生き難さと居場所

「智に働けば角が立つ。情に棹させば流される。意地を通せば窮屈だ。兎角に人の世は住みにくい 」とは夏目漱石の言葉である。
この世が生きニクイのは、様々の理由があってのことだが、一応の成功をおさめながらも、不幸を「演じ」続けるのも大変なようだ。
芸人の中には、ウクレレ片手に「いやんなっちゃた」を連呼するうちに、本当に人生がイヤになったり、希望のない演歌ばかり歌っていて、実際に幸せウスクになってしまった人もいる。
生き辛さの原因は「十人十色」で、たとえば「自分の名前」が原因の場合もある。
映画「ライフ オブ パイ 虎と漂流した227日間」には、自分の名前に苦しんだ少年が主人公である。
パイの本名はピシン・モリトール・パテルである。
彼の名前はフランスの優雅な市民プール「ピシン・モリトール」から取られたのだが、インドの言葉ではピシンは「尿」という意味を含んでいるので、少年たちのカラカイの的となった。
しかし彼は自ら「パイ(π)・パテル」を名乗ることでそれを「克服」した。
彼は授業毎に自分がパイであることとその由来がパイ(π)であることを強調したのである。
そして、膨大な「円周率」を覚えそれを披露するこにより、少年達を驚愕させパイとして「周知」されることとなった。
また最近テレビで見た、元お笑い芸人で俳優の石倉三郎の話が印象的だった。
石倉氏は、淡路島生まれだが、家の貧しさが苦しくて恥ずかしくて仕方がなかった。
たまたま大阪で暮らし、「貧乏ネタ」で笑いがとれることを知った石倉少年は、「貧乏」を恥じることなく、皆に披瀝するようになったという。
石倉氏は、貧乏のオカゲでお笑いの才が開花し、友人もたくさんできた。
貧乏のオカゲで自分の「居場所」を見つけることが出来たということである。
居場所の見つけ方も十人十色である。

先日、朝日新聞には「居場所」を見つけた3人の男の話が紹介してあった。
最初の「居場所」を見つけた人は、パイオニアの子会社で「人員削減」の指揮をとる仕事をしていた人の話である。
同じ年の「独身男性」が会社を辞めた後に、心筋梗塞で亡くなったと聞いてコノ仕事を続けることがツラクなった。
パイオニアはもともと良質な音や画像にこだわりをもつオーデイオ・メーカーだった。
しかしバブル崩壊後に、グローバル化とデフレで低価格製品を大量生産するようになり、人員も減らすようになった。
だが会社は、多様なニーズに答えられなくなった。
56歳で退社し、平均年齢は55歳の9人で「高級オーディオ」の製造する会社を起業した。
そして価格競争もせず、グルーバル化→低コストと「真逆」のことをした。
コノ人によれば、リスクはあるが心から打ち込める仕事がデキ生き甲斐も大きい。
ようやく自分の「居場所」ができた感じだという。
モウ一人の「居場所」を見つけた人は、「たのきんトリオ」の野村義男氏である。
小学校のころからギターが好きだったが特に芸能界に興味があるわけではなかった。
ジャニースにはいり「3年B組金八先生」に出演し、ソコソコ人に知られた。
「たのきんトリオ」では田原俊彦や近藤真彦の方が人気があったし、イツやめて実家のバイク屋を継ごうかとバカリ思っていた。
バンド・デビューしたが、ギターで生きていくほどの「覚悟」はなかった。
バンドが活動休止になりジャニーズ事務所から離れると、いよいよバイク屋かと思っていたら、親父は「ギターをやりたいんだったら、それで通せよ」といってくれた。
今は様々なミュージシャンとユニットを組んでいる。
二度目のオファアーが来たら、いわば「テストに合格した」と思うという。
今思えば、ジャニーズ時代に誰もが知る大ヒット曲がナカッタのが幸いしたという。
仮にヒット曲があれば、お客さんから必ずリクエストがあり、「主役」に迷惑がカカリ自分が職を失ってしまう。
そうなるとヒット曲だけを抱えて、今でも「居場所」を見つけられなかったかもしれない。
つまり「バック・ミュージシャン」に徹することが、野村義男氏の「居場所」だったわけだ。
もう一人「居場所」を探した人は、「在日二世」の元・東大教授の姜尚中(かんさんじゅん)氏である。
姜尚中氏の実家は熊本市内で「廃品回収業」を営んでいた。
「日本名」永野鉄男は、日本が高度成長のキッカケをつかむ「天佑神助」となる朝鮮戦争勃発の1950年に熊本で生まれた。
6歳の時「在日」の集落的「共同体」から離れて、日本人だけの環境の中で生きた。
そこで「陸の孤島」のような心細い感覚を抱いた。
豚と糞尿の混ざったような匂いの集落で、永野氏の家にも「どん底」を生きる人々が出入りしていた。
そして廃品の中には色々なものがあった。
旧陸軍の軍刀や鉄兜も含まれていた。そうしたものの中には血のりで赤褐色に錆びたものサエあった。
戦争の「血なまぐさい」記憶がコンナ処までついてきたのである。
色んな人々が出入りしたが、「犬殺し」のおじさんもいた。
徘徊する犬を処分する「犬殺し」おじさんは、酒に酔ったいきおいで、戦争中に若い中国人女性を殺したことを、ナンともつかないニガ笑いとともに語った。
また、永野商店の近くにはライ病施設もあった。
ライ病施設からの廃品もあったが、永野商店の人々には、世の中で「汚いもの」「醜いもの」を受け入れる「胆力」のようなものがソナワッテていた。
当時、隔離政策があったとはいえ、患者が周辺を行き来するくらいの外出はあった。
ひとりの患者さんが、人差し指と中指ではさんで差し出した100円札を、友人の母親が箸でつまんで「蒸し器」の中に入れた。
いつもは優しいお母さんのその「一連の動作」が、いつまでも脳裏から離れなかった。
(現在ではライ予防法は廃止され、国も患者や家族に対して謝罪をしている)。
「在日」という本で姜尚中氏の煩悶を読みながら、孫正義氏の若き日と重なった。
孫正義氏は、佐賀県鳥栖市の線路近くの「無番地」である朝鮮人・韓国人集落で育った。
子どもの頃からの思いは、「自分は日本人社会にうけいれられるかどうか」ということであった。
久留米大学付設高校1年生の時、アメリカに語学留学したことをキッカケに、日本で認められるにはアメリカの大学を卒業するホカはないと「留学」を決意する。
しかし父が病に伏し、こんなとき家をでたら「人道に反する」のではと思う一方で、「その時」を逃したらチャンスはないように思えたという。
尊崇する坂本竜馬と同じように、大義のためには小事を捨てなければならないとも思った。
そんな時、「孫氏の留学」に誰より賛成してくれたのが、父親に外ならなかったのである。
アメリカの「猛勉強」なくして、今日の孫正義という存在もなかったし、ソフトバンクもなかったにちがいない。
ところで、政治学者・姜尚中氏の「政治への目覚め」は遅かった。
大学で「韓文研」という在日韓国人二世の研究会に入った。
それまでは、全くノンポリ青年だったが、自分の内面に封じ込めた「在日」や「祖国」の問題を、歴史と社会の広大な広がりの中に移しかえることにより、外の世界への「働きかけ」のキッカケをつかんだ。
一方、日本社会は1972年の連合赤軍事件を境に「政治の季節」が終わり、学生たちには次第に「ミーイズム」が蔓延していった。
潮がひくように政治から遠ざかる日本の社会の中で、自分が「取り残されている」ように感じた。
一方、1973年に日本の主権下で金大中拉致事件がおこり、1980年には全斗煥政権下で光州事件がおこった。
1980年代の日本の黄金期の中で日本の学生と自分との間の「落差」は広がり、ますます「惨めな」思いを抱くようになった。
そして1980年代に埼玉県で外国人登録証の「指紋押捺」を拒否した「第1号」となった。
1980年代といえば「ジャパン アズ ナンバーワン」の時代だったが、在日が「公的な存在」として認められない事実と向き合った。
運動を支援してくれた人々との交流の中で、ハジメテ自分は日本に居てもイイノカと「承認」された気がした。
「外発的」になり、同じ境遇の仲間の中で、本来自分にあった「磊落さ」が顔をのぞかせるようになった。
そして、もうひとりの自分に出会えたカンジがしたという。
そして「永野鉄男」を捨て、姜尚中として生きることを選んだ。
今は一応東大教授ともなって、インサイダーに近い存在とも見られる部分もあるが、イマダに日本社会に「着床」した感じはシナイという。
インサイダーとアウトサイダーの「両義的存在」としてトドマッテいて、「 場所」を求め続けることこそ、姜氏のエネルギーの「源泉」となっている。
姜氏によれば、本当の「居場所」はココでしか生きられないと感じられる場所だとすれば、ソレハ打ちのめされて、ヨウヤク辿りつける場所かもしれないと語っている。

実は姜尚中氏は、若い頃「在日」という出自に悩む一方、「吃音」にも悩んだ。
思春期からはじまった吃音と、姜氏が「在日」であることを「過剰に」意識し、この世界からハジキ出されるのではないかと怯えていたこととの間にドンナ関係があるのかは、ヨクわからないという。
愛すべき一世たちが疎まれているコノ世界に「もぐり込む」ために、愛すべき人々との間にミゾを作らざるをえないジレンマが、姜氏氏をズット苦しめ続けてきたことは間違いない。
吃音は、そんな無理強いされた「わだかまり」の歪んだ表れだったのかもしれないと「自己分析」している。
しかし、同じ在日の仲間達と居をともにし、時には夜を徹して痛飲し、語り合い、鬱積したものを吐き出すうちに、氏は「吃音」から知らぬ間に「解放」されたという。
不安は消し去ることは出来ないが、それを「抱きしめて」生きていくことが出来るようになったのだそうだ。
最近では「英国王のスピーチ」が、「吃音」に悩まされる英国王・イギリス王ジョージ6世を描いた。
ヒットラーに対決を迫られる英国王は、イギリス国民に「一致団結」を呼びかける局面に立たされ、吃音のママででは国民を「奮い立たせる」ことはできないと苦しむ。
そうして治療者でもあり、心を許せる友となった男と共に、哀しくも可笑しな「治療」に専念する。
途中、国王とあろうものがコンナ恥ずかしいことがやれるかと、何度か「治療」を拒否したくなることもあった。
しかし治療の成果が少しづつ表れ、ついに「吃音」を克服し、見事に「演説」をやってのける。
ところで「英国王のスピーチ」は、政治情勢の逼迫という中での国王の葛藤を描いたが、小島信夫の「吃音学院」(1953年)は、吃音を通じて描いた「政治的戯画」のような小説である。
人間を内面から「生きにくい」存在として捉えるばかりではなく、この世の中にはソンナ「生きにくさ」で苦しむ人々をサエ、自分に都合よく「操ろう」という輩がいるから、ソノ「生き難さ」はサラニ倍加する。
この作品における「心理描写」は、実際の吃音者でなければワカラナイ気がするほどリアルだが、1932年小島信夫氏は中学校の卒業式に出席せず、大阪の吃音矯正学校の門をくぐった経験があるという。
この小説も、その時の「体験」がモトになっているようだ。
主人公である18歳の少年「衣川一雄」は、東京の「K吃音矯正学院」に入学する。
彼が入学した吃音矯正学院には、元吃音症者である学院長「松波良十郎」はじめ、個性あふれる人々が登場する。
悪徳商法の外交員は、学院生に詐欺をはたらき途中で出奔してしまう。
学院の用務員でありながら、学院生たちを政治運動に利用しようと企む怪しい「左翼運動家」なども登場する。
頑なに一言もしゃべらないミステリアスな「紅一点」の女性もいる。
この学院の「治療法」は、会話の相手を「石ころ」だと思うことや、「お経」のような発声法を用いて、聞き取れないほどユックリしゃべることなどなどである。
彼らが織りなす滑稽な風景は、「英国王のスピーチ」とも重なっている。
「矯正訓練」のクライマックスは街頭での実地演習である。
学院生たちは「おれたちは吃りだ」と連呼しながら街中を歩き回り、院長に指示された通り公衆電話から相手かまわず無賃電話をかけ、勝手なことを言いまくる。
当然これは違法な行為であるが、これくらいの「度胸」がなければ吃音は矯正されないというのだ。
しかし、このあたりから次第に学院は「本性」を現し始める。
そのうち電話をかける相手は会社や役所の重役級に限定され、会話内容も「待遇改善!」など政治色の濃いものに限定される。
街頭演説では「恥をかきざんげを行うことによって解脱する」という訓練主旨のもと、公衆の面前で吃音を発症した経緯と克服した次第を述べることを強いられる。
その際に、学院生たちは演説原稿に「松波院長のおかげで」という文句を書き加えさせられる。
実は、松波院長先生は次期の「参議院選」を狙っておられるのである。
松波院長は学院生たちを「参院選」のための宣伝隊にしようとし、左翼運動家は街頭訓練を「デモ活動」の隠れ蓑にする。
そんな怪しい矯正訓練であっても、仲間のヨコヤリにより「紅一点」への思いを断ち切られてしまった衣川は「自暴自棄的」にノメリこむことになる。
吃音を治すために「おれたちは吃りだ」と連呼し、他者へ意思や想いが伝わりそうもないような「発声訓練」を繰り返す。
吃音者たちの頑張りが、実は「政治的」に利用されて誰かの「手柄」や「利益」になっているとは、露知らずにである。

「前門の虎、後門の狼」という言葉は、行き場のない極限的状況を表す。
冒頭で紹介した、映画「ライフ オブ パイ」という映画では、「前門の虎、後門の大波」ということになろうか。
トラが一緒の漂流では生きた心地はしなかろうが、トラの恐怖がアル部分で「海の恐怖」を忘れさせた側面もある。
しかしこういう「漂流」は、映画の結末とは異なり、後背の大波にさらわれる方がハルカに「現実的」であるような気がする。
「後背の大波」とは、例えば「吃音学院」を政治的に利用しようととする人々の存在である。
姜尚中氏は、自分が吃音を脱することが出来たのは、「同じ痛み」をもつものとの間ではじめて得ることができた「共感」であったといっている。
また、長い不況の中、就職できない若者や追い出し部屋でリストラされサラリーマンなど、「居場所」が見当たらず、孤立している人が多く、姜氏は日本が「在日化」しているとも書いている。
そして自分が育った集落で感じたことは、「痛み」を感じる人同士が会えば、絆は深くなり「功利主義的」な集いを超えられるともいっている。
そして今必要なのは、巨大な労働組織や集権的な組織ではなく、痛みや苦しみに悩む者がひっそりと上陸できる「ひょっこり ひょうたん島」のような「居場所」だという。
よくは見えないがそんな「小島」が増えているハズで、それが「孤立を強制する」社会を変える原動力だという。