発見された人々

今年の芥川賞受賞者の黒田夏子さんの言葉「発見してくれてありがとう」はインプレッシブだった。
誰かに認められたくて自分の「売り込み」をはかった人の言ではない。
世に認められるか否かは脇に置いて、タダひたすらに自分の表現を追い求めてきた。
75歳にしてそれが「なかなかいいよ」と認められたということだ。
黒田さんの小説は「実験小説」ともいわれているそうだが、そのユニークな実験性と時間の重みが「発見してくれて ありがとう」に滲んでいた。
「発見」という場合、多くの場合に「偶然性」というものが含意されている。
何しろ本人にソレホド売り込む意欲がナイのだから、誰かが「偶然」にでも見つけてくれなければ、作品は永遠に封される性格のものでもある。
こういうカンジで「発見された人々」は、「再発見」も含めてたくさん思い浮かぶ。
森田一義(タモリ)、由紀さおり、青木新門、ジミー大西、坂本繁二郎、アンリ・デュナンなどを思いうかべる。
コレにもう一人、今年のアカデミー賞・長編ドキュメンタリー部門を受賞した「奇跡に愛された男シュガーマン」本名ロドリゲスを加えたい。

坂本繁二郎は久留米で生まれで、「馬の画家」と呼ばれたほど多くの馬の絵を残している。
画面全体に、作者がエメラルドグリーンと呼ぶ淡い水色の世界が広がっている。
その色調の微細な変化が、光の中で変幻する馬の肌を描きだしている。
坂本繁二郎は、いつもある画家と比べられてのきた。
それが、天才と呼ばれワズカ28歳で夭折した青木繁で、同い年で同じ久留米出身、そして同じ画塾に通ったのである。
宿命のライバルにして友人でもあった。
しかし、天才や早熟の青木とは対照的に、坂本繁二郎は朴訥そしていて、晩成の印象が強い。
坂本繁二郎は、幼い頃から「絵の虫」と呼ばれ10歳の時に洋画家の森三美が主催する画塾に入門した。
坂本の絵は評判となり、「神童」と呼ばれるようになる。
20歳の時、小学校の代用教員として図画を教えていた坂本の元に、東京の美術学校に進学していた青木繁が一時帰京してやってきた。
青木の絵に驚いた繁二郎は、絵を本格的に勉強するために青木と共に上京し洋画家の小山正太郎の画塾に入門し、画家への道を歩み始める。
そして30歳の時に描いた「うすれ日」が注目となり、39歳にして絵画修業のためフランスヘ向かった。
フランス留学から戻ると、50歳にして福岡県の八女を「終(つい)の住処」と決めて、そこで坂本の生涯のモチーフとなる馬と出会う。
のびのびと、自由に生きる馬たちの姿が、繁二郎を魅了し、坂本は馬を求めて阿蘇や島原半島にも足を運んでいた。
しかし坂本は八女にアトリエを構えて以降、中央の美術団体に属さず黙々と創作を続けていた。
坂本がアトリエで黙々と描いた「馬の絵」はホトンド知られることはなかったのである。
坂本びいきの一部の批評家の賞賛もあったモノノ評価も充分に浸透せず、坂本は売れるあてもない画を黙々とこのアトリエで描いていたのだ。
というよりも、しばしば「面会謝絶」の札が掲げられることもあったという。
戦後もその姿勢は変わらず、1946年に新設された帝国芸術院会員に推挙されても「辞退」している。
坂本の内向的な性格に加え、戦時色を濃くしていく時代の空気も影響したかもしれない。
ひょとしたら、坂本は亡くなった青木をイマダに意識していて比べられるのを恐れていたのかもしれない。
もしも、坂本繁二郎の絵が若き画商・久我五千男(いちお)の「審美眼」との出会わなければ、坂本が世に出ることはなかったかもしれない。
久我五千男氏は北九州市若松区生まれ、関西で活躍した美術商である。
久我は大阪の同じく画商の実兄にススメられて、1939年ごろハジメテ坂本繁二郎を福岡県八女のアトリエに訪ねている。
久我はそのアトリエで目を見はった。
目を引くのは「馬」を題材にした作品が多いことで、四角いキャンバスの中で淡い色彩で描かれた放牧馬が命をもつかのように息づいていたのだ。
滞欧中の作品の数々を含んだ坂本の主要作品のほとんどが保管されていた。
初老にさしかかった「売れない」画家と、イマダ駆け出しの画商との出会いである。
坂本の作品をアトリエで見たときに若き久我はフルエルほど感動し、こんな巨匠の作品がアトリエに眠っているなど日本文化の恥で自分が売りまくってやろうと思ったという。
坂本の方でも青年画商・久我五千男にその山のような売れない画を「発見されて」マンザラでもなく、久我氏の腕で画が売れ始めるのを大いに喜んだ。
久我が戦争に行った間は当然画の売れ行きも止まったが、久我氏の帰還を誰よりも待ち望んだのは坂本に他ならなかった。
久我は終戦で無事帰還した後も、坂本の期待に応えた。
1947年1月の福岡玉屋での坂本繁二郎展、同年7月の大阪・阪急デパ-トでの「三巨匠展」、1950年の東京・三越での「自薦回顧展」などは、いずれも久我五千男氏の献身的努力によったものである。
その後、坂本の作品は次第に社会的な評価を高め1954年に毎日美術賞受賞を受賞し、ヴェネツィア・ビエンナーレに作品を出品、1956年には「文化勲章」を受章している。
1969年に死去した坂本の愛用の手帳には、「創作は真実な自己実現以外にはあり得ない」と鉛筆で記されていたという。
なお画商・久我五千男記念館は、福岡県糟屋郡の須恵町にある。

森田一義(タモリ)は黒田藩家老の森田家の出である。
福岡の進学校から早稲田大学へと進学し、モダンジャズ研究会に所属するが、授業料未納のため除籍処分となる。
しかしそれでもモダンジャズ研究会には相変わらず顔を出していたそうだ。
同期には吉永小百合もいた。学食で吉永が皿に残したおかずを彼女が去った後にこっそり食べたという熱烈なサユリストである。
1968年福岡に戻った森田は保険の外交員、喫茶店、ボ-リング場の支配人などをしていた。
保険外交員時代は営業成績がトップクラスであり、表彰されたこともあったという。
この時期に同僚の一般女性と結婚した。
1972年、大分県日田市のボウリング場支配人をしていた頃、福岡で行われた渡辺貞夫のコンサートがあった。
大学時代のジャズ仲間がスタッフとして関わっていた事からコンサートを観に行き、ライブ終了後には友人が泊まっていたホテルの一室にいた。
イザ帰ろうとホテルの部屋から出た際、やけに騒がしい一室があり、通りがかりザマに「半開き」になっていた。
そのドアから中を覗く 、虚無僧姿の男と目が合ってしまい、思わず乱入してゴミ箱を取り上げて自ら歌舞伎を踊り始めた。
男は、その非礼をデタラメ外国語でなじったところ、森田がそれより上手なデタラメ外国語で返し、森田と中村のデタラメ外国語の応酬になり、森田が表情を付けてデタラメなアフリカ語を話し始めた際には、男は息ができなくなるほど笑ったという。
始発が出る時間まで共に騒ぎ、森田は「モリタです」とだけ名乗っただけで虚無僧のごとく帰宅した。
彼らは、渡辺貞夫のコンサートに参加していた「山下トリオ」(山下洋輔、中村誠一、森山威男)であり、当時の山下達はライブ後ホテルで乱痴気騒ぎをすることをツネとしていた。
そして森田と目が合った男とは、中村誠一であった。
中村はあのモリタと名乗った博多の男のことが忘れられない。
あの男はきっとジャズをやっていたに違いないと確信した山下が、博多のジャズバーに「モリタ」という名前の男はいないかと片っ端から問い合わせた。
その結果、あるジャズバーで森田は「発見」されたのである。
山下らは彼を上京させるべく「森田を東京へ呼ぼうの会」を発足させた。
森田は会社を辞めて上京し、山下らの「怪人あり」のウワサを聞きつけて出あったのが漫画家の赤塚不二夫だった。
赤塚は森田の「異才」ぶりに感極まり、彼を自宅に居候させることを決めた。
そして森田はマンション住まいでベンツを乗り回す堂々たる「高級居候」になったという。
その頃、赤塚は下落合の汚いアパートの部屋で寝ていたそうである。
山下らがどんちゃん騒ぎしたあの博多の夜、ホテルの部屋の扉が少しも開いていたかったならば、タモリこと森田一義は「発見」されてはいなかったかもしれない。

今年のアカデミー賞の長編ドキュメンタリー賞は「シュガーマン 奇跡に愛された男」が受賞した。
「シュガーマン」は1970年代に活動し忽然と姿を消した米国の実在する歌手、ロドリゲスが本人さえも「知らない」うちに、なぜか南アフリカで大人気の存在となった過程を描いた作品である。
70年代、ミシガン州デトロイト、場末のバーで歌う一人の男が大物プロデューサーの目にとまる。
彼の名はロドリゲス・シュガーマン。
満を持してデビューアルバム「Cold Fact」を発表するが、まったく売れなかった。
世の多くのミュージシャン同様、彼もまた誰の記憶にも残らず、跡形もなく消え去ったのだ。
しかしソノ音源は「運命」に導かれるように海を越え、遠く南アフリカの地に渡った。
南アフリカ共和国の、海賊ラジオ局つまり正規のラジオ局でもなんでもないところが、「偶然」にこのレコードをかけてしまったのである。
そこからこの曲が序々に広がり、特に80年代には大ヒットしていく。
「シュガーマン」ロドリゲスの歌は、「反アパルトヘイト」の機運が盛り上がる中、体制を変えようとする若者たちの胸に突き刺さったのだ。
そしてロドリゲスの曲は、革命のシンボルとなった。
労働者の悲痛を歌ったロドリゲスの音楽が反アパルトヘイトの反体制の若者に響きあったのだ。
当時、南アフリカは軍事政権下で「情報鎖国」の状態にあった。
南アフリカの若者達は、ロドリゲスをエルビスプレスリーやビートルズに匹敵する大歌手と思い込んでいた。
その後も。ロドリゲスのアルバムは20年に渡って広い世代に支持され続け、南アフリカではローリング・ストーンズやボブ・ディランを超えるほど有名なアルバムになっていた。
一方アメリカでは、売れずに消えてしまったロドリゲスの「その後」を誰も知らなかった。
失意のうちにステージで拳銃自殺したとの都市伝説だけが残されていた。
ところでこの映画「シュガーマン 奇跡に愛された男」の主人公は、ロドリゲスを探す一人の中古レコード店のオヤジである。
南アフリカに外国人観光客が来るようになり、店にくる外国人がロドリゲスのことを誰も知らないことを訝しく思った。
アメリカ関連の情報を探しても、「シュガーマン」の名前は一切載っておらず、雑誌とかテレビとかにも何にも出てこない。
「シュガーマンとは一体誰なんだ」ということで探し始める。
中古店の主人が、彼の歌詞から世界各地の街の名前を拾っていくうち、「dearbornから来た娘」とういう箇所が目にはいった。
アメリカ中の地図を索引して調べてみると、それがデトロイトにある町であることがわかった。
そして中古レコード店の主人はそのアルバムのレコード会社、レコードレーベルの社長を見つけてアメリカまでやって来る
そして社長に「ロドリゲス、今どこにいますか」と聞いたら、「知らない」という。
南アフリカでは凄い売れてるが、アメリカじゃ何枚売れたかと聞いたら、「6枚ぐらいかな」とふざけて言う。
中古レコード店の主人はダメ元でインターネットに「このロドリゲスって人を知りませんか?」と貼り付けた。
随分月日がたって、アメリカから「ネット見たらうちのお父さんが出てんだけど」という電話がかかってきた。
「ロドリゲスさん、生きてるんですか?」と聞いたら娘は「生きてますよ」と答えた。
そこで中古レコード店の主人は、またデトロイトま行ってロドリゲス本人にようやくたどり着いたのだ。
ロドリゲスは1942歳生まれで、娘3人を育てて今や70歳になっていた。
主人が音楽、やってないのかと聞いたら、売れないからトックに辞めてビルの解体作業とかをやってずっと暮らしてきたと言う。
その間、大変貧乏して生きてきたともいった。
暖房もなくて、新聞紙をストーブに入れて暖を取るほどの貧しさであった。
結局彼は、デトロイト郊外のディアボーンという街に住んでずっと肉体労働をしながら、ヒッソリと暮らしていたのである。
どうも、南アでの100万枚ものレコードの売上げのロイヤルティも、彼には一切支払われてない様子である。
というか、彼がそれほど南アで大スターである事サエも、本人の耳に一切入ってなかったのだ。
音楽界から姿を消した後、お金も名声も求めることなく、自分と同じ貧しい労働者階級の人の声になろうと、デトロイトの市議会議員に立候補したが、あえなく落選したこともあったと語った。
あなたは、南アフリカで大スターですよ!100万枚売れてますよ!といっても、ロドリゲスは真に受けることはできない。
それでは南アフリカに一度来てくださいということになって、中古レコードの主人はロドリゲスを南アフリカに連れて行く。
そして1998年超満員の会場で「シュガーマン」ロドリゲスのコンサートが開かれた。
大歓声とともに幕が上がった。コンサートの第一声は「生きてたよ~!」であった。
確かに、「シュガーマン」ロドリゲスは南アフリカのスーパー・スターだった。
観客は「シュガーマン」の歌にリズムをとり酔いしれた。
ところで、「シュガーマン」すなわち「砂糖の様な物を売ってる人」、もっといえばイケナイ白い粉を売ってる人のことである。
「シュガーマン」はそういう「ヤクの売人」について歌った。
南アフリカは、当時厳しいキビシイ「軍事独裁」政権であった。
つまり、こういう歌は絶体にラジオでかけちゃいけない、ということになっていた。
だから逆に「これはヤバイ歌らしい」ということで、だんだん南アフリカの若者達の間で、口コミで売れていったのである。
もちろん「シュガーマン」の歌詞には政治的主張が多く含まれている。
//市長は、犯罪発生率を隠している。女性市会議員は、躊躇している。市民は、苛ついているけれども、投票日なんか忘れてる。天気予報士は、不平を言う。晴れると言ったのに、雨になったから。誰もがみんな、抗議運動をしている。ゴミは収集されず、放ったらかしで、女性の人権は守られない。政治家は民衆を利用して騙し、権力に溺れている。//
これは当時のデトロイトっていう街で起こってた、「市の腐敗」について歌ってる歌なのだ。
ロドリゲスという名前からスペイン系を思わせるが、これが南アフリカの事のように聞こえたのである。
ロドリゲスの歌声は、いまだに南アフリカの人達の心の「宝物」であり続けている。
ともあれこの映画「シュガーマン 奇跡に愛された男」はロドリゲスにまつわる数奇な運命を、彼の歌声で楽しめる珠玉のドキュメンタリー映画である。
実際に聞いてその歌声は素晴らしく、ボブディランにも劣らないように聞こえる。
逆に、何でアメリカでヒットしなかったのかと不思議に思えるくらいだ。
南アフリカの歴史的コンサートからアメリカに戻ったたロドリゲスは、それまでのようにビルの解体作業に向かった。
中古レコード店の主人に、彼を「発見してくれてありがとう」と言いたい。