広島の父

2011年3月11日、誰もが経験した事がない東日本大震災が起こった。
特に福島では原子力発電所が大きな被害を受け、放射能漏れという大事故となり、近隣への被害は甚大なものとなった。
テレビで見る東北の被災地は、写真で見た広島の原爆による惨状に酷似したものがある。
そのせいか、原爆「被爆地」から震災「被災地」への支援への意識は非常に高いものがあった。
実際、廃虚からよみがえった広島の「復興」の軌跡は、東日本大震災で被災された人々の「回生」の希望に繋がるのでは、と思う人々がいた。
復興にあたった広島市長の息子や中国新聞社などで委員会を設けて、原爆投下の荒廃からの復興に命をかけた浜井信三市長の回顧録「原爆市長」の復刻版の刊行が実現した。
「原爆市長」は、2千部発行され被災地へと届けられた。
「原爆市長」には、戦争放棄や世界平和の確立をうたった初の「平和宣言」を読んだ市長の思いや、平和記念公園、平和大通りの建設を進めた経緯、原爆ドームの保存運動など市政の歩みを綴られている。
これから震災、津波被害からの復興をしなければならない都市のリーダーに、復刻版の「原爆市長」は示唆に富んだ内容となっている。
被災した廃墟のあとの市民にどうやって食事を用意したとか、夏から冬を迎えるときの市民の服をどうしたとか、それに原爆のほぼ1月後にあった大水害などの対策はどうしたのかなどナド具体的に書いてある。
被爆時点で浜井市長は、「配給課長」の役職にあり、自らも原爆症に苦しんでいた。
着る服さえない市民に、1万も残った軍服を配給しようとしたが、元軍人は「我々はまだ戦う意思を失ったわけではない」と払い下げを拒否し、それをドウニカ説得して軍服をもらい受けたりした苦労なども書いてある。
そして浜井市長の最も優れていた点は、単なる「復興」ではなく未来を見つめていたこと。そして、広島を戦後平和さらには「世界平和のシンボル」としようとした点である。
浜井市長は、「原爆市長」の中で次のように書いている。
「三月、焼け跡に春がめぐって来て、青い草の芽が吹き出すと、それを待ちかねたように、あちこちにバラックが建ちはじめた。バラックはどんどんふえた。それを見て、私たちも、審議会の委員も慌てた。グズグズしていると、この勢いでは再び無秩序な街が出来上がってしまう。見渡す限り何もなくなったいまこそ、りっぱな町づくりのチャンスではないか」。
そこには、廃墟となった街をどのような街に蘇らせるかという「都市計画」や、さらには「平和都市」広島としての街づくりへの構想が含まれていた。
先日、NHKの「復興を夢見た男たち」という番組で、浜井市長によって「広島平和都市建設法」という戦後初の「地方自治特別法」が成立する経過が語られていた。
原爆投下で荒廃した原野にバラック音楽茶房「ムシカ」に「夢を語る会」が集まっていた。
「ムシカ」は現在も店が存在しているが、ここにはベートーヴェンの交響曲第9番のレコードが残されている。
当時の店主の息子によれば「夢を語る会」は、ベートーヴェンを聞きながら議論を戦わせていたという。
しかし、浜井市長は終戦時の配給課長当時「夢を語る会」のメンバーとしてドンなに「広島復興プラン」を描いても、いつもブツカッタのは、「財源」と言う壁だった。
何度も国会に陳情に赴き、有力議員を夜ガケ朝ガケで訪問た。
浜井氏は広島を戦後「平和」のシンボルとして、その復興させることがいかに国にとって大事なことか説いたが、なかなか予算を獲得することができなかった。
そして、自分が市長をしても意味がないのではと、何度も「辞職」を考えたと綴っている。
そうしたある日、GHQに働きかければ何とかなるのではとヒラメいた。
当時のGHQの国会担当に「法案」を見せたところ「素晴らしい」という応えを受けた。
これを機に「広島平和都市建法」実現へと歯車が動き出したのである。
しかし、人々の気持ちはいまだにバラバラだった。
百年は人が住めないといわれたこの焼け跡を本気で復興するつもりか。
どうせ金を使うなら、この焼け跡はこのままにしておいて、どこか別のところに新しい町をつくることを考えてはどうかといった意見もあった。
また一方で、市民の住みなれた土地に対する執着を断ち切るのは、そんな生やさしいものではない。
たとえ行政がどうあろうと、計画がどう立てられようと、彼らは自らの道を曲げないのである。
ゲンに、市民たちは続々と焼けただれた町に帰りはじめたのである。
復興局も、審議会も、こういう市民の姿を見ては、計画の完成を急がないではいられなかった。
そして何よりも、広島を復興の為には広島市民の心を一つにすることが大事だと「平和の祭り」をすることを思いついた。
浜井市長は、原爆で死ぬべきはずの人間が、生き残ったのだから、自分の人生をすべて「広島復興」にささげようと覚悟していた。
新しい街づくりの為には、いままでの住宅地にソノママ人々が住み直すだけでは 何の発展もなかった。
バラックを立て住み始めた人々に立ち退いてもらうことも必要であった。
息子の浜井順三氏は、突然押し入ってきた「立ち退き」反対の怪しい人々との等の口論が恐ろしかったと語っている。
襖を挟んで「奥さんが未亡人になってもいいのか」といった脅し文句が聞こえてきたこともある。
しかし、浜井市長とイツモ対立する立場にあった市議会議員は、浜井市長は誰よりも腹が据わっていて根性があったと語っている。
やくざマガイの人間に匕首(アイクチ)付けられようと、「どうしてもやらねばならぬのじゃ」といって広島の未来にむけた「都市設計」を開陳した。
そのうちに、ヤクザ達もその話に聞き入った。
浜井市長が「死んだつもり」で広島復興に賭ける姿は、癌宣告をうけて公園設立に命をかけた黒澤明の「生きる」の主人公と、オーバーラップするものがある。
そして、この「広島平和都市建設法」の成立に、一人の「福島県人」が尽力したのも「奇縁」である。
福島県人というより「会津人」という方が正確だが、会津といえば戊辰戦争で鶴ヶ崎城落城により灰燼と帰した。
白虎隊士の「唯一」の生き残りの飯沼貞吉の弟を父にもつ内務官僚の飯沼一省は、静岡県知事、広島県知事、神奈川県知事などを歴任した。
公職を退いた後は、都市計画協会の理事長や会長を務め、都市計画に関連する国の行政に協力した。
とくに1949年制定の「広島平和記念都市建設法」については、法案の提出に尽力したという。
戊辰戦争の敗戦で荒廃した会津人と被爆した広島人とが共感し合うのもよくわかる気がする。
浜井市長の思いは、広島の復興がどんなに日本にとって大きな意味を持つか訴えることであった。
それは、国から予算を引き出すための「戦略」でもあった。
1947年4月、公職選挙による最初の広島市長となり、同年8月6日に第1回広島平和祭と「慰霊祭」をおこない、「平和宣言」を発表した。
1948年から式典はラジオで全国中継されるようになり、この年はアメリカにも中継された。
1950年、平和記念公園を建設。朝鮮戦争の影響で、平和祭をはじめ全ての集会が禁止される中、パリにおいて、朝鮮半島での原爆使用反対を唱えている。
ところで、浜井市長の在任期間は、1947年~55年/1959年~67年であるが、途中「落選」をはさんだのは、理想的すぎると批判が強かった100m道路(平和大通り)建設計画の縮小・見直しを公約に掲げた保守系の渡辺忠雄に敗れたためである。
それでも、トータルで4期16年務めた。
1949年に制定された「広島平和都市建設法」は、当時の市民から「あまりに理想的」と批判をうけたが、現在の広島市を造る大きな基礎をつくる上で、この法律が果たした役割はキワメテ大きい。
「広島平和都市建設法」によって、広島市中区中島町に平和を祈念する公園(広島平和記念公園)の建設、同じく市中心部への幅員100m道路(平和大通り)の建設を打ちだし、現在の広島市の街並みの基礎を造ったのである。
この緑地を間に挟んだ道路建設は、広すぎるという批判を受けたが、交通のためではなく「防災の目的」であったことを強調している。
1968年2月26日、広島平和記念館の講堂で開かれた、第4回広島地方同盟定期大会に出席し、不動の信念と抱負を訴え終えた直後、来賓席に戻ると同時に心筋梗塞で倒れ他界した。62歳であった。
浜井市長は一貫して核兵器の全面禁止を訴え、「原爆市長」または「広島の父」と称されている。

「広島の父」というのなら、もうひとりソノ名前にフサワシイ人物が広島の職員の中にもいた。
1945年8月6日、広島市への原子爆弾投下によって家族を失い、街にタムロする戦災孤児、戦災浮浪児がアフレていた。
日本体育協会の職員として広島市内に勤務していた森芳麿は、原爆投下の直前に東京に転勤している。
原爆に遭わなかったことで「生かされた命を、身寄りのない原爆孤児に捧げる」と決意し、森氏は街にアフレテいた戦災孤児のための施設をつくる決意をした。
宇品港から8キロ広島湾に浮かぶ「似島」(にのしま)という島がある。
ここに、似島学園という社会福祉法人がある。
この学園は、教育者・森芳麿が戦災孤児を引き取り、翌1946年9月似島に保護収容施設を開設したのを始まりとする。
森氏は施設開設にあたって、広島県や広島市に強く訴えかけ、島の北東部、山林を含む「旧陸軍施」設跡地を借り受けた。
そして、職員と児童の手によって切り拓かれて作られたものであった。
創立時の正式名称は、「広島県戦災児教育所」似島学園」である。
同敷地内には、似島国民学校分教場を併設し、学園生活(福祉)と学校生活(教育)との一体化を目指した。
職員や戦後の窮迫した社会状況の中、養豚、養鶏、カキの養殖などをして生活したという。
1948年児童福祉法に基づく児童養護施設として認可され、1952年社会福祉法人似島学園と改称した。
1966年には、知的障害者施設高等養護部を併設した。
敷地内の似島国民学校も1950年、広島市立似島学園小・中学校として独立し現在に至っている。
長年に渡る「児童福祉」の貢献に、対して2002年、第11回ペスタロッチー教育賞が、2007年には、戦後設立された施設として初めて石井十次賞が贈られている。
個人的な思い出だが2006年5月、宇品港から似島に向かうフェリーに置いてあるパンフレットの中に興味深い名前を見つけた。
福岡を拠点とするJリ-グチ-ム・アビスパ福岡の元監督・森孝慈氏の名前である。
この時、似島学園の創立者・森芳麿が、この森孝慈の実父であると知って、ペットボトルを落とすくらいに驚いた。
実はこの似島の地は、サッカーともJリーグとも深い縁で結びついた土地でもあった。
ドイツでサッカーワールドカップが開催されたその年に、ドイツと日本とのサッカーをめぐる不思議な因縁へと導かれたというわけだ。
ちなみに森孝慈監督(1998年)の後に、アビスパ福岡の監督(2007年)となったのがドイツ人のリトバルスキーである。
リトバルスキーは、ドイツ史上最高の「ドリブラー」といわれた。
リトバルスキーがJリーグ入りするのに、初の海外プロサッカー選手であった奥寺康彦選手と、同じチームに所属したことが大きな要因となったといわれている。
ところで似島は、最近「平和学習」の拠点としても、トミニ注目を集めている。
第一次世界大戦中、日本軍に青島を攻撃されて捕虜となったドイツ兵723名はこの似島の収容所に送られた。
ドイツ人捕虜達はここでホットドッグやバームクーヘンの作り方を日本人に伝えた。
これらは現在「原爆ドーム」として知られている「広島物産陳列館」で紹介され、一般にも知られることになった。
特に捕虜の中の一人ユーハイムはバームクーヘンの店を神戸三宮に開き、今日までソノ店は「ユーハイム」として日本各地に展開している。
またホットドックはベーブルースがきた日米野球の時に甲子園球場ではじめて販売され、飛ぶように売れ日本人に新しい「食文化」を提供することになった。
さらにドイツ人捕虜は高度な「サッカー技術」を日本に伝えた。
この学園の場所こそドイツ人捕虜の収容所があったあたりで、この学園にもドイツ兵の高度なサッカー技術が伝えられた。
そして似島中学校のサッカークラブは40年ぐらい前までは県下一の実力を誇っていたという。
森氏の子供達もここでサッカーに励み、フェリーで広島市内の学校に通っていた。
また、広島高師(現・広島大学)の学生達が、サッカーを習いに宇品港から船で20分のこの島を訪れていたのだ。
そして1919年広島高師とドイツ人捕虜との間で試合も行われた。
日本人はつま先でボールを蹴ることしか出来なかったのに対し、ドイツ人はヒールパスなども使い日本人を翻弄した。
これが日本のサッカー史上初の国際試合となったのである。
ドイツ「似島イレブン」の一人であるフーゴ・クライバーは本国に帰国した後プロ・サッカ-・チ-ムを立ち上げている。
彼が作ったクラブは、バンバイルSVといいい現在は会員700人を数えている。
後のドイツ代表のギド・ブッフバルトは少年時代にこのチームで8年間プレイしていたという。
ブッフバルトは後年ドイツ代表DFとなり、FIFAワールドカップ1990年イタリア大会優勝メンバーであった。
ブッフバルトは、浦和レッズ選手を経て2004年に監督に就任した。
同年セカンドステージの浦和レッズを優勝を導いた。
さて、似島学園の創立者・森芳麿の長男が日本サッカー協会特別顧問・森健兒氏で元サッカー日本代表監督である。
また次男の森孝慈は、広島出身で早稲田大学時代、釜本邦茂の一級先輩であった。
そして釜本と共に東洋工業を破って、学生チーム最後の「天皇杯」優勝チームに貢献したのである。
森孝慈は早稲田大学に進み、現役時代には日本代表チームのMFとしてメキシコ五輪に出場し、引退後85年までは「日本代表チーム」の監督を勤めた。
その後Jリ-グ設立に貢献し、98年にはアビスパ福岡の監督に就任した。
さらにリトバルスキーも監督を務めたこともある浦和レッズの監督としてチームを全国制覇に導いた。
そういえば昨年、森孝慈氏の「訃報」に接した。
似島は、瀬戸内のうららかさとは対照的に日本人にとっても「重い歴史」を刻んでいる。
日清戦争から太平洋戦争の終結まで、何層にも積み重なった歴史がある。
似島には海抜300メ-トルほどの安芸小富士とよばれる山がある。
この山に登ったドイツ人捕虜達も、波静かな瀬戸内の風景に望郷の念をかられたであろう。
2006年の旅で、安芸小富士に登る途中、「いのちの塔」と遭遇した。
この塔は、まるで似島学園の「守り神」のように見下ろしながら立っている。
日清戦争の時には日本人帰還兵の「検疫所」となり、兵士達はここで検疫を受けた後に、本土(?)に帰ったのである。
また、太平洋戦争末期には原爆被爆者の多くがこの島に送られた。
そして、もうひとつ。 似島学園の創立者・森芳麿は、1956年公金流用の嫌疑で勾留された。
そのことを恥じ、釈放後「公職の立場にあって子供たちに済まない」と自ら命を絶っている。