戦場のメロディ

逆境や悲嘆の中で自らを鼓舞するように作られた曲は、今でも人々の心に力を与えくれてている。
現在勤務する学校の「校歌」の作曲家の名前に「吉田正」というビッグ・ネームを見つけた。
「有楽町であいましょう」の作曲家で「国民栄誉賞」を受けられた、アノ吉田正氏だろうか。
「50周年誌」で調べると、確かにアノ吉田正氏であった。
初代校長の同僚の友人が日本ビクター専属作詞家の井田誠一氏で、「校歌」の作詞を依頼したところ、そのツテで同じくビクター専属の作曲家・吉田正氏に作曲を依頼することとなった。
だから、この学校の校歌は「黄金コンビ」で作られたといっていい。
1963年12月に作詞家の井田氏が東京から福岡にこられ、学校をとりまく環境や歴史的背景を見た上での「作詞」となった。
そして吉田門下の人気歌手の三田明が歌ったテープが学校に届き、「お披露目」となったのである。
ところで吉田正という作詞家の名前は、個人的には「シベリア抑留」という出来事と結びついている。
この「シベリア抑留」は、敗戦時に満州にいた日本軍がソ連軍によりシベリアに連行され、過酷な環境の中で強制労働をさせられた出来事である。
そして1947年から日ソが国交回復する1956年にかけて、抑留者47万3000人の日本への帰国事業が行われた。
最長11年抑留された者も居れば、日本に帰国すれば「共産主義」を広める活動をすると収容所でソ連側に誓い念書し、早期に帰国した「念書組」と呼ばれる者達もいた。
シベリアで大半の命が失われたが、栄養失調の為、帰還時にはヤセ細って別人のようになって還ったものが多くいた。
1956年に「日ソ共同宣言」をまとめた鳩山一郎は訪ソの前に次のように語っている。
「北方領土返還が最大の課題として話題になっているが、ソ連に行く理由はそれだけではない。シベリアに抑留されているすべての日本人が、一日も早く祖国の土を踏めるようにすることが、政治の責任である。
領土は逃げない、そこにある。しかし、人の命は明日をも知れないではないか」。
この最後の言葉は今日、北朝鮮の拉致被害者の家族の声と通じる言葉ではなかろうか。
シベリア抑留からの帰還者の中には、陸軍参謀の瀬島龍三もいたし、後に政治家になる相沢英之、宇野宗佑、財界人では坪内寿夫、その他スポーツ芸能界では、水原茂、三波春夫、三橋達也などもいた。
また作曲家では吉田正以外に、米山正夫がいた。
米山は、水前寺清子の「三百六十五歩のマーチ」や「ヤン坊マー坊天気予報」のテーマ曲で知られている。
吉田正は1921年、茨城県日立市に生まれた。
1942年に満州で上等兵として従軍し、敗戦と同時にシベリアに抑留された。
従軍中に部隊の士気を上げるため作曲した歌に、抑留兵の一人が詩をつけ、その歌が「よみ人しらず」でいつの間にかシベリア抑留地で広まっていった。
1948年8月、いちはやくシベリアから帰還した中村耕造氏が、NHKラジオの「素人のど自慢」で、コノ「よみ人しらずの歌」を「俘虜の歌える」と題して歌うと評判となった。
吉田氏はそのラジオ放送直後に復員し、半月の静養の後「俘虜の歌える」が評判にナッタことも知らず以前の会社に復帰している。
ところが9月に、この話題の歌に詞を加えられて「異国の丘」としてビクターレコードより発売された。
この曲がヒットして、この「曲」の作曲家が吉田正氏と知られ、翌年日本ビクター・専属作曲家として迎えられた。
吉田氏は、1960年に「誰よりも君を愛す」で第2回日本レコード大賞を受賞している。
その後、数々の名曲を世に送り出し、1998年6月10日、肺炎のため77歳で死去している。

太平洋戦争終結後、連合国が日本の戦争指導者を裁いた「東京裁判」が行われた。
それとは別に、アジア各地では連合国7カ国による「軍事裁判」が行われ、日本軍の兵士が住民殺害・捕虜虐待のBC級戦犯として裁判にかけられた。
現地の人々の証言をタヨリに、裁判では簡単な審理が行われ、死刑が執行されていった。
映画「私は貝になりたい」の主人公のように、「冤罪」で死刑が執行されるという多くの「悲劇」を生んでいる。
法務省の記録によると、1951年4月までの一連の裁判で、計2244件で5700人が被告とされ、うち死刑が984人(執行は920人)、無期475人、有期294人、無罪1018人であった。
被告のなかには植民地の朝鮮人23人、台湾人26人も含まれ、彼らは「日本人」として処刑された。
そんな中、フィリピンのモンテンルパの刑務所に収容されていた二人の作詞作曲で「モンテンルパの歌」という歌が生まれた。
この歌は、1952年5月当時鎌倉にあった渡辺はま子の自宅に届いた「一通」の封書の中に収められていた。
その封書の中には、楽譜と短い手紙が入っており、その楽譜の題名には「モンテンルパの歌/作詞代田銀太郎/作曲伊藤正康」と書いてあった。
二人はフィリピンのマニラ郊外のモンテンルパの丘にあった刑務所で「戦犯」として「死刑判決」を受けていた。
しかし、この歌には、モンテンルパ刑務所に収容されていた日本人111名スベテの「想い」が込められていたのである。
仲間が次々に処刑されていく中、自分たちもイツ処刑されるのか、日本に帰れる日がくるのかという不安と幽かな希望の中で、この歌が誕生したのであった。
さらに戦後の復興のサナカにいる日本人が「自分たちが今この地でこうして生きていることを知って欲しい」という「訴え」でもあった。
刑務所から日本人牧師に渡され、それが歌手の渡辺はま子さんに託されたのである。
「封書」を受け取った渡辺は、早速歌をビクター・レコードに持ち込み、ほとんど修正ナシで吹きみ、「ああモンテンルパの夜は更けて」というタイトルでその歌を完成した。
この曲の吹き込み以来、渡辺はモンテンルンパの刑務所「慰問」の決意を固めていた。
そして国交が無いフィリピン政府に対し、「戦犯慰問」の渡航を嘆願し続けて、それがようやく実現した。
この曲が日本で大ヒットしていた1952年12月25日、渡辺がモンテンルパの刑務所を訪れた。
渡辺は開演前に、作詞の代田氏と作曲の伊藤氏に対面し、歌を作ってもらった事に対し感謝を述べた。
慰問のステージは、ドレス姿の渡辺が「蘇州夜曲」などの往年のヒット曲を歌い、ステージ終盤に「ああモンテンルパの夜は更けて」が披露された。
この曲を聞いた100人を超える収容者は、刑が執行された者への想いや望郷の念に胸をつまらせて涙し、全員で「大合唱」となったという。
その後、渡辺はま子をはじめ関係者の努力が、当時のフィリピン当局を動かした。
当時のエルピディオ・キリノ大統領自身がこの曲を聴いて感動したのだ。
そしての1953年、ついに大統領「特赦」により戦犯の帰国が許された。
しかし、108人の日本兵達は無事に日本への帰還が許されたものの、スデニ14名もの日本兵がフィリピンで処刑された後のことであった。

シベリアからの帰還兵士の舞台が、福井県・若狭湾の「舞鶴港」である。
そして舞鶴港を舞台としては映画化された「岸壁の母」のモデルとなったのは、端野いせという女性であった。
端野は、1899年石川県羽咋郡富来町(現在の志賀町)に生まれた。
青函連絡船乗組み員の夫、娘とともに函館で暮らしていた。
1930年頃、夫と娘を相次いで亡くし、家主で資産家であった橋本家から新二を養子にもらい上京した。
新二は立教大学を中退し、軍人を志し1944年に満洲国に渡り、関東軍の士官学校に入学した。
しかし、ソ連軍の攻撃を受けて中国牡丹江にて行方不明となっている。
終戦後、端野は新二の生存と復員を信じて1950年の「引揚船初入港」から以後6年間引揚船が入港する度に、たとえ「復員名簿」に名前がなくても、「もしやもしやにひかされて」舞鶴の岸壁に立ち続けた。
しかし1956年東京都知事から「牡丹江にて戦死」との戦死告知書が発行された。
端野いせは新人物往来社から「未帰還兵の母」を発表して映画「岸壁の母」のモデルとなった。
1976年9月以降は高齢と病のため、通院しながらも和裁を続け生計をたて、息子・新二の生存を信じながらも1981年81歳で亡くなっている。
「岸壁の母」を歌った二葉百合子が病院を見舞った際には、「一瞬たりとも新二のことを忘れたことがなかった」と告げている。
1954年9月、テイチクレコードから発売された菊池章子のレコード「岸壁の母」が大流行し、ミリオンセラーとなった。
作詞した藤田まさとは、端野いせへのインタビューを聞いているうちに身にツマサレ、母親の愛の執念への感動と、戦争への憤りを感じてすぐにペンを取り、高まる激情を抑えつつ詞を書き上げた。
歌詞を読んだ平川浪竜は、徹夜で作曲し翌日に持参したという。
そして、これはいけると確信を得、早速レコード作りへ動き出し、歌手には専属の菊池章子が選ばれた。
早速、レコーディングが始まったが、演奏が始まると菊池は泣き出し、何度しても同じであったという。
「岸壁の母」は、発売と同時にソノ感動は日本中を感動の渦に巻き込んだ。
この歌は1972にはキングレコードから二葉百合子が「浪曲調」で吹き込み、今も二葉百合子の十八番として息長く歌い継がれている。
実は、「岸壁の母」が待ち続けた端野新ニはナント 生きていた。
1996年慰霊墓参団のメンバーは、端野いせの息子・信二を発見している。
妻子をもうけレントゲン技師助手として上海に居住していた。
慰霊墓参団がその後何度か接触したが「自分は死んだことになっており、今さら帰れない」と帰国を拒んだという。

トム・ジョ-ンズが歌った「思い出のグリーングラス」というカントリー・ウェスタン調の曲は、とてもあったかい感じのする「望郷ソング」かと思っていた。
しかし、歌詞の中にとんでもない情景が登場してくる。
”Then I awake and look around me At four gray walls that surround me And I realize, yes, that I was only dreaming. For there's aguard, and a sad old padre. On and on we'l3l walk at daybrake.” の部分は、
「目がさめると、灰色の壁に囲まれた部屋にいる自分。そうか、夢を見ていたんだ。自分の廻りには、守衛に、年老いた神父」。
「白い壁」が病院を表すように、「灰色の壁」は刑務所の象徴で、そこに神父が出て来るということは、死刑囚に「お迎え」が来た時の情景なのである。
故郷や恋人の思い出から「急旋回」して、今自分がおかれている灰色の「現実」に引き戻される。
そう、「思い出のグリーングラス」の元歌は死刑囚が作った歌なのである。
ところが森山良子が歌った日本語バ-ジョンの「思い出のグリーングラス」では、悲しい夢見て泣いてた私がいる。
その私が「ひとり都会で迷って」しまった。
突然「 生まれ故郷に立ったら 夢がさめた」といった内容の歌詞である。
元歌と比較すると、ナントモも甘ちょろい「一人合点」の歌に作り変えられている。
しかし、同じく森山良子が歌った「さとう麦畑の歌」の奥にある「真実」は、「思い出のグリーングラス」以上に衝撃的でスラある。
森山良子が歌った「さとうきび畑」の歌は、戦争のことを直接にはフレナイ「反戦歌」である。
激しい言葉もなく、抑制がきいたリズムが波打つ。
土の下に埋められた戦没者の声が、「ざわわ ざわわ」のリフレインとなって「波打つように」せまってくる。
聞き様によっては、沖縄の「観光キャンペーン」の歌でしかない。
この歌をつくったのは東京の作曲家・寺島尚彦氏である。
東京藝術大卒業後も音楽活動を継続していたが1967年初めて訪れた沖縄に心を揺さぶられた。
寺島氏は初めて訪れた沖縄で、抜けるような青い空の下、背丈より高いサトウキビに埋もれながら、うねるように続くサトウキビ畑を歩いている時、「意表をつく」地元説明者の言葉を聞いた。
「あなたの歩いている土の下に、まだたくさんの戦没者が埋まったままになっています」と。
その時の寺島尚彦の目の前の風景は一瞬にしてモノクロームに変わってしまったという。
「美しく広がっていた青空、太陽、緑の波打つサトウキビすべてがモノクロームと化し、私は立ちすくんだ轟然と吹き抜ける風の音だけが耳を圧倒し、その中に戦没者たちの怒号と嗚咽を私は確かに聴いた」と回想している。
帰京後、寺島氏はコノ時の「衝撃」を何とか作品にしようと試行錯誤して、その末に生まれたのが「さとうきび畑の歌」である。
風がサトウキビ畑を吹き抜ける音「ざわわ」が66回もくり返される詞となった。
深く静かに、怒りと苦しみ、悲しみを伝えるには、それだけの時間の長さと空間的広がりが必要だったという。
あの日、寺島氏が立ちつくしたたサトウキビ畑は、今「平和祈念公園」に姿を変えて24万人の「戦没者」の名を刻んだ黒い御影石が波のようにウネッテいる。

体育祭で今も歌い踊られるフォークダンス「マイム マイム」も、「戦場」で生まれたメロディの1つといっていい。
1940年代後半、世界に散ったユダヤ人が「シオニズム運動」によって現在のイスラエルの地に戻ってきた。
これからパレスチナの住民との激しい戦いが予想される中、ユダヤ人開拓者が「水源」の乏しい乾燥地に入植し、水を「掘り当てた」時の喜びを歌にしたものである。
ちなみに"mayim"はヘブライ語で「水」を、また"be-sasson"は「喜びのうちに」を意味している。
マイム・マイムの原題は"U’sh’avtem Mayim"。
直訳すると「あなた方は水を汲む」という意味である。
歌詞は旧約聖書のイザヤ書第12章「あなたがたは喜びをもって、救いの井戸から水をくむ」をソノママ歌詞として用いた。
そして、このフレーズの「リフレイン」が、人々の喜びを盛り上げていく。
ところで「マイム・マイム」の振り付けは、誰かが本来の「意味合い」から離れて「独自」に考案したものではない。
掘り当てた井戸の周りで輪になって踊り、”Mayimmayim be-sasson”と歌いながら井戸に向かって駆け寄っていく。
現実にも、そのようにして「喜び」を表現したのかもしれない。
1963年に来日したイスラエル人女性グーリット・カドマンが現地の踊り方をソノママに日本で指導し定着させたものである。
日本におけるフォークダンスは第二次世界大戦後、GHQの教育担当者を通して日本に紹介された。
またGHQ以外にもアメリカの在日団体であるYMCAやYWCAなども「野外レクリエーション」普及の一環として、日本でのフォークダンスの普及に力を入れていた。
終戦直後人々が娯楽に飢えていただけに、こうした歌や踊りはマタタク間に各地に伝播していったのである。
意外なところでは、政治運動や労働運動が活発だった時期に、労働組合や一部の政党などが青年層の「組織化」の手段として、「うたごえ運動」などに加えてフォークダンスを利用したことも、その普及に寄与したという。
ところで「マイム マイム」に登場する「水」が、パレスチナでの激しい戦闘の末、つまり血で獲得した土地の「井戸水」だったとしたら、この歌の音色も全く違った響きで聞こえてくる。