奇跡の一枚

歴史の一枚といえる写真は、いくらでもある。
終戦直後にアメリカ大使館でとったマッカーサーと天皇が並んだ撮った写真は、新聞にのるヤ「日本の敗戦」を国民に強く印象づけた。
ゆったりとしたマカーサーと直立不動の天皇の姿が並んでいるだけの写真だが、アメリカの占領に国を明け渡すに充分な「敗戦の重み」を実感させた。
個人的に脳裏に刻まれて写真は、アメリカの報道カメラマンのユージン・スミスが撮った「水俣の母子」の写真である。
母親は、自らの母体から自分の毒のすべて吸い取って脳性マヒに陥った娘を抱きかかえ、いとおしむように見つめている。
普通なら「目をそむけたくなる」姿なのかもしれない。
しかしそこには、悲惨さばかりではなく崇高さが同居している。
他に、沖縄戦を写した写真の中にも、インパクトがあるものがあったが、誰がどのように撮ったかはわからない。
しかし「ピューリッツアー賞」を受賞するほどの写真なら、その撮影の経緯は世界に知られることになる。
それが世界に知られれば、撮った側ばかりではなく、撮られた側も、その後の「人生航路」を大きく転回させることもあろう。
例えば、ベトナムの戦場を裸で逃げ惑う「9歳の少女」を撮った写真がある。
この写真は「戦争の恐怖」と題され、全世界に配信され、1973年ピューリッツァー賞を獲得している。
少女はこの空襲で重度の火傷を負い、一命は取りとめたものの、この後17回にも及ぶ手術を受けた。
この9歳の女の子・ファン・ティー・キム・フックは、ベトナム系カナダ人で、結婚をし現在では二児の母となっている。
そして、いまや母国ベトナムを代表する国際的な反戦運動家となり、「9歳の少女」を撮ったカメラマンと、38年後の2010年に英国で再会を果たした。
フックは、キム財団を創設し、カナダ・ヨーク大学名誉法学博士、ユネスコの親善大使を務めているという。
ベトナム戦争といえば、日本のカメラマンの澤田教一の「安全への逃避」と題された写真がよく知られる。
米軍の爆撃を受けて、二人の母親とその子供達が、首までつかって川の中を渡っている姿である。
澤田氏もこの写真で1966年のピュリツァー賞を受賞したが、1970年10月28日、カンボジアの取材中に国道二号線で襲撃を受け亡くなっている。
また作家・開高健は朝日新聞社臨時海外特派員としてベトナム戦争を取材したが、その体験をもとに書かれた小説が「輝ける闇」の中に次のような言葉がある。
//徹底的に正真正銘のものに向けて私は体をたてたい。私は自身に形をあたえたい。
私はたたかわない。殺さない。助けない。耕さない。運ばない。 扇動しない。策略をたてない。誰の味方もしない。
ただ見るだけだ。
わなわなふるえ、目を輝かせ、犬のように死ぬ。//
開高氏は34歳の時ベトナムへ行き、志願して最前線へ向かった。
ジャングルのベトコン掃討作戦に同行し、200人の部隊に加わり帰還したのは、わずか17名という壮絶な体験をする。
最前線の米軍兵士は、農民なのかゲリラなのかわからないベトナム人を敵として始末していっため、結局生き残った農民はゲリラ化して北ベトナムつまり共産陣営にクミすることになる。
開高健氏が、ベトナム取材で「ホンモノ」を見たことが、心の奥に「何か」を巣食わせたのだろう。
そのことを、アノ大きな眼光の奥に時々感じるのである。

戦場カメラマンといえば、まるで自殺願望でもあるかのように「最前線」に躍り出て行ってシャッターを押し続けたロバート・キャパという人がいる。
連合軍のノルマンディ上陸のDデイを地べたからの目で写した写真はよく知られている。
なにしろ、キャパは多くの戦士たちとともに真っ先にノルマンディ上陸を敢行し、敵の砲撃を雨アラレと受けた「先頭部隊員」だったのである。
なぜソコまでするのか、そうもデキルのかということは誰もが抱く疑問だが、キャパの人生の謎を追い続けた作家の沢木耕太郎氏は、その疑問を「一枚の写真」とその前後に撮られた写真から解き明かしていった。
それが、先日のNHKの番組「戦場写真の謎」で放映され、沢木氏の推理に加えCGを用いた最先端技術をもって行った出色の「謎解き」であった。
さて、ロバート・キャパとえいば、スペイン内戦におけるワンシーン「崩れ落ちる人」は、フォトジャーナリズムの歴史を変えた「傑作」とされた。
創刊されたばかりの「ライフ」にも紹介され、一躍キャパは「時の人」になった。
何しろ兵士が撃たれ崩れる瞬間を捉えている写真だからだ。
しかしこの「奇跡の一枚」は、、コレが本当に撃たれた直後の兵士なのか、「真贋論争」が絶えないものであるらしい。
実際に私が見ても、撃たれたというより、バランスを崩して倒れかけているように見える。
ところで、沢木耕太郎氏には、「テロルの決算」という作品がある。
社会党委員長の浅沼稲次郎を刺殺したまだ17歳の少年について追跡したものらしい。
そういえば、「刺殺シーン」が見事に写真に映し出されている。
壇上にあがり浅沼氏を刺さんとする少年と、腰砕けになりながらも、なんとか刃を避けようとする浅沼委員長の表情は、どんな言葉によっても表現できない。
そして少年の動きを阻もうとする人々の姿が「臨場感」いっぱいに捉えられている。
この写真が「正真正明」の本物であることは、その周囲の人々の表情によって疑問のないところだ。
ところがロバート・キャパの「崩れ落ちる兵士」の背景には、「山の稜線」しか映っていないのだ。
ネガは勿論、オリジナルプリントもキャプションも失われており、キャパ自身がソノ詳細について確かなことは何も語らず、いったい誰が、いつ、どこで撃たれたのか全くわかっていないのだ。
そしてこの写真の謎の解明が始動した理由は、この写真が取られる直前の「連続した」40枚近い写真が見つかったことによる。
NHKの番組は、この写真はスペイン内戦時期に起きた「一瞬」であることは間違いなく、アンダルシア地方の「山の稜線」から特定するところから始まる。
真相はこうだった。
兵士は銃を構えているものの、その銃には銃弾がこめられていない。
つまり実践訓練中で、「崩落する兵士」は戦場でとられたものではなく、当然「撃たれ」て崩れ落ちたものではなかった。
それにロバート・キャパには、たえずゲルタ・タローという女性カメラマンが随行していた。
主としてキャパの使ったカメラはライカであり、ゲルダはローライフレックスを使った。
そして二人の使ったカメラの種類から、「崩れ落ちた兵士」は、ロバート・キャパではなく、ゲルタ・タローによって撮られた可能性がきわめて高いことが明かされてくる。
翻っていえば、「ロバート・キャパ」という名前はアンドレ・フリードマンという男性カメラマンと、5歳年上の恋人・ゲルダ・タローの二人によって創り出された「架空の写真家」なのであった。
そして1937年、ゲルダはスペイン内戦の取材中に、戦車に衝突され帰らぬ人となる。
戦場の取材中に命を落とした「最初の女性写真家」となる。
そして「ロバート・キャパ」という名前は、アンドレ・フリードマンという一人の男性カメラマンに帰すことになったのである。
ちなみに、タローという名前はモンパルナスに滞在していた岡本太郎の名を貰ったものだという。
つまり、ロバート・キャパことアンドレ・フリードマンを世界的有名にした「崩れ落ちる兵士」は、戦場で撮られたものではなく、撃たれた直後の写真でもなく、さらにはキャパが撮ったものでサエなかったのだ。
とするならば、キャパが憑かれたように最前線に躍り出てシャッターを押し続けたのは、ある意味「自分との決着」をつけたかったからではないだろうか。
そのキャパも、1954年ベトナムで地雷を踏んで亡くなっている。
キャパは、危険な最前線にでていかなければ、自らがバランスを失い「崩れ落ち」そうだったのかもしれない。

このロバート・キャバの生涯から思いうかべるのは「父親たちの星条旗」という映画である。
タッタ一枚の「戦場写真」が人々の運命を翻弄していく悲劇を描いた戦争人間ドラマである
原作「FLAGS OF OUR FATHERS」は、ジョン・ドク・ブラッドリーの息子ジェイムズ・ブラッドリーによって書かれた。
彼は「父の沈黙」に秘められた真実を知るため、何年もの歳月を費やし、父が見た硫黄島の真実に辿り着く。
映画「父たちの星条旗」では、敵方の砦を奪いとって旗をたてた「写真撮影」が失敗し、撮り直しをすることになった。
実際に戦ったわけでもない人々を使って写真の「撮り直し」が行われたのだが、彼等は帰還後アメリカの「英雄」として盛大な式典をもってむかえられた。
要するに皆、「偽りの英雄」なのだ。
それに上手に乗っかって生きるものもいた。
また一方でアメリカの「星条旗」の下に居住地や財産を奪われた歴史をもつインディアンの男もいた。
男は「偽りの英雄」として振る舞うことに耐えきれず、酒におぼれて暴力事件をおこしてしまう。
さて、イラクやアフガニスタンなど中近東を戦場として戦った多くの兵士が「帰還兵」として紙吹雪をもって迎えられる。
彼らは「本当」に英雄として迎えられる兵士なのだろうか。
そういえばイラクから脱出したアメリカ人女性兵士の物語もあった。
ジェシカ・リンチはアメリカ陸軍に入隊し、厳しい新兵訓練過程を乗り越え、アメリカ陸軍需品科の整備補給中隊に配属されイラクに向かう。
2003年3月23日、輸送部隊と共に前線へ向かう途中、中隊ごと南部ナシリヤ市に迷い込む。
そこでイラク民兵の待伏せにあい、激しい市街戦の末に11名のアメリカ軍兵士が命を落とす中、リンチが乗っていたハンヴィーは撃破された。
後部座席に乗っていたリンチは重傷を負って気絶し、他5名の中隊メンバーと共に捕虜となった。
付近にいたアメリカ海兵隊が救援に向かったが、民家で発見したのは彼女の血まみれの軍服だけだったという。
その後、アメリカ海兵隊・アメリカ陸軍レンジャー部隊による共同捕虜救出作戦により、イラク民兵司令部と化していた病院より救出される。
同時に、特殊部隊は整備補給中隊9名の遺体を回収した。
彼女の「救出時」の映像はアメリカを始め、全世界のニュース番組で放映された。
「ワシントン・ポスト」紙は、彼女は弾薬を使い果たすまで勇敢に応戦したと伝え、「セイビング・ジェシカ・リンチ」というテレビ映画まで作成された。
その結果、リンチはアメリカ軍の「戦意高揚」に貢献し、戦争支持者に勢いを与えることになった。
「パープルハート章」トヤラを授与されるリンチだが、救助された病院にイラク軍が居なかったことから、イラク兵からの取調べの際に殴打などの暴力を受けたとの証言も疑問が投げかけられている。
救出された時のリンチは、脊髄の手術をしなければ歩行困難となる状態だった。
そして彼女が手術を受けている間、「美談」を求める政府とマスコミの相乗効果により、神話は創られていった。
しかし彼女は、事件の詳細はわからぬまま数ヵ月後に除隊している。
結局、「父親達の星条旗」のような映画が作られるのも、「アメリカの正義」についての疑念と分裂があるからではなかろうか。
そしてそいう「疑問符」こそが、マタ新しい「物語」を生み出す土壌となっているといえる。

夏がくるといまだに思い出す。
1969年8月17日、松山商業と三沢高校の決勝戦。
延長18回の死闘で0-0のまま決着がつかず、翌日に再試合が行われれ、松山商業高校が4-2で三沢高校を破り優勝した。
太田幸司は甘いマスクで甲子園のアイドル一号となったといってよい。
1970年、近鉄に入団し、実績もなくオールスターゲームに選ばれたりもした。
その後、巨人から阪神に移籍し、1984年に引退した。
プロ通算58勝85敗4セーブで、プロ選手として大きな活躍をしたとはいえない。
大田幸司の勇士は、甲子園のマウンドでのシーンに「止まった」ままそれ以上は伸展していない。
ビデオで録画することさえホトンドなかった時代だったから、何度もあの試合の「延長16回」と「延長17回」の経過を反芻して 心に刻んだ。
つまり、人々の中で「永遠化」しているといっても過言ではない、
ところで、三沢高校ではこの歴史に残る試合を記念して、「顕彰碑」を建てようという動きが起こった。
しかし、当時の校長は、この碑に野球部員たちの「名を刻む」ことに反対した。
あの延長18回という試合の「重荷」をこれからズット彼らに負わせてしまうことになるという判断からだったという。
実際に、両校球児の「その後」を追跡した本がある。
決勝で太田が対戦した松山商業・井上投手は、その後、朝日新聞社大阪本社にはいり、時々新聞でおめにかかる。
松山商4番の谷岡は阪急プレーブスに入るが、通算成績1割4分三厘で11年間のプロ生活を追え、地元の工具店で営業部長をしている。
5番の久保田は駒沢大学野球部へ入り、同期には巨人の中畑がいた。
腰痛で野球人生を終え、大卒ながら板前の仕事をしたが、地元の会社員となった。
三沢高校の方は、地元の役場や農業組合に就職し地道な道を歩んだものもいる。
一方で「プロ挑戦組」では、四番打者の桃井が日大野球部を中退し、五年間三沢高校の監督をして、後整体クリニックを開業している。
一番打者の八重沢は東映に入団し、近鉄にトレードし実績を残せず退団し、その後運送業などをしている。 家族と離散した者、すでに物故者となった者もいて、それぞれの人生は平坦ではなかったことがよくわかる。
つまり「あの日」の試合に出場した選手の卒業後の人生は、うまくいった人もいれば転落してしまった人もおり、歳月の長さを感じさせる。
三沢高校には、選手の名を刻まなかったものの、試合を顕彰する記念碑は建てられた。
「写真」も「銅像」も、アル限定した時間(一瞬)を永遠化しようとするものである。
若い「栄光」をソノママ人生の結末にまで持ってはいけないことはいうまでもない。
反対に人生にクルイを生ぜしめることもある。
あの試合後の感動の余韻の中で、アエテ「若者の名を刻む」ことを拒否した校長の「見識」こそナカナカだったと思う。
スペインのアンダルシアの山坂でバランスを崩した兵士の写真が「奇跡の一枚」となって、一人の男の生のバランスを崩させるというのも、何かとてもチグハグでイビツな世界を思わせる。
また、それに近いことは、多かれ少なかれ、地球上のドコカで今でも続いている。
それにしても、「ロバート・キャパ」によって撮られたという、あの「バランスを崩した」兵士はどうなったのでしょうか。