劇場化する街

最近見た「華麗なるギャツビー」での「めがねの看板」は、ストーリー展開の中で印象的カツ効果的に生かされていた。
特に「眼鏡レンズ」下の広告文字「神はすべてを見ている」は、その看板の目の前でギャツビーを「滅び」に追いやる「謎の」事故が起き、さらに全体のストーリーを暗示していた。
つまり広告はコノ映画の舞台装置であり、「劇」の一部を構成していたといってよい。
さて、最近の広告は単なる静止文字ではなく、街中の「動き」の中で突然に表れるというタイプが登場している。
その意味では、広告が「劇場化」している。
そういう劇場化した広告といえば、江戸時代に三井の越後屋(今の三越)がやった「動く広告」が先鞭をキッタのではなかろうか。
越後屋といえば「現金掛け値なし」という今日一般的な小売り方法を生むが、そればかりではなく新たな「広告」の方式を生んでいる。
庶民に雨の日には無料で「傘を貸す」などのサービスをした。その傘には、「越後屋」のマークが入っていたことはいうまでもない。
したがって、客も広告の「一手段」として利用されたともいえる。
さらに広告といえば、昔チンドン屋があった。
チンドン屋が、時代がかった「音色」とともに街中を闊歩する目的は「広告/宣伝」だが、アマリ「押し付け」ガマシイ宣伝は不快感を引き起こし、「逆効果」になることがある。
その点、最近の「絶対領域」を媒体とした広告は少しも「押し付け」がましさがない。
従来、広告は駅だったり、通りだったり、人がよく見るところに、大きなポスターを作るのが一般的である。
しかし、自分のことで精一杯の現代人は、街を歩いていてもそんなものはアマリ見ないと言われている。
最近は、携帯の画面を見ていたり、音楽を聴いていたりするからナオサラである。
そこで広告業界は、それでも人々の「視線」が集まる領域に注目した。
この領域を「絶対領域」というが、それはナント「女性の太もも」を指している。
一般男性の目線がツイいってしまいガチなところに広告をハルのである。
この「絶対領域」を提供すると、おおよそ1日で1000円から10000円くらいの「報酬」がもらえるという。
チナミニ、これ提供できるのは18歳以上で、最低でも8時間は広告塔になれるのだという。年齢上限がアル/ナシはしらない。
2012年の11月からこの広告はスタートしたが、すでに1400人ものひとが「絶対領域広告」として街を歩いているといわれる。
参加希望者が殺到した或る業者によれば、「高収入」だから希望者が多いというわけでもないという。
そのキーは絶対領域広告の参加資格となっている「SNS(ソーシャル・ネットワーク・サービス)への参加」にあった。
広告として街を歩き、その姿をSNSへアップすることで、SNS上での注目度が上がり、コメント数も増え「話題」になる。
つまり広告に参加するユーザーが重視するのは報酬ではなく、SNS上での「話題性」欲しさなのだそうだ。
つまり広告を貼るのは会社の宣伝だが、チャカリ自分自身を「宣伝」にも生かしているわけだ。
実際の参加者によると、何回かやると慣れるが、注目度の高さは間違いナシなのだそうだ。

サテ街が「熱く」劇場化した出来事を、歴史上ふたつほど思い浮かべた。
つまりコノ出来事には、熱い思いでコトの展開を見守る「観客」がいたということである。
その一つが、「赤穂浪士の討ち入り」である。
「赤穂浪士」の討ち入りは、突発的に起こった出来事ではない。
江戸の町人がイマカイマカと、ソノ時が来るのを首をロクロクビになるほど長く待ちわびた末に起きた見世物的出来事なのだ。
なにしろ主家の浅野長矩の切腹以来、ニ年近くも待ちわびていたのでだから、江戸市民は「待ってました」とばかりに、「拍手喝采」の思いでこの出来事を「観劇」したのである。
ということは、四十七士の討ち入りの目的は、主君のアダ討ちに加えて、そうした江戸市民(観客)の期待にもこたえねばならぬ、というヒロイズムもあったのではなかろうかと推測する。
1701年(元禄14年)江戸城松之大廊下で浅野内匠頭長矩が、吉良上野介義央に対して刃傷におよんだ。
浅野は、吉良により勅旨接待をめぐる応対のあり方をめぐり、衆人の面前で叱責をうけ、恥辱をうけたことが原因であった。
殿中での刃傷に征夷大将軍徳川綱吉は激怒し、浅野長矩は即日切腹、赤穂浅野家はダンゼツと決まった。
それに対して、吉良義央には何のオトガメもなかった。
家老大石良雄(内蔵助)以下、赤穂藩士の多くは、喧嘩両成敗の武家の定法に反するこの幕府の裁定を一方的なものであると強い不満を持った。
吉良義央の処断と赤穂「浅野家再興」を幕府に求めたが聞き入れられず、吉良義央へのアダ討ちを決定した。
アダ討ちの噂は絶えずあったのあるが、大石は、茶屋遊びなどでアダ討ちを忘れたかのごときカムフラ-ジュをおこなった末に、時を見計らい吉良邸討ち入りを決行したのである。
見る江戸庶民と見られる「四十七士」という劇的関係の中、「討ち入り」という非日常性をオビタことがおきたのであるからして、その時、江戸は劇場と化した、といってもよい。
こういう「出来事」に人々はどうして乾坤一擲の思いで見つめたのだろうか。
さて、江戸の絶頂期・元禄時代、町人文化がさかえ、「大衆社会」が日本にも勃興しつつあった。
そして将軍の異常な「動物愛護」政策や柳沢吉保らの「側用人」政治にスッカリ嫌気がさしていたのである。
そして幕府の処断に対する「反抗」を勇壮に行った「四十七士」の討ち入りに溜飲を下げた、ということである。
ところで映画の中で、赤穂浪士討ち入りの「劇場性」を示すワン・シーンをよく覚えている。
四十七士の一人が討ち入りの真最中、吉良家の隣家に「しばし、お騒がせもうしまつる」などと、断りをいれるシーンである。
実はこの映画を、個人的にカリフォルニアのバークレーの映画館で見ていたのであるが、このシーンを見ていた外国人がフキダシて笑いだしたのをいまだに忘れない。
さて街が熱く「劇場化」したモウ一つの出来事に、江戸時代の長崎の「二十六聖人殉教」がある。
この殉教の26人は、長崎で捕らえられたキリシタン達ではない。
京都・堀川通り一条戻り橋で左の耳たぶを切り落とされて「市中引き回し」となり、長崎で処刑せよという命令を受けて一行は大阪を出発、歩いて長崎へ向かうことになった。
幕府側の意図としては、多くの者の集まるころで処刑を行い、「みせしめ」の効果を高めようとしたのだが、実は人目のつく長崎・西坂での処刑を希望したのは、ムシロ殉教者の側であった。
西坂は、JR長崎駅に近いところにあるが、それはちょうどイエス・キリストが十字架で刑死したゴルゴタの丘に似ている、というのがその理由であった。
信者達は、幕府の意図とはウラハラに殉教の姿こそは、「信仰の偉大」さを人々に証する絶好のチャンスと考えたのである。
そして殉教者達のネライはマンマと当たったといえる。
この「殉教」については以下のようなエピソ-ドがある。
厳冬期の旅を終えて長崎に到着した一行を見た責任者は、一行の中に12歳の少年ルドビコがいるのを見て気の毒に思い、信仰を捨てることを条件に助けようとしたが、ルドビコはこの申し出を丁重に断った。
また信者の一人は、死を目前にして群集に堂々と自分の信仰を語った。
4000人を超える群集がそこへ集まってきて、この時長崎は壮大な「劇場」と化していた。
そして信者達は、槍で両脇を刺しぬかれて殉教した。
この事件の話は長崎に滞在していたルイス・フロイス神父によりヨーロッパに伝えられた。
この報告を受けたローマ教皇は涙を流し悲しんだ。
そして盛大な祭典をローマで行い、26名の殉教者を聖人に列し「日本二十六聖人」と称せられたのである。
こうした「苦しい」はずの殉教が、かえって「信仰者の喜び」となるという逆転は、小島信夫の小説「殉教」にブラックユーモアを混じえて描かれている。

ところで今、「街が劇場化する」ということについては、世界中でファラッシュ・モブという動きが起きている。
さて「フラッシュモブ」とは、インターネットやEメールなどで多くの参加者を誘い、街や駅、空港や公園など様々な公の場所で不特定多数の人に、ダンスなどを踊り周囲を驚かせ、目的を達成すると即座に解散するという行動である。
「ハイタッチをしよう!」とのネット上の呼びかけで、エスカレーターを上がってくる初対面の人と、次から次へとハイタッチをした。
そして45分間で、総勢2000ハイタッチが行われた。
思いがけない出来事に居合わせた人々の、朝のヨドンダ気分が「一変」したという。
今、世界各地で、日常を突然「非日常」の光景に変えてしまう「フラッシュモブ」が行われている。
広場に現れた2人の男性が突然、演奏を始める。
すると、なぜか次々に楽器を手にした人々が現れ、演奏に加わっていく。
なんと総勢60人のオーケストラによるコンサートに発展した。
そして何事もなかったかのように、全員が立ち去っていったのである。
もともとフラッシュモブは、ネットを介して見ず知らずの人達が公共の場に集まり、一定時間同じ行動をして目的を達成したら直ちに解散するというものが一般的である。
フラッシュモブが初めて行われたのは、約10年前のニューヨークである。
当時アメリカでは、同時多発テロの影響でピリピリとした空気が張り詰めていた。
ところがこの日、高級デパートのじゅうたん売り場に突然200人もの人が現れ、1枚のじゅうたんを囲んで買うか買わないか「議論」し始めた。
そして日本でも、突然バナナを携帯電話のように使う人たちや、突然人々がつながってフォークダンスを始める集団も表れる。
また、時間が止まったかのように人々が動かなくなる、次々とドミノみたいに周りの人が倒れていく。
枕を持った人々が現れ、突然にタタキ合いを始めるなどである。
この日、こうした枕たたきが世界100以上の都市で一斉に行われた。
ここ数年は、このフラッシュモブに着目した企業が、自分達でフラッシュモブを形成し、自社製品の紹介に利用することが増えてきた。
フラッシュモブが本来持っていた「アートパフォーマンス」から少し離れ、「企業宣伝」のために利用するというものもある。
飲食業界では、自社の製品を配布したり、広場でオーロラビジョンに企業名や商品などを映し出し、その前でフラッシュモブを行ったりしている。
また、ファッション業界では、自社ブランドの服を着てダンスをしたり、占拠した道路をファッションショーの会場に変えてみたり、ミュージカル仕立てのパフォーマンスを行ったりして大きな注目を集めている。
企業がこのフラッシュモブをする目的は、観衆が集まることにより、TVや新聞などので取り上げてもらうことや、また、動画サイトに投稿されることにより、二重三重の「宣伝効果」が得られることだという。
日本では、フラッシュモブを「地域の再生」に利用しようという取り組みも始まっている。
東京のベッドタウン東村山市では、一人の若者が演奏を始め、その周りに輪が出来てきて突然に踊り始めた。
フォークダンスの楽しげな様子に散歩に来ていた人たちが次々に輪に入り、つながっていく。
それではフラッシュモブに参加する人々の心理とは何なのだろうか。
或る人は「メールでの呼びかけだけで、同じ時間、同じ場所にどれだけの人を集められるかを実験してみたのです。 できるだけ多くの人に参加してもらって、とにかく楽しみたいと思ったんです。」と語っている。
また別の人は、「重要なことは、町の人たちが楽しいって言って、そこでひとつ一体感を得られて次に進むこと」という。
また、「無目的」な行動だから力があるという面もある。日常の風景がほんの数分、「別世界」に変わり、再び元の日常へと戻る。
それでも人々のルーテーン化した日常を変えることに意義があり、その「瞬間だけ」切り替えるとはいえ、結構奥深いモノを見出せそうな気もする。
ソモソモ街中(まちなか)というのは、「チラリ目線」「カメラ目線」「ヒヤリ目線」「流し目線」「熱視線」がビ-ムのごとくとびかう。
そこは「寸劇」の始まりの予感に満ちた結構アッツイところなのだ。
そういう意味でアキバのメイド喫茶などで「モエ~」などやっているのは完璧に劇化した世界であるし、バブル期に若者が踊り狂った「ジュリアナ東京」などもそんな空間ではなかったか、と想像する。
カラオケにステージがあるのも、マイクをもった「寸劇」の小宇宙である。
ある種の男性や女性にしてみれば、街中はシセンが跳びきまわる劇場みたいなところであり、マタ時には「目で殺す」ようなキラー光線みたいなものがとんでくる戦場みたいなところでもある。
さてステ-ジ上の劇を見る時に、人々はその劇を自分とは距離がある第三者的出来事であると認識する。
実際に、場面のドラマ性とは対照的な客席側のそうした「安心感」や「距離感」こそが演劇の楽しさなのかもしれない。
しかし、一旦ステ-ジをとり払った時、そこに起きている出来事は、見る側をも劇を構成する一つの要素とする。
つまり、そこに単に「見る」観客と「見せる」役者という「二極分化」とは違う何か新しい関係を生み出すというのが、一時期はやったアングラ演劇集団の実験であったと認識している。
我が学生時代に以上のような「発想」から、あるアングラ演劇集団は街中にゲリラ的に「劇」をしかけて人々の日常を揺すぶっていたということを覚えている。
これは、フラッシュモブの「先蹤」であったように思う。
ところでフラッシュモブとは違うが、「究極スリル」を味わい人のために、フランスの会社が演劇性に満ちた「誘拐サービス」を始めた。
誘拐の筋書きを詰めた後、客は契約書と免責同意書にサインし、誘拐されるのを待つ。
最大限の緊張感を得られるよう、いつ「誘拐犯」が現れるかは知らされない。
さらわれて縛られたり猿ぐつわをかませられた上で4時間監禁、という「基本パッケージ」が900ユーロ(約11万円)なのだという。
このほか、追加料金で脱走やヘリコプターによる追跡などを加えることも可能である。
サービス開始以来、1日に2件の注文が入ることもあり、客の多くはバンジージャンプやスカイダイビングでは物足りなくなった大手企業の幹部らという。
ただこのサービスで物足りないのは、ハラハラしながら事件の展開を見守る「観客がいない」ことである。

さて人間はなぜ「死を厭わぬ」ホド強く(または愚かに)なれるのか。
案外と「演劇性」と関係があるのではないのかと思ったりもする。
けして「赤穂浪士の忠義」や「二十六聖人の信仰」の人々の立派さを過少に評価スルつもりはないが、人はなぜ死をも恐れぬほど強くなれるのか、それは、物語の中に自分を位置づける「想像力」(=物語性)と、「見る/見せる」関係の中で振舞える「適応性」ツマリ「演劇性」とに関係しているようにも思う。
従ってヒロイズムなどを「虚妄」とみて、人間からそうした「物語性」(または「演劇性」)を剥ぎ取ることは、人間にとってあまりにも「酷薄」にも思える。
「演劇性」なくしては、「恋愛」なども成立しようもないのだから。
恋愛とは自分が夢見る共演者を求める行為でもある。
やはり人は、無辺際の荒野をあてもなく生きることはできないし、何の文脈もなく即物的に死ぬることもできない。
人は、生も死も「物語」に彩られていて欲しいのだと思う生きものなのではなかろうか。
ただ恐ろしいことは、「国定教科書」を使って人々のヒロイズムを刺激して「国民総演劇集団」なんてものをプロデュースしでしまうことである。
軍国主義の時代がそうであったし、役者でなくても普通の国民がソレを見事に演じきってしまうので、人間の「演劇性」とはゲニ恐るべきカナ。