クールな救出劇

日本では戦後、資源開発について積極的に海外に出て行くべしという流れがあった。
今、テロリストが様々な国に広がり連携を強めている。
テロリスト襲撃のリスクの高まりとともに、その流れに歯止めがかかりつつある。
特に、資源が豊富な場所であるほど、テロの対象が増え治安状況がサラに悪化する傾向になる。
アルジェリアの人質事件は、プラントが一旦「テロの標的」になってしまえば、極めて脆弱であることを露呈したカタチとなった。
今、世界の中で自分達だけで、またはどこかの国と協力して「救出作戦」を行える部隊を持っているのはアメリカ、イギリス、フランス、イスラエルぐらいでそれほど多くはない。
今のところ日本には人質になった日本人を救出する「仕組み」がないのである。
日本の場合は法律の制約もあり、実際に部隊を持てるのかというソモソモ論から始めなければならない。
したがってテロ対策の現状は、英米などと「連携」が取れているか、危機の時にそういう「連携」をヒキダせるかにかかっているといえる。
折りしも、今年のアケデミー賞「作品賞」は、アメリカ大使館占拠のテロからの脱出を描いた「アルゴ」という映画であった。
金カケすぎ技術ツカイすぎの映画に食傷気味だった分、「アルゴ」(Argo)の「真実味」が新鮮だった。
タイトルは「スターウォーズ」のパクリ映画ともいっていい「アルゴ」からきている。
とはいっても脚本の段階で「お蔵入り」していたもので、この「脚本」が後に人質の命6名を救うことになるとは、誰も予想しなかったであろう。
映画「アルゴ」は、1979年のイランのアメリカ大使館人質事件を題材とした2012年のアメリカ合衆国の映画である。
ベン・アフレック監督・主演でアカデミー賞「作品賞」受賞だが、主演賞も助演賞もイナイという点で、稀有の映画であった。
イラン革命真っ最中の1979年、イスラム過激派グループがテヘランのアメリカ大使館を占拠し、52人のアメリカ人外交官が人質に取られた。
だが占拠される直前、6人のアメリカ人外交官は大使館から脱出し、カナダ大使公邸に匿われる。
大使館からの脱出者がいると知らせを受けたアメリカ政府は、すぐに彼らの国外「救出作戦」を検討し始める。
脱出者がイラン側に見つかれば「公開処刑」の可能性が高かったからである。
6人はカナダ人としてのパスポートを「偽造」できたが、すでにシュレッダーにかけられていた6人の写真は、イラン側の「人海戦術」で復元することに成功しつつあった。
また、彼らをカナダ人としてイランから安全に出国する「理由」を仕立て上げるのが問題だった。
英語教師に仕立てようか~NO。
イラン政府により国内すべての英語学校が閉鎖されていたからだ。
農業の調査官にしようか~NO。
季節は冬であり、調査する農作物などなかったためである。
そんな中、CIAの「人質奪還のプロ」であるトニー・メンデスは、6人にSF映画のロケハンに来たハリウッドの撮影スタッフのフリをさせるという作戦を思いつく。
もし脚本家が思いついた「救出作戦」だったら「もっと真実味のあることを考えろ」とツキ返されそうな物語である。
トニー・メンデスはさっそくハリウッドへと飛び、「猿の惑星」などで活躍する特殊メイク界のジョン・チェンバースの力を借りて「ニセ映画」をでっち上げる。
またメンデスは、敵を騙すためには見方をもの騙すことが必要であると考えた。
メンデス、チェンバース、そして映画界の面々はこのデッテ上げに「真実味」をもたせるため、脚本の権利を取得、「スタジオ・シックス」というニセの製作会社を設立、雑誌に広告を掲載、製作発表パーティを開催してニセ映画「アルゴ」を世界に向けて宣伝した。
さらに、メンデスはテヘランへと向かい、6人の館員にカナダ人映画スタッフにみせかける特訓を行った。
カナダの基本知識、大統領は誰かとか、都市の名前とかを徹底的に叩き込んだ。
数日の訓練ののち、一行は空港へと向かう。
そして、ニセの書類で税関をクグリ抜ける緊迫の手順を踏んで、ついにチューリッヒ行きの飛行機に乗り込むことに成功した。
そして、飛行機がイランの領空を抜けて脱出を成し遂げた時、安堵感から彼らはブラッディ・メアリー(カクテル)で祝杯を挙げるのである。
この救出劇にはカナダ政府も大きな役割を果たしたため「カナダの策謀」と呼ばれたが、CIAの「ニセ映画製作作戦」を含む詳細は機密情報とされツイ最近まで公にされていなかったものである。
しかし事件から30年以上が経った今日「ハリウッド」がアメリカの安全に貢献したという物語ソノモノが「ハリウッド映画」になった点でも前代未聞であった。

「救出劇」において、「アルゴ」のトニー・メンデス以上に名を轟かせている人物がいる。
1943年7月25日イタリア王国の首相であったムッソリーニは、大評議会が「首相解任」の動議を可決したことにより、首相の座を追われて逮捕された。
これに対するナチス・ドイツの対応は素早く、翌日にはアドルフ・ヒトラーが「ファシズムの盟友」であるムッソリーニを救出するべく、ドイツ空軍のクルト・シュトゥデントにムッソリーニ救出作戦の立案及び決行を、武装親衛隊のオットー・スコルツェニーには救出後の保護を指令した。
一方、ムッソリーニの身柄を拘束したバドリオ政権は、反体制派による「奪還」を防ぐために、ムッソリーニをイタリア軍の警備の下、イタリア各地を頻繁に移動させていた。
シュトゥデントはラジオ放送の暗号解読等による調査によって、最終的にムッソリーニがグラン・サッソのホテル「カンポ・インペラトーレ」に幽閉されていることを突き止めた。
そして、1943年9月12日作戦は決行された。
ムッソリーニの幽閉されているホテルはグラン・サッソの山頂に建っており、付近に輸送機が着陸できる余裕がない。
またパラシュート降下では狭い範囲に集中させての降下が困難である。
そこで空挺隊を「主力」としたコマンド部隊をグライダーを使ってキワドク着陸させた。
その中には、武装親衛隊のオットー・スコルツェニーも含まれていた。
ドイツ空軍の空挺団の一隊がムッソリーニの幽閉されていたホテルへ突入し、一発の銃弾も発砲することなく、幽閉されていたムッソリーニの身柄を無傷で確保した。
その後はオットー・スコルツェニーがヘリコプターでムッソリーニをドイツ軍の支配地域まで輸送し、またグライダーで降下した部隊はロープウェイで下山し、予定どおり陸路でドイツ軍の支配地域まで引き揚げた。
この作戦は、困難な条件を克服した「要人救出」の成功事例として名高く、空から救出部隊を送り込む「大胆不敵」さ、および無用な死傷者を出さないスマートさで世界のドギモを抜いた。
ところで、オットー・スコルツェニーの名を高らかにせしめたのは、この「ムッソリーニ救出劇」ばかりではない。
第二次世界大戦における「独ソ戦」勃発とともに、ハンガリー王国は枢軸国の一員として参戦した。
ハンガリーは工業・石油の供給地であり、バルカン半島とドイツをツナグ要衝でもあるため、ドイツにとってはどうしても手放せない地であった。
しかし第二次世界大戦の戦況は次第に不利になり、ハンガリー王国・摂政ホルティ提督と首相は「極秘裏」に連合国と休戦交渉を行った。
そして、アドルフ・ヒトラーからオットー・スコルツェニーに、同盟国ハンガリーの連合国との「講和」の動きを「阻止」するように指令が出された。
スコルツェニーはヴォルフ博士という「偽名」を使い、自らブダペスト市街を偵察して回り、摂政ホルティ提督が溺愛した次男がいるのをつかんだ。
そしてコノ次男を誘拐し、ホルティ提督に講和への翻意を促すことにした。
ムッソリーニの「電撃救出」の約一年後、1944年10月15日に決行されたコノ作戦を「ミッキーマウス作戦」という。
しかし、誘拐は成功したものの、なぜかホルティ提督はその「脅迫」を受け入れなかった。
放蕩息子の放蕩がすぎたのかもしれないが、これに続いて行った「パンツァーファウスト」作戦では見事に目的を達成した。
オットー・スコルツェニーは、コマンド部隊による「パンツァーファウスト作戦」や「グライフ作戦」を指揮したことから「ヨーロッパで最も危険な男」と呼ばれるにいたった。
なお、宝塚歌劇の「グラン・サッソの百合」は、オットー・スコルツェニーの「ムッソリーニ電撃救出」の出来事に材をとった恋愛物語である。

2013年1月21日、アルジェリア軍の強行作戦で人質23人(日本人10人)が犠牲になった。
イナメナス天然ガス関連施設の人質事件の「結末」を見て、どうしてペルー大使館占拠事件におけるような「クールな救出劇」ができなかったかという思いを抱いた日本人も多いに違いない。
実際、「事前通告」なしにアルジェリアの作戦が始まり、数多くの被害者が出たことに多くの国が戸惑った。
実はペルー大使館突入の場合にも「事前通告」はなかったが、アルジェリア人質事件とペルー大使館占拠事件とではドノヨウナ「条件の違い」があったのだろうか。
1996年、天皇誕生日レセプション中のペルー日本大使公邸をトゥパク・アマル革命運動(MRTA)の14人が襲撃し、約600人の人質を取って占拠した。
一方、ペルー政府は公邸敷地内に対人地雷を設置するなど、軍及び警察による武力解放作戦に備えた。
当初MRTAは、ペルー政府要人や日本大使館員程度の少数の「人質確保」を目的としていた。
そのため、MRTAは人質になっていた赤十字国際委員会代表の求めに応じて、早期にフジモリ大統領の母・ムツエを含む女性や老人、子供など200人以上の人質を解放し、その後も「継続的」に人質を解放した。
またアメリカ人の人質も早期解放されたが、これはアメリカ政府が自国民救出を理由に特殊部隊を投入する事を恐れたからではないかという見方もある。
それでもナオ多くのペルー政府要人や軍人、日本大使館員や日本企業のペルー駐在員らが、人質として大使公邸に残された。
ペルーのアルベルト・フジモリ大統領と国家情報局顧問は、事件発生翌日には「武力突入」を検討していたという。
しかし、事件直後に日本の橋本龍太郎首相の特命を受けてペルー入りした外務大臣が「平和的解決を優先してほしい」と勧めたことにより、即時の武力突入を「断念」したという。
事件発生から1ヶ月ほど経った1997年1月下旬、事件が「膠着状況」に陥ったことから国内外からの批判の高まり、内政の不安定を嫌ったフジモリ大統領の意を受けたペルー警察当局は、「武力突入計画」の立案を始めた。
警察当局はヒソカに大使公邸と同じ間取りのセットを造り、特殊部隊が突入する「シミュレーション」を重ねた。
そして人質の数は、4月の事件解決時には70人程度となっていった。
最終的な人質の構成は、数名の閣僚やペルー軍の将校を含むペルー政府関係者と、駐ペルー日本大使館員、日本の大手企業の駐在員などが中心となっていた。
そのうち、MRTA構成員の中には、人質との間にコミュニケーションを取るようになる者も珍しくなかった。
人質たちは暇をツブシ、お互いのコミュニケーションを促進するため、積極的に日本語とスペイン語の相互レッスンや、トランプやオセロ、麻雀などのゲームを行いったのである。
そして、ペルー大使館があるリマ市内でも面白い変化がおきていた。
リマ市内の日本料理レストランからは毎日、日本料理やインスタントラーメンなどが届けられ、ペルー人の人質やMRTA構成員にもふるまわれた。
また、多数の日本の報道陣がリマに詰めかけ、リマ市内の日本料理レストランから膨大な量の日本料理の出前を取ったため「日本特需」が起きていた。
1997年1月7日からペルー警察当局は「フジモリ大統領の発案」による公邸周辺の家屋より公邸地下までの合計7本のトンネル掘削をハジメていた。
なおトンネル掘削に伴う「騒音」を隠すために、大音量で「軍歌」を流し続けるなどのカモフラージュも行った。
また「差し入れ」の医療器具やコーヒーポット、さらには聖書などの中にも多数の「盗聴器」が仕込まれていた。
突入日の午後、MRTAが日課となっていたサッカーを始め、このために1人を除くMRTA構成員全員が1階にいたことが、密かに持ち込まれた無線機からの連絡により判明した。
この連絡を受けて突入作戦の実行が決定され、その連絡を受けた者は2階にいた人質の多くを急いで「奥」の部屋に押しトドメた。
人質が2階に集結したことを受けて、事件発生から127日後の4月22日に、掘削を進めていたトンネルの終着地となる1階の床所が「爆破」され、その穴と正門から部隊が突入した。
そして、ペルー海軍特殊作戦部隊を中心とした軍・警察の特殊部隊により、最後まで拘束されていた72人の人質のうち71人を救出した。
しかし、人質の1人と特殊部隊隊員2名が死亡し、MRTA構成員は14人全員が死亡した。
1996年のペルー日本大使公邸占拠事件にカカワった元日本外交官は、アルジェリア人質事件のケースでは、一般的な評価として時間をかけることはできなかったインタビューで答えている。
また「事前通告」については、外国人が巻き込まれたといっても事件は、アルジェリアの領土内しかも多国籍の企業による天然ガス関連施設という民間施設で起きた。
国際的な地位が保障されている施設ではなかったので、「事前」に通告する義務はないという。
また、これだけ多くの国が巻き込まれており、事前に通告すべきだと考える国がある一方で、事前に連絡するとさまざまな反応が予想され、皆が強行策に同意するとは考えられない。
一刻を争うケースでは、「事前通告」はアマリ意味をなさない。
テロリストが人質を「奥地」に移して立てこもっていたら状況はさらに悲惨になっていたに違いない。
つまり、アルジェリア人質事件の場合ペルー日本大使館占拠事件のような「持久戦」はあり得なかったとしている。

最近、テロといっても多様化し「サイバー・テロ」なども起きている。
将来、テロリストがヘリコプターで「細菌」をバラマク「細菌テロ」ばかりではなく、「紙幣」をばらまく「通貨テロ」などがあってもおかしくない。
紙幣をばらまいて当国の「通貨価値」を落とすのだ。
「アルゴ」ではハリウッドが人質救出に一役かったが、かつて日本の「大蔵省印刷局」が韓国を「通貨テロ」から救った「秘史」がある。
1950年6月北朝鮮軍は38度線を越えてソウルで韓国銀行(中央銀行)を襲撃した。
ここで北朝鮮軍は、韓国銀行券とみなされて通用していた旧「朝鮮銀行券」の印刷原版を発見したのである。
これが北朝鮮軍の手中に落ちた以上は、韓国経済は徹底的に破壊されるのが決まったも同然であった。
紙幣を大量に印刷し、ヘリコプタ-で大量にばら撒けば超インフレが起きる。
そして政府や軍は物資を「調達」できなくなる。すなわち戦争が出来なくなるというわけだ。
反対に北朝鮮は未発行の紙幣をバラマクことで、兵站維持に必要な物資を意のママニ調達できるのである。
また新規に紙幣を印刷して散布し、韓国経済を収束しようもないインフレに突き落とすことすら、侵入軍(北朝鮮軍)は可能となったのである。
この上は一刻も早く、朝鮮銀行券の流通を禁じ、新たに韓国銀行券を刷ってそれへ「切り替え」させなければならない。
しかし、当時の韓国政府の全機能は半島の南端の釜山に追い詰められていた。
つまり、新紙幣の印刷などできる状態ではなかったのだ。
この事態に米軍当局は、韓国銀行券の印刷を日本の大蔵省印刷局に命じたのだ。
しかしその作業は徹夜の突貫作業のように「過酷」ソノモノだったという。
極度の機密上、場外作業に出すことはできず、何があっても米軍が命じた作業計画の変更は許されなかった。
そしておよそ2週間をかけて2千万枚の「韓国銀行券」を刷り上げ納入を完了したのであった。
この場面、武器(ホット)は使用されなかったものの、「集団自衛権」のクールな行使にあたるかもしれない。
かつて「紙幣印刷」が「砲弾製造」にも価するものであった歴史があったのだ。
そのことを忘れないでおこう。