アメリカの「免罪符」

先日、新「駐日大使」にケネディ元大統領の娘・キャロライン氏がきまった。
ケネディの名は日本人にとって親しみがもてるが、かつてのモンデエール氏(後の副大統領)のような「政界の実力者」が駐日大使になることはモハヤないのだろうか。
「ケネディ」の名前に、アメリカの「昔日」に思いが至った。
アメリカは清教徒の国のせいか、ドコカに「原罪」意識を秘めた国であり、そのことが時折にアラワレルことがある。
アメリカは建国以来、「リメンバー パ-ルハーバー」の合言葉でハジメテ一つになったといわれている。
逆にいうと、パールハーバーがアメリカ国民の「負の琴線」にフレタということである。
嘘のようで本当の話なのだが、1939年オ-ソンウエルズの語りで「ニュ-ヨ-クが異星人に襲撃されている」という臨時ニュ-スで始まるドラマの放送を流した時、ニューヨーク市民はすさまじいパニックに陥ったそうだ。
アメリカが異星人に襲われる、言い換えるとアメリカが異文化の人間に蹂躙されるというのは、あの大国にして自らの「原罪」ゆえか、宿痾のように付きまとっている不安なのである。
世界一の「大国」でありながらもナオ、自分達がやったのと同じことを、逆にヤラレルのではないかという「恐れ」を抱いている国なのだ。
アメリカは、コロンブスの新大陸発見以来、ソノ地にもともと暮らしていた「アジア系住民」を殺戮したり追い出したりしたりして、清教徒(ピューリタン)が建国した。
そこから黄色人種がアメリカに禍(ワザワイ)をもたらすという恐れツマリ「黄禍論」が、しばしば表面化することがある。
日本の高度経済成長の時代にアメリカで映画「猿の惑星」が作られ、また「メイド・イン・ジャパン」の家電製品がアメリカで氾濫し始めた頃、「グレムリン」がつくられた。
彼らの襲撃や悪戯が、アジアにある一国のオボロゲな影を全く意識してはイナイとは言いきれない。
なぜなら戦時中から日本人は「イエロー・モンキー(黄色い猿)」「リトル・イエロー・デビル(小さな黄色い悪魔)」などと呼ばれていたからだ。
「リメンバー・パールハーバー」にアジをシメたのか、その後のアメリカは自らの価値に「対抗」する如き「敵」を絶えず探し「創出」することによって国をカタメ国力を増大させてきた。
それがソ連でありイラクであり、最近では北朝鮮であるかもしれない。
ソ連が崩壊後、「アメリカの敵」捻出の焦点がボボケ始めると、「エイリアン」「ET」「未知との遭遇」など敵を地球人ではなく「異星人」に対峙した映画が作られた。
そして、この頃からアメリカははじめて「異星人」との親善・友好を描き始めた。
それは長年、緊張関係にあったソ連び崩壊に続く社会主義圏の崩壊による「余裕」の表れだったカモしれないし、また「世界平和」をそこに仮託しようとした願いがあったカモしれない。

1945年8月6日広島に、3日後に長崎に原爆が投下され、1950年時点で合計約30万人の人々が亡くなった。
広島の「原爆ドーム」としられている建物は世界遺産として多くの外国人観光客がここを訪れている。
実は、原爆ド-ムはもともと広島物産館として利用され、興味深い歴史を秘めている。
それは、第一次世界大戦の捕虜となったドイツ兵が宇品港(広島港)から8キロの海上に浮かぶ似島に送られていた。
彼らは日本人にバームクーヘンやホットドックのつくりかたを教え、それがこの物産館に展示されたのである。
原爆はもともと、日本ではなくドイツとの戦いのためにアメリカの「マンハッタン計画」の中で開発されたものだが、日本の「被爆のシンボル」でドイツ人の物産が販売されいていたちうのも、奇妙なめぐり合せである。
実は、この原爆ドームよりもハルカニ「メッセージ性」が強い「被爆のシンボル」として保存されそうになったのが、長崎の「浦上天主堂」である。
注目されることは少ないが、浦上天主堂の正面左右に配置された聖ヨハネ像、聖マリヤ像の指は落ち鼻は欠けている。
また、植え込みに並ぶ聖人の石像はどれも熱戦で黒くこげている。
また側を流れる川の脇には、旧天主堂の「鐘楼ド-ム」が半分埋もれたまま頭をのぞかせている。
くだけ落ちた壁、熱線にとけた聖杯、辛うじて不規則なストーン・サークルのように林立する赤レンガの柱の隙間からに射し込む陽の光の束が、散乱したステンドグラスを照らし、反射し輝いている。
陽が上るにつれ、廃墟の暗がりからキリストを抱く「聖母マリア」の像が浮かび上がる。
聖母マリアの頬は熱を帯びたのか、酷く黒ずんでいる。
この「被爆廃墟」こそは広島の物産館にすぎない「原爆ドーム」以上に、「雄弁な」絵ではないのか。
敗 戦後、浦上天主堂の「廃墟」を保存しようという要求が市民の中から高まったという。
しかし、当時の長崎市長が「姉妹都市提携の」ためにミシシッピ・セントポ-ル市を訪れた直後に、ナゼカ全体としての「廃墟保存」のトーンが落ちている。
カトリック系の多いセントロール市からみると、原爆の非を「カトリック教会の被爆」という形で世界に訴えかけるような「絵」は残してほしくはなかったのではないか、と推測できる。
かくして浦上天主堂の廃墟は1958年に完全に撤去され、翌年「再建」された。
そして、それがもつ「黙示録的」メッセ-ジのよすがは完全に人類から消滅した。
さて、清教徒の国・アメリカが太平洋戦争を「二発の原爆」によって終結させたにせよ、原爆により多くの一般市民を殺戮したことに対して、「原罪意識」がウズクことはないのだろうか。
そのアメリカがドウシテ日本に、原子力の「平和利用」というものを推進しようとしたのか。
いくつかの説があるようだが、「個人的見解」をいうとピューリタンの国アメリカのは、「原子力の平和利用」をモッテ原爆投下の「免罪符」にしようとしたのではないか、ということである。
あまり適切な「対比」ではないが、日本で戦争中に特攻機「桜花」を開発した技術者が、その技術を平和利用しようと「新幹線」を開発したことと「重なる」部分があるように思う。
実は、新幹線の技術のルーツは、太平洋戦争末期の特攻機「桜花」(おうか)にまで溯る。
かつて、阿川弘之が「雲の墓標」に描いたのは、この「桜花」に乗り込まんとした特攻隊の青年達の姿であった。
「桜花」は、機首部に大型の甲爆弾を搭載した小型の航空特攻兵器で、目標付近まで母機で運んで切り離し、その後は搭乗員が誘導して目標に「体当たり」させるものだった。
母機からの切り離し後に火薬ロケットを作動させて加速し、ロケットの停止後は加速の勢いで滑空して敵の防空網を突破、敵艦に「体当たり」するよう設計されていた。
しかし航続距離が短く母機を目標に接近させなくてはならない欠点があった。
そこで、新型機ではモータージェットでの巡航に設計が変更されている。
この特攻機こそは、世界に類を見ない有人誘導式ミサイルで、「凶器」とも「狂器」ともいえる「人間爆弾」であった。
なお、連合国側からは日本語の「馬鹿」にちなんだBAKA BONB、すなわち「馬鹿爆弾」なるコードネームで呼ばれていたという。
「桜花」の発案者は当時日本海軍の航空偵察員であったO少尉といわれているが、ソノ確証はない。
ただ少なくとも、O少尉が「開発の端緒」をつけたことは確かである。
「人間爆弾」の構想に対して、O少尉と同席していた飛行部設計課の三木忠直技術少佐は「技術者としてこんなものは承服できない、恥だ」と強硬に反対したという。
そして、三木が「誰がこれに乗っていくんだ」と質したところ、O少尉が「自分が乗っていきます」と言いきったという。
これを受けた航空本部は「軍令部」(=海軍本部)に意見を求めたところ、たまた「特攻兵器研究」の真最中であったため、この「提案」に飛びついた。
結局、この新兵器は機密保持のために発案者の名前から「マル大(ダイ)」という名称で呼ばれることとなり、正式な「試作命令」が空技廠に下ったのである。
空技廠はY技術中佐を主務者に任命し、実際の設計は当初反対していた前述の三木忠直技術少佐が担当することになった。
特攻兵器であることから、ジュラルミンや銅等の戦略物資に該当する各種金属を消費しないように、材料は木材と鋼材を多用した。
「特攻専用機」であるという性質上、着陸進入を考慮した翼型ではなく、ただの平板の尾翼を持つなど、高速で飛行し「ある程度操舵ができる」程度にしか設計されていない。
桜花は、最初フィリピン決戦で投入される予定だった、使う機会を得ぬまま「沖縄戦」で投入されることになる。
それから20年後、「新幹線」プロジェクトは、この「桜花」開発の中心であった三木忠直によって進められた。
三木にとって「桜花」は帰ってくるための補助車輪も燃料も積んでいない飛行機であり、技術者としては絶対に作りたくないモノであった。
しかし「平時」ではなく、それを作らせることを強いるだけの「切迫感」が漲っていた。
その結果、三木は「桜花」を設計し、これをもって飛行した多くの兵士達を死なせてしまったことに対して、激しく自分を責めるところがあった。
三木は、キリスト教の洗礼をうけている。
三木は、戦争終終了時働き盛りの30代だったが、「戦争責任問題」でなかなか就職はできず、ようやく国鉄の外郭団体である「国鉄鉄道技術研究所」に職を得ることができた。
列車の開発に携わることになった三木は、その当時の気持ちを次のように語っている。
「とにかくもう、戦争はこりごりだった。だけど、自動車関係にいけば戦車になる。船舶関係にいけば軍艦になる。それでいろいろ考えて、平和利用しかできない鉄道の世界に入ることにした」と。
そしてこの時、日本人の本当に役に立つ「技術開発」に携わる決意であった。
実態をいえば、三木が就職した「国鉄鉄道技術研究所」であったが、当時の国鉄には正式の「技術開発部門」があり、不況で食えない技術者達を吸収する組織でしかなかった。
当時の国鉄は、「航空旅客産業」の発展に対しても「危機感」を募らせていた。
確かに東京ー大阪間の7時間と飛行機1時間30分では、「勝負」は目に見えているように思われた。
そして三木は逆にソコに「活路」を見出そうとしていた。
三木らは「東京―大阪3時間への可能性」と銘打った一大プランを打ち出し、1958年7月ツイニ国鉄総裁の前で、その実現可能性を「力説」することにした。
そして国鉄総裁は、三木の情熱と確信に押されて「新幹線プロジェクト」にゴーサインを出すことになったのである。
結局、新幹線開発には、三木らが生み出した「航空機」開発の技術がアマスところなく「投入」されることになった。
ソシテ三木はこのプロジェクトの完成させ「私の持っている技術のすべては出し尽くした」 と国鉄へ辞表を提出し、周囲を唖然とさせた。
それから1年後の1964年10月、東京オリンピックの開催に合わせる形で、東海道新幹線は開通の運びとなり、東京~大阪間を当初の目論見通り「3時間半」で走破する「夢の超特急」は最高速度210キロの営業を開始した。
この技術は、オリンピックで世界中から集まった人々の「賞賛」を浴び、日本の科学技術の水準の高さを内外に示すと共に、日本経済の飛躍的な発展の「原動力」となっていった。
そして今日に至るまで、新幹線における死亡事故はゼロである。
アメリカは、原発の平和利用を西側陣営で進めたが、中でも当の被爆国日本が「原発大国」になったのは、ビジネスの問題だけではないように思える。
それは、アメリカが蒔いた「負の種子」が、「正の果実」によって打ち消されれば、ソレが「免罪符」となるということではなかろうか。
また原爆を投下したことに対する前述の「黄禍」の恐れもドコカにあったのかもしれない。
アメリカは、石油という「ドル箱」を持ちながらも、ワザワザ「原発」を推進したのか。
それは、アメリカの原発投下の「免罪符」こそが、「核の平和利用」つまり「原発の推進」だったのではなかろうか。
それとも、核実験を成功していたソ連を、「核の平和利用」と銘打ってデモ、「核」で取り囲むという意図だったのだろうか。
しかし「原点」にドンナ意図があったにせよ、それに携わり推進しようとした人々の「現実的」野望のために、「核の平和利用」の真の意図はほとんど見えニククなっている。

日本におけるソウシタ現実的「野望の主」こそが読売新聞社長で「読売巨人軍」創設者の正力松太郎である。
正力は、「テレビの父」とも「プロ野球の父」とも「原子力の父」とともいわれている。
正力は、もともと「マイクロ波通信網」と呼ばれる国内通信網の実現だった。
これを手にすれば、当時将来有望な市場と目されていた放送・通信事業のインフラを自らの手中に収めることができる。
正力はそのための資金としてアメリカからの1000万ドルの「借款」をした。
正力は、コノ金をもって読売新聞を買い取った。
日本を対ソ連の「防波堤」としたアメリカは、正力松太郎を利用価値アリとして、CIAのリストにも「暗号名」にでのっていたことが判明している。
実はし正力はもと警察庁長官で、虎の門事件で昭和天皇が狙撃されたことの責任をとって、長官を辞任している。
アメリカが正力を高く評価したのは、何よりもその「反共産主義的」な思想の持ち主であったことである。
アメリカは、「弱小紙」だった読売新聞を「大新聞」に育て上げた正力のビジネスマンとしての才能や政治的コネクションを評価した。
1953年のアイゼンハワーの国連演説以降、「核の平和利用」を推進し、その恩恵を西側陣営に広げることを「対ソ戦略」の柱の一つにしていたアメリカにとって正力は十分に「利用価値」のある人物だった。
正力は、日本で初の「原子力関連予算」が成立した翌年の1955年、正力は衆院議員に当選するやいなや、「原発の導入」を強力に推進する。
当時第五福竜丸の被爆などで高まりつつあった「反米・反原子力」の世論を抑えるためにも奔走した。
そのために読売新聞や日本テレビを使った大々的な「原発推進キャンペーン」を次々と打ちあげた。
こうして正力は初代の原子力委員会委員長、同じく初代の科学技術庁長官の座につくことになる。
そして1957年8月、茨城県東海原発実験炉に日本で初めて原子力の灯がともった。
しかし正力の「マイクロ波構想」の方は、通信・放送衛星の登場によってってかなわなかった。
さらに、1957年の10月、イギリスの原子炉で大規模な事故が起こり、原発のリスクが「顕在化」し、正力は退任した。
正力退任後の1961年、「原子力賠償法」が成立し、原発は正力の手を離れた後も著しい成長をみせた。
1970年の大阪万博には敦賀原発から電力が送られ、「未来のエネルギー」としてモテハヤされた。
オイルショックも原子力の推進を後オシした。
そうした中で登場した田中角栄首相のもとで、1974年、「電源三法」が制定され、原発は高度経済成長の果実を得ていない「過疎地の利権」としての地位を得て、更に推進されることになる。
そして、世界で唯一の「被爆国」日本は、イマヤ「原発の輸出大国」にまでなっている。
日本人は、2011年福島原発の事故によって、「核の平和利用」がアメリカの「免罪符」どころでか、とんでもないニガヨモギ(ロシア語でチェリノブイリ)であることが判明した。