覆水盆に返る

今のから30年ほど前に、ジェレミー・リフキンが書いた「エントロピーの法則」というのが話題になったことを思い出した。
この本の面白さは、副題にあるとうり「エントロピーの法則」を「21世紀文明観の基礎」と位置づけ、この法則の妥当性を広く「社会事象」にまでアテハメタ点にあるといってよい。
一方で、自然の法則を社会の法則にまであてはめるのは「類推」(アナロジー)の行き過ぎという批判はあったにせよ、理系の知識を文系人間にも判り易く解説したという点が何より大きかったと思う。
世界中のエネルギーは一定であるが、それがエネルギーとして一旦「利用」されたならばエントロピーが増大し、もはやエネルギーとして使えない。
もう一度使えるように出来なくもないが、それを実現するためにはドコカ他でソレ以上のエネルギーを使ってしまう。
自然エネルギーのような「開放系」ではソウでもないが、化石燃料の使用ような「閉鎖系」では地球の温暖化という現象をまねく。
世界のエネルギーが一定であることが「熱力学第一の法則」、そして放置すれば必ず「劣化」が起きる、ツマリ「エントロピーが増大」することが「熱力学第二法則」である。
大事故が起きた笹子トンネルの例を持ち出さなくても、日常の生活を思いおこせば、この法則の「妥当性」に気がつく。
つまり、すべてのものは放っておけば劣化・拡散していくということだ。
部屋をそのままして置けば、何もしていないのにホコリがたまっている。
そして、テーブルにこぼれたミルクは二度と元にはもどらない。覆水盆に返らずである。
家庭においても、仕事においても、ちょっと手をぬくと、すぐに整理がつかず収拾のつかない状態になる。
そしてこれを元の状態に戻すには余分なエネルギーが必要となる。
さて、冒頭のジェフリー・リフキンの本から引用しよう。
「エントロピーの法則とは、外界と接触していない系(閉ざされた系)におけるエネルギーは、すべて秩序ある状態から無秩序な状態へ流れる、と言い換えることができることを、再度強調しておきたい。エントロピーが最小の状態は、使用可能なエネルギーが最大で、最も秩序化された状態であるといえる。反対に、エントロピーが最大の状態とは、使用可能なエネルギーが完全に使用・拡散されたときを言い、最も無秩序な状態である。」
そしてこの言葉を、このたびノーベル賞を受賞された山中教授の受賞理由である「成熟した細胞を、多様性を持つ状態に初期化できることの発見」と重ねてみたい。
この「初期化」という言葉に注目すれば、山中教授のiPS細胞の発見は、この「エントロピー増大の法則」(熱力学の第二法則)の反証をハッキリ突きつけた点で、既存の「文明観」を覆すような発見ではなかったか。
ではソモソモ、iPS細胞とはどんな細胞なのか。
それは「誘導多能性幹細胞」の略であるが、その胚を育てると、色んな「臓器」になるというスゴイ代物なのだ。
生命の源である受精卵が一旦分裂を始めて、時々で細胞の状態は変わり、一つの「受精卵」が組織のもとになる細胞(幹細胞)などに分かれる。
この段階の細胞は万能性や多様性があり、皮膚や神経や心臓など何にでもなるのだが、皮膚や神経、心臓などに「成熟」したら、もう後戻りはしないのというのが従来の常識である。
成熟後は、増殖や老化はしても、別の組織や臓器には変らないということだ。
人間は、約270種類、60兆もの多種多様な細胞からなりたち、人の細胞には約2万2千個の遺伝子が備わっている。
細胞の核に潜んでいるDNAは、細胞の「設計図」を提供することがわかっている。
そしてそれらは、働く順番や時期が決まっている。
脳の細胞は長く伸びて糸のようになっており、電気信号をある場所から別の場所へ伝える仕事だけを行う。
実はすべての細胞は分裂する際に、すべてのDNA(情報)をもう一つの細胞にコピーする。
DNAがソックリ同じであるにもかかわらず、別の器官に「分化」してくというのならば、DNAの情報により必要な物(タンパク)質の発現が「促進」されるものと、「抑制」されるものがあるということである。
だからDNAを文字に例えると、「読み取られていく部分」に応じて器官が分化し、「特殊化」していくといってよい。
だから読み取られない情報は、「黒塗り」の情報をたくさんもっているということである。
つまりスイッチが入ったり切れたりすることによって「分化」と「特殊化」が起こっているということだ。
しかし問題は、どの細胞がどんな器官になるかをどうやってその指示を与えるのか、ということだ。
皮膚の細胞は丈夫で弾力を持ち、体を外から包む役割をする。
骨の細胞は内部に「りん酸カルシウム」をため込んで、体をガッチリ支えられるほど硬くなっている。
胚形成の過程で生じる細胞の「差異」について、自分達は皮膚の細胞になる、あるいは筋肉の細胞になる、あるいは神経の細胞になることをどのように決定しているのか、すなわちスイッチの「入る」「切る」の判断がどうなされているかについては、いまだに「未知の領域」であったが、今やソレも解明されようとしている。
山中教授の発見は、「時間を逆回し」するといった感じさえある。
マウスの皮膚からとった細胞に特別な「4種類」の遺伝子を入れたら、あらゆる細胞に成長する能力をもった細胞に戻ったのだ。
つまり成熟した細胞が「初期化」してしまったということだ。
山中教授は皮膚細胞に「4種類」の遺伝子を加えてみたとろ、その皮膚細胞が変化して筋肉や神経・血液なといった体の様々な組織の細胞ができる「新しい細胞」となったという。
この「新しい」の意味は、「初期化」された(元に戻った)細胞ということである。
ところで、山中教授の実家は大阪のミシン工場であるが、大阪市立大学の学生時代に、実家の工場の「在庫管理」を手伝った折に、膨大な部品を整理したことが、こうした遺伝子発見に繋がったという。
iPS細胞の開発以前に、万能細胞ともいわれたES細胞というのがあったが、山中教授はES細胞で働くものの「分化」していない遺伝子が24種類あることをつきとめた。
こうした遺伝子を「転写因子」とよんでいる。
山中教授は、この24種類の遺伝子についてマウスの皮膚細胞を使った導入実験を行い「初期化」が起きたので、一種類ずつ入れる遺伝子を減らし、細胞に変化がなかったら除外していった。
そして少なくとも「4種類」を入れれば「初期化」が起きることがわかったという。
この「4種類」の遺伝子を体細胞に導入するだけで、ES細胞とほぼ同じ性質のiPS細胞をつくれることを世界で始めて発見した。
さらに翌年にはヒトのiPS細胞の作成にも成功して世界を驚かせた。
物理学の世界で「光の電磁波説」を証明したマクスウェルは、自ら「マックスウエルの悪魔」という架空の生き物を想定し、それによって「エントロピーの法則」と反する現象が起こることを立証しようとした。
だが近代物理学の中でも天才の誉れ高い彼の能力をもってしても、「エントロピーの法則」に対する反証を挙げることはできなかったのである。
ところが、たった4種類(現在は3個でも可)の遺伝子を体のイカナル部分の細胞にでも導入すれば、体細胞の時間が巻き戻って「初期化される」こと。
つまり「エントロピー増大の法則」と反するとが起きたことは、自然科学上の「大発見」だったばかりではなく、既存の文明観を崩す「大事件」だといって過言ではない。

iPS細胞について新聞で読んでいるうちに、新約聖書マタイ3章のある場面を思い起こした。
//しかし,パリサイ人たちやサドカイ人たちの多くが、彼(イエス)の施すバプテスマまたは浸礼に来るのを見た時、イエスは彼らに言った「マムシらの子孫よ,来ようとしている憤りから逃れるようにと、だれがあなた方に告げたのか。それなら、悔い改めにふさわしい実を生み出しなさい! 我々の父にアブラハムがいるなどと考えてはいけない。あなた方に告げるが,神はこれらの石からでもアブラハムに子孫を起こすことができるのだ。」//
この場面でイエスが語った「石からでもアブラハムの子孫を起こすことができる」という言葉は、聖書の中のもっとも難解な言葉のひとつといってよい。
しかし、iPS細胞の発見後、この言葉がそれほど荒唐無稽な話とは思えなくなった。
人間が生きた「痕跡」のほんの一部さえあれば、そこからその遺伝子を取り出し、その遺伝子に続く一つの民族を起こしうるからだ。
ちょうど映画「ジュラシック・パーク」の恐竜のように、人間でさえも、遺伝子の断片が氷河の中の岩礁に付着しておれば、ソノ生命は千年後にもよみがえられる。
人間の生命というのは、設計図さえ残っていれば再生できる、そうした能力をもったものとして存在しているのだ。
またiPS細胞の発見は、現代人は一笑に伏し本気にしない「死後の復活」も、ありえないことではないことを示すことになった。
もちろん、人間の「物理的な再生」と、霊魂を含めた「復活」は全く異なるものである。
聖書によれば、人間は「肉体」と「心」と「霊魂」で出来ており、「心」は肉体に属するものとして、「死」とは霊魂が「肉体」から離れることを意味している。
「エネルギ-保存の法則」(熱力学の第一法則)により、一度この世に生れ落ちた人間を構成した物質は「拡散」しながらも宇宙のどこかにとどまっている。
ただし「エントロピーの法則」により拡散したものは元には戻らない。
iPS細胞により肉体が再生可能であるならば、後はその肉体に「離れた」霊魂を戻すとができたら、人間は復活できる。
旧約聖書(エゼキエル書37章)には、「エントロピーの法則」を逆行するような、アタカモ人間の「復活」を描いたかのような「迫真」の記述がある。
//彼はわたしに言われた、”人の子よ、これらの骨は、生き返ることができるのか”。
わたしは答えた、”主なる神よ、あなたはご存じです”。彼はまたわたしに言われた、”これらの骨に預言して、言え。枯れた骨よ、主の言葉を聞け。主なる神はこれらの骨にこう言われる、見よ、わたしはあなたがたのうちに息を入れて、あなたがたを生かす。 わたしはあなたがたの上に筋を与え、肉を生じさせ、皮でおおい、あなたがたのうちに息を与えて生かす。そこであなたがたはわたしが主であることを悟る”。
わたしは命じられたように預言したが、わたしが預言した時、声があった。見よ、動く音があり、骨と骨が集まって相つらなった。
わたしが見ていると、その上に筋ができ、肉が生じ、皮がこれをおおったが、息はその中になかった。
時に彼はわたしに言われた、" 人の子よ、息に預言せよ、息に預言して言え。主なる神はこう言われる、息よ、四方から吹いて来て、この殺された者たちの上に吹き、彼らを生かせ”。
そこでわたしが命じられたように預言すると、息はこれにはいった。すると彼らは生き、その足で立ち、はなはだ大いなる群衆となった。//
この旧約聖書の「群集」のイメージと、新約聖書の「この石からでもアブラハムの子孫を生むことができる」という言葉がオーバーラップするのである。

ところで、死後の復活というものは「エントロピー増大の法則」の究極の反証である。
聖書の「復活」の場面では、イエスの復活以外にもある。
それが、よく知られている「ラザロの復活」の場面(ヨハネ11章)である。
ただし、ソノ出来事の中の「イエスは涙を流された」の「涙」の意味は全く誤解されているようだ。
イエスは、エルサレムの街から離れたベタニアの村で愛する「ラザロの死」を聞いて、そので姉妹であるマルタとマリアの家にむかった。
その段階でイエスは、「わたしがそこにいあわせなかったことを、あなたがたのために喜ぶ。それは、あなたがたが信じるようになるためである」と語っている。
そして、イエスがエルサレム行くと、ラザロはすでに四日間も墓の中に置かれていたという。
イエスがマルタに「あなたの兄弟はよみがえるであろう」と語ったが、マルタは「終りの日のよみがえりの時よみがえることは、存じています」と答えている。
そしてマルタは妹のマリヤを呼び、「先生がおいでになって、あなたを呼んでおられます」と小声で言った。
これを聞いたマリヤはすぐ立ち上がって、イエスのもとに行った。
マリヤは、イエスと出会いその足もとにひれ伏して「主よ、もしあなたがここにいて下さったなら、わたしの兄弟は死ななかったでしょう」と語った。
イエスは、彼女が泣き、また彼女と一緒にきたユダヤ人たちも泣いているのをごらんになり、「激しく感動し」また心を騒がせて、ラザロをどこに置いたのかと尋ねた。
彼らはイエスに「主よごらん下さい」と語った。
その時に、「イエスは涙を流された。」とある。
イエスの涙を見たユダヤ人たちは「ああ、なんと彼を愛しておられたことか」と語っている。
また別の人々は「あの盲人の目をあけたこの人でも、ラザロを死なせないようには、できなかったのか」と言った。
イエスはまた「激しく感動し」て、墓にはいり、「石を取りのけなさい」と語った。
死んだラザロの姉妹マルタは「主よ、もう臭くなっております。四日もたっていますから」答えた。
その時イエスは彼女に「もし信じるなら神の栄光を見るであろうと、あなたに言ったではないか」と語った。 人々は石を取りのけ、イエスはそばに立っている人々に、これは神ががわたしをつかわされたことを、信じさせるためであると言いながら、大声で「ラザロよ、出てきなさい」と呼ばわった。
すると、死人は手足を布でまかれ、顔も顔おおいで包まれたまま、出てきた。
そしてイエスは「彼をほどいてやって、帰らせなさい」と語った。
イエスのなさったことを見た多くのユダヤ人たちは、イエスを信じた。
以上が「ラザロ復活」のアウトラインだが、この出来事の「イエスが涙を流した」ことに対して、人々は「なんとラザロを愛されたことか」と反応している。
しかしイエスは最初から「ラザロを復活させる」ツモリでラザロの姉妹の家に向かったのである。
何も「ラザロの死」に涙を流すほど悲しむ「必然性」はマッタクないのである。
実はこの出来事で「浮き彫り」になっていることは、イエスを信じることができずピントはずれのことをいう人々の言動であり、イエスの涙とはそうした「不信仰」に対するモノなのである。
ところで上記の「激しく感動し」(ヨハネ11章33)は別訳の聖書では「霊の憤りをおぼえ」となっている。
イエスの涙の理由は、「もし信じるなら神の栄光を見るであろうと、あなたに言ったではないか」という少々キツイ言葉からも推測できる。
つまりイエスは「ラザロの復活」を信じることのできない「不信仰」に対して、「涙を流された」のである。
さらに、この場面で注目すべきことは、「終りの日のよみがえりの時よみがえることは、存じています」というマルタの言葉と、その時の「復活」が「ラザロよ でてきなさい」というカタチで「名ざし」であるということである。

現代人には「死後の復活」などということは、荒唐無稽にも思えるものだろうが、第一コリント15章には次のようにある。
「しかし、今やキリストは、眠った者の初穂として死者の中からよみがえられました。
キリストは死者の中からよみがえられ、眠った者の初穂となってくださいました。初穂は、その後に続く実りへの希望です。」
キリスト教において、この世は「過ぎ去るもの」あるいは「一時的なもの」という位置づけであり、この世は人間がソコカラ「救われる」べき世界である。
したがって、この世に「神の国」(ユートピア)を打ちたてようという試みは、すべて無残な結果となる。
この考え方は、ヒューマニズム(人間中心主義)に反するかもしれないが、それが「神の経綸」である。
ところで使徒パウロは、「復活」という望みによって救われ、「死人の蘇り」がないのならば自分の信仰はすべて虚しいとまでいっきっている。
近年、ほとんどのキリスト教会では「復活」を語らない。「人間の復活」を語るだけの信仰がもてなくなっていることの証拠かもしれない。
しかし、それではキリスト教が最も根源的な「信仰」を失ったのと同義であり、それを本質的にキリスト教といえるものか、はなはだ疑問である。
死をもって帰結する人間、言い換えると復活しない人間は、宇宙のゴミとなって離散するだけの存在でしかない。
生物学者・今西錦司は次のように書いている。
「人間もまたこの世界を成り立たせている他のいろいろなものと同じように、もとは一つのものから生成発展したということは、人間がいくら偉くなたって消し去ることはできない。だからこれに対する主体的反応として、宗教家や詩人がわれわれ人間以外のいろいろなもの、たとえば木や石を話しをし、その声を聞いたからといって、われわれはちっともおどろかない」。
さて、人間がただ宇宙に散らされたゴミのような存在だったとしたら、そのゴミ的存在が、「創造主」なる神を想起するなどということがアリウルだろうか。
おそらくは「被造物」であるからこそ、根源的に「創造者」に焦がれ、探し求め拝しようとするのではないだろうか。
ところでユダヤ教とキリスト教とイスラム教が共有するのが「旧約聖書」であり、人間と神とのコミュニケーションの歴史的な記録である。
人類には聖書を通じて「神」とはどのような存在であるかを知る宝のような「手がかり」が残されているということである。
一見荒唐無稽とも思える部分を多く含む「聖書」が、今をもってもスタレルことなく読まれ続けている事実こそが、人間がある根源的な「唯一のもの」と結びついていることの証ではなかろうか。