秦氏と空海

先月の京都の嵐山・渡月橋あたりの水害をみて、京都をその土木技術によって開拓した一族のことを思い出した。
8世紀の平安京の建設にあたっては、韓半島から渡ってきた「渡来人」秦氏(はたうじ)が中心的な役割を果たした。
ところで東儀秀樹氏といえば「雅楽」演奏家で、しばしばマスコミにも登場される。
東儀氏は、奈良時代から続く雅楽の「楽家」(がくけ)の家系に生まれ、1500年ほど前まで溯る由緒ある家柄なのだ。
聖徳太子が生きていた時代の秦氏の族長が、東儀氏の先祖である「秦河勝」で、聖徳太子のブレーン及びパトロンでもあった。
秦河勝は「広隆寺」を建て、聖徳太子より「弥勒菩薩」半跏思惟像を賜り、それをコノ寺に安置した。
本拠地とした京都市右京区「太秦」(うずまさ)などその名を残している。
さらに右京区西京極には川勝寺とよばれる寺があり、近隣には「秦河勝終焉之地」との碑がある。
数年前に、瀬戸内海に面した「秦氏ゆかり」と聞いた港町・坂越を訪れたところ、神社の境内で東儀氏の名をみつけ、東儀氏が秦氏から分かれた一族であることとともに、秦氏が「雅楽」の世界と深い関わりをもつことを知った。
秦河勝は聖徳太子亡き後、蘇我入鹿の迫害をさけ、坂越にやってきた。
村人の朝廷への願い出により、創建されたのが「大避神社」である。
なお秦河勝が、弓月国からもってきた「胡王面」がこの神社にあり、それには天使ケルビムの像が彫られている。
この胡王面は「雅楽の面」として使用され、その鼻は非常に高くセム族的な鼻である。
坂越の大避神社内の境内には、船絵馬や坂越浦を出入りした「塩廻船」がおいてある。
この船は国撰択無形民族文化財「船渡御祭」に使用されたもので「楽人」が乗り渡御の間雅楽を奏でる役目をした。現在は復元船が使用されている。
大避神社祭神と雅楽の関係は深く祭神を祖と仰ぐ雅楽家には、東儀・岡・薗・林の四家があり「雅楽」を伝承している。
大避神社前方坂越湾に浮かぶ周囲2キロあまりの小島が生島である。
生島(いきしま)の名は秦河勝が生きて、コノ地に着いたので名づけられたと伝えられている。
またコノ地で没し、生島には秦河勝の墓がある。
ところで、東儀秀樹氏は長年の思い出会った先祖・秦河勝の墓の前で「雅楽」を奉納した時のことを次のように書いている。
//神事は10月11日の朝から始まった。前日まで気さくに笑顔で話していた宮司さんの顔つきが変わる。衣冠装束のその姿からは高い威厳と品格が漂う。町の人たちがどんなにお酒を飲んで騒いでも動ずることなく、背筋をピンと伸ばして笏(しゃく)を持ってとても素敵だと思った。
先祖が神となって祭られている神社の宮司がこういう人だととてもうれしい。
神の御扉を開き、捧げ物を献じ、雅楽も捧げる。家族をはじめ、門下十数人を連れ、神前で一堂に演奏した。
海を見下ろす神殿のある浜から数100m離れた小さな無人島に墓があり、神主、祭りの役員と和船で渡る。
天然記念物に指定されたその島は、ほとんど人の手がかかっておらず、うっそうとした茂みの中に古墳ともいうべき墓がある。
墓前で祝詞(のりと)を上げ、雅楽を奉納した。ここでは今の僕のしていることをそのまま伝えたいと思い、オリジナルの曲をひとりで捧げた。//

秦氏は、日本書紀によると応神天皇14年に「弓月君」(ゆづきのきみ)が、朝鮮半島の百済から百二十県の人を率いて帰化し「秦氏」の基となったという。
しかし、彼らの「出身地」は朝鮮半島ではなく、朝鮮半島は単なる「経由地」であった。
「弓月君」と言う名称で暗示されるように、秦氏はペルシャからウィグルを経由して中国・秦国にやって来たのである。
その西域諸国のウィグルあたりに「三日月王国」という国があり、中国の史書「資治通鑑」では、この国を「弓月(クルジャ)王国」と表記している。
そして秦氏は中国の秦の「万里の長城」の建設に従事した。
しかしこの苦役に耐えかねて朝鮮半島を経由して、日本にやってきたのである。
彼らは高度な技術力を持ち、天皇の権威を誇示するために「巨大前方後円墳」の建設をはじめ、数々の土木工事を行ってきた。
例えば、淀川流域は氾濫が多く荒れ果てていたが、ここに堤防を築き難しい「治水工事」をやってのけ、「京都盆地」一帯をソノ所有地にした。
その際、相次ぐ鴨川や桂川の氾濫で荒れ果てた土地を治水工事によって川の流れを大きく変えて、そこを住みやすい土地に改良していったのである。
この秦氏は645年の「大化の改新」後に、秦、畑、波田、羽田などの「姓」に変えていった。
これらの人々が住んっだ場所が畑野、畠山、波多野、八幡などの地名がついたのである。
ところで平安京遷都には秦氏が大きく関わり、平安遷都のために必要な巨額の資金も「秦島麻呂」が出した。
「平安京」という名は、イスラエルのエルサレムと同じ意味で、エル・サレムはヘブル語で「平安の都」という意味である。
また京都の近くに「琵琶湖」があるが、イスラエルには琵琶湖と大きさも形も似た「ガラリヤ湖」という湖がある。
「ガラリヤ湖」は、これは古代には「キネレテ湖」と呼ばれていて、「キレネテ」とは「琵琶」を意味している。
ところでキリスト教の「ネストリウス派」がインドや中国に伝わるが、中国では「景教」と呼ばれた。
ネストリウス派の特徴は、キリストの位格は1つではなく、神格と人格との2つの位格に「分離」されると考える。
学校の教科書にあるザビエルによる「キリスト教伝来」よりも9世紀も溯る聖徳太子の時代には、「福音書」の内容などが日本に伝わっていたことが推測される。
聖書ではイエス・キリストは「馬小屋」で生まれたとなっているが、聖徳太子の本名は「厩戸皇子」(うまやどおうじ)で、聖書から借用された可能性が推測される。
また聖徳太子は、憲法17条でたしかに「仏教」(三宝)を敬えとといったが、それは第二条に出てくる言葉で、ケシテ「仏教立国」を目指したのではない。
むしろ日本古来の心を主体として、天皇を「大祭司」または「祭祀王」とする国家をメザシしていたのである。
それは「憲法十七条」の第一に「和をもって尊し」とあることでもわかる。
この「和」という考えは仏教や儒教の中にはなく、日本古来の「感性」によるものであり、人が主体であって、そこには仏はない。
また儒教に言うところの「徳」という言葉もない。
しかし、聖徳太子の一族は「仏教派」の蘇我氏に敗北し、山背皇子など子孫もことごとく殺された。
勝った仏教派の蘇我氏は、聖徳太子の「鎮魂」のために法隆寺を作り、聖徳太子をアタカモ「仏教立国」を目指した「立役者」のごとく奉ったために、「仏教の恩人」というイメージのが強くなったのである。

平安京を建設した秦氏は、全国に数多くある「稲荷神社」の創建にも深く関わっている。
その稲荷神社の頂点に立つのが、京都の伏見稲荷大社で、秦氏の首領だった「秦公伊呂具」が創建したものである。
実は、稲荷神社は秦氏の「氏神」であったのだ。
そして空海は、当初秦氏の私的な信仰だった「稲荷神」を自らが創建した東寺の「守護神」としている。
ではそもそも「稲荷神」とはナンなのだろうか。
「山城国風土記」によると、秦氏の祖先である伊呂具秦公は、富裕に驕って餅を的にした。
するとその餅が白い鳥に化して山頂へ飛び去り、そこに稲が生ったので、それが神名となった。
伊呂具はその稲の元へ行き、過去の過ちを悔いて、そこの木を根ごと抜いて屋敷に植え、それを祀ったという。
稲生り(いねなり)が転じて「イナリ」となり「稲荷」の字がアテられた。
都が平安京に遷されると、この地を基盤としていた秦氏が政治的な力を持ち、それにより稲荷神が広く信仰されるようになった。
さらに、空海が東寺建造の際に秦氏が稲荷山(現在の伏見稲荷の地)から木材を提供したことで、稲荷神は東寺の「守護神」とみなされるようになった。
このような「稲荷社」ひいては秦氏との「繋がり」によって、空海に始まる真言密教の僧侶たちも、熱心に「稲荷信仰」を広めていったのである。
空海は774年讃岐の国に生まれ、12歳で「論語」などを勉強し15歳で都にのぼった。
18歳で当時の国立大学に入学を許可され、将来を嘱望された。
しかし大学の勉強に疑問をもち、周囲の反対を押し切り大学を中退した。
山岳修行を続けながら仏教をきわめようとしていた時、それまでに一度も見たことのない仏教(密教)の根本経典「大日教」と出会う。
当時の日本で、密教はそれほど重視されておらず、空海は正統な「密教」を学ぶために唐にわたる外はないと考えるようになった。
空海は佐伯氏という中流豪族の一族ではあったが、「経済的」にそれほど潤沢であったとも思えない。
大学を中退したような空海が「遣唐使」の一員になれたのはドウシテだろうか。
あくまでも「仮説」だが、コノ段階で「秦氏」との接点はなかったであろうか。
いずれにせよ空海は31歳の時に入唐留学生として遣唐使の一員となる許可が与えられ、804年遣唐使一団に混じり、一路唐の長安をめざした。同じ船団には最澄の姿もあった。
しかし、空海はあくまでも「私度僧」という立場でもあり、ある種の「不安定」さがツキまとっていた。
空海が学ぼうとした長安の高僧青龍寺の恵果(けいか)は、「胎蔵界」つまり真理(大日如来)が宇宙で運動する発現形態と「金剛界」つまりその運動が真理へ帰一していく形態の両方(両部)に通じていたといわれる。
しかし、それらの「奥義」を伝えるべき「弟子」に恵まれていなかった。
恵果は空海に出会うなり、一目で空海にその資格ありとみた。
そればかりか恵果は、空海を恵果自身の師匠である「三蔵」の生まれ変わりとみたのである。
そして自分の持つ物すべてを空海に惜しげもなく開陳し譲ることをはばからなかった。
恵果は空海に会ってわずか3ヶ月で最高位である「亜闍梨」の位を授け、空海を密教の正統なる「継承者」と認定したのである。
恵果は空海に早く日本に帰国して、日本に密教の奥義を伝えることを願った。
そして空海は、師・恵果のすすめで帰国を決意し、806年10月帰国したのである。
しかし当初20年の予定で中国に渡ったのである。わずか2年あまりで勝手に帰国しては「国法」をおかしたことになる。
空海は大宰府・博多の地にあった。
仮に許されて都に上る時が来るにせよ、都には彼がそこから逃れ唐に渡る決意をした「旧態依然」たる仏教がそこにあるのだ。
しかも空海は最澄らとは異なり一介の「私渡僧」にすぎない、今「徒手空拳」で都にでていったところで誰も相手にしないということをよく知っていた。
空海は「反動勢力」と戦うためにも密教の「理論化/体系化」が必要であった。
空海が実際に過ごした大宰府には、得度受戒の儀式を行う「戒壇院」がある観世音寺があり、多くの留学生が経典を伝え多くの蔵書にも恵まれていた。
また、空海はこの観世音寺に派遣されてきた東大寺や唐招提寺の学僧とも交わることができたのである。
空海はその間、唐より持ち帰ったものの「目録」を朝廷に送ってアピールしていく。
空海が朝廷に送った「御請来目録」に載っているリストには経典や注釈書が461巻、おびただしい数の法具や仏画、仏像などがすべて記されていた。
そこには早期帰国の罪を補っても有り余るほどの、当時の文化価値からすれば「史上空前の財宝」が載っていると自負していた。
空海は、先に密教を断片的に持ち帰って日本の密教の国師と崇められる最澄に対して、自分の方が密教を体系的に受け継いでおり、「こちらが本道」という絶対的確信もあった。
そして博多に滞在していた空海に、807年の夏朝廷より勅令が来た。
京ではなくまずは和泉国槙尾山寺に仮に住めと言うものであったが、とにかく空海の幽閉はとかれた。
空海はとりあえず槇尾山に居を移し、現在の槙尾山施福寺でさらに2年間すごす。
さらに朝廷が空海に「京にのぼりて住め」として与えたのは高雄山寺(現在の神護寺)であった。
新たに天皇となった嵯峨天皇は空海の書や詩を愛していたのだ。
平安京をはさんで、東西に比叡山の最澄、高雄山の空海と平安仏教の二大リーダーが並び立った。
ところで空海の入唐は、「大秦景教流行中国碑」が建てられてから23年後のことで、空海がいた当時の唐では景教文化が栄えていて、空海がそれに関心を示さなかったハズはない。
空海にサンスクリット語を教えた人物「般若三蔵」は、実際に当時景教に心酔し始めていたのである。
真言密教の「大日如来」の考えや「弥勒菩薩来迎」の信仰は、キリスト教における「天地創造の神」やイエスキリストの「再臨」の信仰に符合している。
仏教における「仏」は、もともと「(真理に)目覚めた人」という意味であった。
はじめ「仏」とは、導師シャカ(釈迦)のことであり、人々から尊敬された一人の人間を示す言葉にすぎなかったのである。
ところが密教の「大日如来」では 「永遠の実在」としての仏(宇宙仏)の存在を認めるのである。
また、空海が創建した高野山の儀式では、最初に棒で十字を切る(中印と呼ぶ)し、真言宗の儀式にある灌頂(かんじょう)は、キリスト教の洗礼そのものである。
カソリックの洗礼では「三位一体」の意味をこめて、三度水を頭にかけるが、「灌頂」でも三度度水滴をかける。
また、信者は手に数珠(ロザリオ)を持っている。
さらには、空海が灌頂を受けて授かった「遍照金剛(へんじょうこんごう)」という法号は、「あなたがたの光を人々の前で輝かせ」(マタイ5章)の言葉を彷彿とさせる。
さて空海との関係で、興味深いのは、彼の作との説があるものの、一般には「作者不明」とされている「いろは歌」である。

(い) ろ は に ほ へ (と)
ち り ぬ る を わ (か)
よ た れ そ つ ね (な)
ら む う ゐ の お (く)
や ま け ふ こ え (て)
あ さ き ゆ め み (し)
(ゑ) い も せ   (す)

ここで、一番下の文字を続けて読むと「とがなくてしす」(歌の中で清音と濁音は一つになっている)となることがわかる。つまり「咎なくて死す」である。
更に、左上(い)左下(ゑ)右下の文字(す)を続けて読むと、「イエス」と読める。
「いろは歌」に秘められた「暗号」は、「罪なきイエスが十字架上の死を遂げた」ということである。
さて前述の如く、空海は806年留学先の唐から帰国して一年間、大宰府・博多にいた。
そして博多駅近くに空海が創建した東長寺があることでもわかる。
東長寺の門には「密教東漸第一の寺」とあり、東長寺の名は空海が東に長く密教が伝わることを願ってつけた名前である。
空海は早期帰国という「国禁」を犯した立場にあり、空海の「博多滞在」はある意味「処分待ちの時間」ともいえる。
司馬遼太郎は「空海の風景」で、空海が博多にいた時間を「戦略的時間」と表現している。
それは、新しい「世界観」をウチ立て、都にウッテ出るのに必要な時間でもあったからだ。
そして、空海が博多で構想した「新しい世界観」とは、釈迦が伝えた「原始仏教」とは似ても似つかない「キリスト教化(景教化)した仏教」であった。