決められない

政治家は、選挙制度の改革には賛成だが、自分が関わる「選挙区」の新しい線引きには反対である。
企業人としては「原発稼動」には賛成であるが、一住民としては反対である。
企業人としては「法人税減税」を支持したいが、消費者としては「消費税の増税」に繋がるので、ヤッパリ支持できない。
ということで、「決められない政治」以前に「決められない個人」というものがアリソウナ気がする。
こういう人は選挙に行かなかったりする。
つまり個人が行う政治的選択もしくは経済的選択は絶えず揺れ続け、サホド「安定的」なものではない。
また「決められない政治」というのは「ネジレ」とか「政権」がドウノコウノの問題ではなく、「決められない」個人の存在だとか「民主政治」ソノモノの欠陥に起因してイルのかもしれない。
「こんな思い」を抱く人なら、経済学者ケネス・アローの「不可能性定理」というものは、一つの参考になる。
1972年に史上最年少(52歳)でノーベル経済学賞受賞のアローの名は一般に知られていないが、1970年ノーベル経済学賞のポール・サムエルソンの名前を知っている人は多いと思う。
そして二人にはチョットした結びつきがある。
実はサムエルソンの息子とアローの娘が結婚したので二人は「親戚」なのである。
モウひとつの結びつきは、アローの「不可能性原理」には、サムエルソンの「顕示選好の理論」の思考法に負うところが大なのではないかと推測できるところがある。
ところで、ポール・サムエルソン「経済学」(1971年初版)は、経済学を学ぶ学生にとって必読書であった。
「マルクス経済学」の場合はカールマルクスその人の「資本論」で学んだ人が多いと思うが、「近代経済学」は、ポール・サムエルソンの「経済学」で方学んだ人が多いと思う。
「経済学」は、難解なケインズの経済学を学生にもワカリやすく説明したために、1970年代に近代経済学を学んだ者モシクハ学生は、ほぼ「ケインジアン」となったといってよい。
とはいっても、サムエルソンの立場は、完全雇用に至るまではケインズ主義だが、一端「完全雇用」に至ったならば、十二分に「市場機構」を生かそうという「新古典派」の立場をとり、これを「新古典派的総合」とよんでいる。
ただサムエルソンは、1970年代の石油ショック以後のスタグフレーション(インフレと不況の同時進行)に対する有効な手ダテを提示できなかったために、マネタリストのフリードマンに「経済学主流」の地位を奪われることとなった、
学生時代、「経済学」はアンマリわからなかったが、大学の講義の折々に聞く「天才サムエルソン」のエピソードに、経済学への「憧れ」を抱いたりしたものだった。
そして実際に「経済学」を原書で読むとサムエルソンはユーモアにあふれ、理系の学問への造詣ばかりか、引用文からウカガわれる「古典文学」への教養ナド、その懐の大きさに驚かされた。
さて、サムエルソンの若き日のエピソードに次のようなものがある。
大学院の面接試験で、学士・サムエルソンの面接を行った経済学の泰斗シュムペンターは、面接試験終了後に、思わず「我々は合格しただろうか」と語ったというエピソードがある。
あの誇り高きシュムペンターが、である。
特に、サムエルソンの「顕示選好の理論」(リビールド・プレファレンス)が10代にして着想するに至ったという話を聞いて、その「天才ぶり」を思い知らされた。
実は「顕示選好の理論」は、「ミクロ経済学」における理論である。
「ミクロ経済学」は、利潤最大化を求める企業行動の理論と効用最大化を求める「消費者行動の理論」で成り立つが、消費者理論は「効用」という人間の心の中の問題を扱うので、理論的に完成するまでは長い歴史が必要であった。
人間が商品を買って得られる満足を「効用」という言葉であらわすが、サムエルソンの「経済学」までには、少なくとも「効用」の「可測性」は否定され、効用の「序列性」で、消費者の選択を考えるようになっていた。
つまり、Aという商品は効用10で、Bという商品の効用が8という「絶対値の情報」で選択するのではなく、AがBより大きな効用が大きいか小さいかという「比較情報」ダケで、消費者の「選択」を考えるようになったということである。
少ない「公理」でモノゴトが説明できるほうが、学問としては「進歩」したといえる。
実は、消費者の「効用関数」というのは、3次元の関数である。
平面の二財の選択メニュー座標の上に、指標化(序列化)された「効用」がソノ「高さ」で表される。
イワバ「山の斜面」で、ソノ「等高線」を平面に写し取ったものが同じ効用をもたらす「ニ財の組み合わせ」を表す線、つまり「無差別曲線」が描けるのである。
人間が一商品の消費を増やせば増やすほど追加単位アタリの満足は低下するツマリ「限界効用は逓減する」ために、無差別曲線は原点から見てウチに窪んだ「無差別曲線」となる。
この無差別曲線と、一定の価格比(傾き)と所得水準(Y軸切片)で表す負のカタムキをもつ一次関数である「予算制約線」の接点で「最大の効用」をもたらす「ニ財の数量」の組み合わせが決定される。
そして「2財の最適選択」の理論は、ソノママ「多数財の最適選択」にも拡張できるというものである。
しかし、現実の消費者はコウシタ3次元効用関数の「全貌」を頭に描きながら、日々の消費財を選択しているのだろうか。
我々にワカルことは、日々の消費者が何を選択したかという「結果」ノミであり、この「顕示された」結果から逆に消費者の「効用関数」が導きだせないだろうかというのが、1936年当時ティーン・エイジャーだったサムエルソンが得た「着想」だったのである。
そしてサムエルソンは、そういう「無差別曲線」がチャント描けるためには、どんな「条件」が必要かとイクツカの条件を考察したが、その中で「弱公準」と呼ばれるものがある。
二つの予算制約下A(a1,a2)B(b1,b2)両方の「2財組み合わせ」が購買可能で、Aの組み合わせが選択されるならば、AがBより顕示的に「選好」されていることになる。
しかし、異なる予算制約下(価格比率が変るとか所得が変るとか)で、もしもBが選択されるならば、ソレハその予算制約下でAが購買不可能にナッタためである。
以上が「顕示選好の弱公理」で何かアタリマエのことを言っているにスギナイようだが、実は価格比率が変るだけでも「実質的所得」の変化を意味するので、消費者の「好み」が不変であっても「下級財」(軽自動車など)から「上級財」(普通自動車など)に選好を「乗り換え」たりする「所得効果」が起き、「弱公準」を満たさないことは起きうるのである。
そしてこの「弱公準」を満たさない時、つまり購入能な予算制約下でBが選択されるという場合、最初の予算制約下でAが選択されたことと明白に矛盾する。
こうした「矛盾」が起きる時に「無差別曲線」が描けないので、最適選択を「決められない」のである。
さて具体的に表れた「消費者選択」から「効用関数」あるいはその効用の等高線たる「無差別曲線」が描けたとしても、一体それがナンノ役に立つのかと思わヌでもない。
しかしこうした条件の考察方法は、各人の「個人選択」から「社会的選択」が可能かという問題にヒントを与えることになったのである。
たとえばサムエルソンの「経済学」の冒頭近くに登場する「バター(民生財)か大砲(軍需財)か」選択するという問題を、沢山の「個人の選択」があるとして、それをどのような条件が満たされれば集計可能で「社会的に選択する」ことが可能かということである。
さらに具体的にいうと、国民一人一人が民主的な手続きで「投票」で選択するとしたら、どのような民生財と軍需財の組み合わせが、社会的に最適か(国民の選択を反映しているか)という問題である。
そうした「社会的選択」の問題に取り組んだのが、サムエルソンの親戚のアローなのである。

アローの「不可能性定理」はゲーデルの「不確定性定理」ホド有名ではないが、社会科学者の間ではある種の「畏怖」をモッテ知られている。
それは、民主的手続き(多数決)では、社会的選択は一定の条件の下で「不可能」であるという結論を導いたからである。
そして、アローのいう「一定の条件」の内容は、「推移性」の仮定(a>b かつb>c ならばa>c)ナドを含み、サムエルソンの「顕示選好の理論」を彷彿とさせるものがある。
しかしアローという異常に鋭い頭脳をもつ人物の「思考」が、我のゴトキ凡人にソウソウ理解できるものではなく、ここで深入りするのはできない。
ただアローのいう「不可能性定理」を次のようなケースにアテハメルと「決められない政治」の一端に接近できる。
今「不可能性定理」の具体例を、現在の日本の「赤字財政の克服」にアテハメ、国民が考えうる次の「三つの選択肢」があるとしよう。
「増税」か、「歳出削減」か、「インフレを起こす」かである。
A氏は(増税≽歳出削減≽インフレ)、B氏は(歳出削減≽インフレ≽増税)という選好を持つ。
この3人の単純多数決ルールに従うと、「増税 vs 歳出削減」は優劣がつかず、「増税 vs インフレ」も優劣がつかないが、「歳出削減 vs インフレ」ノミは優劣がつくことになる。
増税は歳出削減より最上位か最下位かイズレの可能性もアルという「奇妙な」事態が生じていることがわかる。ツマリ順位がつけられない。
さて、アローの「不可能性定理」は、選択肢に「重さ」や「必死度」がナイからだともいえる。
試しに個別の選択肢の優劣ではなくて、個別の選択肢に「配点」を与えれは、社会的選択はソノ「決定」を行うことができる。
つまりアローのケースでは社会的選択可能な「投票制度」は存在しないが、実際の民主的な投票手続きでは、ルール的には単純多数決でも、議決に至る前に様々な「交渉」をしている。
そうした「交渉」をサエ経済学的視点から分析したのが、「公共選択理論」を基礎を作ったJMブキャナンである。
さて、官僚は「規制」を作りたがる性向をもっている。「規制」を作っておけば、自らが業界をコントロールできるし、規制の「緩和」を願って業者が自分に群がる可能性が高いからである。
それは結果的に官僚を「肥やす」ことにモなるからだ。
ソコデ官僚の権力が強い日本などで賄賂や接待が横行するのは、一種の市場メカニズムの変形が生じているとトラエルことができる。
より多くの賄賂を払ったり接待することにより、多額のお金を使う企業ほど、結局的に安く受注できる能力を持った企業だという「信号」になるからである。
だから「汚職」を辞めさせたいのなら、倫理をいうより規制を大幅に緩和して「受注価格」だけで競争できるようにすればよいのである。
さて、上記のJMブキャナン(1986年ノーベル経済学賞)は、ケインズ的政策を次のような観点から批判し、ケインジアンの「代表格」サムエルソンの影響力の低下に貢献したといってよい。
例えば、投票によって自分の利益に沿った代表を議会に送り込んだ国民は、自分はできるだけ少なく払っ出来るだけ多くのものを受け取ろうとするだろう。
票の欲しい議員もそうした国民の利益代表として振舞うことになる。
こうして減税は大いに受けるが増税は大反対に遭い、それぞれの利益代表の妥協の産物としてどの財政支出も一律に増大することはあってもどこかの項目だけ削減されることはなくなる。
これが先進諸国が「財政赤字」に悩んでいる原因であり、ケインズ政策は不況で支出を増やす「政策」が既得権益化し、好況期にそれを「削減する」のは困難だという「非対称性」のために生じるのである。
また「政治的な無関心」も、近年の経済学の成果の一つ「情報の費用」という概念から説明することができる。
「情報の費用」を考えると、「知りたいが金がかかりすぎる」、「知ってどうなるの」あるいは「知りたくない」といった状況で、「知らない」ことを選択するという事例がたくさん浮かんでくる。
恋人の過去を知ってどうなろう、 高齢になって癌であると知ってイマサラどうなるものではなく、新聞では不十分なため米軍海兵隊の「抑止力」の実態を知りたいが、正確な知識を得るには相当な金と時間がかかる、「核の闇取引」の現状を知ったところで不安になるだけ、といった具合である。
人々は様々な理由で、「合理的無知」ひいては「政治的無関心」に留まろうとするであろう。
アメリカの政治経済学者のA・ダウンズ氏は次のように言っている。
「民主主義国家における政府の政策には、ほとんど常に、反消費者、生産者支持の傾向が見られる」
これは「ダウンズの命題」とよばれている。
つまり政策情報の収集・分析や、政策に影響を及ぼすための政府への働きかけには費用がかかる。
が、一般消費者はこれを負担しようとしない。
これは消費者の「合理的な無知」の結果であるが、それゆえに政府・与党の政策決定に影響を及ぼせない。
一方、生産者は情報の費用負担に意義を見出し、負担能力もある生産者は政策にも精通し、利益団体を作るなどして、影響力を行使するかもしれない。
また、天下り官僚を会社に迎えるという「情報の費用」までも負担するかもしれない。
安倍政権の「法人税の減税/消費税増税」のへの流れは、マサに「ダウンズの命題」を証明している。
かつて「コンクリートから人へ」は、そういう政治のあり方への決別を意味したが、自民党が政権に返り咲くことにより、それが今元に戻りツツある。
「民主政治」の問題として、今後年齢構成が「逆ピラミッド」のようにイビツなれば、多数決による決定が「老人有利」になってしまうことがある。
民主主義というのは色々と問題のある制度だが、これまで「年齢構成」の観点からコレを考える必要はなかった。
しかし「団塊の世代」が大量退職をする時期を迎えて、「一人一票」の民主主義の下では、団塊の世代以上の「引退世代」が多数をしめ、そうした「高齢者」の意見が通り安くになる。
政治家も高齢者が多いので、その傾向に拍車がかかる。
つまり若者はマイノリティになり、日本は「老人支配」の国となっていく。
ドンナに自分の子供や孫を大切に思う人でも、抽象的な「次世代」の為に何かをナソウという気は起こりにくい。
引退世代の関心事は、今後をイカニ安心して快適に暮らせるかということである。
政党の側も、選挙のために「高齢者ウケ」をネラウ政策を次々と打ち出すことになる。
少なくとも、高齢者がミを削らねばならないホドの政策または制度選択は成り難いといっていい。
身を削って身が細るのは、若い方の世代である。
赤字国債(特例国債)の発行にナカナカ抑制が効かなくなっているのもそのアラワレである。
引退世代が社会保障などで「使いすぎ」てしまえば税金だけではたりない。
そこで赤字国債を発行するが、現役世代が「税負担」をモッテそれを返していかなければならない。
ところで、古典経済学のリカードの理論の一つに、今現役世代からお金を「増税」で集めようが国債で集めようが、将来世代がいずれ「税負担」で返すことになるので、世代を通した実質的な「経済負担」は変らないというものがある。
ただ現役世代が借金でツマリ国債発行でマカナウのは、「国民の自由意志」によるものであるが、将来世代は借金返済を税金で「強制的」に取られることになる。
したがって今日の人々の借金は、将来世代の「自由の一部」を喰っていることになる。
ただし、今年からはじまった「インターネット選挙解禁」は、多少なりとも若者世代に有利に作用する可能性はある。
結局、「決められない政治」も問題だが、「決めてしまう政治」にも問題がある。
それが「民主的手続き」を経ているがゆえに、ナオサラということモありうる。