三つ巴のビジョン

アメリカのシリアに対する「軍事介入」は、ロシアの「化学兵器を国際管理下におく」という提案をうけ、一応フミトドマルことになったようだ。
しかしオバマ大統領の「一線を越えた」シリアへの警戒意識は国際社会への脅威というよりも、「隣国イスラエルへの脅威」に向いているように思える。
かつてブッシュ大統領時代に、イラクがVXガス、生物兵器などの「大量殺戮兵器」を開発している疑いアリとして「軍事介入」に踏み切った経緯が思い出される。
要するにアメリカは「証拠不十分」にもかかわらず「軍事介入」に踏み切って、イスラエルへの「脅威」をイソギ「取り除いた」ということではなかろうか。
シリアの脅威についても、アメリカの軍事・外交における最優先課題が「イスラエルの安全保障」に思えてしかたがナイのだが、その理由を以下に敷衍したい。
さて、中東が「世界の火薬庫」といわれる所以は、ユダヤ教、キリスト教、イスラム教の聖地が「エルサレム」で重なっていることに一番の原因がある。
この「三宗教」は互いに絡み合いというのは次のようなものである。
まず、ユダヤ人の「出エジプト」や「バビロン捕囚」といった民族的体験を通じて「ユダヤ教」が形成された。
ユダヤ教は、「メシア(救世主)待望」に特徴づけられるが、「メシア待望」といっても「ユダヤ人を救うメシア」という考え方である。
それは、他の国々を征服してユダヤ人がトップに君臨デキルようなカタチでユダヤ人を救ってくれるメシアをさす。
「メシア待望」の背景には、ユダヤ人は神によって選ばれたという「選民思想」がある。
キリスト教が「ユダヤ教を母体」とするということの意味は、キリスト教徒はこの「メシア」をイエスと信じる人々だからである。
ユダヤ人が期待していた「メシア」というのは、タトエテいえばアレクサンダーのような優れた「軍事指導者」であった。
しかし、イエスにそれを期待していたユダヤ人は、イエスみずからローマの手にかかって「十字架」にカカルなどと言い出して、その「期待」を見事に裏切ってしまう。
しかし「復活」したイエスに出会ったという弟子達の間から、聖書に預言された「メシア」とは、「全人類の罪」を背負って贖った、あのイエスではなかったかという信仰が広がっていった。
そうして彼らは、「クリスチャン」と呼ばれるようになる。
つまり、ユダヤ教がユダヤ民族だけの宗教であるのに対して、キリスト教は「世界宗教」となっていくのである。
しかしその後、「イスラム教」というのが起こった。
そしてムハンマドという人が「神の声」を聞き、ムハンマドが聞いたアラーの神の言うことを自分は「正しく」聞いたのであって、これまでの聞き方は「不十分」というわけである。
そして最終的なものは「イスラムの教え」で、イエスをキリストとしては認めないけれど先行する「預言者」の1人として認める。
イスラム教徒はムハンマドが聞いた預言こそが「完全」であるとする一方、キリスト教徒からすると、イスラム教徒は、キリスト教で終わっているものに「余分なもの」をクッツケたトンデモない人々ということになる。
さて、これらの三つの宗教がソレゾレに描く「幻」(ビジョン)は、「重複」しつつも「対立」しあい、これからの世界の「行く末」を決定付けるといって過言ではない。

まずユダヤ教徒のヴィジョンからみると、それはイスラエル国家の「完全復興」である。
ユダヤ人は、おおよそ紀元1世紀ごろにローマに攻められ、以後「離散し」(ディアスポラ)国を失った。
そして長い迫害と放浪の末に、1948年に国連によりようやく「イスラエル国家成立」を認められ「復興」することができた。
これは、聖書の申命記30章ナドにあるごとくに「あなたの神、主がそこへ散らしたすべての国々の民の中から、あなたを再び、集める」という預言が実現したともいわれる。
しかし、この事実をもってユダヤ人が「イスラエル完全復興」と心底から思っているとは思えない。
それは、イスラエル周辺に「アラブ人居住区」をもち、常にテロの不安にさらされているカラではない。
ユダヤ人にとって、ソノ精神ともいうベキものが「失われた」ママだからである。
その一つはエルサレムの神殿であり、もう一つがその神殿に収ムベキ「契約の箱」である。
今エルサレムの神殿は破壊され、イスラム教の建物「岩のドーム」が建っている。
歴史上、エルサレムのユダヤ人の神殿は、紀元前10世紀から紀元前6世紀の「バビロン捕囚」まで存在した「ソロモン王の神殿」(第一神殿)がある。
バビロン捕囚後から紀元後70年のローマ帝国による破壊まで存在した「ゼルバベル王の神殿」(第ニ神殿)の2回にわたって建設と破壊を繰り返している。
しかし、ユダヤ地方は紀元60年ごろよりローマ帝国の支配を受け、ネロ帝の命をうけたティトゥス将軍は、「ソロモン第二神殿」の宝物を戦利品とし、反乱軍の指導者を捕虜にして、ローマに凱旋した。
エルサレムは「嘆きの壁」を残し、「徹底的」に破壊されたのである。
以後イスラエルは「完全に」離散するが、2000年の時を経て「イスラエル国家」が立てられたけれども、その「完全回復」のために、これから「再建」されるベキものが「第三神殿」と呼ばれるものである。
「第三神殿」の建設予定地は、古代に2回ユダヤの神殿が建設されていたエルサレムの「神殿の丘」であるが、そこは現在メッカとメディナに次ぐイスラム教にとっての第三の聖地であり、「岩のドーム」と呼ばれるモスク(イスラム礼拝所)が建っている。
ユダヤ教の「第三神殿」を建設するには、イスラム教徒にとって聖なる「岩のドーム」を壊さねばならないのである。
それではエルサレムは、イカニして三宗教にとって「聖なる地」となったのだろうか。
ところでキリスト教徒とイスラム教徒は今日の一般的なイメージと異なって、長い歴史の中にあって「対立」よりも「共存」の歴史の方が長かったということがいえる。
イスラム教徒は他の民族特に、旧約聖書に立つユダヤ教徒やキリスト教徒など「啓典の民」に対して「寛容」な政策をとってきた。
そして人頭税(ジズヤ)や地税(ハラージュ)払いさえすれば、土地から追い出されることなく、共存してきたのである。
また、イスラム教徒からみてユダヤ人は「イエス殺し」の罪などという偏見がなかったため、ユダヤ人に対する迫害もなかったのである。
このアラブとイスラエル(ユダヤ人)は、聖書によれば、アブラハムの二人の妻・サラとハガルという「女の戦い」に淵源している。
両者の祖先であるアブラハムに長年子が生まれず、妻サラ同意の下で奴隷ハガルに子を産ませたのがイシマエルである。
妻サラにイサクという子供が生まれて、ハガル・イシマエル母子は追放され、流れ流れてサウジアラビアのメッカに移り住むことになった。
そして彼らより生まれた国民は「アラブ国家」となり、イサク・ヤコブと続くユダヤ人国家つまり今日の「イスラエル国家」と、時に共存し時に激しく「対立」してきたのである。
例えば、イスラムの経典「クルアーン」はガブリエルという大天使がムハンマドに語ったことをマトメタものであるが、この大天使ガブリエルはキリスト教ではマリアへの「受胎告知」を告げた天使なのである。
またエルサレムはユダヤ教では聖なる都、ユダヤ教を母体とするキリスト教ではイエスの十字架の死と復活の聖地、イスラム教ではムハンマドが幻となってユダヤの神殿の上に現れ昇天した「聖地」となっている。
キリスト教とイスラム教徒との「対立」を引き起こしたのは、ヨーロッパ中世の「十字軍遠征」であるが、これはローマ法王庁の「聖地奪還」の呼びかけを名目としたもので、その実態は「聖地奪還」よりも途中地域での略奪行為にあふれていた。
第三回十字軍では、イスラム教徒のサラディンが捕らえられたキリスト教徒を「丁重に」扱ったことにより、ヨーロッパでイマダに「英雄」として称えられているほどである。
ユダヤ教徒は、イエスを十字架に架けた人々としてヨーロッパで「差別の対象」となってきたが、これはユダヤ人の「経済侵略」を恐れるヨーロッパ人が喧伝した考えに過ぎない。
聖書からうける「印象」は少し違っていて、ユダヤ人は「聖書の預言」にのっとって救世主を十字架の刑に処すという過ちを犯す「大役」を担った民族なのである。
ユダヤ人がもし「イエス」を十字架につけなければ、「救い」は、ユダヤ人を超えて全世界(異邦人世界)に広がることはナカッタのである。

ユダヤ人のビジョンの中で「第三神殿」に収ムベキものが「契約の箱」であり依然「行方不明」である。
この「契約の箱」には、モ-セがシナイ山で受けた「十戒」が刻まれた石板2枚が入っている。
欧米社会はシバシバ「契約社会」いわれるが、この箱こそが「その始源」であるといっても過言ではない。
「契約の箱」は、内にも外にも金が張りめぐらされており、エルサレムの神殿の「至聖所」といわれる場所に「安置」されていたものである。
イスラエル人が「戦陣」などで移動するに際には、「天幕」(移動式神殿)とともにその「契約の箱」も移動したのである。
しかし、古代イスラエルが新バビロニアのネブカドネツァルによって攻められ、BC587年にエルサレムの神殿が破壊されるに及び、その後の「契約の箱」の行方は杳としてわからなくなった。
それは、神と古代イスラエル人との「契約の証」であり、「契約書」を喪失したママであることを意味する。
この「契約の箱」が失われていることと、エルサレムの神殿が破壊されたママの状態であることは、イスラエルが「完全復興」したとは言いがたい。
さて旧約聖書には、この「契約の箱」が一時期ペリシテ人(パレスティナの語源)によって奪われた時のことが書いてある。
この出来事は、旧約聖書の「Ⅰサムエル記」に記されている。
しかしイスラエルは打ち負かされ、契約の箱はペリシテ人に奪われてしまい、その結果、「イ・カボデ」(神の栄光は去った)のである。
「主のことばはまれにしかなく、幻も示されない」(Ⅰサムエル3章1節)という「神の臨在」喪失の時代を迎える。
ただ預言者サムエルにだけは、主はご自身のことばをもって現わされた。
この時代にイスラエルの民は、他の国と同じように人間の王を求め、はじめてイスラエルに「王制」が導入されることになる。
最初の王としてサウルが立てられたが、その「礼拝態度」はキワメテお粗末だったといってよい。
そして「契約の箱」はペリシテ人に奪われたが、ペリシテ人はこの箱のために「疫病」に悩まされ、多くの者が打たれた。
そこでペリシテ人は、その箱をアシュドテ、ガテ、エクロンへとたらい回しにし、結局、神の箱は贈り物をつけられてイスラエルに送り返された。
「契約の箱」がペリシテ領内にあったのは7ヶ月であったという。
結局「契約の箱」は、奪い取ったペリシテ人には「災い」をもたらし、イスラエルはソレを「取り戻す」に及んで「力を回復」したことがわかる。
実は、世界に離散したイスラエル人12部族の中で「10部族」は、「契約の箱」同様に行方不明である。
「北王国」を構成したアッシリアに攻めらて以後10部族は行方不明だが、パレスチナに残存した南王国「2部族」のうちの一つ「ユダ族」の名前から、古代イスラエル人は「ユダヤ人」という名前でよばれるようになる。
現代社会において、アメリカやヨ-ロッパには、「シオニスト」と呼ばれる人々がいる。
彼らは「イスラエル王国」の復興を強く願っている人々で、政界や産業界でも強い影響力をもっている。
彼らにとって「契約の箱」は、イスラエル王国の完全復興のためのシンボルとして、どうしても探し当てなければならない「紛失物」なのである。
インディー・ジョーンズの映画に「失われたアーク」というのが制作されるのも、こうした意識が「底流」にあると推測される。
しかも聖書の「ヨハネ黙示録」には、ソレが見つかるカと思われる預言がある(11章19節)。
実は、中世ヨ-ロッパにおける十字軍遠征の一つの目的は、この「契約の箱」を探すこともあった。
またユダヤ人ラビのトケイヤー氏は、GHQ司令長官のマッカーサーが占領期間に「契約の箱」を日本で探す「極秘指令」を実行していることをソノ著書に紹介している。
さてイスラエルの「失われた10部族」のうちで「契約の箱」の行方を考える時、まず「契約の箱」に一番身近にイタ人々に注目したい。
「レビ族」はユダヤ社会にあって代々「祭司職」を務めた血統であり、世俗の職から離れ神へのササゲものを食することが許され、「契約の箱」を運ぶことを許された唯一の人々である。
契約の箱はレビ族以外が扱うとトンデモない事になり、最悪命さえも失うケースがあった。(Ⅱサムエル記6章)
こうした聖書の記述から「レビ族の末裔」を探すという方向性が生まれたと推測できる。
実は、「契約の箱」は、日本の神輿ソックルリの「乗せ物」で運んだということや、エルサレムの神殿の構造などが日本の神社によく似ていることを付言しておこう。

1948年に国連により「イスラエル建国」が認められた。
長年離散しユダヤ人が留守にした土地に第二次世界大戦後イスラエル国家ができユダヤ人がアラブ人を押しのける形で住み着き、「パレスチナ難民」が生まれた。
結局、国連の仲介で「ユダヤ人居住区」とガザ地区など「パレスチナ人(アラブ人)居住区」とを分けたが、地図を見るとマルデ「市松模様」のように入り組んでいて、ソノ居心地の悪さは十分に推測できる。
それでも、聖書において「イスラエルの復興」は聖書の預言の実現であり、今後の世界の流れを占う上でも、トテツモなく重大な「意味合い」を持っているのである。
これからは、キリスト教徒、ユダヤ教徒、イスラム教徒が、それぞれが預言に基づく「幻」を抱きつつ行動していて、それが大きな政治・軍事行動上の「インセンティヴ」とナッテいることを心に留めておく必要がある。
イスラエルは石油を産出国ではない。それどころか石油を産出するアラブ諸国と対立している国である。
イスラエルを支持することが、果たしてアメリカのドンナ「国益」にかなうことだろうか。
そこには「宗教的ビジョン」でしか語れない「何か」がある。
ところでアメリカには、イスラエルを支持することが「アメリカの国益」にカナウと喧伝する「ユダヤロビー」という存在がある。
一方、アメリカには、社会主義国家とのイデオロギ-対決の過程で、多くの移民を自由や民主主義など「アメリカ的価値観」のもとで統合して勝利し、今や「グロ-バリゼ-ション」の名の下に「アメリカ的価値」を世界に広げようとしている。
コレを「明白な使命」として、グローバル化を強く「後押し」しているのが、ユダヤ人が中枢を占める「ネオ・コンザーバティブ」(新保守主義)である。
そしてアメリカ的価値である産業主義・商業主義などを強硬に拒絶している「最後の牙城」が、「イスラム原理主義」に他ならない。
アメリカには、「ユダヤロビー」とよばれるAIPACとよばれる圧力団体があり、それは全米退職者協会に次ぐ「第2位の勢力」をもち、全米ライフル協会や巨大労組AFL-CIOをシノグ大きな力をもっている。
ユダヤロビーが必ずしもネオコンと一致するかといえば、そうでないケースもある。
例えば、アメリカはサウジアラビアにペルシア湾を守るために軍隊をおいているが、このサウジへのハイテク兵器の売り込みにつき、ユダヤロビーたるAIPACは反対した。
つまりユダヤ人は、サウジアラビアをたとえアメリカと「友好関係」にたっていたとしても、潜在的に「敵」とミナシテいるわけである。
しかし、ネオコンは中東政策においても「強硬派」である点で、ユダヤロビーとの結びつきは強いとされる。
さてネオコンの中東強硬策を支持するもうひとつの勢力が「キリスト教原理主義」で「キリスト教右派」とよばれる人々である。
「原理主義」はイスラムだけではなく、キリスト教にもあるのであって、むしろキリスト教の方が「本家本元」である。
「キリスト教原理主義」は聖書の言葉を文字どうりに信じる人々であるからして、イスラエルによるいかなる「領土譲り渡し」も神の御旨に背く行為であると猛反対している。
彼らは「ブッシュ再選」を支え、イラク戦争を強く支持した。
しかし、キリスト教右派とユダヤ人社会は長年「犬猿の仲」だったのだ。
キリスト右派は、リベラリズムを標榜するユダヤ人とは「国内向け」政治目標において相容れないものがアッタからである。
例えば、同性愛反対、中絶反対、公立学校での宗教礼拝など「多文化主義」に敬意を払わないは、ユダヤ人にとって容認しがたいものがあったのである。
しかしイスラエルの復興を「キリスト再臨」の前提と考える彼らは「イスラエルの安全保障」という点については一致するのである。
実はキリスト教原理主義者は、ユダヤ人のイスラエル帰還と建国(1948年)を、きたるべき「千年王国」の「前兆」とみなしており、その側面からは「シオニスト」ともよばれる人々なのである。
つまり「キリスト教右派」にとって、イスラエルという国は自分たちの「救済」と直結した極めて重大な宗教的関心の「対象」に他ならず、この一点からも「親イスラエル勢力」となりうるのである。
ブッシュ大統領は、自ら原理主義者と認めていないし、彼の政権は宗教的動機にもとずく外交政策の立案を対外的には否定している。
しかし、2003年イラク占領の開始時に米軍が最初の会議を開いたのは、イラクの「ウルという町」で、聖書によるとココはユダヤ人の始祖アブラハムの故郷である。
また、ブッシュ政権における正義か不正義か、文明か非文明かといった「二元論的」発想の中に「原理主義的」なニオイがするのは否めない。
また2000年「911」以後の動きとしての注目スベキは、約500万人のユダヤ系人口にキリスト教右派が加わり「親イスラエル勢力」が増しているということである。
というわけでアメリカの「軍事・外交政策」は、「キリス教右派」とイスラエル中心の「中東再編」を目指す「新保守主義者」(ネオコン)がキワメテ大きな影響力をもっているといってよい。
シリアにおいて、アメリカが「イラク戦争」の二の舞を踏むか否かは、この勢力の動向にカカッテいるといってよいだろう。