出会った芸人達

古(いにしへ)の時間が集う場所を見つけた。
そこには、今まで見たこともなかった楽器が息するように収まっていた。
10年ほど前に勤めた職場に民間の「雅楽演奏団」のメンバーでおられる方がいた。
ある日、福岡県春日市にある御自宅すぐ近くの「雅楽所」(筑紫楽所)に連れて行ってくださり、様々な「楽器」を見せていただいた。
雅楽は日本古来の宮廷音楽であるが、はじめて目にする楽器に雅楽に対する興味が一気高まった。
それらの形状と色合いは、エキゾチックな雰囲気を漂わせており、その奏でられた音色をゼヒ聞いたいと思うようになった。
雅楽の公演を見るため、日をあらためて「筑紫楽所」を訪れた。
その時、楽器の演奏である「雅楽」ばかりではなく踊りの部分である「舞楽」も合わせて見て、このような雅(ミヤビ)な世界があるものかと、目が眩むほどの「非日常」を浴びせられた。
その翌年、たまたま日本古代の渡来人・秦氏ゆかりの地で瀬戸内海に面した赤穂近くにある坂越(さこし)という港町を訪れた。
坂越は秦氏が日本に渡来した際に「上陸」した地点といわれ、聖徳太子のブレーンとなった秦河勝が太子の死後、蘇我氏の追及を逃れて避難した場所でもある。
大避神社の境内に坂越の「船祭り」で使う船が奉納してあった。
その「説明書」に意外な名前を見つけることができた。
日本で、秦氏からいくつかの氏族が分れたのだが、その一つが東儀氏である。
この時、近年NHKの「雅楽」演奏でしばしば登場される東儀秀樹氏が「秦氏の子孫」であることをハジメテ知った。
さっそく東儀秀樹氏のホームページを開くと、東儀秀樹氏が長年夢見ていた自分の祖先である秦河勝の墓を訪れ、ソノ目の前で雅楽を奉納することがついに実現した時の「思い」が記載してあった。
ところでこの坂越という港町のすぐ前方には、生島という小島が浮かんでいる。
この生島は秦河勝の墓があるところで、対岸の大避神社には秦河勝のマスク(お面)が保存されているのである。
写真で見ると、そのマスクは鼻梁の特徴などから中近東ペルシア人の顔の特徴を著しくもつものであった。
(例えば、ダルビッシュ有君の顔を思い浮かべてください。東儀秀樹氏と似ていませんか)
「雅楽」のルーツを調べると、中近東のペルシアあたりからの流れと中国からの流れとがあるという。
秦氏は「中国名」なので中国からの流れかと思いがちだが、そのマスクからみて「中国経由」だとしても、さらに溯ればそのル-ツはペルシアあたりにあるのではないか推測したのである。
「和風」や「和洋」が生まれる前の日本の古代文化は、我々が想像する以上にコスモポリタンなのではあるまいか。
つまり、日本は東の極限に位置し、様々な「時間」が集う場所だったのだ。
そのことを示す最大の証拠は奈良の正倉院にある。
正倉院の御物は、中国・朝鮮の宝物ばかりではなく、シルクロードをつたわってきた中近東ペルシアの文物も含んでいる。
この「正倉院御物」の多くは聖武天皇の「遺品」だといわれている。
正倉院は、古楽器の宝庫で、方響 (ほうきょう)、箜篌(くご)、 阮咸(げんかん)、瑟(ひつ)、 竿(う)、排簫(はいしょう)、大篳篥(おおひちりき)などが御物として残っている。
聖武天皇は、古代国家が氏族の闘争により分裂しかかった頃、仏教の力で国を治めようと国ごとに国分寺をつくらせ、全国各地にある国分寺のセンターとして奈良に東大寺をつくったのである。
752年、東大寺大仏の「開眼式」では、僧正が手にした筆から長く伸びた紐を聖武天皇・光明皇后などが手でもって大仏に目をいれたのである。
そしてその式典は同時に日本国主催による「国際音楽祭」の様相を呈したのである。
日本ではあるコンサートホールが建つとその建造物の権威を高めるために、一流のオーケストラなどが招かれ演奏会がおこなわれる。
ちょうど東京丸の内の日生劇場で、ベルリン・オペラが開催されるといった具合である。
東大寺の完成式(開眼式)では、アジア各国の楽人達が独自の演奏をおこなったのである。
この時、私が福岡の筑紫楽所ではじめてみたエキゾチックな楽器(またはその原型)が奏でられたと思うのである。
そして日本で「琵琶」とよばれる楽器も、そのルーツはペルシアあたりにある。
そして、「筑前琵琶」の奏者である青山泰子さんに会いにいったことがある。
図書館でたまたま「女達の時代」(葦書房)を読んでいたところ「筑前琵琶のホープ青山泰子」というページが目にはいり、その女性のプロフィールを読むと、私が当時勤務していた学校の卒業生であることがわかった。
そしてこの方のことを調べてホームページに紹介しようと思い立った。
インターネットでさっそく「青山泰子」を検索したところ、その約半年前に青山さんが久留米の水天宮で演奏会を開かれたことを知った。
水天宮にさっそく電話して、宮司さんから演奏会の時のパンフレットを送ってもらえないかとお願いした。
そしてそのパンフレットの内容から青山さんの連絡先と「筑前琵琶保存会」の存在を知ることができた。
おそるおそる青山さんに電話したところ、「明日、大濠公園・能楽堂で演奏会があるから見にいらっしゃい。受付で名前を言えば入れてあけるから。」という返事をいだいた。
年1回だけの大きな演奏会というのに、我ながらタイミングのよさに感心してしまった。
また筑前琵琶のことを調べていくうち、女優・高峰美枝子の父が博多の対馬小路出身の高峰筑風であることを知った。
対馬小路といえば、オッぺケペー節で一世を風靡した川上音二郎の生誕地でもある。
対馬小路は対馬と縁がある場所であり、この辺りの博多の芸能は、アジアとの繋がりを感じさせられる。
ところで「筑前琵琶」の歴史は古く奈良時代に遡る。
創始者の玄清法印は太宰府近くに成就院を建て、この寺は現在福岡市南区高宮に移転している。
今日、寺の境内には「筑前琵琶の碑」がたっている。

博多の地は古来より様々の芸能と深い関わりをもち、その芸能を際立たせるための周辺の人々がいた。
このことが現在でも多くの芸能人を生んでいることと無関係ではないであろう。
博多が古来アジア大陸に開かれた港町とし発展したため、「発祥之地」を示す石碑に数多く出会うことができる。
「お饅頭発祥」の地、「博多織発祥」の地、「蕎麦饂飩発祥」の碑・「独楽発祥」の碑・「ういろう伝来」の碑・「山笠発祥の地」碑・「九州鉄道発祥の地」碑などなどである。
そしてなんといっても「扶桑最初禅窟」聖福寺である。
つまり聖福寺は、日本で最初の禅寺である。
また、この聖福寺は近代において「教楽社」という施設をもち九州初の「活動写真」の上映場ともなった。
そのせいなのか、福岡市には早くから映画館が立ち並び、全盛期には中洲だけで29もの映画館がヒシメイていた。
映画の人の入りは看板の出来によって左右されたので、たくさんの「看板絵師」が競い合っていた。
その中でも飯塚出身の城戸氏久馬之進氏の看板技術は「最高峰」といわれ、その絶頂期には全国から訪問者多数あったほどでったという。
また近年、福岡出身で再評価を受けている人物が、「ブルースリーを撮った男」西本正である。
ブルースリー主演の映画「ドラゴンへの道」のイタリア・コロッセウムにおける約15分にもおよぶ格闘シーンはブルースリーの映画の中でも圧巻であった。
このシーンをとったのは日本人カメラマン・西本正である。
西本正は1921年2月、現在の筑紫野市に生まれた。
少年時代を満州ですごし、満映の技術者養成所に入った。
1946年、敗戦とともに日本に帰り、日映の文化映画部をへて、1947年新東宝撮影部に入社した。
新東宝で西本は、中川信夫監督作品などの撮影監督をつとめ1950年代には香港へ渡り、以後ブルースリーの映画の撮影などを行った。
香港に渡った西本正は、日本の高度な映画技術を伝達し「香港カラー映画の父」とも呼ばれた。
実際に香港映画の中で特にキョンシーが登場するホラー映画などに多用な「特撮技術」が使われているのは、この西本正の撮影技術の影響が大である。
ブルースリーを撮った男・西本正は、実は日本のホラー映画の撮影でも「新境地」を開いた人物でもあった。
新東宝の中川信夫監督の下で撮影したホラー映画の傑作「亡霊怪猫屋敷」(1958)や「東海道四谷怪談」(1959)にもこうした技術が存分に生かされており、「怪談特集」の映画祭では、もはや「古典」というべき存在となっている。

古来より博多は商人の町であった。
そして、平清盛が太宰大弐として博多にいた時代から日宋貿易が大発展し、中国の先進文化の波に洗われた「最前線」の町だった。
そうした旧き歴史をもつ誇り高き博多商人にとって、豊後中津から黒田氏を新たに藩主として迎え入れることは、ある種の「屈折」を生じたとしても不思議ではない。
特に近松門左衛門作の歌舞伎の定番「博多小女郎浪枕」の材として、今も語り継がれる伊藤小左衛門の話は、そうした「屈折」を生む大事件となったのである。
1667年博多の豪商、黒田藩に多大なる功績を残した御用商人伊藤小左衛門は、黒田藩の藩経営上の「支え」として密貿易を行ってきた。
それにもかかわらず、密貿易が発覚するや藩から見放され、徳川幕府の「密貿易取締り」の見せしめとして、幼子を含めた一族郎党、使用人を含めた多くの人々が処罰され、その数は270人にも上った。
この時、共に処刑された幼児・小四郎と萬之助を不憫に思った博多の人たちが祀った神社が呉服町の万四郎神社である。
古代より博多商人は、海の向こうに大いなるロマンを求めて駆け回っていたのが、幕府に睨まれるのを恐れた藩役人達の保身によって、その翼を矯(た)めなければならなくなったのである。
福岡の中心を流れる那珂川から東を福岡ではなく、依然として「博多」とよび慣わしたのは、そうした博多商人の矜持を感じさせるものがある。
「博多にわか」は、商人達がお面をして顔を隠し藩役人の失策などを軽い「笑い」にしたところから生まれた。
「博多にわか」で使われるお面は、垂れ目でトロンとしているところがなんともいえない。
そしてこのお面こそは「屈折感」よく表しているように思える。
また藩に対しても、博多商人にその程度のカタルシスを認めさせたのは、あのナントモいえない「お面」の表情が成せるワザなのかもしれない。
大いなる自由への憧れとその挫折と屈折、これが博多の芸能人のエネルギーではあり、それは現代にも通じているのではあるまいか。

そして「博多にわか」の芸風は隣の県にも飛び火した。
一昨年の11月 「佐賀にわか」の第一人者、筑紫美主子さん(90)が、佐賀市で「筑紫美主子芸道75周年記念公演」を開いたというニュースを聞いて驚いたというより、衝撃をうけた。
あれから15年、マサカ活動を続けておられるとは!
もうひとりの森光子さんが佐賀にもおられた。
実は今から20年ほど前に筑紫さんに、(取材と称して)アポイントをとって息子さんっともにお会いしたことがある。
当時、筑紫美主子一座は、玄海灘に面した福吉ビーチホテル近くの「玄海温泉センター」をホームグランドにしていることを聞いていた。
ホームページにぜひとも筑紫さんを紹介したいと思ったが、資料が乏しく直接御本人と会って話を聞く他ないと思った。
福岡市・姪の浜から唐津に向かう筑肥線のJR福吉駅近くで道行く人に筑紫さんの家を尋ねると、筑紫さんの息子さんが住職をしている愛仙寺がお住まいであることがわかった。
さっそく愛仙寺を訪れたところあいにく筑紫さんは不在であったが、お弟子さんが、筑紫さんの自伝「どろんこ人生」を貸してくれた。
そして私はこの本を読んではじめて筑紫さんの生い立ちと人生を知った。
 筑紫さんは大正12年旭川生まれで父はロシア革命を逃れた白系ロシアの軍人、母は佐賀生まれの日本人であった。
筑紫さんは三歳の時、母の親戚で佐賀に住む古賀佐一氏の家に養女に出され、養父母の愛情に育まれながらも混血児として差別に苦しみ続けた。
18歳で幼い頃より習い覚えた踊りをもとに「佐賀にわか」の世界に入り、20歳年上の古賀義一氏との結婚を機に一座を結成し、夫亡き後は文字どおり女座長として東奔西走の活躍をしてこられた。
 最初の訪問から約1ヵ月後、今度はアポイントをとって筑紫美主子さん宅に伺ったところ、息子さんと共に会っていただいた。
そして寺の裏の地下にある大仏のところに連れていってくださり、こわれかけた鳥居をみせてくださった。
この鳥居は天神にあった伊藤伝右衛門・柳原白蓮夫妻の邸宅(銅御殿とよばれていた)の鳥居だったが、銅御殿が火事で全焼し、次にここに住みついた人が、この鳥居で子供か怪我するといけないから筑紫さんにひきとってもらえないかという話かあった。
筑紫さんがその鳥居を見にいったところ、そこにほられた製作者の名前から、筑紫さんの亡くなったご主人の実家(佐賀市蓮池の石屋)でつくられたものであることか判明した。
その「奇縁」に驚いた筑紫さんは、自宅にこの鳥居を大切に保存することにしたそうである。
初対面の筑紫さんは、つつみこむようなあったかさの中にも、どこか凛としたものを感じさせられる方で、以上のような話をかみくだくように話してくださった。
その2ヵ月後、メルパルクホールでの「筑紫美主子60周年記念公演」を見に行った。
「案山子」と題した公演で出奔した息子と親との情愛を描いた舞台で、おかしくてどこか哀しい、ひきこまれるような舞台であった。
そしてメルパルクホールを超満員にした筑紫さんの人気の秘密を初めて知る思いであった。
かつて自宅を訪問した時には筑紫さんはか細く歩くのがやっとといった感じであったが、舞台では別人のように迫力があり動きも機敏であった。
芸人魂のすさまじさに感嘆した。
筑紫美主子(本名;古賀梅子)は、1925年北海道旭川で産まれた。
父親は亡命白系ロシア人、母親は日本人女性であった。母親は、父親との別離の後、人目をはばかり娘を「捨て子」ということにして佐賀に住む伯父夫妻に預け、そのまま姿を消した。
梅子と命名された筑紫美主子は、両親の顔も知らぬまま、養父母のもとで育てられる。
青い目をした赤い髪の女の子。周囲の好奇の目にさらされつづけた。
小学校6年生の頃、学校から佐世保に戦艦「陸奥」を見に行くが、筑紫さんには外国人の血が流れているという理由で、立ち入りを拒否された苦い思い出もある。
筑紫さん12才の時、養父が知人の保証人になったため差し押えられ破産し、家からがおいだされた。
農具小屋を立て替えて生活をはじめるが、事業に失敗して台湾から帰国した養父の弟家族も加わり、2家族9人が狭い農具小屋で生活することになった。
この頃、家は極度に貧しく、子供達は暴れる、病人は苦しむで、まさに修羅場のような生活あったという。
ある時、筑紫さんが口に入れた漬物を、男の子が口をこじあけて奪い取ったこともあった。彼女は食べ物を二度噛むことができなくなったという。
1935年、働きづくめの養母を失う。筑紫さんは養父母のもとで踊りを習っていたが、亡くなった母親の願いをうけて14歳で踊りの師匠となる。
1937年、日華事変が起こり、戦火は激しさを加えていった。戦争中は誰よりも「日本のために」という願いが強かったのに、「青い目」の筑紫さんはスパイ扱いされ尾行がついたという。
筑紫さんは1940年、旅芝居劇団の古賀儀一と結婚した。
周囲は年も離れ生活が不安定な儀一との結婚には反対であしたが、筑紫さんは儀一氏が彼女をけして「特別なもの」として見なかったことに安らぎを覚えた。
そのうち皇軍慰問団の一員として銃弾飛び交う最前線へと送り込まれることになった。
映画スタ-や有名歌手は高級将校などのいる比較的安全なところに送りだされたが、筑紫さんらの無名村芝居劇団は一番危険なところに送られた。
1941年難産の末、男の子が生まれる。しかし大分巡業中、生まれてまもない男の子は白髪染め用の劇薬を飲んでしまう。
病院に運ぶが軍医は戦争にいって不在、しかも洪水で交通機関は不通となっていた。
筑紫さんは、ひたすら神仏にすがる他はなかった。
たまたま、お年寄りが卵の白身を子供に飲ませると子供は黒い塊を続けざまに吐き出し命をとりとめることができた。
筑紫さんはこの出来事以来、仏門とのえにしを結んだという。
筑紫さんは「娘時代、恋に破れて堀に飛び込み命を長らえました。
その前に、父のいない混血児として生まれ、父と母に拾われて育ちました。そして自分の産んだ子が旅先で命を救われました。みんな神仏のおかげです。
50まで役者の仕事をしましたら、髪をおろして仏門に帰依したいと、その時心に誓ったのです。」と書いている。
1968年福岡県二丈町に愛仙寺を建て、一命をとりとめた息子が先に得度しこの寺の住職となった。
彼女は夫・儀一と1960年に死別し、38歳で一座を率いて「佐賀にわか」を演じて各地を旅してきた。
筑紫美主子は、苦難に満ちた自分の体験を逆手にとってそれを芝居に生かした。
ロシアの血をひく筑紫美主子一座による「佐賀にわか」は単なる滑稽劇ではなく哀感がただよう劇に生まれ変わった。
愛仙寺には地元の作家・劉寒吉の歌碑が立っている。
「をみなあり 肥前の国の肥の女 かなしからずや ひとをわらわす」