることにした。
インターネットが日本で普及した1995年前後、絶対に「英語でホームページ」を作るという大ソレタ決意をした。
性能が進んだ「翻訳ソフト」もあるそうだが、ソンナものには今だに見向きもしない。
英語でホームページを制作を始めるにあたって、一人の外国人との「めぐり合わせ」の幸運もあった。
20歳代後半に1年間アメリカで暮らしたことがあるが、サンフランシスコで知り合ったアメリカ人が福岡市南区の私の居住地の隣駅の住人となったのだ。
「ミスター」は、サンフランシスコで知り合った福岡生まれの日本人女性と結婚し、福岡市の図書館で映像や翻訳の仕事をされていた。
とりあえずトップのページは全面協力してもらったが(トップページの英語が素晴らしいと褒められるのはそういう事情があってのことです)、それ以外は自力で「英語」のホームページを作る努力をした。
モチロンかなりの「英作文力」が必要である。
大学の頃から英文はよく読んでいたが、長い英文などマズ書いたことはない。
英文が書けなければ、めざすホームページは作れないと思い練習をはじめた。
図書館を払い下げになった昭和30年代ころからの「天声人語」を10冊ほどもらいうけ、「天声人語」1日分ほどを毎日英訳してみようと決意したが、最初の頃は1時間かけて「1日分」の4分の1も英訳できないという程度の英作文力であった。
その後、少しずつ暇をみつけて「和文英訳」の練習を繰り返していった。
その約1年後には天声人語1日分をかなり楽に英訳できるようになった。
誤訳いっぱいの稚劣な英文であったにしろ、かなりスピードかあがっていったことは実感できた。
ソレに従って、ホームページのページ数も増やしていった。
そしてホボ5年間で「天声人語」10年分の「俺流」英訳を終了した。
もちろん「慣れた味のある英文」というものとは程遠いしろもので、いつも自分の英語センスのなさを痛感させられてきた。
ただ英作文を書くことによって、英文を読む時にはつねに作文を意識しつつ、できるだけ英語表現に気をつけなから読むようになったことは大変よかったと思う。
英文を書く能力を身につけるには、日ごろから英文の「音読」が大切であることにようやく気がついた。
音読の大切さを40代になって気づいたのでは少し手遅れの感があるが、個人的には「音読」は英会話のためではなく、英作文をするための基礎的な「筋肉運動」ミタイナものだった。
「音読」をいつもしていると英文を書く時に、脳裏のどこからか自然に英文が聞こえきてスラスラ書けることがある。
そのうち、我がホームページを見た外国人がワザワザ文章を訂正して正しい英語で送ってくれたこともあった。
ところで私のホームページを見て「海外から」最初にメールをくれたのは、ドイツ人青年であった。
この青年は幼い頃からネアンデルタールを遊び場にしているということで、原始時代の「旧人」の発見で有名なこの地名をメールで見た時、あらためてインターネットのスゴサを思い、しばらくは興奮さめやらぬ状態だった。
青年は、当時ドュッセルドルフに多い日本のビジネスマンの姿を見て、自然に日本文化に興味を持ったという。
エジプトのダンサーと名乗る怪しげなメールも来たし、正真正銘のアラスカのイヌイットからもメールが届いた。
また、日本の米軍基地で働く女性で、過去に日本人男性と恋に落ち、それがちょうど私ぐらいの年だったという似かよったパターンのメールが二人のアメリカ人女性からもきたこともあった。
顔が見えないということは悪くない。
この頃、遠藤周作「沈黙」井上靖「敦煌」村上春樹「ノルウエーの森」などの英語版を熱心に読んだが、英作文が本当に上達するためには一冊まるごと暗記するぐらいの「気合」が必要であるように思う。
しかし仕事の疲れもアリ、そこまでの「気合」はツイニ入ることはなかった。

私は郷土である福岡を英語で発信することにしていたが、英作文のナカデひとつの単語の「適語」が見つからずに先にすすまなくなることが、時々あった。
いつまでも言葉が宙に浮いたままの状態でどんな「訳語」を射てもマトが落ちないのだ。
瀬戸内寂聴の小説「美は乱調にあり」は、福岡県今宿出身の伊藤野枝とその夫・大杉栄をえがいた小説である。
無政府主義者・大杉栄のいう「美」は「調和」の中にあるのではなく、むしろ混乱とか混沌の中にコソ現われ出るという独自の美学を持っていた。
つまり「調和」を保障する機構としての国家に疑いをもち、ソレ反逆した大杉栄ならではの表現である。
この本のタイトルを英訳する時にこの「乱調」という言葉の「適訳語」がなかなかみつからない。「confusion」か「unharmony」とも違う。
そしてそのことを忘れていた頃、本屋でこのマイナーな本の「英訳本」が出ていたのを見つけたのだ。
驚いて題名をみると「乱調」という言葉に「disarray」という英訳語があてられていた。
「ビンゴ~」と感じイルと同時に、「乱調」の「調」の字に引っ張られて、この単語を思い浮かばなかったことを悔やんだ。
また、この単語一度辞書から「探した」ことがある単語でだったこと思い出した。
日本でセーラー服を初めて採用した福岡女学院では、初代のリー校長が、女子生徒が着物を着てバスケットなどの運動をすると服の乱れが気になるのでセーラー服を考案したのである。
この着物の乱れの「乱れ」を何と訳すかと一度悩んだことがあるのを思い出した。
悩んだあげくに「disarray」という訳語をあてたらシックリいったことを思い出したのである。
また「佐賀にわか」で知られる筑紫美主子さんが書かれた自伝「どろんこ人生」を訳すのに「Soiled Life」と訳してみたが、これでは筑紫さんの人生の「暗さ」ばかりが伝わってしまう。
「どろんこ」という言葉にはどんなに踏みつけられても明るく生きていこうという筑紫さん流生き方のニュアンスが含まれている。
しかし、それがなかなか伝わりにくいのだが、結局あきらめては「Soiled Life」の英訳で妥協する他はなかった。
福岡には663年の白村江の戦い以来、恰土城・大野城が築かれたが、こうした城は朝鮮式の山城で敵の進入を壁を廻らせて防ぐ砦にすぎない。
この城に西洋流の城である「castle」という訳語を当てはめるのはドウニモ適切ではないと思った。
そこで万里の長城が「Great Wall」ということを思い出し、恰土城・大野城を「Ito Wall」や「Oono Wall」と訳した。
実際に、恰土城を築いた吉備真備は中国への留学経験があり中国で万里の長城をみて、恰土城をつくったといわれているので、これは我ながら良いヒラメキではなかったであろうか。
福岡を英訳する中でまだまだたくさんの苦労があったが、ホームページが海外で読まれることを思い描きながら英訳を続けていくと「苦もまた楽し」という気持ちで続けることができたと思う。

英作文の修行が大きくものをいってホ-ムペ-ジの全国コンク-ルで欧州連合賞を2002年と05年二度受賞することができた。
この時、欧州連合日本支部のホ-ムペ-ジに私の作品の評価が次のような内容で掲載された。
2002年度授賞については、
//今年は、800点を越える応募作品から厳密な審査の結果、EU賞は福岡県の高等学校教諭、吉村直洋氏の作品"The Town of Kamikaze 大刀洗町"に授与された。 E-mailやインターネットは今や情報入手のため、あるいは相互のコミュニケーションを図るためには必要不可欠な手段となっている。
このような技術を駆使することは日・EU間の協力関係を強化するものであるが、とりわけ今回の賞の授与は、草の根レベルでの日欧間の繋がりや交流を深める努力を新たにする動きの中では、日本と欧州の若者の相互理解をより高めるものといえよう。
吉村氏の作品は真摯かつ教育的な手法によって、吉村氏自身の住環境を紹介している。
このホームページには大刀洗町を観光地として紹介するだけでなく、第2次世界大戦中にこの町が体験したことを改めて認識し、理解しようという努力が伺える。
平和へのメッセージが込められた2カ国語による同ホームページは、次世代への啓発になると同時に、欧州連合と欧州市民にとってはとりわけ深い共鳴を与えるものである。//
実はこの作品でコンクールに参加するにあたり、戦争中の特攻隊を扱うという「内容面」での不安が付きまとっていたのだが、実際に受賞するとマスマス不安になってきた。
多くの人々の目にさらされるからだ。
それで、この作品のネット上での掲載を辞退シタイと欧州連合の日本支部にメールしたところ、あなたの作品は各反対を押し切って「推した」作品だから、それだけの「重み」を感じて欲しいと返事が来た。
正直、ソンナ立派な作品でもないと言いたかったが、この言葉に勇気づけられたことも事実だった。
実はこの全国コンクールは、日本の各省がそれぞれが各省の趣旨に合った賞を「文科大臣賞」「総務大臣賞」「国土交通大臣賞」というカタチで出す「権威アル」コンクールである。
しかし、EU日本支部のデンマーク人に、"The Town of Kamikaze 大刀洗"の欧州連合賞の受賞については各省から議論があったことを授賞式会場で「密かに」教えてもらった。
どうりで東京お台場での授賞式では、主催者側が冷ヤヤカな感じだった。
3年後に「Ten Stories」で同じ賞を受賞させてもらったが、その評は「吉村氏の作品は、歴史上、日本の文化に影響を与えた日本人や外国人にまつわる10の話を紹介しており、このホームページには、日本の社会や歴史を世界に伝えようとする真摯な努力が伺えます。」ということであった。
学校参加を含めるとこれまで数回授賞式に参加したが、これを最後にコンクール参加を辞めることにした。
ちなみに欧州連合日本支部もこのコンクールから撤退され、このコンクール今はすっかり尻スボミの状態になっている。
受賞作品の選考がアマリニ「無難な作品」であり、日本の役所の体質をそのまま露呈した感じとなったからではなかろうか。

次に学校という職場でWebmasterをした頃の体験について敷衍したい。
1997年頃で、私がはじめてを担当した当時の勤務高校のホ-ムペ-ジは開設1ヶ月ぐらいはその存在は全く外部に知られておらず、外部からのアクセスはほとんどなかった。
そこで海外の高校にこちらのホームページのリンクをはってもらい、逆にその学校のリンクをこちらのホ-ムペ-ジに貼る、つまり「相互リンク」を通じて学校のホームページを海外でみてもらうということを思いついた。
当時、海外の学校と相互リンクを貼っている県内の学校はほとんどなく、こうした相互リンクは国際交流にも大いに役に立つはずだと思ったからである。
海外の学校にメールをだしてお願いしたところ、勤務高校の校章をトップページに貼ってリンクを貼ってくれた学校もあり本当に感動した。
さらに海外の大学にも相互リンクをお願いしたところ北京大学・ハンブルク大学・グアム大学などの一流大学も相互リンクをはってくれた。
またある日テレビで、「ペル-の日本人移民百周年」というニュ-スを聞いた。
この時ふと、日本人移民が多いペル-やブラジルの政府機関にメ-ルをだしたら勤務高校へのリンクを貼ってもらえるかもしれないと思いついた。
そこでペルーの国会図書館にメ-ルをだしたところトップペ-ジに勤務高校のホ-ムペ-ジへのリンクを約半年間、設置してくれた。
このときペルー国会図書館館長の代理の方は次ようなメ-ルを私にくださった。
//Library of the Congress of the Republic of Peru I am writing you on behalf of the Head of Library of Congress of Peru,Mr.Patricio Arande,with a view to informing you that we agree to the mutual link.Besides we advise you that we have recently celebrated the 100the Anniversary of the Japanese Immigration to Peru,reason by which,the Congress of the Republic has developed several activities devoted to said event. Similarly, we invite you to keep in constant communication with us, and we offer your students the possibility to consider our country, Peru,and the Congress as well, as one of their future destinations.//
さらに、ブラジルにあるいくつかの日本人移民団体にメールをおくったところ、「二一回生の西原(仮称)です。」という返事がきて、「鳥肌」がたった。
勤務高校のコンピューターからタマタマ出したブラジルの日本人移民団体へ出したメールが、ナントその高校の卒業生に着いてしまっていたのだ!
西原さんはビクトリア市で医師として活躍しておられ、現地の移民グループのリーダーとして活躍しておられた。この時はつぎのような返事をいただいた。
「昭和42年度卒業生でブラジルのビクトリア市に住んでいます。当地には日系人(一世・二世・三世・四世)が約1000名住んでいますが、地域社会に日本文化、伝統などを伝えるために、日本語学校、文化活動をボランテイアでやっています。詳しくはビクトリア日系協会のホームページをみてください。」
このころさらに勤務高校のホームページを学校同士の相互リンクばかりではなく、広く海外の人々にみてもらおうと、アメリカのいくつかの新聞社に相互リンクをお願いしたところ、メリ-ランド州の有力紙「The Capital」が勤務高校の紹介を新聞社のホームページにまるごと1ペ-ジを使って掲載してくれた。
また現地の新聞にも小さくであるが勤務高校のホームページアドレスが紹介されたそうである。
この時は、こちらのホームページからコピーした「美術部」の生徒の写真がアメリカの新聞社のホームページに掲載されることになった。
それは次のような内容の紹介文として掲載された。
//Visit a Japanese High School Naohiro Yoshimura is a Japanese history teacher and webmaster at High School in Japan. Naohiro recently emailed Hometown Annapolis.com to let us know more about his region and the school's website, and to exchange links:
"I am a teacher o f Japanese History and I am in charge of creating Homepage of our school. I have continued to create homepage for one year and some months with a hope of many people overseas seeing our website."
I intended to introduce not only our school but Japanese culture to the world. English teachers and students of our school are now engaging in international exchange with the world via email.
I am very fortunate if you link to us and I can set your link to us. By the way, our region, where our school is located is a well known agricultural area in Japan.
From our region, many people had emigrated to the various areas in the world since 100 years ago. So we want their children to know our Homepage because there may be a lot of information on their parent's hometown.
We hope to have our Homepage known to the world for international exchange of students and teachers."
Here is a great example of how the Web can bring people together: this Japanese High School site can be translated into English at the click of a button on its front page.
Don't miss the Athletics and Event page. where for instance, you'll learn the difference between Judo and Karate, and see pictures of the high school students engaged in the school's many sports and artistic activities. The download is a bit lengthy, but worth the wait. Our thanks to Naohiro Yoshimura for getting in touch!. //
この英文の最後にあるとおり、勤務高校のホームページは「重い」つまり読み込みに時間がかかるということを指摘されていた。
反面ペ-ジが重いからといってファイル・バイトを落として質を落としたくないという気持ちもあった。
読み込みに時間がかかるのはJavaを多く使ったページの宿命だとかんがえていたが、そんな時この新聞の紹介にあるとうり「この学校のホームページはダウンロードに時間がかかるものの、それを待つだけの価値がある」とまでいっていただいたことは大きな励ましとなった。
また最果ての地アラスカの新聞・Bush Bladeが勤務高校のホ-ムペ-ジの地元紹介の英訳部分のなかから「老松神社の祭り・鬼すべの紹介」をピックアップしてそのままホームページに紹介してくださった。
実は私は地域の祭りや行事を英訳する時に、内心「こんなロ-カルな内容を、海外で一体誰がよんでくれるだろうか?」という疑問を持ちながら英訳を行ってきた。
ところが、地球上の北の果ての新聞社が、自分が書いた英文に興味を示しそのままホ-ムペ-ジに掲載してくれたことに大変大きな感動を覚えた。
福岡県前原市の「老松神社」についての紹介が、アラスカの新聞のホームページに掲載されたのである。
掲載された文章は以下の通りである。
//"In hopes of driving bad spirits from people and protecting them from evil the annual New Year festival Onisube of Oimatu Shrine is held. About 100 men and children, conducting the ceremony, put rope (symbolizing horns) on their heads and wear red masks to disguise themselves as demons. They're lead by a man of climacteric-age also dressed like a demon and go to Kafura, about one mile from the 16th century Oimatu Shrine, to purify themselves with salt. On their way back they parade in the streets with gathering evil spirits. In the street some of the men are served enough sake to make them reel along drunkenly. In the evening they return to the shrine and try to invade its sanctuary. Here they're hindered by beans scattered by people shouting, 'In with fortune! Out with demons!' Next they try to escape into the other shrine only to be fumigated by smoke from a burning pine tree. As a result misfortune, within the town, is driven away along with demons".//
また当時の勤務高校は、全国唯一の文部省指定の高校付属博物館があることで有名であった。
そこで郷土博物館のページの相互リンクを全国の有名博物館にお願いしたところ、それらの博物館が驚くほどすんなりとリンクを貼ってくださった。
京都国立博物館・京都大学博物館・大阪大学文学部考古学研究室・国立民俗学博物館などの博物館が、勤務高校のホームページとリンクを貼って下さった。

今時、携帯やらスマホなどを使いこなす世代は、こうして日本が豊かで便利になった分、また安全な生活がある分、外国で「冒険」しようとする意欲が減退するのもわからぬではない。
このたびのアルジェリアにおける日揮の襲撃事件の被害者となった人々も、60歳以上の人々が多く若者がイナカッタのも、そういう傾向を示しているのかもしれない。
アルジェリアの首都カスバを歌った昭和の歌謡曲「カスバの女」を知り、アルジェリア独立を描いた名作「アルジェの戦い」を見てきた世代だろう。
沙漠にプラントを建設をすることに夢と誇りを抱いた人々だった。
今の若者も、海外に出るまでの意欲や勇気はなくても、海外に心を閉ざしているわけではないだろう。
国内に居ても「英語で冒険」するグライは、いくらでも体験できるということを知っていただければ幸いです。