「日本」見つけた

意外な場所で活躍する日本人の姿がTVで紹介されるが、キワメテ個人的に、意外なところで「日本」を発見することがある。
例えば映画「スター・ウォーズ」を見たとき、ソコに登場する「悪の権化」ダースベーダーや兵隊のヘルメットと、黒澤明の「七人の侍」に登場した野武士の冑(かぶと)が完璧に同じカタチであることを発見したことがあった。
「スター・ウォーズ」のジョージ・ルーカス監督は黒沢明監督の「崇拝者」であり、「七人の侍」を目に焼きつけるほどに見たそうだから、ヘルメットと兜が全く同じカタチになったとしても、何ら不思議ではない。
それどころか、電子に光る剣を交えて戦うシーンは、まるで「日本の時代劇」のアクションを見ているようだった。
そういえば、今から約30年前にアメリカの映画館で「赤穂浪士」を見たとき、日本人が刀を交える時のナガ~~い「間合い」が、外国人の「失笑」をサソッたりしていたが、「スターウォーズ」の中ではソノ「間合い」が割合と自然に描かれていたように思う。
「黒澤映画」以外にも意外なモノや場面で、日本人の感性や美意識が生かされていることに気がつく。
例えば、スティーブ・ジョブズが生み出したiPhoneやiPadのデザインに「日本的美意識」を感じたりする。
また最近AKB48の歌のタイトルともなった「フォーチュンクッキー」は、日本の「おもてなし文化」が生んだものであるし、世界的ブランドの「ティファニー」は日本の「伝統美」との出会いがブレークスルーの発端となったのである。

アメリカやカナダの中華料理店に行くとカナリの割合で出される「フォーチュン・クッキー」 とは、意外なことに日本人が「創案」したものだった。
お菓子の中に「運勢」が表記されている「紙片」(おみくじ)が入っているため、「フォーチュン(運勢)」クッキーとも呼ばれる。
その源流は意外にも日本の「辻占い」である。
元々の「辻占」は、夕方に辻(交叉点)に立って、通りすがりの人々が話す言葉の内容を元に占うものであった。
この辻占は「万葉集」などの古典にも登場し、似たものに、橋のたもとに立って占う「橋占」(はしうら)がある。
夕方に行うことから「夕占(ゆうけ」)とも言う。
偶然そこを通った人々の言葉を、神の「託宣」と考えたのである。
辻は人だけでなく神も通る場所であり、橋は「異界」との境をなすと考えられていた。
京都・一条堀川の「戻橋」は橋占の名所でもあった。
そして江戸時代になると、「辻占」は、お祭りや市の日に辻(交差点)に立ち、そのオミクジを小さな紙片にして、せんべいの中に入れたものが「辻占せんべい」である。
フォーチュン・クッキーとは、「二つ折り」にして中に短い言葉を表記した紙を入れた形状は、日本の北陸地方において新年の祝いに神社で配られていた「辻占せんべい」に由来するものある。
ところで、サンフランシスコのゴールデン・ゲート・パーク内にあるジャパニーズ・ティー・ガーデンは、1894年に開催されたカリフォルニア冬季国際博覧会のアトラクションとして建設され、その後恒久の庭園となった。
そして、庭園やその敷地内の茶屋を運営していたのは、萩原真という日本人移民の「庭師」であった。
萩原は、訪れた客に「お茶請け」としてこの煎餅を提供した。
博覧会の終了後 は、ゴールデン・ゲート・パークの設計者・運営者であるジョン・マクラーレンに対し、この庭園を恒久的な公園の一部にするよう提案した。
1895年から1925年まで、萩原は庭園の公的な「管理人」を務め、庭園を運営した。
萩原は庭園のために、今日庭園の名物となっている金魚や、千本以上の桜をはじめとするさまざまな動植物を日本から取り寄せている。
萩原のもと、庭師たちは庭園の拡充・整備に取り組み、現在の景観をつくり上げていった。
園内にある五重塔は、1915年のサンフランシスコ万国博覧会(パナマ太平洋国際博覧会)において、日本から送られた資材で建設された展示物を移築したものである。
サンフランシスコ講和条約を記念し「平和の灯籠」が日本から寄贈された。
「フォーチュンクッキー」は、この万国博覧会に出品されてから広まり始めた。
そして戦後、いくつかの中華料理店がこの煎餅を取り入れ、「フォーチュン・クッキー」は一般的なものとなったのである。
ちなみに、ビリー・ワイルダー監督のアメリカ映画「恋人よ帰れ!わが胸に」(1966年)の原題は「The Fortune Cookie」である。

スティーブ・ジョブズが21歳の時、友人と自宅のガレージでアップル社を創業した。
そして「アップルⅡ」は、コンピューターをテレビ並みに小型化し、表計算など使いよくしたためマイクロ・コンピューターと呼ばれて、爆発的に売り上げを伸ばした。
そしてジョブスは、これを画面にタッチするだけで済む新しい方式に変え、だれでも簡単にオペレーションができ、しかもデザインも洗練されて美しくなるようなパーソナル・コンピューターをつくることを目指した。
1982年次期コンピューター「マッキントッシュ」の開発チームを集めた合宿の席上、ジョブズは持っていた電話帳を机の上に放り投げ、「これがマッキントッシュの大きさだ。これ以上でっかくすることは許さない。ユーザーに受け入れられる限度がこれだ」とブチ上げた。
人前でも遠慮なく部下を罵倒し、出来ないものに対して容赦なく首をキル男だっただけに、スタッフは青ざめた。
しかし、その2年後に発売されたマッキントッシュは、シンプルで機能的な画面、マウスを使ったやさしい操作ができ、それに何より「美しいデザイン」が際立っていた。
ジョブズは大学卒業後、会社を「休職」してインドを放浪した時期がある。
裸足で歩き回り日本の禅に夢中になったりしていた。
当時、ジョブズはカリフォルニア州ロスアルトスの実家近くにある「慈光寺」(じこうじ)、別称「坐禅センター」に足しげく通っていた。
ここの曹洞宗の老僧に心酔し、後年自分の結婚式の「司祭」を頼んだほどだから、ジョブズがいかに「禅」に魅了されていたかが分かる。
ジョブズの実の父母は、ともにウィスコン大学の大学院生で、父はシリア系の移民である。ジョブズは、この父親をきらって生涯会おうとはしなかった。
世界的な大富豪ビル・ゲイツが、裕福な家庭に生まれて育ったのとは対照的に、ジョブズは「私生児」だったこともあって、すぐに労働者階級の家庭へ「里子」に出され、決して裕福とはいえない生活を送った。
養父母は、それまで貯めた貯金を取り崩し、ジョブズを学費が高くて有名なリード大学へ進学させるが、これに耐えられなかったのか、ジョブズは、わずか半年で退学してしまう。
ジョブズは、常に「自分を探している」というカンジだった。
彼の結婚式も葬式も、尊崇する禅僧によって執り行われた。
アップル製品やアップルという会社の「シンプル」へのこだわりは、ジョブズなりの「禅の解釈」によるものだったのだろう。
ジョブス自身、自らの「集中力」も「シンプルさ」に対する追求も「禅による」ものだと語っている。
禅を通じてジョブズは「直感力」を研ぎすまし、注意をソラス存在や不要なものを意識から追い出す「美的感覚」を身につけたといえる。
彼が日本文化のうち、侘び寂び的/禅的なものを好んでいて、手の平にノルほどの小さな製品を指向するのも、 シンプルで機能的な画面に加え「間」を重視した美しいデザインであることも、そうした「日本的感性」と無関係ではないであろう。
晩年になって、ジョブスは「僕は出家も考え、日本の永平寺へ禅の修業に行こうと思ったけれど、仕事をつづけ、ここにとどまれと導師に諭されてやめた。ここにないものは向こうにもないからって。彼は正しかった」と洩らしている。
実業家というより、モノづくりのプロフェッショナルであり、アーティストでもあったジョブズは、シンプルという美学を徹底的に追求した。
竜安寺の石庭強く心を動かされ、ファッションデザイナーの三宅一生と交流する。
ジョブズが行った最後のプレゼンテーションは、ジーパンと「イッセー ミヤケ」を身にまとって行ったものである。
2003年の48歳の時、膵臓ガンが見つかった。
早く手術を受けるよう勧められたが、自分の身体を開けてイジラレルのが嫌だと、手術をかたくなに拒否する。
いよいよテダテがなくなって手術には同意するが、ガンはすでに肝臓にも転移してしまっていた。
死をマジカにして学生たちに、次のように語りかけている。
「自分がそう遠くないうちに死ぬ、と意識しておくことは人生の重大な選択をするときの助けになる。なぜなら、他人からの期待とか、自分のプライド、屈辱や挫折に対する恐れなどは、死を前にすればすべて消えてしまい、真に重要なことだけが残るからです」と。
このように死を意識するようになったジョブズは、残り時間を惜しむかのように、あのiPhone(アイホーン)やiPad(アイパッド)の開発に集中したのである。

明治時代、東京大学のお抱え教授で大森貝塚の発見者モースは「フォーチュンクッキー」について「ある種の格言を入れた菓子」として「糖蜜で出来ていてパリパリし、味は生姜の入っていないジンジャースナップ(生姜入の薄い菓子)に似ていた。」と書いている。
さらに「私は子供の時米国で、恋愛に関する格言を入れた同様な仕掛けを見たことを覚えている。」と言及している。
モース(1838ー1925)は、ボストン郊外のマサチューセッツ州セイラムに住んでいた動物学者であった。
1877年、船で横浜に着いた彼は、横浜から東京へ向かう列車の窓から偶然に「大森貝塚」を発見した。
当初3か月の滞在予定で来日したモースは東京大学の教師となり、前後3回の来日で通算2年半滞在することになった。
この間、モースは日本の陶磁器や各種民俗資料の収集に励んだ。
彼が日本の陶器を集めるきっかけとなったのは、ある店で自分の研究対象である貝の形をした陶器を見付け、購入したことだったという。
知人から、その貝形の陶器は骨董品でも何でもない安物だと聞かされたモースは、一念発起して陶磁器の勉強を始め、日本人をシノグ目利きになったという。
なお帰国後のモースは、米国北東部セイラム市のピーボディー博物館長となり、日本で収集した民具類を展示し、異文化紹介にも尽した。
さて、日本の近代美術の「恩人」ともいうべきアーネスト・フェノロサ(1853年-1908年)は、モースと同じセイラムに住む「知り合い」同士であった。
東京帝国大学が政治学の教授を捜していることを知ったモースはフェノロサをその職に推薦した。
フェノロサは1878年に来日し、政治学や哲学の講義をするかたわら、日本絵画に魅せられ、「日本美術」の研究と収集に没頭するようになった。
フェノロサは岡倉天心らと交流し、最後はロンドンで客死したが、「琵琶湖の見えるこの地で死にたい」という遺言どうりに滋賀県大津の三井寺に墓がある。
そしてモースやフェノロサの出身地であるセイラムの近くで世界ブランド「ティファニー」は誕生したのである。
T・カポーティー原作で映画化された「ティファニーで朝食を」ではオ-ドリー・ヘップバーンが自由奔放な女性ホリ-・ブライトリ-を演じ、彼女がティファニ-のショーウィンドウを覗きこむシーンで映画は始まる。
映画では、このホリーの部屋の上にうウニヨシなる日本人が住んでいて、出っ歯とめがねでステレオタイプ化された当時の「日本人像」というものを見せ付けられのには、かなり閉口させられる。
とはいえ、ティファニー社の世界ブランドへの発展の大きなエポックは、「日本の伝統美」との出会いであったのである。
ティファニーの祖は清教徒の最も初期の移民団に属し、アメリカ・ボストン近くに居を定めるが、ニューヨークで現在のティファニー社の基礎を作ったのはチャールズで、1837年に同郷で義兄のヤングとともに「雑貨店」を開いたのがハジマリである。
店の売り上げを伸ばそうと、品物をいれ変えたり並び替えたりしたが、ある日「ボストン港」に入港する船から降おろされた「日本製」の食卓やラィティング・デスクなどの工芸品に目を奪われた。
そして店にその工芸品を置くと非常な高値で売れたのである。
これが「ティファニーと日本との出会い」の始まりとなった。
ところで、ティファニーといえば宝石であるが、この宝石は「革命」のドサクサの中で多く入手したものである。
フランスで2月革命がおこり、ヨーロッパに革命が広がりはじめると、ヨーロッパの王族・貴族は国外脱出のための資金が必要となり、チャールズは資金をすべて宝石購入にまわし、その過程で「門外不出」と通常考えられたような貴重品が次々とティファニーのものになったのである。
しかしながら南北戦争の勃発は、宝石など高級品をネラワレ易いという「危機感」を生じさせた。
東部エスタブリッシュメントとの交流が深かったチャ-ルズは、アメリカを南北に分裂セジと、パリ支店のある欧州から北軍のための「武器調達」をはかった。
銀器のかわりに剣をつくり、軍服のメダルやボタンをそろえたのである。
ところでチャ-ルズの息子のルイスは、画才がありソレナリの評価を得たのであるが、生来同じ場所にいられない性格で、室内装飾の色ガラス製作を試みる中で「ガラス工芸」に魅せられる。
そのうちジャーナリズムにとりあげられ、世間の注目をあびるようになるのだが、ルイスのガラス器は「生活雑貨」にスギズ「芸術」とは認められないと評されるや、熱がさめたように売れなくなってしまった。
この「行き詰まり」の中で、ラファージという日本を旅した最初のアメリカ人画家が、ルイスの「ガラス工芸」確立に協力したのである。
ラファージの妻は「マ-ガレット・ペリー」という名前で、その名が伝えるとおり、黒船来航のペリー提督の弟の孫という関係にあたる。
ラファージは、妻の実家で偶然にも「広重の浮世絵」を見て、すっかり日本画に魅せられたのである。
これがティファニーと日本との第二の関わりのキッカケとなった。
ラファージはボストンで岡倉天心らと交友し、日本の美は、シンメトリックではないのに「形の均衡」がとれていると評した。
ラファージとの協力により、ルイスはガラス工芸の中でも、乳白ガラスと紅彩ガラスの製造工程を「確立」していった。
しかしルイスとラファージの「蜜月」はそう長くは続かず、「製法特許」をめぐって裁判沙汰になってしまう。
そして、ティファニー・グラスというブランドは、今度はこのラファージとの「熾烈な競争」の中から生みだされたといっても過言ではない。
ラファ-ジは「日本美術」を範としてステンドグラスの第一人者として1889年パリ万博でも勲章を得たが、ガラス製品を大量生産し全米に流通させたのはルイスの方だった。
ルイスは、新しい技術者やデザイナーを招いて工場を拡充させ、ランプ類を庶民にとっても手がとどくほど安価で提供するほどの「大量生産」でコタエていったのである。
そしてティファニー・グラスは飛ぶように売れ、世界ブランドの地位を確立したのである。
もしも過去を映し出す「水晶玉」のようなものがあったならば、ティファニーの「水晶玉」の中にはメイフラワ-号の清教徒達、フランス革命の擾乱、南北戦争の戦火、そしてペリ-来航に沸く日本の姿なども映っているかもしれない。